――おなかすいた―― お昼休みのチャイムが鳴り、麗華は弁当箱を開けて溜息をついた。 おかずの所には巨大なハンバーグが鎮座している。 麗華にとってそれはまさに、愛情と言う名の魔物が凝結したような肉塊であった。 ――ま、またお肉……―― 朝食は卵焼きだったので、昨夜の分までお腹いっぱい食べることができた。 ――それにしても、男の子の体って、どうしてこう、お腹がすくのよ―― 休み時間は、念のためにコンビニで買ってきたサンドイッチやおにぎりでしのぐことができた。 だが、そもそもそれらは母親が朝、ハンバーグを焼いているのを見て、お昼に弁当代わりに食べるつもりで買ったのだが、仁の体の食欲は、麗華の想像をはるかに超えていた。 休み時間の度に押し寄せる底なしの空腹にそれらは一つ減り二つなくなり、ついに全て食べつくしてしまったにも関わらず。 お昼休みの仁の体のエネルギーは、ほとんどゼロに近かった。 ――ど、どうしよう―― 麗華が途方に暮れていたその時。 教室の戸が開いて、胡桃美琉久が入ってくるのだった。 「こんにちは、ジン」 ――ミ、ミルク……このアマ、なんでここにくるのよ―― 胡桃美琉久。 麗華の恋のライバルにして、自殺に追い込んだ最大の張本人。 中学時代から同学年の意地悪グループと徒党を組み、陰ながら麗華に嫌がらせをし続けた、少女の皮を被ったケダモノ。 いつも裏から手を回すような卑劣なやり方をするため、証拠はなかったが、麗華のカバンにヘビを入れたり、日記帳を盗んで学校の掲示板に貼り付けたりなど、その卑劣で手の込んだやり口は、こいつ以外に考えられなかった。 それでも、中学時代まではまだ悪戯ていどだったが。 最近では、出会い系サイトに麗華のパンチラ写真と携帯番号を載せるなど、その嫌がらせはシャレにならないものになっていたのだ。 「はい、今日のお弁当」 「今日の、って……」 ――ジンのドアホウ、毎日このメスブタにお弁当もらってたってえの?しかも、こいつまでジンって呼んでるし……―― 「あんた、学校抜け出してきたの?」 麗華は怒りを押し殺しながら聞いた。 「いやだんもお、いつものことじゃない」 美琉久は女子と喋る時よりもずーっと高いトーンの声で話しながら、麗華の背中をさわさわと触ってきた。 麗華は鳥肌が立つ思いだった。 麗華と美琉久は、仁とは別の学校に通っていたのだ。 仁の学校から二キロほど東にある、聖ポール・モーリア学園というお嬢様学校である。 美琉久は突如、なにかの発作のようにしゃくり上げ、ハンカチで目を押さえながら、 「それがねえ、ジンも聞いたでしょお、昨日麗華ちゃんが屋上から飛び降りちゃって、学校中大騒ぎなのよ……あそこにいると麗華ちゃんとの楽しい思い出をいっぱいいっぱい、思い出しちゃうし、なんかいられなくって……エーン」 と泣いたが、涙は出ていなかった。 ――ま、まあ大騒ぎにはなってるでしょうね。っつうか、なにが麗華ちゃんよ……―― 確かにこちらの学校でも朝から緊急朝礼とホームルームが開かれ、ちょっとした騒ぎにはなっていた。 麗華にとっては不思議な気分だったが、本人としてはなんだかもう遠い昔の話のようで、すでになんとなく、他人事のようにも思えているのだった。 「ジンも、早く元気出して……そうよ、いつまでもクヨクヨしてたってはじまらないわ、せめて生きている私たちだけでも仲良くやっていきましょう」 美琉久は唐突に窓の外の雲を見上げ、力強くまくしたてた。 ――この、偽善者め―― だが。 「ほうら、今日は特製フォアグラ弁当よ、美味しいわよ」 ――フォア……グラ?……ゴクリ―― フォアグラだけではなかった。 弁当の中身はまるで食の宝石箱のように、あらゆる贅が敷き詰められている。 ――背に腹は代えられない、か……でも、なんという屈辱、っつうか、美味しい、でも、くやしい―― 「相変わらずいい気なもんだな、おい」 麗華が『特製フォアグラ弁当』をほおばりながら、見上げると。 一人の男子生徒が麗華の机の横に立って、怖い顔でこちらを見下ろしていた。 