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作品名:カレに代わってピッチャー元カノ 作者:雲翼

第5回   麗華マウンドに立つ
 ――まずいな……――
 大鉄は思わず不安を顔に出しそうになり、慌てて押し止めた。
 試合前の準備投球のため、マスクを被っていないことを思い出したのだ。
自分が先頭になって青ざめた顔など見せたら、やつはますます硬くなるだろう。
とにかく仁をこれ以上追いつめるのはよくない。                 
もともと仁は神経質でアガリ性で、立ち上がりは悪いのだ。
 だが、今日の調子は特にひどい。
 球がまったく走っていない。
 本来、仁のストレートはマックスで百四十七キロ出るのだが、どういうわけか今日は百三十五キロも出ていないのではないか。
 ――セーブしているのか?準備投球だから――
 いや、そうじゃない。
 投球フォームがいつもと違う。
 どこかギクシャクしている。
 それに、変化球も全然だめだ。
 仁の球種は、ストレートとスライダーとフォークボール。
 スライダーは確かに曲がるが、全くキレがない。
 これではちょうど打ちごろだ。
 その上、ストレートに比べ極端にコントロールが悪くなるようだ。
 いや。ストライクゾーンから外れてくれるならまだいいが、間違って真ん中などにきたら、今日の相手でも打たれるかも知れない。
 フォークは要求しても投げようともしない。
 元来やつはフォークに関しては特に神経質で、試合前にはしつこいほどチェックするのだが。
 ――どうする?――
 怒鳴りつけて気合を入れるか。
 おだててリラックスしてもらうか。
 やはり、彼女の自殺のショックから立ち直れていないのだろう。
 当たり前だ、立ち直れるはずがない。
 まだ一昨日の話なのだ。
 今日の相手ならこれでも勝てるだろうが、なんとかして立ち直るきっかけでもつかんでもらわないと、予選を勝ち抜くのはとても無理だ。
その上観客はほぼ満員である。
予選の一回戦としては異例の盛況ぶりだ。
皆仁を見にきたのだ。
甲子園出場経験こそないがプロのスカウトの目に留まっているという噂を、皆よく知っているのだ。
特に地元の沢谷香市では、町おこしの期待も込めて、市長までが仁に注目しているという噂だった。
長い高校野球の歴史の中で、沢谷香市は一度も代表校を輩出したことがなかったのだ。
これで緊張するなという方が無理というものだ。
――怒鳴りつけるのは逆効果だろう――
やつは心底俺を恨んでいるようだ。
現にさっきも背中を蹴ってきた。
あんなことくらいで恨みが消えるとは思えないが、少しでもやつの気が晴れるなら、いくらでも蹴られてやるさ。
…………
 ――マウンドの上って、こんなに暑かったのね――
 麗華は早くも汗びっしょりだった。
 キャッチャーの大鉄までの距離も、想像していたよりずっと遠く感じる。
 応援席では仁の父と母が、期待と不安の込もった眼差しでこちらを注視している。
 父親は仕事を休んで見にきたのだった。
 ゆうべの遠藤との特訓の甲斐があって、見た目はなんとかピッチャーらしいフォームになってきたが、直球とスライダーはともかく、フォークは全く無理だった。
 とても一朝一夕で体得できるものではなかったのだ。
 投球練習が終わると、大鉄が笑いながら駆け寄ってきた。
 「なんだよお前、またアガってんのか?」
 大鉄に挑発されて、麗華は少しむきになった。
 「え?いや、そうでもないけど……」
 すると大鉄は笑いながら、「俺もアガってんだけどよ」と麗華の肩を叩いた。
 「緒戦だから無理もないさ、でも、今日の相手はお客さまだ、落ち着くまではサインなんかいいから、全部ど真ん中に思いきり直球投げてこいよ、溜まった鬱憤を晴らしてやれよ」
 ――結局、どうしてもあたしが投げなきゃなんないのね……――
 ブルペンでの投球練習で、仁がいつもの調子の見る影もないほどの状態であることくらい大鉄が一番判ったはずだった。
 だが、もしかしたら今日は遠藤でいってくれるのでは、と密かに寄せていた期待も裏切られてしまったのだった。
