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作品名:夏のジャイアントスイング 作者:雲翼

第1回  
北関東の小さな駅前のロータリーを、木戸先生が運転するぼやけたような銀メタのミラージュが、ゆっくりと回った。
 ラジオでは大沢誉志幸が「ぼくは途方に暮れる」と何度も歌っていた。
 有料駐車場は駅に近いほど料金が高く、無料の駐車場は駅から数百メートルも離れている。
 一通り駐車場の料金を確かめてから「田舎のくせに」と木戸は柄にもなく毒づいて車を引き返した。
 「ちょっと遠いけど、無料の駐車場でいいだろ」
 木戸はたばこを灰皿でもみ消しながら言った。灰皿はルパン三世のフィアットみたいに、吸い殻が山盛りになっている。
 「はあ」
 「なんだよ、歩くのもトレーニングだぞ」
 木戸は僕の気のない反応が気に入らないらしく、教師特有の恩着せ口調だ。
 車を降りると、いたる所で蝉がひっきりなしに啼いていて、それが小さな町工場の作業音のように、僕のあらゆる意欲を萎えさせた。
 時計はまだ十時なのに、太陽はテノール歌手が絶叫したようなコロナで地上を支配していた。
 柔道部員という人種は、いつも薄暗い所にいるせいか、直射日光には極端に弱い。僕は荷物を背負ってから、近くの喫茶店の窓際の席に座るまでの記憶がほとんどなかった。
 馬鹿律儀な木戸が歩き出す前に、ズボンの尻のポケットから取り出したメモを開いて何か言おうとしたような気がするのだが、結局何も言わなかったのは、僕がよほど嫌そうな顔をしたからかもしれない。
 「チョコレートパフェでいいだろ」
 木戸は僕の返事も待たずに、チョコレートパフェを二つ注文してしまった。
 変な大人だった。全てがアンバランスだ。
 やや小太りの体つきに白いポロシャツと背広の下だけ穿いてきたような、灰色のズボンは、いかにも真面目な公務員風のくせに、車の灰皿はいつも、だらしないてんこ盛りになっていて、まるで絵に描いたような「だらしないオジサン」でありながら、女子高生みたいに甘党なのである。
 歳は三十一とクラスの女子から聞いたことがあるが、運動経験が無いためか、同い年の体育の先生よりもずっと老けて見えた。
柔道部の監督。
というよりは付き人みたいだった。
木戸が再びメモを開くのを僕はげんなりした気分でながめていた。これから明日にかけてのことを考えると、気が重いなどというものではない。
ただでさえ場違いなインターハイに行くのに、僕はこの数学教師とずっと一緒にいることになるのだ。
「まず天教高校の山下だが、四十キロのダンベルを片手でグルグル振り回す怪力の持ち主で…」
「はあ」
「中仙大武蔵の大木の寝技は大学生並みだ。あの学校は伝統的に寝技が強くて…」
「そうですか」
「だがなんと言っても優勝候補筆頭は世良ヶ谷学園の甲賀利彦。昭和の三四郎の背負いは超高校級で…」
「すごいっすね」
――早くパフェこねえかな――
「あとは国臣館高校の…」
――今日夕やけニャンニャン見れるかな――
「…おい」
「はい?」
「聞いているのか、片山おまえ?」
「はい?ああ。はい。聞いてます」
木戸はメガネレンズの間を中指で、何かのスイッチを押すように押し上げた。
「どうせ僕には技術的なアドバイスなんてできないと思ってな。だからせめてライバルのことくらいは調べておいたんじゃないか」
一流大学を出ているくせに、この木戸という男にはどこかいじけた感じがあり、僕はそんなところが嫌いではなかった。
本当は写真が好きで、写真部の顧問をやりたかったらしい。
「ライバルだなんて、無理っすよ」
中学時代から個人戦でベスト4には何度か入ったことはあった。
だが、実質飛びぬけて強いのは他の三人で、その他大勢はどんぐりの背比べのため、頑張れば四位にはなれるが、逆にどんなに頑張ってもそれ以上にはなれなかったのだ。
ところが、今回その三人のうち二人も予選を欠場したのだった。
一人は怪我で、もう一人は他の部員の暴力事件で、その学校ごと辞退したのである。
もう一人の優勝候補は、チャンスと思い力んだのか、三回戦で僕の体落しにあっさりひっくり返った。僕の体落しがそいつに決まったのは初めてだった。
かくして僕は不本意ながら、県の代表選手になってしまったのである。
一方、僕の高校の他の部員達は、進学高校弱小柔道部の面目躍如たる小活躍ぶりで、一回戦で堂々と役目を終え、今頃は海に山に青春を謳歌しているのだった。
「なあ、片山」
木戸はアライグマがエサをいじくり回すような仕草でバッグの中をかき回して、小さなアルバムを一冊引っ張り出し、僕は露骨に嫌そうな顔をしてみせるのだった。
「あった、これだよ、これ」
木戸は僕の顔を見ずに満足げに一人頷き、アルバムをテーブルに広げて、僕に向けて回してよこした。
目が小さいため、下を向くと黒縁メガネのフレームで目が隠れて、まるで目がないみたいで、ちょっと気味の悪い顔になった。
「ほら、これ見てみろよ」
開かれたページには、三回戦の相手を体落しで投げたところがきれいに写っている。
「ま、またその話ですか」
「素人の僕が言うのもなんだけどな。お前の体落しは、この半年くらいで間違いなく進歩してるぞ」
「はあ」
木戸は理数系の人間らしく、僕の反応などお構いなく、僕の体落しの「見た目」がきれいになったという持論を、中指でメガネのスイッチを押しながら展開し始めた。
親切な教師なのだ。
そのくせ僕はこの、根拠があるんだかないんだかよく判らない話をされると、いつも惨めな気分になるのだった。
幸い木戸は話に熱がこもってくると、相手の顔をあまり見なくなるので、僕は窓の外に目をそらして、外をながめた。
駅前通りに面したこの店の大きな窓からは、通りの向かいに並んでいる古臭い床屋や食堂や、田舎臭い洋服屋が、真夏の強烈な太陽に深い陰影を刻んで建っていた。
その食堂の引き戸が中から開いて、バケツを持った小柄な女の人が出てきて、入り口の前に水をまき始めた。
僕はその女を見て「あっ」と言った。
見覚えがある人だった。
その中年の女は恐ろしく早い身のこなしで店を開ける準備をしているらしい。今度はほうきを持って出てくると入り口の前をリズミカルに掃き始めた。
その冬眠を目前にしたリスのような、小気味の良い動きは、僕の記憶の中にある軽い痛みのような疼きを蘇らせるのだった。
木戸先生は、上機嫌で自説を主張し続けていた。


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