上背はそれほどないが、制服のワイシャツの上からでも、筋肉隆々なのがわかる。 ――鎮西八郎……―― 仁と同じ、沢谷香高校野球部員の一人で、仁と同じクラス。 夕べ食事が終わって部屋に戻ってみると、フィリップはすでにいなくなっていて、机の上に野球部のスターティングメンバー全員の顔写真と、大まかな性格が書かれた名簿が置いてあったのだ。 『鎮西八郎、通称ハチロー。チームの中でも最も野球を愛している、ハードトレーニング信者で、やる気のない人間が大嫌い。ゆえにチームメイトの中では、仁のことを最も嫌っている』 と、書いてあった。 「てめえ、きのうも休みやがって……こんな土壇場にきていったいどういうつもりなんだよ」 角ばった頬が横に張り出し、太い眉毛と共に、いかにも強情そうな顔を形作っている。 「ご、ごめんなさい、ちょっと熱があったから」 ――こ、こわ……っつうか、なんであたしが怒られなきゃなんないのよ―― 「俺は三十九度の熱が出た日も練習はやったぞ」 ――そんなのあんたの勝手じゃん―― 元々鬼のような顔が、恐ろしく強い眼光で麗華を見下ろし、それは普通の女の子ではとても我慢できない恐さだった。 つまり普通の女の子である麗華は「だ、だからごめんって……」とつぶやきながら涙が出てきてしまうのだった。 「て、てめえ、なんで泣いてやがんだ、男のくせに」 「だ、だって……」 これは八郎にとって、かなり想定外だったようで、でかい毛虫のような眉尻が八郎の名前の八の字のように下がるのだった。 「ちょっと、いい加減にしなさいよ」 そこへ美琉久がものすごい剣幕で、八郎に咬みついた。 こんな時の美琉久の性格の悪さは、頼もしかった。 「あんたみたいなその他大勢の雑魚とわたしのジンとは、もともと持ってる才能が違うのよ、雑魚は一人で壁でも相手にボール投げてりゃいいの」 ――わ、わたしのジン?―― 「こ、このアマ」 八郎は美琉久をにらんだが、美琉久はまったくひるまない。 「そんな狛犬みたいな顔で、つきっきりでグズグズ言われたんじゃ、せっかくのフォアグラが不味くなるわ、もう、気がすんだでしょ?あっち行け、シッシッ」 八郎は大きく舌打ちしたが、日頃からよほど美琉久にやり込められているらしく、それ以上逆らおうとはせず麗華をにらんで、 「とにかく、これで明日の本番で無様なことやりやがったら承知しねえからな」 と捨て台詞を吐いて、去って行くのだった。 「ああいやだ、練習なんて凡人が集まってやってりゃいいのよ」 美琉久は容赦せず、その背中にぶつけるように叫ぶのだった。 その八郎の背中とすれ違いざまに八郎の肩を叩いて、彼より頭一つ分も背の高い、真っ黒な顔の男子がにこにこ笑いながら近づいてきた。 ――高橋エンリケ・マコト―― 『ブラジル系のクォーターで、バカ力がある。性格はラテン系で陽気すぎるくらい明るく、わが道を行くから仁のことも全然気にしていないらしい、短所は女好きなところ』 フィリップの名簿にはそう書いてあった。 つまり、良くも悪くも、頭の中からっぽ、ということか。 「ウイース、またきてるね別嬪さん」 エンリケはくるなり美琉久の肩を抱いてにこにこ笑った。 わざわざ近づいてきた目的は、これなんだろうと麗華は思った。 「こんにちはマコちゃん」 美琉久は満面の笑顔とは裏腹に、その腕を振りほどく。 「心配してたんだよミルクちゃん、きのう君の学校で変な事件があっただろ?」 ――変な事件って……人ごとだと思って―― たしかに、この学校の連中からしてみれば、人ごとと言えば人ごとである。 「だから今日はミルクちゃん、こないんじゃないかと思って」 ――そっちの心配かよ―― 「確かに悲しい事件だったけど、でも……」 美琉久は、一瞬で泣きそうな顔をしたかと思うと、 「ジンの試合はもう明日なんだし、なんだかじっとしていられなくて」 と次の瞬間にはきりりと表情を引き締めた。 まるで美琉久の方が悲劇のヒロインのようである。 その三文芝居を見ていて、麗華はひどくやるせない怒りがこみ上げてきた。 自分の死に対してこれ以上の侮辱はなかった。 まだ面白可笑しく茶化してくれた方がマシである。 「じゃあ、試合が終わったらもうきてくれないのかい?」 エンリケの指先が、美琉久の前髪を優しくかき上げる。 「まさか、くるに決まってるでしょう」 美琉久の憂いを帯びた眼差しが、長身のエンリケを見上げた。 美男美女同士、確かに絵になるのだが。 ――こいつら、なにやってんのよ、人の食事中に、っつうかミルクはジンに用事があったんじゃねえのかよ――