 「試合終わったらまた満腹亭で特盛りラーメンとジャンボギョーザ食って帰ろうぜ、おごるからさ」
 大鉄は真っ黒に日焼けした顔に白い歯で笑い、ホームベースに戻って行った。
 ――結構いいやつ、認めたくないけど――
 麗華は一度、大きく深呼吸した。
甲高いサイレンが、有無を言わせぬほどの大音量で鳴り渡った。
もう、後戻りはできないのだ。
 ちなみに試合に臨む沢谷香高校のオーダーは次のとおりである。
 一番ショート  牛若小次郎
 二番センター  花川口悟
 三番サード   鎮西八郎
 四番キャッチャー大江戸大鉄
 五番ファースト 高橋エンリケ誠
 六番ライト   遠藤盛遠(メアリー)
 七番セカンド  柏薔薇魔裂
 八番レフト   梶原景時
 九番ピッチャー 藤村仁(麗華)
 ――ここまできたら、やれるとこまでやるだけよ――
 麗華、振りかぶって、第一球。
 「うおおおっ……」
 観客がどよめいた。
 ――あれ、なに?――
 バッターが倒れている。
 主審が「デッドボール」と叫んだ。
 ――しまった――
 すかさず相手のベンチやスタンドからヤジが飛んでくる。
 いや、相手からだけではなかった。
 「おいおい、たのむぜ」
 サードを守っている八郎が、土を蹴って聞こえよがしにブツブツ言っている。
 「やれやれ、天才のやることってな理解できねえよ」
 ショートの牛若がそれに続く。
 「ドンマイ、真ん中投げよう真ん中」
 キャッチャーの大鉄とライトの遠藤だけが、そんな意味のことを叫んで励ましてくれた。
 ファーストのエンリケは、ぼんやりと相手の応援席をながめていた。
 恐らくチア・ガールを見ているのだ。
――どうしたんだろう?練習ではちゃんとストライクが入るようになってたのに――
実を言うとこれには、麗華には解らない不運がいくつか重なっていた。
 硬式の、試合で使うような新品のボールというのは、それなりの投球力のある者が投げると、思いもよらない変化をすることがあるのだ。
 麗華は直球を投げたつもりだったが、それがほんのわずかだが汗で滑ってシュートをしてしまい、しかも相手の打者は、最初からヒットを打つのが難しいことを見越して、かなりベース寄りに被って構えていたのである。
 麗華は新品のボールを投げるのは、これがはじめてだったのだ。
 味方の罵声まで浴びる四面楚歌だが、とにかく考えても仕方ないかと、気持ちを切り替える。
 意外とマウンド度胸はあるのだ。
 ――こういう時は、一塁に牽制球ってのを投げるのよね――
 麗華は冷静に自分の置かれた状況を把握していた。
 だが。
 「ボーク!」
 主審がまた叫んだ。
 なまじ平常心があったことが返って裏目に出てしまい、投げなくてよい牽制球を投げ、しかもボークになってしまったのである。
 結果、ノーアウトでランナーが二塁に行ってしまった。
 麗華はまだ、一球しか投げていない。
 「てめえ、なにふざけてんだバカヤロー」
 今度は相手のヤジより早く、八郎が怒鳴りつけてきた。
 「まったく、乗っけから忙しいこと」
 牛若の嫌味がそれに続く。
 ――ぼ、ボークって、なに?――
 それは麗華にとって、はじめて聞く言葉だった。
 麗華が見ていた試合では、仁はボーク、つまり反則投球を一度もやったことがなかったのだ。
今麗華がやったのは、プレートを踏みながら打者に足を踏み出して――つまり、打者に向かって投げるフォームで――一塁に投げる、という初歩的なボークだった。
――なにがなんだか分からない、一体どうすればいいのよ――
麗華もさすがに平常心を失い、呆然としてしまった。
ピッチャーにとって立ち上がりのボークは、ヒットを打たれるより心理的に辛いものなのである。
「タイム」
大鉄が駆け寄ってきて、内野手を集めた。
「お前ら、さっきから味方なんかヤジっていい加減にしろよ」
八郎と牛若を咎めたが、顔は相変わらず笑顔である。
「ヤジじゃねえよ、愛のムチだよ」
八郎が苦々しげに吐き捨てる。
「そうそう、叱咤激励、切磋琢磨ってやつだね」
牛若が他人事のようにうそぶく。
