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作品名:カレに代わってピッチャー元カノ 作者:雲翼

第6回   それぞれの夏
「おい二年!」
鳥羽茂男はグラウンドに入るなり、額をひくつかせながら怒鳴った。
恐ろしい形相だ。
三日月山高校野球部、総勢二十三人の二年生部員は全力疾走で鳥羽の前に集合した。
皆血相を変えて、中には「ひっ」と小さな悲鳴を漏らしている者もいた。
突然の「集合」だが、皆よほど慣れているのか、まるでマスゲームのように整然と鳥羽の前に整列する。
無礼なほどに小綺麗な「気をつけ」の姿勢は、一糸乱れぬ緊張感で今にも張り裂けそうだった。
「とりあえず跳べや……」
「跳べ」とはジャンピングスクワットをしろという意味だ。
「とりあえず」で三百回。
「しばらく」で五百。
「いいというまで」で千回、以前には二千回になることもあった。
「跳びながら答えろ」
鳥羽は、人嫌いな野良犬のような濁った目で、二年生部員を見下ろしている。
身長百九十三センチの鳥羽の顔は、二年生がジャンプするより高い位置にある。
真っ黒に焼け、痩せた顔の眉間に怒り皺を寄せると、とんでもなく迫力があった。
「お前ら、タマに洗濯させてただろ?」
二年生たちの黒目が一斉に小さくなった。
「なんで一年生にやらせないのかなー?」
鳥羽はまるで幼稚園児にものを尋ねるように首をかしげるが、その充血した目は殺気をはらんで大きく見開かれている。
キレる寸前の目だ。
「し、知りませんでした」
鳥羽の正面の男が跳びながら答えた。
「今年の一年生さまはずいぶんとお偉いんだね、おい。三年の玉川(たまがわ)先輩に洗濯までさせるんだもんねー」
「すいませんっす」「知りませんでした」
二年生たちは真っ青な顔で、口々に叫んだ。
彼らにとっては、寝耳に水だった。
三日月山高校野球部では、三年生と一年生は直接口をきくことすらない。
一年生のしでかした不始末は、二年生が責任をとる決まりなのだが。
一年生の仕事であるグラウンド整備や洗濯などの雑用に、二年生が付きっきりで指示を出すのは、せいぜい最初の一週間である。
一年生が四月に入部して三ヶ月もたつこの時期に、ほとんど目が行き届かなくなっているのは、むしろ当然といえた。
逆に、入部してまだ三ヶ月しかたっていない一年生が、三年生である玉川太(たまがわふとし)に、「自分が洗濯する」と言われ、断われないのはむしろ当たり前でもあるのだ。
「てめえら、そのうちケツまで拭かせる気なんじゃねえか?俺らに」
 鳥羽がそう言って全員をにらみつけた時、グラウンドの外から一人の部員がのそのそと走り寄ってきた。
 身長百六十センチの短軀(たんく)はぽっちゃりと太り気味で、短い手足をばたばたと泳がせながら走る不様な姿は、とても野球部員とは思えない。
 「シゲちゃん、もういいよ、俺がやるって言ったんだよ」
 玉川太は鳥羽の隣にくると、子供が親にすがりつくように見上げて言った。
長身の鳥羽と小太りの玉川が並んで立っていると、まるで一昔前の漫才コンビのようである。
 「だから、なんでテメエがやんだよバカヤロウ、そんなこたあ一年坊にやらせとけよ」
 「だって、他に俺にできることなんてないし……」
 玉川は口の中でそうつぶやいて一度うつむいてから、
 「みんな、ごめん。俺が悪かったんだよ、やらなくていいよ」
 と、二年生に向かって両手を振った。
 鳥羽はよけいに目をつり上げて、「うるせえ」と怒鳴った。
 「見せしめだ、全員しばらく跳んどけや」
 そう吐き捨ててその場を離れてしまった。
 「とりあえず」が「しばらく」になってしまった二年生たちは、それでも返って安堵の表情で「ごっつあんです」と元気よく返事を返した。
 「いいと言うまで」と言われなかっただけまだましなのだ。
 一年生たちは、その地獄絵図を呆然と見ているしかなかったが、中にはべそをかいて泣き出す者までいるのだった。
 玉川は心配そうに何度も二年生たちを振り返りながら、鳥羽の後について歩いた。
 「なあシゲちゃん、もういいよ、止めさせてやれよ」
 だが、鳥羽はそれには答えず、
 「お前えはベンチ入りしたんだぞ、いつまでも雑用なんぞしてんじゃねえよ」
 と言った。
 「だって、それはシゲちゃんが……」
