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作品名:夏のジャイアントスイング 作者:雲翼

第6回  
 翌日、僕はいつものように、アンドリーナと土手の上でUFOを待っていた。
 どういうわけかアンドリーナは、いつもよりひどく口数が少なく、僕がゆうべの花火の話をしても、「うん」とか「そう」としか返事をしなかった。
 「インベーダーでもしようか?」
 僕はなんだかつまらなくなってきてそう誘ってみた。もともとUFOが来るなんて、本気で信じていたわけではないのだ。
 「なあ?」
 アンドリーナが返事もしないので、僕はもう一度訊いてみた。
 「ねえミツル、あれに乗らない?」
 アンドリーナがそう言って指差したのは、渡し舟だった。
 「あれに、か?」
 アンドリーナが突拍子もないことを言い出すのは、確かに初めてのことじゃなかったが、僕がためらったのは、彼女の言葉にいつものように力が入っておらず、どこか投げやりな感じに嫌な予感がしたためだった。
 「どこか遠い所に行きたいんだけど、やっぱだめだよね?」
 アンドリーナはそう言って、今日はじめての笑顔で髪をなで上げた。
 僕はそのおとなっぽい淋しげな仕草を、初めてここで声をかけた時のことを思い出しながらながめていたが、ふと彼女の頬の一点が目に留まり「アンドリーナ」と声に出そうとしてやめた。
 元々肌が褐色なためもあるが、今まで帽子を目深に被っていたので見えなかった頬の痣のようなものが、髪をなで上げた瞬間、見えたのである。
 「ちょっとだけ、乗ってみようか」
 僕はつい、そう言っていた。
 はじめての入院生活が退屈でたまらなかったし、ゆうべの花火を一緒に見られなかった悔しさもあったが、何より僕は、それまで生きてきた中で最も自分の無力さに苛立ちを感じていたのである。
 船に近づいてみると長い竹竿のような櫂が、船の中に横たわっていた。
 船の長さは数メートルくらいで、幅は、一番広いところで一メートル以上ありそうだった。
 僕は松葉杖を片方先に船に乗せると、その空いた手で舟の後部をつかんで、体操の鞍馬の選手のように、ヒラリと船に乗ってみせた。   
このころには松葉杖の使い方がとても上手になっていたし、松葉杖のおかげで腕の力が鍛えられていたので、自分でも驚くほど軽い身のこなしだった。
何より、アンドリーナが後ろから僕の体を支えようとしたのが、余計に僕をムキにさせていた。
逆に僕は船の縁につかまりながら、余裕しゃくしゃくでアンドリーナに手を差し伸べた。
 船は、公園のボートなどと違って、船底が平べったく、船体の半分くらいが砂浜の上にあったので、とても安定していた。
 アンドリーナは「ちょっと待って」と手を振りながら、船と杭を繋いでいるロープをほどいてしまい、それを船に投げ込んで船の後部を一押ししてから片手で帽子を押さえながら乗り込んできた。
 彼女の喜々としたこのはしゃぎ方は、僕を戸惑わせた。
 実のところ、彼女の方から「やっぱり止めよう」といってくれるのを、僕は密かに期待していたのだ。
 広い河原に見渡す限り人影が見えない孤独感は、僕をひどく不安にさせていたが、あえて勇ましく僕の方から船に乗り込めば、アンドリーナの方が不安になると思ったのだった。
だが、結果は逆になってしまった。
僕は炎天下にも関わらず、背中にうすら寒いような恐怖を感じながらも、船の後部に腰掛けて、いかにも楽しそうな笑顔をつくり、竹竿の櫂で砂浜を恐る恐る押してみた。
推進力の弱い船は、ふらふらとたよりなく広い川へ乗り出して行った。
船は揺れながら船首を川下へと向け、十メートルほど下ったところで、再び川岸へもどり接岸してしまった。
どうやら川の船というのは、放っておくと勝手に岸に近づくらしく、そしてこれが僕に変な勇気を与えたのだった。
僕は、今度はさっきよりずっと力を入れて、船を川の真ん中へと押し出した。
落ち着いてよく見れば、川は底が見えるくらい浅いし、船の向かう川下は、波ひとつない穏やかな流れが果てしなく続いていた。
なでるように船体を優しく叩く波の音に混ざって、名前も知らない小鳥のさえずりや、蝉の鳴き声が遠くから聞こえてくる。
遠くの浅瀬では、川鵜や鷺がじっとこちらの様子を伺っていた。
僕は船底に座り直して、船首の手前で船の進行方向を夢中で見入っているアンドリーナの後ろ姿をながめた。
よほど機嫌がいいのか、片手にマイクを持つ仕草で、どこかのアイドル歌手が歌って踊る振り付けをまねているらしかった。
波に反射した強い日差しが、彼女の背中で揺れていて、僕にはそれが小さな翼で小刻みに羽ばたいているように見えた。