「まあ、まだ点取られたわけじゃないさ」
大鉄が麗華に微笑みながら言った。
「牽制球は投げなくていい、ランナーは気にすんな。今日の試合は三点や四点取られたって大丈夫だから、なにも考えずに投げてこいよ」
麗華はその笑顔と言葉に救われ、少し落ち着きを取り戻して「うん」とうなずいた。
――な、なんか、認めたくないけどありがとう――
だが。
「バカヤロウ、緒戦の弱小相手だからこそ、完璧に勝って勢いをつけるんじゃねえか」
八郎が割って入ってくる。
「そうそう、獅子はうさぎ相手にも全力を尽くすってやつだね」
牛若がそれに続く。
「分かった分かった、打たせるからお前ら完璧にやれよ、うちの守備にはつけ入る隙なんてないってところを見せつけてやろうぜ」
大鉄は笑顔で二人をなだめてから、鋭い目になり「しめていくぜ!」と気合を入れた。
八郎も牛若も「おう、あたりめえだ」「どんどんこいや」と口々に叫びながら守備に散って行った。
大鉄は一人残り、再び麗華に笑顔を向け、
「みんなまだ、硬さがとれなくてイライラしてるんだよ、野手ってのは、最初の打球を捌(さば)くまで落ち着かないからな。ランナーは気にしなくていい、お前はバッターに思いっきり投げるだけでいいよ、ヒット打たれてもいいから打たせていこうぜ、あいつらにいっぱい仕事してもらおう」
そう言い残して戻って行った。
――すごい――
麗華は遠藤の言葉を思い出した。
試合になると本当に頼もしいやつ。
まるで別人のように生き生きとしている。
あんな曲者連中を、ほんのわずかのやり取りで、調教師のように操ってしまった。
大鉄自身だって、緒戦の不安は同じはずなのに。
それになんという目をするのだろう。
あれは子供が、楽しい遊びに夢中になっている時の目だ。
生きているのが楽しくて仕方ない、という目だ。
そんな目で見られ、麗華もいつの間にか落ち着きを取り戻しているのだった。
次のバッターは早くもバントの構えをしている。
「いいぞ、やらせろやらせろ」
大鉄が両手を広げて大きく構えた。
――バントなら、何度も見たことあるわ――
麗華は投げるのと同時に飛び出す。
だが。
「うわっ、痛てえ!」
夢中で打球を追いかけて、八郎とぶつかってしまった。
麗華もそのまま倒れ、一塁・三塁オールセーフになってしまうのだった。
「バカヤロウ、テメエはファーストのカバーだよ……っうか、初球から簡単に三塁線にバントさせんな、このドアホウ」
八郎は真っ赤になって麗華に食ってかかった。
――な、なによ、カバーってなに?ピッチャーって投げるだけじゃないの?――
麗華は再び、なにがなんだか解らなくなってしまった。
マウンドに戻りながら、スタンドを見上げると、仁の父親がうなずきながら、こちらに向かってなにかを叫んでいる。
隣の席では母親が、お祈りをするように両手を合わせ、強く目を閉じてうつむいていた。
その上の座席を見て麗華は愕然とした。
そこにはあの胡桃美琉久がいたのだが、その目。
遠くから気味の悪い動物でもながめているような、蔑んだ目でこちらを見下ろしていた。
――好きな男が頑張っているのに、よくあんな目で見られるわね――
麗華は唾を吐きたい気分だったが、今はそれどころではなかった。
次の打者へ、第一球。
はじめてストライクが取れたが、一塁ランナーには簡単に走られ二塁に行かれてしまった。
だが、これでなんとか、ストライクを投げる感触はつかめた。
第二球。
「走った!」
麗華が足を上げたところで、サードの八郎が叫んだ。
大鉄はその声より早く、立ち上がっていた。
相手のスクイズを完全に読んでいたのだ。
だが。
――え?――
普通にストライクを投げるのが精一杯の麗華が、投球動作の途中からウエストボールを投げることはできなかった。
ボールは大鉄のはるか頭上に逸れ、大鉄が思い切り飛んでも届かなかった。
二人のランナーが次々と、ホームに還った。
ホームのカバーに入っていた八郎が、グローブをグラウンドに叩きつけて麗華になにか怒鳴っている。
用もないのに、小次郎が麗華の隣まできて、小声で、毒を吐き捨てるようになにかささやいている。
