「杉山さんの試合が決まったよ」 坂口さんが部屋に入ってくるなり、興奮しながら教えてくれた。 僕は病室を替えられてしまっていた。 あの後すぐに川上から、消防署の救助艇がやってきたのだ。 土手を散歩していた人が、子供が二人で、船で川を下っているのを見つけ、不審に思って連絡したらしい。 地元の新聞に載るほどの大騒ぎになり、僕とアンドリーナはいろんな人たちからひどく叱られて、「もう、二人を会わせるわけにはいかない」と、僕は独房のような一人部屋に移されてしまったのだった。 かわいそうだったのは、お母さんだ。 泣きながら僕に、お説教というよりは哀願に近いような叱り方をしたかと思えば、お巡りさんや消防署の人や院長に必死で謝り続け、三日ほどは大忙しだったようだ。 最も大変だったのは、アンドリーナの母親で、ひどく剣のある言い方で、怒鳴ったり泣き叫んだり、一方的に僕とお母さんをなじり続けたが、僕もなにも言い返さず、こんな時にも外そうとしない彼女のサングラスの黒いレンズに映った自分の顔に向かって、黙って謝り続けるしかなかった。 「そうですか」 僕は上の空に返事をした。 坂口さんには悪いが、数日たってかなり落ち着いたとはいえ、僕にとってはどうでもいい話題だった。僕はあれ以来アンドリーナと会っていないのだ。 坂口さんの話では、まだ彼女は入院しているらしいが、見たところどこも痛くなさそうだし、すぐに退院してもおかしくなさそうだった。 住所くらい聞いておけばよかった。 情報の窓口は、今や坂口さんだけだった。 一方、坂口さんにとっても僕は意外と貴重な話し相手だったのかもしれない。 あの部屋で坂口さんより若いのは、僕とアンドリーナだけだったが、アンドリーナは女の子である。 同じ部屋にいた時は、一人でウオークマンばかり聴いていたくせに、気を使わず話せる相手がいなくなって淋しいのか、坂口さんが最も頻繁に訪ねてくるのだった。 「でも相手がなあ…」 坂口さんは話題に乗って欲しいのか、何度も一人そうつぶやいて首を捻ってみせた。 「相手は誰なんですか?」 僕が仕方なく訊くと坂口さんは嬉しそうに顔を輝かせ「それがびっくりなんだよ」と今度は逆にもったいつけた。 「それがさあ、相手はあの、ベニー・ウイリアムスなんだよ、熊殺しの」 これには僕もさすがにびっくりした。 「だってベニーは、アンセルモ桧垣と試合するんでしたよね?」 僕もこれくらいは知っていた。 実戦空手として有名な極直流空手のアメリカ人チャンピオン、ベニー・ウイリアムスとプロレスのチャンピオン、アンセルモ桧垣。 空手とプロレスで試合をしたら、一体どちらが強いのか? 知っていたというより、当時の少年漫画雑誌などはこの話題で持ちきりだったのだ。 「ベニーは所詮アマチュアで、プロ格闘技の実績はないから、まずは実力を見せろ、って桧垣がクレームをつけたらしいよ」 「それで、杉山さんが選ばれたんですか?」 坂口さんは「それなんだけどさ」と無意味に回りをきょろきょろと見回し、声をひそめて続けた。 「大きな声じゃ言えないけど、杉山さんなら再起不能になっても、会社は損失をこうむらないし、ベニーが景気良く勝つほど桧垣との決戦のチケットは売れるだろうからね」 「ひどいな、そんな理由なんですか」 「いや、僕の想像だけどね」 坂口さんは否定したが、僕には信憑性があるように思われた。 この試合の件はかなり前から噂になっていたのだが、どういうわけか、この一年ほど桧垣選手の方から試合を先送りし続けてきたのだ。 「でも、それでわざわざ桧垣社長直々に電話までかけてきたわけなんだろうね」 「杉山さんはもう退院したんですか?」 「いや、まだだけど、かなり熱心に階段でトレーニングしてるよ」 「ご飯が少なくて大変でしょうね」 「いや、それがさ」 坂口さんはいかにも面白そうに含み笑いをしてから、 「橋本さんが毎日、内緒で手作りの弁当持ってきてるみたいでさ、みんな見て見ないふりして面白がってるよ」 と笑った。 だが、このころの僕には、まだ男女のなんたるかなど解るはずもなく、病室のみんなが何故「面白がっている」のかほとんど理解できなかったし、それこそこの時の僕にはどうでもいい話題だった。 