不意にアンドリーナが「きゃあっ」と叫んで振り返ったので、僕とつい目が合ってしまった。
「魚、魚が跳ねた」
満面の笑顔で、僕に教えた。
「えっ。ど、どこ?」
僕は慌てて目をそらし、大げさに身を乗り出して川面をながめ回した。
「ほら、すぐそばだよ、ほら」
アンドリーナは夢中で指を差す。
僕は、そんなにタイミングよく魚が何度も飛び跳ねてくれないだろうとは思いながらも、気恥ずかしさと、女の子と二人っきりでいることの興奮を紛らわそうと、わざと夢中で探すふりをしてみるのだった。
「だめかな、なかなか跳ねないね」
僕が、沈黙に耐え切れずにつぶやくと、不意に今度は二人の背後で、大きな石を川に放り込んだような音が轟いた。
アンドリーナは驚いて、再び「きゃあっ」と叫び、すぐ後ろにいた僕にしがみついてきたが、船の縁につかまりながら片足で立っていた僕は、あっさり尻餅をつき、しがみつこうとした支えを失ったアンドリーナは、僕に重なるように倒れこんできた。
「痛ててて…」
「ごめん、大丈夫?」
僕は大げさに、重症患者がうめくような声で「だ、大丈夫だよ」と返事をした。
本当は痛かったわけではなく、ただ決まりが悪い時とかびっくりした時などに「イテテテ」と言ってしまう癖が事故を起こしてからついてしまっていたのだが、実際、この時ほど決まりの悪いことはなかった。
生まれて初めて女の子と重なり合うほど、体をくっつけ合ったのである。
「鯉が跳ねたみたいだね。ずいぶん大きな鯉だったみたいだ」
僕は何もなかったように起き上がって、背後に視線をめぐらせ、さっき音がした場所をながめながら言った。
アンドリーナも僕の視線の先をながめながら。
「魚っていいな…」
と溜息をついた。
「え?」
「自由に跳ねたりして、なんだか楽しそうじゃん」
僕はこの時の自分が何を考えていたのか、正確に思い出すことはできない。
だが確実に言えることは、同い年の少女の、少女らしい気まぐれで繊細な気持ちを汲み取ることなど、到底できなかっただろうということだ。
だが、僕は僕でアンドリーナが、そんな夢見がちな話をする相手が僕だけに限定されているという自負があり、僕は調子よく「そうかな」と曖昧な返事で次の言葉を誘ってみるのだった。
「今度生まれてくる時は、魚に生まれたいな」
 「今度生まれてくる時?」
 これは、僕にとっては驚天動地の言葉だった。
 「アンドリーナって、次も生まれてくるのかい?」
 アンドリーナは、「知らないの?」と、ジロリと僕を一瞥して、
 「生き物って、みんな生まれ変わるのよ、何度も」
 と、遠い目をした。
 僕はすっかり頭が混乱してしまい、アンドリーナの次の言葉を待ったが、彼女はぼんやりと川の流れを見下ろし、しばらく沈黙が続いた。
 僕は仕方がなく、魚に生まれた自分を想像してみたが、どうにもしっくりいかず、今の自分もそれほど幸せとも思えないながら、まだ今の方がましだと思った。
ふと、アンドリーナが何か言ったような気がしたので、顔を上げると「ママが…」と言っていた。
「ママがね。もう一度結婚するんだって」
「結婚って、アンドリーナのパパじゃない人と、ってこと?」
「日本の人」
アンドリーナは今にも泣き出すのではと思うほど、悲しそうな目で応えた。
「きのうご飯一緒に食べて、花火見たの」
「そうなんだ」
ようやく僕にも理解できた。
アンドリーナの悲しそうな目と、頬の痣が僕の中で一本の糸でつながったような気がしたが、それだけに僕は余計に返事に困って、言葉を探しながら船の進行方向をながめ、そして愕然とした。
船の向かう先はいつの間にか川の波が高くなってきていて、百メートルほど川下では、白いしぶきを上げるほど川は波立っていた。
その波のさらに百メートルほど向こうで川は大きく左に曲がっていて、突き当りの岸はコンクリートで護岸されてテトラポットが重そうな水圧に耐えながら頭を出しているのが見える。
そのテトラポットにぶつかり激しく砕け散る波が、その場所の水深の深さと流れの強さを教えていた。
左側の岸は、対照的に石がごろごろして水深も浅そうで流れもゆるやかに見える。
僕は左の岸に船を寄せようと、竿の櫂で川を突いてみた。
――うわっ――
僕は自分の顔から血の気が引くのが判った。
すでに僕たちのいる場所は、櫂が底に着かないくらい深かったのだ。
「船につかまれアンドリーナ」
アンドリーナは僕に言われて初めて振り返り、凍りついたようになってしまった。顔は見えなかったが、縁をつかもうとした手が、何度も空振りをして、蝶のように宙を舞っていたのが、彼女の狼狽ぶりを物語っていた。
僕は震える手で櫂を手繰り、何度も川底を突いてみたが、手ごたえはなかった。
船首は最も進みたくない、波の一番高い所へ、吸い込まれるように近づいて行った。