だが麗華にはなにも聞こえず、視界に入る景色も陽炎のように歪んで揺れているのだった。
しばらくの間、遊びにまぜてもらえない子供のように、そうして立ち尽くしていた。
かなり長い時間だったような気がするが、時間にすれば一分もたっていなかったかも知れない。
やがて、真っ暗なベンチから監督が姿を現し、ピッチャー交代を告げるのを、麗華は他人事のようにながめていた。
大鉄と遠藤が近寄ってきて、なにか優しげな声をかけてくれたようだったが、結局その二人に促されベンチに下がった。
「お前はもう必要ない」と、その時誰かが言ったような気がした。
八郎だったようでもあるが、誰も言っていなかったようでもあった。
――結局この世に必要のない人間――
自分の心の中の自分がそうささやいたようだった。
ベンチに戻る際、スタンドの仁の父親と目が合った、父親は真っ直ぐに麗華を見てうなずいていた。
母親は両手で顔を覆っていた。
その後ろの座席に美琉久の姿はなかった。
探す気もなかったが、近くの大きな出入り口の階段に向かって歩く姿がすぐに見つかった。
出入り口脇のゴミ箱に沢谷香高校の応援の小旗を捨て、そのまま階段を降りていくのが見えた。

自転車で橋の所に差しかかると、にわか雨はうそのようにあがり、強い日差しが戻ってきた。
いつの間にかあたりの木々では蝉が啼いている。
シャワーのような雨に打たれ、下着までずぶ濡れになると麗華は返ってすっきりした気分で、いつもより少しだけ水嵩の増した川の流れをながめていた。
――終わった――
試合後のミーティングは、まるで負け試合のように重苦しく沈んだ反省会だったが、最早誰一人麗華を責める者はいなかった。
それはまるで欠席裁判のようだった。
あたかもその場に麗華がいないかのように、「今後遠藤でどう戦うか」ということにばかり議論は終始したのだ。
試合は十対四。形の上ではうちの完勝だった。
だが、完封、コールド勝ちで当たり前と思われていた相手に思わぬ苦戦を強いられた八郎たちチームメイトは、怒りを通り越して完全に麗華を見限っているようだった。
「監督、俺にも責任があります」
大鉄がそう言って、全員にかけ合ってくれた。
「こいつ一昨日、付き合っていた女の子が自殺したんです、俺が二人の交際をじゃましてたんです、こいつはまだ、ショックから立ち直れていないんです」
遠藤もそれに被せて、麗華を弁護してくれた。
みな、そのことは初耳だったようで、一応驚いて見せたが、彼等が長年くすぶらせていた麗華への不信感を覆すには及ばず、結局二人の意見は隅に押しやられてしまったのである。
麗華もそんなやり取りを、薄笑いを浮かべながら聞いているしかなかった。
――もう、いいよ――
みじめさも度を越えると、そんな力のない嗤いしか出てこなかった。
これで自分の無力さは証明された。
次の試合から遠藤の先発でいけばいい。
ただそれだけのことではないか。
「今から遠藤の先発を想定した練習をしよう」
練習オタクの八郎がそう言い出したところへ、にわか雨が降り出し、ミーティングが解散になったのである。
麗華にとってはそんな雨も渡りに船だった。
「肩が冷えるから」と心配する大鉄を振り切って、逃げるように帰ってきたのだった。
とにかくこれで終わった。
形はどうあれ、試合は勝ったのだし良かったではないか。
次の試合は十七日。
七日もあれば、いくらなんでもフィリップだって仁を連れ戻してきてくれるだろう。
これで思い残すこともなく、自分も霊界に行けるのだ。
――川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず……か――
川の水はいつもより濁っていて、仁の顔が映ることはなかった。
早ければ今日、明日にでもこの体から出られるのだ。
――一応やることはやったんだから、木にされるなんてこと、ないよね――
麗華は苦笑しながらペダルを踏み出した。
仁の家に着いて玄関の前にしばらく立ち尽くした。
仁の両親は、さぞがっかりしているだろう。
恐らく、二人して努めて明るく振舞い、当たり障りのない言葉をかけてくるに違いない。