 玉川のベンチ入りは鳥羽が監督に強く推薦して、強引に決めさせてしまったのである。
 「関係ねえよ」
 鳥羽は吐き捨てるように言ってから、薄笑いを浮かべて、
 「どうせ誰がスタメンになったって、誰も打てやしねえんだからよ、うちのチームは」
 と鼻で嗤った。
 「全員案山子だよ、カ・カ・シ……泣けるぜ、女の子入れたっていいくれえだよ」
 玉川が回りを見ながら「シゲちゃん」と鳥羽の腕を引っぱる。
 近くにいる三年生たちには、二人のやり取りが全て聞こえているようだったが、皆聞こえないふりをしていた。
 玉川は鳥羽の幼なじみだった。
 もっというなら、たった一人の友達である。
 人一倍大きな体と、その猛獣のような性格が災いして、誰一人近寄ってこようとしない鳥羽と、気が優しくお人好しだが、見た目と性格の鈍臭さで回りの人間からほとんど顧みられない玉川。
 体格も性格も正反対だが、周囲から孤立している点においてだけよく似たこの二人はなぜか子供のころからウマが合うのだった。
 「俺はシゲちゃんと一緒に野球ができるだけでいいんだよ」
 それが玉川の口癖だったが、野球のセンスはその外見どおりゼロで、チーム内では一年生も含めて最も下手だった。
 しかし、本人もそのことはよく理解していて、練習よりも雑用に熱心で、いまだに一年生がやるような仕事でも喜んでやっているくらいなのだが、そんな先輩の姿は下級生から見ても野暮ったく見えるもので、一年ほど前に下級生の中から彼に軽口を叩く者まで現れ。
 何年か前に多摩川に出現したアザラシに彼の見た目と名前が似ていることから、そのまま「タマちゃん」というあだ名で呼ぶ者が出てきてしまったのである。
 玉川本人は全く気にしていなかったが、これが運悪く鳥羽の耳に入り逆鱗に触れ、今の二年生全員が二千回「跳ばされた」のが、実はこの時だったのだ。
 「だあああっ、ちくしょうめ!」
 鳥羽は無性にいら立つ自分を押え切れないように絶叫したが、グラウンドにいる者は誰も振り向きもしなかった。
 はじめて見る者にとっては異様な光景かも知れないが、これはいつものことだった。
 試合が近くなり、練習が軽いメニューになると、鳥羽は力を持て余し、傍目も気にせず爆発的な不機嫌さをまる出しにするのである。
鳥羽のそんな姿はさながら、エサを求めて咆哮しながら徘徊する肉食恐竜のようである。
「チーム打率二割のスタメンが聞いて呆れるぜ、センスの無さじゃ全員がお前えといい勝負なんだよ」
だが、鳥羽が嘆くのももっともな話で、チーム打率二割というのもほとんど鳥羽が打って上げているアベレージであり、つまりこのチームの勝った試合のほとんどは鳥羽が完封し、自分で打ってきているのである。

 「三百球……?」
 「投げ込みを?」
 八郎と牛若が目を丸くする。
 「合宿ん時だってそんなに投げなかったじゃん、あいつ」
 と、八郎。
 「まさに怠け者の節句働きってやつだね。もう大会はじまってんのに、今ごろそんな無理したって体壊すだけじゃんかよ」
 と、牛若。
 「それに疲れだって残るだろうが」
 と、二人顔を見合わせてうなずき合う。
 大鉄は「なんだよお前ら」と、皮肉っぽい笑いを返す。
 「あいつはもう戦力外なんだろ?今さら体壊したっていいだろが別に」
 「まあ、そりゃそうだけどね」
 牛若が苦笑いしながらうなずく。
 「実は昨日も家に帰った後、俺相手に二百球投げたんだよ。いやいや、手のひらが痛てえ痛てえ……」
 大鉄はわざと満足そうな笑みを浮かべながら左の手のひらを二人に見せた。
 本当は百五十球だったのだが、みんなの気を引くために少し大げさに吹聴しているのだ。
 「ほんとかよ?」
 練習と聞くと、さすがに八郎は喰いつきがいい。
 「冗談じゃないよ」
 最も反発したのは、仁に次いで練習嫌いのエンリケだった。
 「やっと大会がはじまって、練習が少なくなったってのに、こっちまでとばっちりがくるじゃないの」
 「いやいや」
 と大鉄は首を振った。
 「お前が仁の球受けりゃいいだろ、チンタラ守備練してるより楽だぜ」
 「なるほど、そうだな」
 エンリケは目を輝かせ、あっさり快諾した。
 この大男は「楽」と聞くと喰いつきがいいのだ。
 「けっ」
 と、八郎は吐き捨てた。
 「バカ言ってんじゃねえよ、たった一週間で今までサボった分が取り返せるだあ?ナメるにもほどがあるぜ」
 だが、その目はどこか嬉しそうだった。
