杉山さんの試合は、それから一ヶ月ほど後。空の高さにそろそろ秋の気配が漂いはじめた八月の末だった。 場所は日本武道館。サマーファイトシリーズ最終戦のセミファイナルだった。 そのころの僕は足のギブスもはずされ、すでに退院していたが、病院を通じて、杉山さんからチケットと招待状が届いたのだった。 招待状には杉山さんの直筆らしい文字で、「一宿一飯の恩義」という言葉が書かれていた。 チケットはお母さんの分も入っていたので、僕たちは慣れない東京の地下鉄に乗り、後に爆風スランプが歌ったように、九段下という駅を降りて人の流れに乗り、堀の中に入った。 招待された席はなんと南側のリングサイドで、つまり、正面のステージに設けられたスクリーンも見える特等席だった。 僕は元々気が乗らなかったせいもあり、武道館の大きさと、お客さんの人数の多さにすっかり圧倒されて呑まれてしまい、すでに先にきていた前田さんをはじめ、同室だった人たちや橋本さんほか病院のスタッフの人たちとも、ほとんど挨拶くらいしかできなかった。 もしかしたらアンドリーナもきているのではないかという密かな期待も、連絡がつかなかったとかで見事に外れ、それが僕の気持ちを余計に重苦しくさせるのだった。 同室だった人たちもすでに全員退院していて、あれからまだ二週間もたっていないのに、僕を除いた人たちはまるで同窓会のように、思い出話でひとしきり盛り上がっていた。 試合は前座の若手から始まったが、坂口さん以外は全員、生でプロレスを見るのは初めてだったので、みんな大喜びだった。 坂口さんは興奮しながら、技の名前などを解説してくれた。 杉山さんの試合が近づくにつれ、僕はまるで自分が試合をするような気分で、体が震えてくるのだった。 考えてみれば子供のころの僕は、楽しかった思い出より、何かを心配したり不安を抱えたりしていたことの方が圧倒的に多かっ アンドリーナと毎日川原の土手でUFOを待っていた日々が、僕にとっては珍しく楽しい毎日だっただけに、余計にそんな風に思えたのかもしれない。 だが、いよいよ杉山さんの出番になってしまった。 会場には和太鼓と鼓を基調にした、歌舞伎を思わせるような音楽が鳴り渡り、そのばかでかい音量は、僕の神経を目の粗い紙ヤスリで擦るように逆撫でするのだった。 「杉山雷蔵のテーマだよ」 坂口さんがどこか誇らしげに言った。 西の入り口に、以前に坂口さんが見せてくれた、あの雑誌の写真と同じメイクをして、首からタオルだけを下げた杉山雷蔵が姿をあらわした。 会場は割れんばかりの歓声。いや、大部分はヤジと怒声だった。 桧垣とベニーの試合を期待していたファンの怒りは、何故か杉山さんに向けられていたのだ。 ひどい罵声だった。 「今さらのこのこ出てくるんじゃねえ死にぞこない」「ほんとに殺されちまえ杉山」 気丈な橋本さんでさえ、両手で顔を覆って下を向いている。 藤原さんは、きょろきょろと後ろを振り返って「ふざけやがって」と毒づいた。 「今度生まれてくる時は、魚に生まれたいな」 僕はふとアンドリーナの言葉を思い出していた。 誰からも歓迎されずに入場してくる杉山さんに、何故か自分とアンドリーナの姿が重なって見えて、ひどく悲しい気分になるのだった。 だが、当の杉山さんは全く意に介さない様子で、時々両手を高々と挙げて、入場口からリングサイドまでの花道を悠々と歩いてくる。その姿は僕と屋上でトレーニングをした時よりも、ずっと生き生きとしていて、どこか楽しそうでさえあった。 「一度死んだ人間に恐いものなんかないよ」 僕は、今度は杉山さんの言葉を思い出し、もしかしたら、杉山さんは「生まれ変わった」んじゃないかなどと、とりとめもないことを考えるのだった。 杉山さんがリングに登ると、罵声とブーイングは頂点に達した。 杉山さんの入場曲が途切れて、一瞬の静寂に会場がざわついた後、ロックともポップスともつかない軽快なアメリカ風の曲が流れた。 「ビリー・ファングの曲だよ、ベニーはプロじゃないから借りたんだな」 坂口さんが解説した。 東の入り口に空手着姿のベニーが姿を現すと、会場は総立ちになって、今度は本当に割れんばかりの歓声に包まれた。 