「ぼく、二年前のその試合テレビで観てましたよ」 藤原さんはスペース・インベーダーに夢中で、坂口さんの話に、「そうかい」と無愛想に相槌をうつだけだった。 藤原さんは右手の小指を切断しているにも関わらず、全く懲りたようすもない。橋本さんが休みの日は、僕も入れた三人で、病院の近くの、この駄菓子屋に羽を伸ばしにくるようになってしまっていた。 藤原さんは缶ビールを二本だけ飲むのを楽しみにしていたが、一人で飲むのはつまらないのだろう。松葉杖で歩けるようになった僕と坂口さんを誘って、当時一世を風靡していたインベーダーゲームを五百円ずつおごって遊ぶのだった。 坂口さんと僕はビールを飲まなかったが、三人で仲良く不良グループを結成していた。 「あの試合、杉山雷蔵とビリー・ファングの試合だったんですが、突然ボッチャが乱入してきたんですよ」 ゲーム台から「チュドーン!」と爆発音がして、藤原さんが「ぐわああ」と両手で頭を抱え込んだ。間のぬけた音楽が流れ、今度は坂口さんが構えた。 藤原さんはふてくされたように、ビールをぐいっと飲み、坂口さんはかなり手馴れたようすで、ゲームをしながら喋り続けた。 「ビリーがスピニング・トウ・ホールドをかけている最中に、ボッチャが杉山さんの膝にエルボー・ドロップを落としたんです」 藤原さんは返事をする代わりに、 「おめえの順番は長えんだよ」 と毒づいた。 「杉山さんはタンカで運ばれて、半月盤が断裂したって、新聞には書いてありました」 僕は隣の鉄板で、もんじゃ焼きを焼いて食べながら自分の順番を待っていた。 「三ヶ月くらいして復帰したんですが、それ以来膝が爆弾になっちゃって、大事な試合は全部負けちゃって。この一年くらい、試合に出てなかったんじゃないかな」 「この暑っちいのに、なにも鉄板の隣にゲーム台置くことねえだろ、この店も」 藤原さんが僕の前の鉄板を恨めしそうににらんだ。 杉山さんの入院の理由は病室でも何となくタブーになっていたが、どうやらそれが自殺未遂らしいということは、子供の僕にも、そして誰にも理解できた。 この一年の間に奥さんにも離婚されて、その際払った多額の慰謝料の借金がまだ残っているらしいことを、坂口さんがみんなにこっそり話していた。 「どっちにしても杉山雷蔵にとって、本当の勝負は、あのビリーとの試合だったんですよ。メインイベントに上がれるかどうか、あの試合の結果と内容次第だったんでしょうけど、ボッチャのつまらない抗争に巻き込まれて。ボッチャにしてみれば、ファイトマネーが少ないことへの不満を、ぶちまけたかっただけなのに…」 「おい」 急に藤原さんに話の腰を折られて、坂口さんは視線を上げた。 僕も釣られて店の外を見ると、アンドリーナが、いつものパジャマ姿にツバの広い白い帽子を目深に被り店の前を歩いて行くのが見えた。 そのピンクのリボンのついた帽子は、あまり日本の女の子が被るとは思えないような。映画の中でヨーロッパの貴婦人が被りそうな大人おとなした感じだが。彼女が足を踏み出す度にリボンや広いツバや、長い髪が風を受けて、ひらひらと揺れるさまは、絵になった。 「また今日も散歩に行くみたいだぜ」 この店の前の道は、車もほとんど通らないような狭い道だったが、店の前を通り過ぎて数十メートルほど行くと、信号機もないくらい小さな交差点があり、それを右に曲がるとその先は川の土手に突き当たっていた。 その川は向こう岸の土手まで一キロくらいはありそうな大きな川で、アンドリーナは雨の日以外は、毎日のようにその土手に歩いて行くのが日課のようになっていた。 アンドリーナの父親がどこの国の人なのかは誰も知らなかったし、その人は今日本にいないのか、一度も見舞いに来たことがないと藤原さんは言っていた。 母親は一週間に一度だけ見舞いに来るが、すぐに帰ってしまう。 日本人だが田舎では目立つくらい、派手な服を着て厚化粧をした女性で、いつもサングラスをしていて、顔はよく分からなかった。 顎や頬の輪郭はすっきりしていて、鼻筋も通っていたから、サングラスをとったら案外美人なんじゃないかと、想像できた。 「キャバスケだろ」 と藤原さんが言っていた。 キャバスケとはキャバレーで働く女性のことなんだそうだ。 アンドリーナはいつも感情を表に出さず、病室や病院のスタッフの誰とも、親しげに喋ることなどほとんどなかったので、いつも何を考えているのか解らなかったが、僕は偶然彼女が泣いているのを見てしまったことがあった。 病院の二階の一番西の部屋は、物置にでもなっているのか、開かずの扉のようになっていて、その部屋の前は普段誰も通らないのだが、その廊下の突き当たりの所で、彼女と母親が何か言い合っているところを、僕は偶然見てしまったのである。 二人が何を話していたのかは解らなかったが、普段感情を顔に出さないアンドリーナが、押し殺すような声で突然泣き出したのだ。