 ――あ、暑い……く、苦しい……――
 ブルペンは木陰になっているがグラウンドを渡ってくる熱風が体中にまとわりつくようだ。
 ――野球のユニフォームって、なんでこう、二枚も重ね着しなきゃなんないのよ――
 麗華はすでに、二年生を相手に百五十球投げていた。
昨夜、結局フィリップは現われなかったが、そんなことはもうどうでもよかった。
と言うより、そちらの方はほとんど忘れているくらいだった。
今の麗華はとにかく時間が惜しかった。
寸刻を惜しんで野球漬けでいたかったのである。
 この投げ込みの後も、大鉄と遠藤にたのんで居残り練習の約束をしてあるのだった。
 昨日の試合で大失敗をしてしまった牽制球とバント処理は言うに及ばず、挟殺プレーやサインプレーなど、やることは山ほどある。
 投手とはいえ、当然バッティングの練習もしなくてはならなかった。
 ――負けるもんですか……これ以上あのお父さんとお母さんを悲しませるなんてできないわ――
 麗華は本格的にスポーツに没頭するのはこれがはじめてだった。
 中学では手芸部に所属し、高校では「リラックマクラブ」というクマのぬいぐるみを作り続けるサークルに入っていたのである。
 そんな麗華にとって、生まれてはじめて大きな目標に向かってハードなメニューを一つ一つ消化してゆく充実感は全てが新鮮であり、苦しいながらも楽しくもなってきているのだった。
 麗華は少しずつ変わってきていた。
 一球一球投げるごとに増していく球速は、生身の人間としての成長を意味し、それにつれて流れる汗と溜まってゆく疲労は生きている証を麗華に自覚させてくれるのだった。
 ――なんだか素敵、生きてるって感じがするわ――
 たまたま人生の幕を自分で引いてしまったが、実際には成長期の少女であり、まだまだ人生をやり直すには充分な年齢なのである。

 ゴギーン!
 ガギーン!
向学大付属高校野球部第二練習場では、不気味な金属音が鳴り響いていた。
金属バットでボールを打つ快音ではない。
鉄と鉄がぶつかり合う、昔の鍛冶屋の作業音のような音である。
「足利、もうそれくらいにしておけ」
監督の勅使河原が呆れた顔で声をかける。
「あと十五本であがります」
足利は肩で息をしながら、ちらりとそちらに顔を向けた。
顔からは汗が滝のように流れている。
手に持っているのはバットではない、ハンマーである。
土建業者が工事現場などで使う、先端が鉄でできているハンマーである。
打っているのも野球のボールではなく、陸上競技のハンマー投げで使うハンマーである。
つまりワイヤーのついた鉄球だった。
それを上から吊り下げて、ハンマーの先端で打っているのだ。
――うふ、うふふふ……藤村君。僕のバッティングは更なる高みに達したぞ――
足利は今日の試合で二本のホームランを打っていた。
その他の打席は全て敬遠されたのだ。
試合は十五対三で圧勝だった。
――僕にとってこの一年がどれだけ長かったか――
去年の準決勝、向学大付属は沢谷香高校に試合では勝ったが、足利は個人的に仁に完全に押さえ込まれたのだった。
三打数二三振、一内野フライ。
まさに完敗だった。
仁のちゃらんぽらんな性格は、足利のような真面目で思い込みの激しいタイプとは、実に相性がよかったのである。
最終打席で打ったホームランは、仁に代わって出てきた三年生のリリーフから打ったのだった。
練習不足の仁がスタミナ切れを起し、途中で交代したのである。
だが、足利にとってそれは耐え難い屈辱であり、以来彼はこの打撃練習を毎日百本、日課としてきたのだった。
――嬉しいぞ、藤村君。僕は君と対戦するためだけに、一年間この特訓を続けてきたんだ――
足利にとって不幸なのは、去年の夏の大会以来、仁とは一度も対戦することができなかったことだ。
去年の大会以来、沢谷香高校はどういうわけか――ほとんど仁が原因なのだが――秋も春も向学大付属と対戦する前に負けてしまっており、足利は仁との遺恨を晴らすことができずに今日に至っているのだった。
「もう大会がはじまってるんだから、ほどほどにしとけよ」
勅使河原は苦笑いしながら言った。
「そんなアホな練習、ほとんど意味ないし」
そんな言葉が喉元まで出かかったが、口には出さなかった。
――まあ、放っておいてもこいつは勝手に打ってくれるんだし、気のすむようにさせておくか……――