そんなことよりも、少年雑誌に載っていたでかい黒豹のようなベニー・ウイリアムスの写真と、病室で僕のご飯を物欲しげに覗いていた杉山さんの病人然とした顔を頭の中で並べてみようにも、どうにも釣り合いがとれないアンバランスさに、僕は心底杉山さんに同情するのだった。 ベニー・ウイリアムス。 身長二メートル五センチ。 何年か前の空手の世界大会では、四回戦までの試合の合計時間が三分以下で全てKO勝ちだったそうだ。 準決勝で当たった日本人選手が最も善戦したが、試合後救急車で運ばれ、肋骨が五本も折られていたらしい。 雑誌には熊に回し蹴りをする写真が、見開きで載せられていた。 いくらプロレスラーでも、あんな回し蹴りをまともに喰らったら、死んでしまうだろう。 桧垣選手だって、まともにやり合いたくないから、試合を延ばし延ばしにしているのだ。 だが、この話ですら、この時の僕にはどうでも良かったのだ。 坂口さんが帰ると、僕はふらりと廊下に出てみた。 トイレに行くのが目的だったが、誰にも見つからなければそのままふらふらと、気晴らしに屋上にでも行ってみようと思ったのだ。 いや、もっというなら、廊下や階段で偶然アンドリーナと会えるのではないかという期待もあった。 僕の足には新しいギブスが巻かれていた。 チェンソーのような恐ろしげな機械が、凄まじい音をたててギブスを切り裂き開いた時にはショックだった。 僕の足は筋肉がなくなってふた回りも細くなっていたのだ。 先生は「リハビリすればすぐに元に戻る」と言っていたが。血色も悪く、まるで別人の足のようで不気味だった。 「あれ?」 声につられて見上げると、階段の踊り場から大きな影が僕を見下ろしていた。 杉山さんだった。 ――そうか、階段でトレーニングしてるんだっけ―― 正直僕は杉山さんが少し苦手だった。 有名人ということもあるが大きくて無口で、恐かったし、憧れも手伝ってどこか近寄り難かったのだ。 「なんだお前、また脱走するのか?」 試合が決まったせいか、杉山さんは前とは違って覇気に満ちている感じだったが、それでも子供の僕にまではにかんだような笑顔で冗談を言い、そんな笑顔が僕を少し楽にさせた。 「屋上へ行こうかと思って…」 三階建ての病院の屋上には洗濯をした包帯や、ベッドのシーツや、その他、入院患者のシャツなどが熱気をはらんだ風に揺られて踊っていた。 僕と杉山さんはその脇を通って、柵のところから外をながめた。 そこからは、例の川が眼下に見渡せた。 僕とアンドリーナがいつも立ってUFOを待っていたあの土手も見えたし、あの渡し舟も何ごともなかったように岸につながれていた。 病院の駐車場では外来の患者や、お見舞いにきた人の車がゆっくりと出入りして、中にはパトカーも混ざっていた。 「お前、面白いな」 「え?」 「冒険したかったのか?」 「そういうわけじゃないですよ、アンドリーナが遠くへ行きたいって言うし、俺も退屈だったから」 「じゃあ、心中したかったんじゃないか?あの女の子は」 「え?」 僕は驚いて、今まで見上げたことがないくらい高い所にある、杉山さんの顔を見上げた。 杉山さんはすぐに目を川の方に向けたが、傷だらけの額の下の目が哀れむように細くなったのが一瞬だけ見えた。 首の痣はもう消えていた。 「お、俺と、ですか?」 「俺には解るんだよ。あの子はそういう目をしてるよ時々」 「そうなんですか?」 「なんたって経験者だからな」 そう言って杉山さんは自嘲するように嗤ったが、「経験者だから」などと言われて僕は何て応えていいのかわからなくなってしまった。 確かに断片的に聞いたアンドリーナの複雑な事情や顔の痣のことなどを、パズルのように組み合わせて並べてみるとそんな風に思えなくもなかった。 「顔の痣」「母親の再婚」、そして「UFO」。 正直、この時にはUFOについてあまり深く考えなかったが、あのくらいの年の女の子がUFOを待っているなんて、今考えると変な話だ。 