「おい」 と僕は後ろから声をかけた。 アンドリーナはよほど驚いたらしく、弾かれたように体ごと振り返って、いぶかしそうな目でツバの奥から僕を見返して「なあに?」と返事をした。 その声と顔つきは、相変わらず感情を出していなかったが、とりあえずあまり僕を歓迎していなそうであることは僕にも解った。 まつ毛の長い真っ黒な二重の大きな目にじっと見据えられると、僕はなにかを責められているような気分になり、気安く声をかけたことが悔やまれてくるのだった。 「何を見てるんだよ?」 僕は決まりの悪さに、つい乱暴な訊き方をしていた。 僕が声をかけるまで、アンドリーナは土手の上に立って、向こう岸、というよりもっと遠くの空をながめていたのだ。 「何だっていいでしょ」 彼女はそっけなくそう応えると、頭の帽子を両手で押さえながら、またさっきと同じところに視線を向けてしまった。 アンドリーナの日本語は、普通の日本人とたいして変らなかった。顔を見ずに言葉だけ聞いていたら、完全に日本人と間違えるくらいだったろう。 僕は内心結構傷ついていたのだが、アンドリーナにそれを感づかれるのがもっと辛かったので、しばらく黙って彼女と同じようにながめてみるのだった。 広い川で、向こう岸の土手は地平線のように、陽炎の彼方に揺れている。 台風の時などは、この土手の端から端まで川の水が増えるのだと、誰かから聞いたことがあったが、今の季節は水が少ないらしい。それでも川幅は、百メートルは越えているように見えた。 今ではほとんど使われていると思えない渡し舟が、それでも朝と夕方くらいは往復するのか、所在なげに川岸につながれて浮かんでいた。 土手の向こうは、何本か煙突が立っていて、高架線の列が見えなくなるくらい遠くまで連なって、入道雲の中に消えて行っていた。 その先、はるか遠くにある東京に、僕は一度も行ったことがなかったが、その高架線の列は未来都市につながっているように思え、僕はそれを見ているといつもちっぽけな自分が惨めに思えてくるのだったが、この時にはもっと居たたまれないような、逃げ出したいような気分に襲われてくるのだった。 僕は松葉杖を引き寄せて、振り返った。 クラスでは女の子に話しかけることもできず、男たちからは毎日いじめられているくせに、そのことを知らない女の子には、わざわざ追いかけてきてまで頭から乱暴な話し方をする自分がひどく卑屈に思えたのだ。だが。 「うわっ」 松葉杖が草にひっかかり、僕は無様にも転んでしまったのである。 僕はこの時まで松葉杖では、病院の床とかアスファルトとかの平らな所しか歩いたことがなかったのである。 「いってえ…」 「何やってんのよ」 アンドリーナはあきれたような顔で、僕を抱え上げようとしてくれたが、これ以上醜態をさらしたくなかったので、「大丈夫だよ」と慌てて杖にしがみついて立ち上がった。 それまで気づかなかったが、彼女のピンクのパジャマは近くで見ると、色あせていて、あちこち綻びて、袖口や襟のあたりが垢染みていた。 日本人離れして綺麗な顔に大人びた帽子と、そのボロを纏ったお姫さまみたいなアンバランスさが、僕には妙に痛々しく思え、僕は少し気が楽になるのだった。 「大丈夫?」 アンドリーナは、今度は意外と優しく、僕のパジャマについた草や土埃をはたいてくれながら、僕の足に巻かれたギプスをしきりに気にしていた。 「足の骨、また折れたんじゃない?」 「大丈夫だよ」 僕は必死になって否定した。 「それよりお前…」 「お前じゃないよ、アンドリーナ」 アンドリーナは、僕の言葉をさえぎるように言い放ち、ほっぺたを膨らませて僕をにらんだが、すぐにクスッと笑った。 アンドリーナが怒ったことも、笑ったことも僕の気持ちを爆発的に明るくさせた。 誰に対しても仮面を被ったようだったアンドリーナの豊かな表情を、僕だけが独り占めしたような気分になったのだ。 「アンドリーナ」 僕にはまるでそれが催眠術の呪文の言葉で、自分が術にかけられているように復唱していた。正直いって、呼びやすかった。 「アンドリーナ」 僕はそれが本当になにかの呪文のような気がして、もう一度呼んでみた。アンドリーナには悪いけど、何だか人の名前じゃないみたいでいい。 「なあ、インベーダーやらないか?」 僕は調子に乗って、ついそんな風に誘ってみたが、アンドリーナは「ええっ?」と顔を曇らせた。 その表情もすごく豊だった。 「いいよ、お金ないし」 「お金ならあるよ」 僕はポケットから百円玉を二枚出して見せた。藤原さんはいつも、僕と坂口さんに五百円ずつくれるのだが、坂口さんが上手すぎていつまでも終わらないため、僕も坂口さんも全部使い切ったことなどないのだ。 