「どうしたの満くん、すごいじゃない全部食べるようになって」 橋本さんが僕の病院食を覗いて驚いた。 僕は相変わらずこのおばさんが苦手で、顔を見るのも嫌だったので、空っぽになった茶碗と皿を覗きながら「はい」とだけ返事をした。 斜向かいのベッドで藤原さんが、こちらに背を向けたまま「ククク」と卑屈に笑った。 「ここんとこ、いいお友達ができたからよ。食もすすむんだろ」 橋本さんの眼鏡の上の眉毛が、何かの検査の計器の針のようにピクリと動いた。 「どういう意味ですか、藤原さん?」 藤原さんは首だけ回して、杉山さんを見ながら「大喰らいの用心棒ができたもんな」と言って可笑しそうに笑った。 橋本さんは本当に驚いたらしく、青ざめ引きつった顔で、杉山さんの脇に歩み寄り、杉山さんの空になった食器と杉山さんを何度も何度も見比べて「杉山さん」と声をかけた。 杉山さんは真っ赤な顔でうなだれ、頭を掻いたりして、もじもじしていた。 「杉山さん?」 橋本さんはもう一度、今度は少しきつい感じで、杉山さんの名を呼んだ。 「もしかして、本当に食べたんですか?満くんの分まで」 橋本さんの、気持ちが悪いくらいの静かな口調が、嵐の前を予感させた。 こんな時に限って前田さんはトイレに行っているらしく、隣の坂口さんはウオークマンを聴きながら知らん顔をしている。 アンドリーナは、今日の午後は母親と外出するとかで、朝からじっとしていられないのか、食べ終わるとすぐにどこかに行ってしまっていた。 このころの彼女は、病院の外ではあの調子で僕と明るく喋るくせに、病室では相変わらず仮面を被ったままで、僕にはその理由は解らなかったが、返って僕にとってそれはありがたく、また、秘密めいた感じが心地よく、得意でさえあった。 「いや、あの、まあ…いらないっていうから」 杉山さんは頭を掻きながらボソボソと白状した。 「あきれた…」 橋本さんは、その言葉通りの顔でつぶやいた。 「あなたみたいな大人が、この世の中にいるなんて…子供の食事を食べちゃうなんて、信じられない」 「あげたんだよ俺が、杉山さんが勝手に食べちゃったわけじゃないよ」 橋本さんの顔つきや言い方が、あまりにも杉山さんに侮蔑的だったので、僕も黙っていられなくなり、杉山さんを弁護した。 橋本さんの眼鏡が、キラリと僕に向かって冷たく光った。 「つまりあなたも共犯ってわけね、被害者じゃないわけね。あなたこそ育ち盛りなんだから、あのくらい全部食べなきゃ怪我だって治らないでしょう」 そして再び杉山さんに向きなおり、 「確かにあなたの体格にあの量は少ないでしょうけど、病院食というのは、カロリーや栄養を計算しているんです、食べたかったら退院してから好きなだけ食べればいいでしょう、患者どうしで勝手にあげたりもらったりしたら、他の人の栄養が偏るんですよ」 「あの、僕もあげたんですよ」 坂口さんが堪えかねたように、ヘッドフォンを外して話に加わってきた。 「杉山さん、最近少し元気が出てきたんですよ、また復帰できるみたいで」 「まったく、何なのよ。この部屋の人たちは、こんなの初めてだわ」 橋本さんはついに甲高い声で叫んだ。 「みんなそんなに治りたくないなら、さっさと退院しちゃえばいいのよ」 「なに言ってやがる」 今度は藤原さんがかみついた。 「この暑さと退屈でみんなげんなりしてんだよ、あんな不味い飯誰だって食いたくねえよ」 「なんですって?」 「おめえは何様のつもりだ?少しくれえ残したり、人にやったりしたくれえで、ガミガミ言うんじゃねえよ、このアマ」 橋本さんの眼鏡の奥の目がかっと見開いたその時、廊下を小走りに走る音が聞こえ、若い看護婦が病室を覗いて「橋本さん」と呼んだ。 橋本さんは、まだかなり未練があるらしく、部屋のメンバーをじろりとひとにらみして後について出て行った。 藤原さんはその背中を見送りながら「嫌だねえ」と、卑屈に笑った。 「今夜の花火大会に、一緒に行く男がいねえもんだから、イラついてんのさ」 僕もイライラしていた。 入院して十日もたち、痛みはもう全くないのに、相変わらず足はギブスで固定されていて自由に動けず、お母さんは仕事がパートから正社員になれるかどうかの大事な時期だとかで、病院には夜しか来なかった。 何より、今夜の花火大会は、アンドリーナといつもの土手にでも行こうかと思っていたのに、こんな日に限って母親と外出するのだとかで、僕はひどくがっかりしていたのだ。 しばらくすると、前田さんが橋本さんとさっきの看護婦さんに運ばれて入って来た。 トイレでしゃがんだら立ち上がれなくなって、ナースコールを押したらしい。 橋本さんと顔を合わせにくかったのか、今度は杉山さんがふらりと出て行ったが、このころから杉山さんは病院の階段でリハビリのトレーニングを始めたのだった。
|
|