それは第三者の僕にも耐えられないほど、残酷な絵だった。 本来ならアメリカ人で空手家のベニーの方が、完全にアウェーのはずなのに、何故こんなことにならなければならないのか。 歓迎されない人間は、この世に生まれ変わることすら許されないとでもいうのか。 「で、でかい、な」 藤原さんが呆気にとられて唸った。 ベニーの身長は二メートル五センチ、体重こそ百二十キロと杉山さんより二十キロも少ないが、その黒光りした躰は道着の上から見ても、まるで筋肉の鎧を纏っているように見える。 藤原さんはすぐに「けっ」と空笑いした。 「両手にグローブ着けてるじゃねえか、こっちは素手なんだからよ、思いっきりぶん殴ってやりゃいいんだよ」 「メキシコ製の十オンスです、前に桧垣選手がボクシングのヘビー級チャンピオン、カシアス・レイ・レナードと、このグローブを着けて試合をした時、まるで鉄アレイで殴られているようだった、って言ってましたから、レスラーでも一歩間違えれば、再起不能にされますよ」 坂口さんが冷静にきり返した。 「おめえは、どっちの味方なんだよ」 ベニーが大きな体に似合わず、トップロープをひらりと飛び越えた時、僕たちは信じられないものを見せつけられ息を呑んだ。 ビユンと一回転、飛び後ろ回し蹴りをして見せたのだ。風斬り音が僕たちの所まで聞こえ、同時にその長い脚にかき回されたつむじ風が、座席に座っている僕らの顔をひゅるりと切り裂いたような気さえしたくらいだった。 観客が「おおっ…」と大きくどよめいた。 「あんなのが当たったら、首がすっ飛びそうだぜ」 藤原さんが、さすがに穴のような目をして息を漏らした。 「別名、黒いコンコルドって呼ばれてるんです」 と坂口さんが言った。 両者がリング中央に呼ばれた時は、さらに絶望的だった。 道着を脱いだ「黒いコンコルド」はまるでサイボーグみたいだった。一方杉山さんは明らかに練習不足で、体の線こそ太いが、手足には張りがなく、どこかぶよぶよしていた。 現に会場からは失笑さえ聞こえてきた。 そして。会場一杯にベニーコールが響き渡る中、絶望的なゴングが鳴った。 ゴングと同時にコーナーからダッシュしたのは杉山さんの方だった。 「ぶちかましだ」 と坂口さんは叫んだ。 だが、ベニーはまるで闘牛士のようにそれを軽々とかわしてしまい、そして杉山さんが振り向きながらロープではね返ったところに、さっきの後ろ回し蹴りを炸裂させ、会場には大きな石がぶつかり合うような「ゴツン」という生々しい音が響いた。 それは、さっきまでの前座の試合では聞かれなかった、人間の骨と骨がぶつかり合う殺伐とした悲鳴のような音だった。 会場の「おおっ」というどよめきに混じって、橋本さんの悲鳴が聞こえてきた。 杉山さんはトップロープから一回転して、リングの東側場外に落ちていった。 「相撲のぶちかましで奇襲を狙ったんだろうけど、とにかくスピードじゃぜんぜん敵わないよ」 坂口さんは悲痛な声で言った。 レフェリーが数えるカウントの合い間に、「なんだ、もう終わりかよ」「金返せバカヤロウ」という野次が聞こえてきた。 カウントが十五になったところで、杉山さんはやっと、一番下のロープをつかんで顔を出したが、その額は早くも血に染まっていた。 ようやくリングに転がり込み、レフェリーが「ファイト」と言った時、杉山さんはまだふらふらしているようだったが、今度はベニーの方が容赦なく杉山さんに突進していた。 ベニーは独楽のように前後の回し蹴りでクルクルと回り、杉山さんはおぼつかない足取りで後ろに下がりながらそれを避けたが、あっという間にコーナーに追いつめられてしまった。 ベニーは機関銃のように、杉山さんの顔や腹に正拳突きを叩きつけ、杉山さんは堪らず尻餅をつき、再び場外へ落ちてしまった。 会場中からブーイングが聞こえてきた。 「やっぱりだめだ、一方的だ」 坂口さんが叫んだ。 杉山さんはなす術がないのか、まるでビデオの再生を見ているように、それから三回、同じことをくり返し、場内には完全にしらけた空気が支配しているのが判った。 後ろの席から「ここまで実力に差があったとはね、最低の試合だよ」という客の声が聞こえ、藤原さんがチラと振り返り舌打ちをした。 