ずっと後になってから考えたことだが、もしかしたら、アンドリーナはUFOが来て自分をどこかにさらって行ってくれるのを望んでいたのではないか。 だが、今となっては解らないことだ。 「試合、決まったんですよね?」 「なんだ、もう知ってたのか」 「恐くないんですか?」 僕は口に出してから、しまったと思った。 前に桧垣選手がインタビューで同じことを聞かれて、「恐いと思ってリングに上がるやつがいるか」と、インタビュアーの人を張り倒していたことを思い出したのだ。 ――殴られる―― だが杉山さんは「ははは」と軽く笑い、「そりゃ恐いよ」と意外にも照れくさそうに応えた。 「でも、仕事だからな」 「どうしてプロレスラーになったんですか?」 「そりゃ強くなりたかったからだよ」 「だって、そんなに大きいんだからプロレスラーにならなくても最初から強いでしょう?」 杉山さんは両手で柵につかまりながら、ゆっくりと確かめるように膝を曲げていった。 「いや、おれはいじめられっ子だったよ」 杉山さんは顔をしかめながら独り言のようにつぶやいた。 右膝は左と比べると目に見えて曲がる角度が浅く、杉山さんは一番深く曲がるところを何度も確かめるように曲げては伸ばした。 「ほんとですか?」 「うちは親父が、俺が子供のころ出て行っちまったから、貧乏だったし、俺は体だけでかくて目立ったから、よくいじめられたよ」 僕はこれまで杉山さんのことを、どこか遠いところの人だと思って、自分の方から距離をおいていたのだが、なんだか急に近くなったような気分になった。 「強くなりたくて、中学の柔道部に入って、県大会で優勝したら、でかい体が親方の目にとまって相撲部屋からスカウトがきて、俺は金が稼ぎたかったから、誘われるまま入ったんだよ」 「最初からプロレスラーじゃなかったんですか?」 杉山さんは、こんどはレスラーがよくやる「ヒンズースクワット」という、立ったりしゃがんだりを繰り返す運動をしながら「まあな」と言った。 僕はこの暑いのに必死に頑張る杉山さんの気持ちが全く理解できず、ただ黙って見ていた。(もっと満を冷淡で可愛くなく反抗的にする) 「ところが、相撲部屋の稽古はきついし、いじめもひどくてな、最初の一年くらいは一日おきくらいに部屋を逃げ出してたよ」 「そんなにすごいんですか?」 杉山さんはまだ、汗びっしょりになりながら、スクワットをやり続けていた。 「逃げ出して、他に行く所もないから仕方なく駅に行くんだけど、いつも駅で親方が待っていてな。俺も道がよくわからなかったから駅に行くしかなくって、でも、行くと親方がいるから、さんざん時間を潰してから行ったらやっぱりいるんだよ。もしかしたら、ずっと待ってたんだろうな、いい人だったよ」 「どうして相撲やめちゃったんですか?」 「俺が十両になったころ、その親方が死んじゃったんだよ。跡を継いだ若い親方と俺は馬が合わなくてな、ちょうど社長に誘われてたから」 杉山さんは話ながら、ずっとスクワットをやり続けていた。 スクワットでしゃがんだ状態になっても、まだ僕の身長より高かった。 僕は「でも」と一度ためらってから、思い切って言ってみた。 「でも、ひどい社長ですね、あんな強い人と自分の代わりに試合をさせるなんて」 杉山さんがスクワットをしながら、じろりと僕をにらんだ。 この病院にきてから初めて見せる鋭い目に、僕は思わず息を呑んだが、杉山さんは「そうかい」といつもの優しい声だった。 「社長はチャンスをくれたのさ、これでいい試合をすればまた試合に出してもらえるし、そうすれば借金だって返していけるようになるからな」 ――だって、この試合で殺されるかもしれないじゃないですか―― 僕は喉もとまで出かかったが、さすがにそれは言えなかった。だが、杉山さんもそれは解っているようだった。 「俺は世話になった親方の部屋を見捨てたからな、一度や二度は命がけの試合をしなきゃ、あの世にいる親方に合わせる顔がないんだよ。ずっとこんな試合をしてみたかったよ」 杉山さんはスクワットを止めると、何故か僕の所に歩いてきて、僕の後ろに立った。 「な、なんですか?」 