僕は恐怖で叫びだしたくなるのを抑えながら、なおも櫂で川底を探り続けてみたが、無情にも波は、あっというまにすでに僕らの目の前に迫っていた。
波頭が座っている僕らの目の高さくらいある波が立て続けに三つ、続いていた。
「アンドリーナ伏せろ」
僕が叫んだ直後、船の舳先がものすごい力で上へ跳ね上げられ、船底に座っていた僕のお尻は宙に放り投げられるようにバウンドした。
その際僕は、まるで大量の水に顔を殴られたように顔に水を浴び、そしてやっと目を開けられた時には、舳先はすでに次の波に呑み込まれているのが見えた。
最早なす術などなく、なるようになるしかなかった。
船は僕とアンドリーナを力点にしたシーソーのように暴れ、それはまるで、激しくのたうち回る巨大な龍の背中に乗っているようだった。
三つ目の波は最も激しく、船は水面から一度投げ出されて宙に浮いたのではと思うくらい大きく飛び跳ねた。
三つの波でことごとく頭から水をかぶり、やっと目を開けた時には船はすでに、普通の状態で流されていた。
アンドリーナは左手で帽子を押さえ、右手で船の縁をつかんで恐る恐る伏せていた顔を上げて、前方を覗き込んでいたが、やがてくるりと振り返って満面の笑顔で、「やったあ」とガッツポーズをして笑った。
僕は放心状態で、本当は余裕などなかったのだが、負けずに拳を上に挙げて笑ってみせるのだった。
――助かった――
波は今の三つが最も大きく、川下に続いているのは大きなものでせいぜい今の波の半分くらいだった。
ほっとしながら櫂で川底を突くと、底の砂利を突く手ごたえがしっかりと感じられた。
僕は船の舳先を左の岸に向けようと、櫂を右に向かって押し込んだ。
だが、これが返って良くなかった。
流れに横腹を向けた船は、さっきの三つよりずっと小さな波で、びっくりするほど簡単に横転してしまったのだった。
僕もアンドリーナも油断していたので、悲鳴をあげるひますらなかった。
真っ暗な闇の中でゴーッという地鳴りのような音が聞こえ、目を開けると、ぼやけた視界に無数の泡と水の中の不気味な薄暗がりが見えた。
バカでかい洗濯機で揉まれるように、体は縦にも横にも何度も回転して、ギブスの内側の隅々まで冷たい水が浸食する感覚が、気持ちが悪いのを通り越して、久しぶりに水で洗ってもらったようで、妙に清々しくさえあった。
何度も水中で転がされ上下の感覚もなくなっていたが、明るい水面と船の影が見えたので、手を伸ばしたらつかまることができた。
船は底を上にして浮いていた。
僕は死に物狂いでそれをよじ登り、なんとか腹ばいに乗ることができた。
「アンドリーナ」
何度も呼びながら、回りを見回したが、アンドリーナはどこにもいなかった。
船のすぐ横を櫂が並んで浮いて流れていたので、僕は思い切り身を乗り出してそれを拾い上げた。
「アンドリーナ」
急激に体が冷えたのと、極度の不安で体中が別の生き物のようにぐにゃぐにゃと震えだして、逆に何かを叫び続けていないと、そのまま全身が動かなくなってしまいそうだった。
――いた――
だがそれは違った。
それはアンドリーナが被っていた、あの帽子だった。
この船から数メートルほど先を、半分沈みかけながら、水の流れに漂っていた。
僕にはそれがひどく不気味で不吉に思われ、涙があふれてきた。
だが、次の瞬間、船からほど近いところに何かが浮いてくるのが見えた。
「アンドリーナ」
アンドリーナはさっきの僕と同じように、水の中で揉みくちゃにされながら、ゆっくりと水面から顔だけ出して、また沈んだ。
顔が出た際、大きく口を開けたから、意識はあるようだった。
僕は急いで櫂を伸ばし、彼女の体を軽く突いてみた。
アンドリーナの顔が再び水面から出た時には、彼女の手はすでに櫂を握っていた。
僕は船に馬乗りになって、力いっぱいそれを引き、彼女のパジャマの袖を引き、船に引っ張り上げた。
アンドリーナの目は恐怖のためかしばらく虚ろになっていたが、すぐに光をとり戻し両手で自分の頭を触り「帽子」とつぶやき、川面を見回した。
「帽子、パパの帽子」
「パパの帽子?」
見ると帽子はまだ、かろうじて浮かんで流れていた。
アンドリーナも僕の視線に気づいて見つけ「あった」と嬉しそうに叫んだ。
だが、櫂を伸ばしても、とても届く距離ではない。
「お願い、なんとかして、パパにもらった帽子なの」
アンドリーナは僕の襟にしがみついて、大きく揺さぶるように引っぱったが、船底を空に向けてひっくり返った船は、子供が操れるような状態ではなかった。
帽子はピンクのリボンをなびかせながら、蝶が力つきるようにゆっくりと暗い川底に沈んでいった。


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