だが四回目のことだった。杉山さんをコーナーに追いつめ、正拳突きをくり出そうとしたベニーが、がっくりとリングに膝を着いたのである。 杉山さんが血だらけの額で、ベニーに頭突きをしたのだった。坂口さんは「そう、これだよ」と手を叩いた。 「空手の試合では頭への頭突きは禁止されているし、ベニーは自分の顔に頭がぶつかるほどの大型の選手と試合をしたことがないんだ。杉山さんは頭突きが得意技だし、この試合はこれが鍵を握ると僕も思ってたんだよ」 だが観客からは悲鳴のような溜息が漏れてくるのだった。 ベニーはカウント七で立ち上がったが、鼻が潰れ視点も定まっていなかった。 杉山さんは立ってきたベニーに再び頭突きをしたが、今度はベニーが両手で顔をガードした。 「いいぞ、嫌がってる、嫌がってる」 坂口さんは興奮して叫び続けた。 杉山さんは両手を挙げているベニーの空いた腋に手を入れ、腰に乗せて投げた。 「すくい投げだ、ざまあみろ空手野郎」 今度は藤原さんが嬉しそうに叫んだ。 投げたベニーの背後から、杉山さんのスリーパーホールドが完全にベニーの首を一巻きした。 だがベニーも必死だった。ベニーの蹴り上げた長い脚はなんと、彼の頭上の、杉山さんの顔に届いたのである。 杉山さんは堪らず技を解いて立ち上がったが、再び立ってきたベニーのガードの上から何度も頭突きをした。 そしてベニーが怯むと今度はその腕を取って脇に固め、うつ伏せに肘と肩を捻り上げた。 「上手いぞ、うつ伏せにしてしまえば蹴りもこない」 ベニーはよほど痛かったらしく、悲鳴を挙げながらロープに逃げた。 それは、会場にいた誰もが想像もしなかった光景だったに違いない。いつも山のように悠然としているベニーがまるで必死で逃げ回る巨大なゴキブリのように、動く方の手と足でリングを這い回り、ロープにしがみついたのだ。 その奇妙な素早さは返って憐れというより、どこか面憎い往生際の悪さとして観客を苛立たせたらしく、客席のあちこちからは、先ほど杉山さんが浴びたようなしらけた溜息が渦を巻いているのだった。 「面白いじゃないか、すごいな杉山って」 後ろの席のさっきの男が、今度は感動の溜息をもらした。 僕がその声にふと会場を見回すと、客席のあちこちから「杉山コール」が、遠慮がちに聞こえ始めていた。 「頭突き」「脇固め」「ロープエスケープ」それはプロレスとして、実に華がなく地味というより無様だったが、確率的にきわめて少ない突破口をこじ開けた杉山さんの、魂のスペシャルフルコースで、それを何度かくりかえした時には、会場にははっきりと杉山コールが聞こえてくるようになっていた。 だがすでに、両者ともに立っているのも危なっかしいほど、ふらふらだった。 こうなると練習量の差が致命的で、ベニーは執拗に杉山さんの故障している右膝をローキックで攻め立てた。 杉山さんはそのほとんどをまともに受け、右足は最早リングに着くことすら苦痛らしく、左足一本でケンケンをしながら力なく歩き回る姿は、浮揚能力のなくなった大きな風船が行き場も判らず漂っているようだった。 ――ベニーが怪我した足を攻めている―― 会場の空気が目に見えて変わり始めていた。 日本人以上に侍の精神を持った黒人といわれた武道家が、なりふり構わずロープに逃げ、相手の弱点につけ込んでいるのだ。 杉山さんがほとんど左足一本立ちになったころ、ベニーが突如距離をとり、左手を上前方に突き出し、右手を腰のあたりに落として、腰を深く沈めた。 それはまるで戦闘機のパイロットが、標的に照準を合わせているかのような間合いだった。 「天地二刀の構えです、極直流創始者大木達蔵氏が、宮本武蔵の二刀流からヒントを得た、あの流派独特の構えですよ」 坂口さんがすかさず解説した。 「ベニーは勝負に出るみたいですよ、最後の勝負ですかね」 今となってはベニーも気の毒なくらいだった。咬ませ犬相手の前哨戦のつもりが、予想外の大苦戦に狼狽を隠しきれず、鼻は潰れ道着のズボンを鮮血で真っ赤に染めながら、「黒いコンコルド」の最後の意地で、空手の構えをとったのが痛々しくさえあった。 一方、杉山さんはさらにひどかった。 