アンドリーナは「うーん」と考えてから、にっこりと笑って「行こう」と言った。 僕たちはゲーム台に向かい合って座り、先ず僕が先にやってみせた。 坂口さんほど上手ではなかったが、三面くらいまではクリアーできるようになっていたので、お手本には丁度いいと思ったのだ。 アンドリーナは、この画面自体を初めて見るらしく、「これ何?」と敵キャラのインベーダーや基地のバリアーを指差していちいち訊いてきた。 「うわっ、UFO。UFOでしょ、これ?」 アンドリーナが何故かUFOを見て、ひどく興奮してはしゃいだせいで、僕はすっかり気が散ってしまい、二面の途中でやられてしまった。 「も、もうちょっと静かにしてくれよ…」 アンドリーナは突拍子もない声で「あいようっ」と返事をしたが、完全に上の空のから返事で、腰を浮かせそうな勢いで画面に集中していた。 いつも病院でしているあの無表情からは信じられないほどの変りようで、特にさっき川原で、すまして空をながめていた時の大人びた少女とは、まるで別人みたいで僕は可笑しかった。 「あっ、UFOUFO…きゃああっ」 アンドリーナは、大方の予想通り一分もたたないうちにUFOに気をとられ、ビーム砲を直撃されて、倒れこむように椅子に腰を落とした。 「暑い、暑い」 汗ばんだ褐色の頬を帽子で扇ぎ、そのうちパジャマの一番上のボタンを外して、その襟元も帽子で扇いだ。 目の前でそんな格好をされて、僕は完全にゲームどころではなくなり、今度は一面目でやられてしまうのだった。 「なにやってんの?もっと頑張ってよ」 「いや、だって」 「UFO撃ってよ、UFO」 アンドリーナは勢いよくそう言って、また画面に集中したが、今度は最初からUFOばかり待っていて、またすぐにやられてしまうのだった。 そんな風にして、結局二人合わせて十分ほどしかできなかっただろうか。 それでもアンドリーナにとっては、かなり面白かったらしく帰り道では僕の前を、時々スキップなどを踏みながら歩いた。 「いつも土手の上で何やってんだよ?」 僕はさっき転んだ汚名挽回に、ちょっといいところを見せようと思ったのに、すっかりあてがはずれて落ち込んでいた。 「散歩と日光浴に決まってるじゃない、他に何があるの?」 「何って…」 確かにそう言われると、訊いたこっちがバカみたいだ。 「でも、確かにながめがよくっていい所だよな。あんな風に土手から川をじっと見たのなんて、初めてだよ」 アンドリーナは松葉杖でもたもた歩く僕の回りを、踊りを踊るようにくるくる回りながら、「うふっ」と悪戯っぽく笑った。 「あんた病室で暴れたりとか面白いから、教えてやってもいいわ」 「あんたじゃないよ、片山だよ」 僕はさっきのお返しに、そう言ってやった。 「カタヤマ…」 アンドリーナは掛け算九九を諳んじるみたいに何度も「カタヤマ…カタヤマ…」とつぶやいて、「呼びにくい」と眉間にシワを寄せた。 「下の名前は?」 お返しをするのは僕のはずだったのに、逆にやり込められたような気分で、僕は「満」と放り投げるように言った。 「ミツル」 アンドリーナは、今度は目を輝かせた。 「呼びやすい、ミツル」 「あ、ありがとう」 「ありがとう」が正しいのかどうか解らなかったが、仕方がないのでそう言っておいた。 「ミツル、誰にもいわないなら、教えてあげてもいいわ、ミツル」 もう、完全にアンドリーナのペースだった。僕は彼女のこの言葉に、今まで味わったことのない興奮を覚えてしまったのである。かつて同じくらいの年の女の子に「何かの秘密」を打ち明けられたことなどなかったのだ。 暑いせいもあったが、喉が急に渇き「いわないよ」という声が自分でも震えているのが判った。 「UFOを待ってるのよ」 「UFO?」 彼女から返ってきた、とんでもなく突飛で場違いな言葉は、僕をひどくがっかりさせた。 もっと、思春期の女の子らしい、乙女チックな言葉を期待していたのだ。 「UFOなんて待って、どうするんだよ?」 「それはいえない」 アンドリーナは長いまつ毛の目を閉じて、芝居がかった顔でとぼけて見せた。 今思えば、学校の女の子たちなどより充分面倒臭い少女なのだろうが、このアンドリーナに関してだけは、その面倒臭さが心地よかったのかもしれない。 また、僕と同じで同級生の友人が誰も見舞いにこないところにも、強い連帯感を抱いていたのは間違いなかった。 僕は毎日、このエキゾチックでどこか不思議なところがある少女と二人で、「散歩」と称して土手に立ちUFOを待つようになるのだった。
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