――はあ……―― 二、三歩歩く毎にため息が出た。 麗華はそれでも、亀のように遅い足を部室に向けて歩くのだった。 ――冗談じゃないわ―― 八郎は『最も仁を嫌っている』と、フィリップの名簿には書いてあった。 つまり、あの怒りようはやや極端な例外と考えていいのだろうか。 だが、あれがチームメイトたちの正直な気持ちの代弁なのだろう。 もしも野球部の三年生全員が、あんな風に自分を責め立ててきたらどうしようか。 ――逃げよう、その場で―― 麗華はあっさりと、そう割り切った。 もともと仁とはただ単に「元カレ・元カノ」というだけの間柄なのである。 しかも「つき合っている」などというのは形の上だけで、野球で忙しかった仁とはなに一つ彼氏・彼女らしいことなどしてきてはいないのだ。 中二の時の修学旅行の際、告白されたというだけで、ほとんどデートらしいこともしなかった。 わざわざ麗華が仁の野球の練習が終わるまで待っていて、ただ家まで一緒に帰る、というていどの「彼女」だったのだ。 いや、そもそも「野球で忙しい」などというのも、あの美琉久の調子づきようを見ていると怪しいものだ。 どうせ自分も、大勢の中の一人にすぎなかったのだろう。 考えているうちに、だんだん腹が立ってきた。 下手に形式だけ「告白」などされたものだから、返って他の女子たちの嫉妬を買い、イジメの標的にされた分、とんでもない貧乏くじを引いただけではないか。 高校に入ったらもっとつき合いは遠のいた。 チームメイトのキャッチャーのヤツが、麗華が仁に近づくことを公然と邪魔をし始めたのである。 「三年の夏の大会が終わるまで、野球部員は女人禁制だ」 というのがヤツの言い分だった。 一応もっともと言えばもっともな理屈だが、ただでさえモテモテで、近づく女の子たちがウジ、ボウフラのごとく後から後から湧いて出てくる「彼氏」と口をきくことすら禁じられたら、それは最早「彼女」とは言えなかった。 こうして麗華は、彼女としての実権を剥奪された挙句、そのくせ名目だけの思われ人として、仁のファンどもから嫉妬の的にだけはされるという、人身御供になりさがったのだった。 悩みぬいた挙句、思い切って別れ話を持ちかけた時。 仁は「えっ?」と目を丸くした。 「俺、他に彼女つくる気ないし、気が変わったらまた付き合ってくれないかな」 そう言ってくれた。 ちょっと救われた感じがした。 だが。 今思えば、妙にあっさりしすぎてもいた。 実のところ、あの時の仁がどんな顔でそう言ったのかは思い出せない。 というより、涙で霞んで見えなかったのである。 ――でも、それにしても―― この男(仁)がここまで腐っていたとは。 麗華は歩きながら、悔しさのあまり奥歯をギリギリと鳴らした。 女の子にはあんなに優しかった仁に、こんなとんでもない裏の顔があったとは。 あの、異様な「呪いのセット」といい、高校生とは思えない歪んだフェティシズムのはけ口といい。 男社会での嫌われっぷりといい。 ――人間のクズじゃない―― こんな男のために自分は死んだのか。 そう思うと、情けなくなってくるのだった。 麗華の自殺の原因は一つではなかった。 一つには、子供に無関心な自分の両親への無言の抗議。 もう一つは、美琉久一味の執拗な嫌がらせに対する、間接的な復習。 そして、麗華が仁に近づくことを禁じた、仁のキャッチャー大江戸大鉄への当てつけ。 だが、最大の動機は。 自分が死んで身を引くことで、輝かしい未来が待っているであろう仁を自由にしてあげよう、という、美しい大儀ためだったのだ。 ――ほんとうの愛というのは、貰うものでも奪うものでもない。「与える」ものなのよ―― それは『愛のために死を選ぶ』という究極の美学だった。 それは麗華の、美琉久や大鉄や、そして仁本人に対する最後の矜持だった。 そしてそれは、愛に殉じる女神のような、広く深い母性だった――というか、麗華も確かに自分で自分に酔い痴れる悪い癖があるのだろうが――。 ともあれ、今となっては、それらは全て無意味だった。 完全に犬死だ。 結果、あの美琉久を余計に調子に乗せ、仁という天才投手の仮面を被った変態を、今まで以上に放埓に野に放っただけではないか。 その上自分がなぜ、この期に及んでこのバカ男に成り代わって汚れ役をやらなければならないのか。 ――やっぱり逃げよう、まだ霊界で木になった方がましよ―― 「自殺にしては、やや安易な動機だが……」 フィリップの皮肉を込めた嘲笑が、頭をよぎる。 確かに他人から見れば安易だったのかも知れない。 だが、今でも死んだこと自体は後悔していない。 ここまで変人やゴミクズみたいな人間に囲まれたら、誰だって一度や二度は本気で死ぬことを考えるだろう。 ――はあ……―― 麗華はまた、ため息をついた。 最大の問題は、自分が「霊界の法に触れる」などと、思いも寄らない地雷を踏んでしまったことだ。 ――さっさとジンの魂を連れてきてよ―― 麗華は頭の中のフィリップをにらみつけて抗議した。 ――だいたいあたしは仁としてただ「生きて」いればいいんだし、野球なんてする必要ないじゃん、仁だってギリギリになって悪魔にすがりつくくらいだったら、普段からもっと練習しろってのよ。そうよあたしには関係ないじゃん―― やっぱりヤバくなったら逃げよう。 そう考えると、少しは気持ちが軽くなった。 ふと、校舎脇の角の所で一度足を止め、建物の陰から部室を窺う。 先ほどから、ゆっくり歩いていたのには理由があった。 昨日まで女の子だった麗華にとって、洞窟のように薄暗い部室で、他の部員と一緒に着替えるのが恥ずかしく、できるだけ時間をずらそうとわざと遅れてきたのだ。 二十メートルほど先にある部室からは、蜂の巣箱から飛び立つ働き蜂ように後から後から、思春期の男たちが吐き出されて行った。 ――そろそろいいかな―― 恐る恐る入って行くと、まだ中に二人いた。 「こ……こんにちは……」 麗華が挨拶をすると、二人とも弾かれたように「気をつけ」の姿勢になり「こっ、こんちわーっす」と声を裏返して最敬礼をした。 二人ともフィリップの名簿にも載っていなかったし、様子からして、恐らく下級生なのだろう。 鬼気迫る勢いで、素早く着替えを済ませ、 「お先に失礼します」 と、大慌てで飛び出して行った。 ――なるほど、下級生からはずいぶんと恐れられているみたいね―― 今さら驚くことではなかった。 だが、次の瞬間、ドアが勢い良く開き、こんどは麗華が弾かれたようになってしまった。 「こんにちは」 麗華が挨拶をすると、相手はいかにも怪訝そうに麗華の顔を覗き込んできた。 ――しまった、この人誰だっけ、名前忘れちゃった―― 「なんだよお前、女の子みたいな挨拶して」 彼はそう言うと声をあげて笑ったのだが、その空々しい空笑いはいかにも不自然で、目も笑っていなかった。 その上彼は、湿気を帯びたような目で息を弾ませ近寄ってきたのである。 「おいおい、男どうしでなに恥ずかしがってんだよ」 と、麗華の肩に手を置き、顔を近づけてくる。 ――思い出した、遠藤盛遠って子だ―― 遠藤盛遠。 『人知れずゲイであることを悩んでいるが、卒業を前にして、そろそろ本人はそのことをカミングアウトするきっかけを狙っている。本人は真剣なだけに、ある意味最も要注意』 「……」 ――どうしてあたしってこう、運が悪いんだろう―― 麗華は、思わず身をよじって、肩に触れる生温かい手から逃れた。 すると。 「な、なんだよお前、ナヨナヨして、ははは、変なヤツだな、ははは」 と、逆に遠藤の方が妙に緊張している感じだった。 ――やばい、このシチュエーションは、やばい―― だが。 ――しまった、ユニフォームの着かたがわからない―― そもそも野球のユニフォームというのは、他の競技のジャージとは全く違い、門外漢にとってはひどく面倒なものなのだ。 仕方なく遠藤が着替えるのを、そっと盗み見ると。 「な、なに見てるんだよ、お前」 遠藤もそっと、こちらを見ていた。 グラウンドではすでに、ほとんどの部員が各々練習前のストレッチやキャッチボールをして体をほぐしていた。 「いよっ、お休みの翌日は社長出勤かい?」 八郎とキャッチボールをしている小柄な男が、口の端で笑いながら声をかけてくる。 皮肉屋の牛若小次郎という男だ。 小次郎の声につられて八郎が振り返るが、目の端で一にらみしただけでなにも言わず、すぐに前を向いてしまった。 他の三年生は、こちらを見向きもしなかった。 エンリケは一人、でかい体で上機嫌にサンバのステップを踊っている。 下級生は大声で挨拶して、最敬礼をしてくるが皆一様に麗華と目を合わそうとせず、こちらが声をかける前にできるだけ遠くに逃げようとばかりに離れて行くのだった。 「熱が出たんだって?」 急に後ろから声をかけられ、驚いて振り向くと、そこにはあの、大江戸大鉄が立っていた。 「え……?」 大江戸大鉄。 沢谷香高校野球部のキャッチャーにして主将、そして仁と麗華を引き裂いた、直接の張本人だ。 「大丈夫なのか?」 切れ長に釣りあがった目が、心配そうに麗華を覗き込んでそう聞いてきた。 ――この目、大嫌い―― 「え?ああ、うん」 ――お願いだから、あんただけは話しかけてこないで―― 麗華としてはこれ以上チームメイトから嫌われたくなかったが、この大鉄だけは別だった。 あまりにも大嫌いだったので、フィリップの名簿のプロフィールも読む気になれなかったくらいだ。 「ランニング、できるか?」 「ええっ?」 ――だから、熱があるって言ってるでしょう―― どうせ仮病で休んだことくらいはバレているのだろうが、どちらにせよこの男と行動を共にする気にはなれなかった。 すると大鉄は麗華の耳に顔を寄せてきて、「きのう彼女、自殺したんだってな」 と耳打ちをした。 麗華は少し驚いて「えっ?」と大鉄の顔を見た。 「それで練習休んだんだろ?きのうは」 大鉄は神妙な顔で、真っ直ぐ麗華の目を見て言った。 ――ふうん……この男でもこんな顔するんだ―― 麗華は、何度か大鉄と直接話したことがあった。 高校一年の秋のころだったと思うが、「もう仁には近づかないでくれ」と言った時の大鉄の顔は無機的で、まるで石でできているのかと思うほど人間性が感じられなかったものだ。 そんな野球ロボットのような男に、こんな悲しげな顔をする感情があることに麗華は少し驚いたが。 「あんたには関係ないでしょ」 と、突き放した。 大鉄は首の後ろを手で揉みながら、 「ちょっと走りながら話そうか」 と虚ろな目で誘ってきた。 ――嫌よ、あんたと話すことなんかないわ―― そう喉もとまで出かかったが、麗華は渋々後をついて走った。 このチームメイトの雰囲気の中に、一人でいるのも嫌だったのだ。 しばらく二人で無言のまま、ゆっくりとグラウンドを回った。 「俺もやりすぎたと思ってる、反省してるよ」 大鉄が空を見上げながら、独り言のように言った。 ――反省するくらいなら、最初からするなよ、女人禁制なんて時代錯誤もいいとこだわ―― 「お前の生活の荒れ方が、あまりにもひどかったから……」 ――そ、それは解る、大いに解る―― 「でも、かわいそうだったな、あの姫野って子」 「かわいそう?」 ――ほんとにそう思ってんの?―― 「あの子だけは、他の子たちと違ってほんとに真剣だったみたいだからな、だから余計に俺もきつい言い方をしちまった」 大鉄の絞り出すような声には、確かにこの男なりの誠意がこもっていることは麗華にもわかった。 だが中途半端な同情は逆に麗華の神経を尖らせるのだった。 「そう、確かにかわいそうだった」 麗華の心から無数に突き出ていた棘が、一斉にゆっくりと蠢きだした。 