メイクのほとんどは汗と血で流れ落ち、顔のあちこちはすでに目に見えて腫れあがり変形している。 死んだ血の色をして化け物のようにふくらんだ瞼と、おびただしい流血のため視界がとれないのか、手のひらでしきりに目のあたりをさすり、その痛々しさに、観客の中には涙声で杉山さんの名前を呼び続ける若者までいた。 ベニーが構えていたのは、ほんの一呼吸ほどの間だった。 そのつかの間にロック・オンを完了した「黒いコンコルド」は、全身を大きなバネのように弾ませて、大胆で予測不能でそのくせ風を斬るほど鋭いスクランブルに出たのである。 ベニーは大きく一歩踏み出し、柔道の前回り受け身のように大きな体でくるりと回ると、長い脚で武士の刀のように弧を描き、杉山さんの顔に振り下ろしたのだ。 「浴びせ蹴り…大車輪キックですよ」 だが、それは顔に当たらなかった。 どういうわけか、杉山さんはそれを紙一重でかわし、肩でベニーのふくらはぎを受けただけですませてしまったのである。 いや、恐らく杉山さんが偶然ふらついただけだったのかもしれない。 杉山さんはうつ伏せになったベニーの腰に両腕を絡め、エビ反りに後ろに投げつけた。 「バックドロップだ、すごいや、初めてプロレスらしい技が出た」 会場をどよめきの波が寄せては返した。 ベニーはリングの中央で完全に大の字になってしまった。 「フォールだ、フォールだ」 坂口さんだけでなく、会場のあちこちで叫ぶ声が聞こえた。 杉山さんはナマケモノのように、のそのそと仰向けのベニーの所に這い寄り、そこで力つきたように覆いかぶさった。 「ワン…ツー…」 レフェリーのカウントがもどかしいのか、観客はその手の動きに合わせて叫ぶ。 だが、次の瞬間、それは悲鳴に変った。 ベニーが杉山さんの首を肘で打ったのだ。 ベニーは最後の力で何度も何度も杉山さんの首や後頭部を肘で打ち続けた。 杉山さんはもう、意識がないのか、避けようとも逃げようともせず、ベニーの体にぐったりと乗ったまま動かなくなっていた。 「打ちおろしの肘打ちは反則のはずだ、汚いぞベニー」 坂口さんが、まるで杉山さんのセコンドのように、珍しく色をなして怒鳴った。 僕は知らなかったが、異種格闘技戦という特殊なこの試合の特別ルールで、予め決められていたらしい。他の観客もそれを知っている人が多いらしく、「ずるいぞ」「やめろ」と叫ぶ声があちこちから飛び交った。 ベニーは興奮しすぎたのか、あるいはダメージで判断力がなくなってしまったのか、レフェリーが止めようとしても、それを突き飛ばして打ち続け、他のレスラーが数人リングに上がって押さえ込まれ、やっと動かなくなるのだった。 しかも、極直流のセコンド陣も黙ってはいられなかったようで、やはり数人の空手家がリングに上がりこみ、レスラーたちと小競り合いを演じたものだから、リングは一時騒然とした無法地帯と化すのだった。 そんな中で、杉山さんがタンカで運ばれて行くのが人垣のすき間から見えると、橋本さんは真っ青になって、席を立って駆け出して行き、僕たちはただ、それらを呆然と見ているしかなかった。 お揃いのTシャツを着た何人もの若手のレスラーに支えられ、あるいは付き添われて、タンカに納まりきらない手足がだらりと下がった杉山さんの姿がひっそりと西の出口から運び出される姿に、会場中から拍手が降り注いでいた。 僕はその、葬送曲が似合いそうな、そして生涯忘れることのできない、哀れで無様で、そして誇らしい勇姿にただ呆気にとられ、気がつくと口の中がしょっぱい涙でいっぱいになっているのだった。 しばらくすると、リングアナウンサーがマイクと小さな紙切れを持ってリングの中央に立ち、しらじらしく試合結果を読み上げた。 「この試合は参考試合としてドローといたします」 この無粋な裁定は完全に観客の怒りに火をつけ、床が震えるほどの怒号が響き。リングには空き缶やジュースの紙パックや何故か生卵が、嵐のように投げ込まれ、ようやく起き上がったベニーは呆然とその中で立ちつくしていしているのだった。
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