麗華が球場を出ると、色紙を持った小学生たちが駆け寄ってきて回りを囲む。 今や麗華はちょっとした町の人気者なのである。 「サインと、あの言葉を書いてください」 サインをねだる子供たちのほとんどはそう言ってきた。 麗華はこの何日かで「あの言葉」……生きているって素晴らしい……という自分の言葉を写経のように何千回と書かされていた。 生きているって素晴らしい。 生きているって素晴らしい……。 ――ほんと、生きているって、こんなに素晴らしいなんて―― 麗華は書いていて、ふと涙が出そうになることがあった。 生きているって素晴らしい。 姫野麗華として生きていたころには、当たり前すぎてほとんど気にもかけないでいたこの言葉が、今の麗華にはもう手の届かない、過去に誤って捨ててしまった宝物のように思えてくるのだった。 ――もしもう一度、やり直せたら―― だが、いくら後悔してみたところで自分はもう手遅れなのである。 後はこの子たちが自分のような過ちを犯さないように、この子たちの心に少しでもこの言葉が響いてくれたら。 それは懺悔と贖罪の行のようであった。 道ですれ違う人にはよく「生きているって素晴らしい、の人ですね?」などと声をかけられた。 中には間違えて「素晴らしく生きている人……」などと言う人もいた。 ――素晴らしく生きる……か―― 自分は今、他人から見て素晴らしく生きているのだろうか。 ついこの間、自殺したバカ娘だった自分が。 そういえばフィリップはあれ以来一度も現われないが、悪魔との交渉が難航しているのだろうか。 ――できればまだしばらくの間、このままの方がいいんだけど―― 「こら、ジンは芸能人じゃないのよ、あっち行けシッ、シッ」 ――うわっ、ミルク―― どこからか間に割り込んできたのは胡桃美琉久だった。 「私がジンの恋人兼マネージャーなの、勝手にジンに近寄らないで」 美琉久はそう叫びながら、子供たちを手当たり次第に突き飛ばした。 中には小さな女の子も混ざっていて、転びそうになる子もいた。 「なにすんのよ、危ないじゃない」 麗華はあわてて女の子を抱きかかえ、美琉久をにらみつけた。 美琉久はあわてて「ごめんなさい」と謝ったが、その目は完全にそっぽを向いている。 「だって寂しかったんだもん。私のジンがすっかり人気者になっちゃって、私も鼻が高いんだけど、なんだかどんどん私から離れて行っちゃうみたいで……」 大げさに泣き声をあげて、そう言って拗ねて見せた。 ――よく恥ずかしげもなく出てこれるわね、今ごろ―― 「あんた、ずっと姿見せなかったけど、どこでなにしてたのよ」 ――顔なんて見たくもなかったけど―― すると美琉久は、思い出したように「ごほん、ごほん」と咳をしてみせ、 「ず、ずっと風邪ひいてたのよ、応援にきたかったんだけどこられなかったの」 「じゃあちょうどよかったわ」 麗華はできる限りの毒を、顔と言葉に込めて言い放った。 「もう、あたしに近寄ってこないで、あんたの性質(たち)の悪い病気を感染(うつ)されちゃかなわないわ」 「なんですって?」 美琉久は一瞬目を丸くしたかと思うと、思い切り顔をゆがめ、麗華をにらみつけた。 よくこんな表情(かお)ができるものだと感心するほどの、ケダモノ丸出しの形相である。 「この子たちにも近寄らないでね」 「よくも私にそんなこと言えるわね」 美琉久の声が憎しみで震えている。 頬も気味の悪い生き物のようにワナワナと震えていた。 「毎日毎日、高級食材のお弁当を作ってあげたのに」 「そんなのあんたが勝手に寄越したんじゃない、誰もくれなんて言ってないわ」 「憶えてらっしゃい、このクソ野郎、後できっと後悔するわよ」 美琉久はそう言い残すと、くるりと背を向け去って行った。 群がる子供たちを「どきなさいよ」と怒鳴りつけ、肩を怒らせ、がに股で歩く後ろ姿は、二速歩行をするゴリラのようである。 「まったく、ああも顔つきが変わるもんかね」 牛若がそれを見送りながら肩をすくめた。 「七人の子は生(な)すとも女に心許すな、ってやつだね、恐い恐い」 「あいつ、とんでもないワルだよ」 遠藤もいつの間にか後ろにきていてささやく。 「俺、なんとなく判るんだけど、気をつけた方がいいよ、ああいう女」 女の心を持った遠藤が言うとひどく説得力があった。 「そうそう、はじめは処女の如く後は脱兎の如く、ってやつだね」 牛若がしたり顔でうなずいて見せた。
――きゃああっ……―― 部屋に入るなり叫びそうになる麗華の口を、フィリップの手があわてて塞ぐ。 「フィリップ……さん?本当にフィリップさんなの?」 麗華は恐怖に顔をひきつらせながら、やっと声をしぼり出して聞いた。 「よく分かったね」 フィリップはそう言って微笑んだつもりらしいが、その顔は醜く歪むだけだった。 フィリップの顔は、前よりひどくなっていた。 ひどいなどと言うものではなかった。 右の眼球は飛び出してそのままぶらさがっていて、鼻は潰れ、顔は縦横にいくつも大きな裂け目が口を開けていて、しかも顔中にはまんべんなくひどい火傷の痕があり、髪の毛はほとんど全て焼けてしまったようで、わずかに残った根元の部分がこげて煤けていた。 「ほんとに大丈夫なの?そんな大怪我して」 「少したてば治るよ」 フィリップは全く頓着(とんちゃく)していないかのように、手を振って見せた。 「ひ……久しぶり、ね」 麗華は緊張しながらそう言った。 ――ついにきたか、当たり前だけど―― 「いやいや、すまんすまん、すっかり話がこじれてしまってね」 「それじゃあ、ジンの魂は返してもらったのね?」 ――できればもう少しだけ、あのメンバーと野球をしたかったけどな―― 「いや、それが、だね」 とフィリップは言いにくそうに言葉を濁した。 「それが、まだなんだが……だが、今度こそ心配は要らないよ。霊界では特別救助隊を編成することになってね、今度は本物の戦士が一緒に行くことになったからね」 「そ、そうなの……」 麗華はそう聞いて、少しほっとしたような気持ちになるのだった。 「今日ここにきたのはその話ではないんだよ」 フィリップは少し、声に張りを持たせて続けた。 「これからはなにかと話が急になるだろうから、君にもいろいろと心の準備をしておいてもらおうと思ってね」 「心の、準備?」 「彼ら救助隊が首尾よく仁君の魂を取り返せたら、その後すぐにでも本人の肉体に戻さなければならないんだ、つまり、別の悪魔が臭いを嗅ぎつけてやってくる前に。そのため君はこれから数日の間、いつ何時仁君と入れ代わってもいいように、気持ちの整理をつけておいて欲しい」 「今度はそんな急な話になったんだ」 麗華は複雑な気分でそう答えた。 「まあ、さすがに今日中というわけにはいかないだろうが、この数日のうちには片付くだろう。だが、その入れ代わりのタイミングの約束まではできなくてね。君にとってそれは突然やってくることになるだろう。つまりそれは君の食事中になるかも知れんし、野球の試合中かも知れん。その時、君の回りに誰もいなければいいんだが、もし近くに誰かがいたら極力その人たちに不信感を持たれないように円滑に行動してほしい、ということだ」 「数日の、うちに……突然に?」 ――つまり、みんなにさよならも言えないってこと……―― 確かに最初から分かりきっていたことではある。 仁の体に入って、まだ二週間あまりだが、それは今までの麗華の人生の中で最も充実した日々だった。 友人もできた。 遠藤、八郎、牛若、エンリケ、そして……大鉄……。 今では皆かけがえのない仲間だった。 今までの十六年の人生と比べて、一度死んでからのこの二週間、この短い日々のなんと濃密なことであろうか。 しかし、それはあくまで仁の人生なのである。 つまりは借り物の人生でしかないのだ。 「ところで、君の方はずいぶんとご活躍のようだが」 「うん、楽しかったわ……生きててこんなに楽しかったのってはじめてだった」 麗華は遠い目をしながらそう答えた。 この二週間の思い出に浸る一方で、仁の両親にも、野球部の友人たちにも、さよならの一言も言えない自分の立場が、無性に寂しく思えてくるのだった。 「やっぱりそう思ったかね?」 フィリップは声を弾ませてそう聞いてきた。 「実は霊界でも君への特例措置が検討されていてね、それが今日の二つ目の報告だ」 「特例って?」 「特別に君の転生の許可がおりそうなんだよ。同年代の人へのね」 「本当?」 麗華は目を輝かせた。 「君の予想外の頑張りに対しては霊界の評価もとても高くてね、それに、ここのところ君は自分の人生についてずいぶんと考え直したみたいだからね。そこで、転生先の家庭環境その他、君の希望などを聞きながら、できるだけ君の条件に合いそうな死者を選んで生まれ変わってもらおうと思うのだが。やっぱり次も女の子がいいかね?」 麗華は少し興奮しながら「そうね」と考え込んだ。 「男の子も悪くないけど……」 そこまで言ってから急に顔を真っ赤にして、 「やっぱり女の子がいいかな」 と言ったが、また慌てて「いや、でもやっぱり……」と首を振った。 何故か目の前を大鉄の顔が横切ったような気がしたのだ。 ――なんであいつの顔がちらつくのよ―― だがフィリップがその後に言った言葉は麗華を愕然とさせるのだった。 「ただし、転生をした後に今の君の記憶はなくなるがね」 「そ、そんな……」 「いや、これは当たり前だよ、前世や私の記憶を残した者に人間界をうろうろされては、なにかと混乱をきたすだけだからね、転生した後はその相手の人格になって、一生を過ごしてもらうわけだね、これが」 「ず、ずいぶんと冷たいのね」 麗華はひどくがっかりして、やっとそれだけ言うのだった。 「これでも、自殺をした者に対しては前例のない破格の厚遇だよ」 「それを言われちゃうと、返す言葉もないんだけど」 「まあ、その後の自分の運命は自分で切り開くってことだね、カーマは気まぐれってことで……」 フィリップはそう言い残すと、窓から射し込む真っ赤な西日の中に溶けていった。 麗華はしばらくその夕日の中で呆然と自分の影をながめていた。 やっぱり自分は仁の影武者、所詮この影のような存在にすぎなかったのか。 どこからか町工場の機械が、忙しげなリズムを刻む音が聞こえてくる。 その音につられて、自分の心拍も早くなっていくような気がした。 だが、この心臓も結局は仁のものなのだ。 そして心臓から送り出される温かい血も、血管も、骨も筋肉も……。 この体を出たら、そこで全てが終わる。 そう思うと涙が止まらなくなった。 そしてこのなん日かの間、心の中でなんども浮かんでは自ら打ち消し続けてきた甘い葛藤がはっきりと一つの想いとして形になるのだった。 麗華は最早、それを素直に受け入れるしかなかった。 ――大鉄……とうとうさよならも言えないのね―― 生まれ変わり、記憶が消された後で大鉄と再び出逢うなど、奇跡でも起こらない限り、ありえないのだ。
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