今までそれらは両親や美琉久にも向けられていたものだったが、大鉄に向いている棘に一本、また一本、と吸収され、どんどん大きくなって、巨大な一本の槍のようになっていく。 麗華はそれで大鉄を一突きしてやりたい衝動に駆られるのだった。 「あんたが殺したようなもんだよ」 無意識のうちにそんな言葉が口をついて出ているのだった。 さすがに大鉄も堪えたのか、一度立ち止まってしまった。 だが麗華がそのまま走り続けたので、後を追ってくるのだった。 「恨むなら恨んでくれていいさ……いくらでも恨んでくれ」 「恨むよ」 今さらなんだというのだ。 「でもな、誰かが鬼にならなくちゃ、野球部なんて集団はまとまらねえんだよ、すぐにバラバラになっちまうんだ」 言いながら大鉄の目は力を取り戻し、輝いてくる。 「だからなんだってのよ?」 「俺は主将として無理やりでもそれをまとめなくちゃならなかったんだ……そうやってこの三年間、俺もみんなも死に物狂いでやってきた、お前にとっては遊び半分だったかもしれないけど、みんなお前がいれば甲子園に出られると、本気で思っていたんだよ、みんなお前のワンマンチームと言われたくなかったから……」 「そんなこと、俺には関係ないわ、みんな自分のことばっか考えて……」 ――パパもママもミルクもあんたも、みんなしてあたしをこの世から追い出しだんじゃない……みんなみんなって、野球部だってみんなあたしのこと嫌ってんじゃない―― 麗華は言っていて涙があふれてくるのだった。 「だからお前も自分のこと考えろよ、もっと本気で将来のこととか」 「将来ってなに?」 「お前ならプロにだってなれるんだぞ」 「バッカじゃないの?所詮ボール遊びじゃないの、それが人の死よりも重いっての?」 ――死んだあたしには将来なんてないのよ―― 「おい、お前らなにやってんだ?」 突然後ろから怒鳴られて、二人は飛び上がって振り向いた。 そこには麗華たちと同じユニフォームを着て、薄い茶色のサングラスをかけた体格のよい中年の男が立っていた。 「監督」 と大鉄が言った。 二人ともいつの間にか立ち止まって言い合いをしていたのだった。 「藤村、もう体は大丈夫なのか?」 監督はあきらかに、視線に侮蔑を込めてそう聞いてきた。 「は、はい」 麗華は雰囲気的にそう応えるしかなかった。 「今日は軽い練習でいい、三十球でいいからフォームを確認しながら投げろ」 と、大鉄にも目配せしながら言った。
――結局こいつと組まされてんじゃん―― バッテリーなのだから当たり前なのだが、麗華は渋々、ブルペンのマウンドに立ち、大鉄と向かい合った。 ――……たしか、こんな風にして投げてたのよねジンは―― ふりかぶって。 足を上げて……。 ――あれ?どうしたんだろう、投げられない―― 「お前、なにやってんだ?」 大鉄が疲れ果てたような足取りで、駆け寄ってきて麗華をにらんだ。 「ふざけるのもいい加減にしろよ」 「ご、ごめん、まだ、体がだるくて」 ――なんであたしが謝ってんのよ―― 大鉄は大きくため息をついて、 「お前が腹を立てているのはよく解った、でもな、それと練習は別だろ?」 と、今度は哀願するような目で麗華を見てくる。 「え?だ、だから体の調子が……」 「そんなに練習したくねえなら今日はもういいから、たのむから明日は真剣に投げてくれよ、な?」 大鉄はそう言うと麗華の返事を待たず「おおい、遠藤」と盛遠を呼んだ。 「お前も軽く投げとけよ」 遠藤は普段ライトを守っているが、リリーフピッチャーでもあるのだった。 遠藤は何故か麗華に微笑みかけウインクしてきた。 ――な、なに?―― そして、ふりかぶって、投げた。 「ああ!」 わかった。 ウインクの意味ではない。 ――上げる足が反対だったんだ―― ピッチングフォームになっていなかったのだ。 ウインクの意味も薄々解ったが、そっちは無視した。
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