僕が訊いても返事をせず、僕の杖を奪い取ってコンクリートの床に置いて、僕の腋の下に手を入れた。 「な、なにを…」 僕は一瞬で、赤ちゃんの「高い高い」のように、杉山さんの頭上に挙げられていた。 杉山さんは「ちょっと軽いな」と独り言をつぶやき、 「バーベルの代わりになってくれないか?」 と訊いたが、僕が返事をする前にはすでに僕の体は三回ほど、胴上げのように宙を舞っていた。 「確かにベニーは恐ろしく強いやつだけど、一度死んだ人間に恐いものなんてないよ、人間本気で死ぬ気になれば、なんだってできるさ」 杉山さんは僕を胴上げしながらうそぶいたが、僕はそれどころではなかった。 身長約二メートルに加え、三階建ての屋上での「高い高い」はそのへんの遊園地の遊具などより、よほどスリリングだった。 だだっ広く開けた視界が、何度も何度も大きく縦に揺れた。 空も入道雲も、あの川も船も、遠くの畑も送電線も、何度も上になり下になった。 病院の駐車場から出て行こうとしている、さっきのパトカーも何度も駐車場を出たり入ったりしているように見えた。 「あれ?」 はるか遠くの入道雲の脇で、なにかが光ったように見えた。 「ちょっと、杉山さん降ろしてくれる?」 杉山さんはいかにも楽しそうに「なんじゃい」と言いながら降ろしてくれた。 「ほら、あれ…あの光」 杉山さんは「ん?」と顔をしかめて、僕が指差す方を見て「飛行機か?」とつぶやいた。 光はゆっくりと水平に飛びながら、時折上下に急降下したり急上昇したりして、ジグザグに飛んでいた。 「UFOだよ」 僕が杉山さんに訴えると杉山さんはなにやらにやにやしながら。 「ああ、そうみたいだな…」 と応えた。 「アンドリーナを呼んでくるよ」 僕は杉山さんに杖を取ってもらい、大急ぎで二階の、前に僕がいた病室に向かった。 何度も転びそうになりながら、僕は夢中で杖で駆けるように階段を下り廊下を急いだ。 「アンドリーナUFOが…」 僕は叫びながら病室に駆け込み、そして棒立ちになって固まった。 アンドリーナの寝ていた窓際のベッドは、空っぽどころか、蒲団やシーツすら片付けられていたのである。前田さんや坂口さんなど、他の人たちも、どこか呆然とした感じだった。 「アンドリーナは?」 僕が尋ねると、前田さんは一度大きく悲しげな溜息をついて「たった今、ついさっきだよ」と言った。 「警察の人がきて、連れて行かれたよ」 そう言うとまた、溜息をついた。 「警察?なんで」 「アンドリーナのお父さんが、今度お母さんと結婚する人を殺したんだってさ」 前田さんは我慢できなくなったように、ハンカチを目に当てて泣き出した。 「こないだ船の事故が新聞に載ったのを仕事場の同僚から聞いて、心配してお母さんの所へ行ったらしいんだけど、そこで相手の男の人と鉢合わせしてもめたんだって」 坂口さんも沈痛な面持ちで言った。 夏だというのに僕は全身に鳥肌が立ち、震えるほどの寒気を感じた。僕が彼女を船などに乗せなければ、こんなことにはならなかったのだ。 「あの母親の、因果応報ってやつだぜ」 藤原さんが吐き捨てるようにつぶやくのを、前田さんが「よしなよ」とさえぎったが、声は泣いていていつもの迫力はなかった。 「てやんでえ、俺だってかわいそうだよ、一ヶ月も一緒の部屋にいれば、誰だって情はうつるってもんだ」 藤原さんの声もやり場の無い怒りと悲しみに震えていた。 「あの子はねえ、多発性硬化症っていう、難しい病気だったんだよ。放っておくとだんだん手足が動かなくなる重病なんだよ」 前田さんがしゃくり上げながら言った。 「とりあえず託児所の病院に移されるらしいんだけど、どうなっちゃうんだろうね、あの子…」 前田さんはアンドリーナの将来を案じ、藤原さんは自分のなくなってしまった指をじっと見ながら、人類全員に向けながらも誰に対するでもない憤懣を時折ぶちまけていたが、僕には誰が何を言ったのか、全く記憶にない。 ただぼんやりと、アンドリーナがさっきまでいたであろうベッドをながめていたら急に視界が真っ暗になり、気がついたら自分の個室のベッドに寝かされていたのである。
|
|