だが、自分は決してこれに同調してはいけない。
うっかりそんな優しさに引き込まれたところで、お互いに良いことなどないのだ。
自分がこの世に未練を残すより、さっさと仁と交代してもらった方が、チームにとってもあの両親にとってもよい結果になるのだ。
そう考えると、麗華は少しだけ寂しい気分になったが、自分は自分だけのことを考えて「あの世」へ行こうと、割り切るのだった。
麗華の最後の務めとして、彼らと同じように明るく振舞い、こちらも当たり障りのない言葉を返していればいいだけのことなのだ。
麗華が扉に手を伸ばすと、扉は中から開けられた。
中から顔を出したのは仁の父親だった。
「なんだよお前、そんなに濡れて、とにかく着替えてこいよ」
その様子を見て麗華は少し拍子抜けするのだった。
父親はがっかりした様子もなく、不自然に明るく振舞うでもなく、そう声をかけてきた。
もしかしたら、それは麗華が知る限り最も自然な「お父さん」の顔かも知れなかった。
キッチンのテーブルには、今日の祝勝会のために用意したらしいご馳走がところ狭ましと並んでいた。
しかも今度は肉ではなく、寿司や刺身ばかりである。
「今までお前にはすまないことをしたな」
麗華が着替えて椅子に座ると、父親が正面に座り静かにそう言ってきた。
母親はずっとこちらに背を向けたまま、鍋でなにかを煮込んでいた。
「え?」
芝居がかった励ましの言葉を予想していた麗華が驚くと、父親はゆっくりと続けた。
「お前、苦しかったんじゃないか?子供のころからみんなに期待されて」
「そ、そんなことない……と、思う」
父親は珍しく居住まいを正し、正面から麗華を見ている。
麗華に向かって「まあ、食いながら聞けよ」と勧めると、淡々と語りだした。
「お父さんもな、正直なこと言っちまうと、そりゃ確かに期待してたさ、こんなしがない小さな町工場の作業員の息子が、甲子園に出てプロに入って稼いでくれるかな、なんてな。俺たちもそんなお前のことを確かに自慢に思っていたよ。でも、それはお前に俺みたいな人生を歩んで欲しくなかったからそう思ってたんだよ。でもな、野球でプロなんぞになるより、お前がこの二日間、どういうわけか急にいい子になってくれたのが、お父さんもお母さんもどれだけ嬉しかったか、お前のお陰で俺も母さんも目が覚めたよ」
「目が覚めた……って?」
「お前が苦しんでいるのを知っていながら、上手に励ますことも、お前の我儘を叱ることもできなかったのは、決してお前に対する優しさなんかじゃなく、俺たちが逃げていただけだってことさ。仕事場でちょっとお前の自慢がしたいとか、高校を卒業したら少しお金を稼いでくれるんじゃないかなんて、結局自分のことばっかり考えてたわけさ。それがお前のためになんか、これっぽっちもなっていないって気がついた時には、もう手遅れだった」
麗華は「うっ」と息を漏らし、肩に下げていたタオルに顔をうずめた。
自分の中で、なにかが壊れる音が聞こえたようだった。
それは、自分の感情を抑えていた堰が壊れる音だった。
涙が、後から後から止まらなくなった。
「もう、いいじゃないか」
と、父親は言った。
「地元の英雄とその親、なんて肩書きは、もういいじゃないか、次の試合で負けようが、野球辞めようが、お前がいい子になってくれさえすれば俺たちはそれで充分だよ、お前はやっぱり俺たちの自慢の息子だよ」
そう言うと父親は幸せそうな顔で笑った。
「なあ母さん」
父親が声をかけると、母親ははじめて振り返って「ええ」と笑った。
「まるで仁が小学校の……野球をはじめる前に戻ってくれたみたいだったわ」
母親の目は真っ赤に腫れ上がっていたが、その顔は晴れやかだった。
「思い出すよなあ……」
母親の言葉につられて、父親は遠い目をしながら湯呑み茶碗を口元に持っていった。
今日は晩酌をしないつもりらしい。
「だめよ、お父さん」
麗華は堪らず叫んでいた。
「まだ大会は終わったわけじゃないんだから」
麗華が激しく首を振ると、涙があたりに飛び散った。
だが、それだけ言ってみたものの、その先の言葉が出てこない。
説明のしようもないのだ。