勅使河原は自分の肩を叩きながらため息をついた。

「五回コールドで十五点だってよ……」
「足利はホームラン二本だって?相変わらず景気がいいね、向学大は」
「大暴れだな」
八郎と牛若が首を振りながら呆れる。
「いよいよシード組が出てきたな」
大鉄はやや緊張した面持ちでつぶやいたが、その声は心なしかいつもより元気がなかった。
「三日月山は一対ゼロだってよ、鳥羽がノーヒットノーランだと」
八郎はわざわざ持ってきた朝刊を皆に見せた。
「相変わらず渋いね、あそこは」
牛若がいつものこととばかりに、それを一瞥して言う。
「あと新聞には書いてねえけど、鳥羽のやつエラーした味方に食ってかかって、あわや退場寸前なんて一幕もあったらしいぜ」
「味方と乱闘かよ」
牛若が肩をすくめる。
「これまた相変わらず殺気立ってんね、やっこさん……で、その一点ってのも鳥羽が打ったんだろ?」
「いや、玉川ってやつがサヨナラヒット打ったって」
牛若が「えっ」と驚いて八郎に手を伸ばし新聞を受け取った。
「誰だそいつ、一年生か?」
「いや、三年だよ」
大鉄が答えた。
「鳥羽が二塁打打って、その玉川ってやつが代打で出てきてヒット打って還したんだってさ」
「聞いたことねえぞ、そんなやついたっけ?」
八郎が首をかしげて言う。
牛若が写真を見て「ああ……」と叫んだ。
「こいつ、あのマネージャーじゃね?」
「ああ、そう言えばそんなやついたな、太った体でうろうろしてる、よく歩くアザラシみてえのが。あいつ、選手だったのか」
「まあ、よそはよそ。うちはうちだよ。とにかく明日の試合を勝たなきゃな」
大鉄はあえて声を励まして言った。
「そうそう、なんたってしがないノーシードだからね、うちの場合」
牛若がさりげなく皮肉るが、その目はどこか自信に満ちていた。
「まったく、藤村の野郎が、もっと早く今みてえなやる気を出してくれればよ……」
八郎も舌打ちをするが、顔はにやけている。
むしろ笑いが止まらない、といったところらしく、その証拠にこんな風に話を続けるのだった。
「でもまあ、俺としちゃあ一試合でも多くできる方が楽しめるけどな」
「そうそう、終わりよければ全てよし、ってやつだね、それにノーシードから甲子園なんてのもカッコいいし……」
「甲子園?」
牛若が思わず口にした言葉を二人はもう一度復唱し、固まって顔を見合わせた。
「……もしかして。ほんとに行けたりしてな……その、甲子園、とか」
「いいなあ、行きてえなあ、甲子園……」
二人はうっとりして、遠い目になるのだった。
大鉄は独り、暗い面持ちで二人をながめていた。
――まずいな――
それは大鉄も密かに恐れていたことだった。
仁(麗華)の指の血豆が潰れたのだ。
この一週間の仁は、明らかに投げすぎだった。
当然大鉄も黙って見ていたわけではなかった。
疲労や故障のことも含めて再三「やりすぎ」を注意したのだが、仁が頑として止めようとしなかったのだ。
今日は試合の前日ということもあり、監督と大鉄の説得でさすがに仁も渋々ながら普通の調整に切り替えたのだが、一度潰れてしまった血豆が明日までに固まることはないだろう。
やはりこの一週間の急な無理のツケがきたのである。
それにしても、と大鉄は改めて感心していた。
エースの存在感がチームにこれほど大きな影響を与えるとは。
この二三日、沢谷香高校ナインの雰囲気は過去に例をみないほどよくなってきていた。
当初懐疑的だった八郎と牛若も、今ではすっかり仁の「やる気」を信用しているように見える。
――まさかこのチームが、ここまでまとまってくれるとは――
だが、と大鉄は一方で冷静に考える。
いくら仁が頑張ったとはいえ、それは現実には、この、たったの一週間なのである。
今自分がうっかりやつの血豆の話などすれば、八郎も牛若も手のひらを返し、それ見たことかと仁を再びなじり、チームはたちまち数日前のあのギスギスした雰囲気に戻ってしまうに違いない。
つまり、部員同士の信頼といっても、やっと芽が出てきたところなのである。
それを本物にするには、黙って試合で結果を出すしかないのだ。
全てがもう一歩なのである。
――やっぱりみんなには黙っていようか――
大鉄は独りため息をついた。
この男は、とことん苦労性にできているのだ。


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