両親はしばらく驚いたような顔で呆気にとられていたが、お互いに顔を見合わせ「ああ、すまんすまん」と父親が慌てて謝った。
「そうだな、大会はまだはじまったばっかりだってのに、負けるとか辞めるなんて不謹慎なこと言っちまったな」
――そうじゃないの、違うんだってば――
「とにかく、今日のあたし……俺、は本当の俺じゃないんだから」
麗華がそう言いかけた時、玄関のチャイムが鳴った。
「大鉄君がきてるわよ」
戻ってきた母親が、麗華に告げた。
………
――一体、なんて言って声をかけりゃいいんだよ――
仁の家まできてみたものの、自分がなにを言いにきたのかという説明すら大鉄はできないでいた。
励まし、叱咤、最後の忠告、お別れの挨拶。
はっきり言えばその全てなのだが、いくら叱咤激励したところですでに手遅れとも思えた。
思えばこれほど扱いの難しいピッチャーもいなかった。
おだてれば図に乗りすぎるし、叱りつければ臍を曲げて練習を休みやがる。
せめて八郎の半分でも練習してくれれば。
それでも本番の試合で見せる速球の非凡さは本物で、だからこそ自分もそれに惚れ込み、数限りない理解不能の悪ふざけにも付き合ってきたのだった。
昨日からの気持ちの悪い女言葉も、責任の一端を感じているからこそ聞き流してきたのだ。
責任は確かに自分にもある。
だが、今日の試合でのやつのプレーは、ただの感情のこじれからきているだけではないのではないか。
あまりにもひどすぎる。
小学生だって、あれほどひどくはあるまい。
ただ単に体調が悪いとか、集中力がなくなっているとかのレベルではなかった。
――そうだ、その原因を見極めるのが、俺の最後の責任だろ――
みんなは強がってあんな風に言っているが、次の相手の目蒲学園はそんなに弱い学校じゃない。
遠藤一人では、恐らく勝てまい。
なんとかあいつとみんなを繋ぎとめる橋渡しでもできれば。
それには、あいつと腹を割って話を聞いてみなくては。
玄関から出てきた麗華の顔を見て、大鉄は一瞬目を見張った。
いくらタオルで涙を拭いても、麗華の目からはまだ涙があふれていたのだ。
「お前、そんなに悔しいんだったらもっと練習まじめにやってれば……」
大鉄があきれて咎めると、麗華は「ごめん」とさえぎった。
「まじめに練習するから、見捨てないで」
そう言って抱きついてきた。
――き、気持ち悪いな――
「練習するって、今からか?」
「うん」
「遅くねえか?今さら」
「死んだ気になってやるわ……一度死んでるからそれは大丈夫」
「死んでるって……ま、またわけわかんねえ」
「とにかくお願い、いろいろ教えて、なんでも言うこと聞くから、もう少しだけ付き合って」
「俺にできることならなんでもするけど……」
大鉄はそう言いかけて、背後に強い気配を感じて振り向き驚いた。
「え、遠藤……」
遠藤が呆気に取られて立ち尽くしていた。
麗華は「きゃあっ」と悲鳴をあげて、大鉄と離れた。
――きゃあ?――
「ち、ちがうのよ、そうじゃないのよメアリー」
――メアリー?――
「お前、いつからそこにいたんだよ?」
遠藤は後退りしながら「さっきからずっと」と麗華と大鉄を見比べた。
「仁が落ち込んでると思って、大黒屋のケーキを買ってきたんだけど……」
「誤解しないで、別に変なことしてたわけじゃないんだから」
麗華の言葉で混乱していた大鉄も我に返って「そ、そうだよ、誤解だよ」と、苦笑いした。
「俺、そんな気持ちの悪い趣味ないから、ははは……」
だが、遠藤は余計に悲しげな目になり、
「そんな、気持ちの悪い趣味って……」
と、泣き出しそうになるのだった。
人の思いというものは、言葉にしなければ伝わらないことがある。
だが、言葉にしたところで伝わらないこともある。
この三人にとって幸運だったのは、大鉄という人間が、自分の頭で理解できないことを敢えて理解しようとしない性格だったことなのだろう。
――一体どこまで面倒なんだよ、こいつら――
大鉄の頭では、そこまでが精一杯だった。


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