藤村仁の家は麗華の学校から、数キロほど南にあった。 二階建ての、同じようなかっこうをした建売住宅が幾つか並んでいる、一番東の端で、二階の東側が仁の部屋だとフィリップは案内してくれた。 初めて入る仁の部屋だ。 付き合っていたはずなのに、初めてだ。 麗華に今心臓があるなら、さぞドキドキしていたことだろう。 同い年の男の子の部屋自体初めてだった。 だが、そんな気分もほんの一瞬だった。 フィリップの後に従って、屋根から直接仁の部屋に入る。 実体のない麗華とフィリップは、屋根も天井の板もまったく関係なく素通りできた。 六畳ほどのフローリングの部屋の中央に、仁がうつ伏せに倒れている姿は、麗華を一瞬フリーズさせた。 「ジン、ねえ、ジンってば……」 「むだだよ、もう死んでる」 「そんな……こんなに綺麗なのに、なんだか眠ってるみたいなのに」 「そういう君だって、もう死んでるんだがね」 「そう……そう、だった」 フィリップににべもなくそう言われて、麗華も初めて自分の死を自覚すると、なんだか涙があふれてきた。 倒れている仁の下には、大きな紙に描かれた魔方陣のようなものが敷かれている。 仁はそれを覆い隠すように倒れたらしかった。 「いったい、いつ死んだの?」 麗華はしゃくり上げながら聞いた。 「ついさっき、君が飛び降りたのと同時くらいかな、空が一度真っ暗になっただろ?」 「よく憶えてないけど……」 「あの時に、悪魔が蘇ったわけだ、正確には死んだのではなくて、魂を抜き取られたわけだが……」 「どうしてそんなことになったのよ?」 麗華が聞くとフィリップは麗華に掌を向け、 「急ごう、少しでも早い方がいい」 とさえぎった。 体育会系特有のド派手な半パンのジャージとTシャツから出ている腕や首は、本来なら野球部にありがちな部分焼けで真っ黒のはずなのに、すでに蒼白になっていて、死後硬直が始まっていることを示していた。 フィリップは無造作に仁の下の魔方陣を引っ張り出すと、手品師のようにそれを一振りして燃やしてしまった。 「こんなのがあると、間違ってまた変なのを召(よ)んでしまいかねないからね」 麗華を仁の隣に座らせ、なにやら口の中でもごもごとアラビア語だかヘブライ語だかの呪文をひとしきり呟き、最後に気合とともに「カーマハ・キマグレッ!」と叫んだところで、麗華は気を失ってしまうのだった。 再び目を覚ました時には、麗華は仁の体に入っていて、相変わらず床の上にうつ伏せに倒れている状態だった。 ――あれ?なにが起こったの?―― 「あ……う……」 ――なに?動けない―― 「動かない方がいいよ、少し体が冷えていたようだから、血が流れて温まるまで時間がかかりそうだ」 「え……?」 「説明するからそのままの状態で聞きなさい」 「あ……い……」 「今の時代の人間たちは、スポーツという体を動かす娯楽を楽しんでいるようだが、これは紀元前九世紀あたりのオリンピュアの大祭に起源をみることができようかな、ともかく君のボーイフレンドはその中の野球というボールを使った種目をやっていたようだね」 「え?」 ――そ、そのレベルから説明するの?―― 「ん?ああ失礼、もっと噛み砕いて説明しようか」 フィリップはそう言って笑ったようだったが、うつ伏せの麗華に彼の顔は見えなかった。 ここで余談だが、仁に憑依した麗華をどちらの名前で呼ぶか、作者も正直さんざん悩んだのだが、以降は一応「麗華」で統一することにしよう。 「その野球というスポーツの高校生の大会が明後日、つまり七月十日から始まるらしいのだが、仁君は大会の直前にきてプレッシャーのあまり、悪魔に魂を売る契約を結んでしまったのだよ」 「えええっ?」 「すなわち『魂を売るから試合を全て勝たせてくれ』とでも契約したんじゃないかな」 ――いくら緊張してたからって、そんなマニアックなことしなくても……―― 「いやいや、彼はもともとカルト趣味があったようだ……」 「うそでしょ?ジンにそんな趣味があるなんて!」 麗華は血相を変えて飛び起き、部屋の中を物色した。 「こらこら、いかんな他人の部屋をそんなにひっかき回しては」 「いいの!あたしにはその権利くらいあるでしょ?これでも一応元カノなんだし、何日かジンに代わってあげるんだし、どっち道ここで何日か暮らすんだし……」 ――そうはいっても。ごめんねジン―― 一度は彼氏と呼んだ間柄である。 さわやかな笑顔と、抜群のルックスで、誰にでも優しかった仁のタンスや机の引き出しを、疑いの目でいじくり回すのは、麗華にとっても良心の呵責に堪えなかったのであった。 だが結果。 呪いの藁人形セット。 呪いの白魔術セット。 呪いのジプシー魔術セット。 「な、なんでこんなに『呪う』のが好きなのよ」 さすがに麗華が悲鳴をあげると、 「ずいぶんとディープな趣味を持っていたようだね」 と、フィリップがまるで殺人事件の現場検証をしているベテランの刑事のように、無感動にこたえた。 おまけに。 ロリータ・SM趣味のエロ本多数、ロリータ・SM趣味のDVD多数、ロリータ・SM趣味のブルーレイ多数。 ――なにもブルーレイで見なくたって―― 「パソコンと携帯もみてみるかね?」 「も……もう、いい……」 パソコンと携帯ともなると、もっと「黒い」趣味が見つかりそうだった。 ――き、きめえ。こいつきめえ―― 麗華は下半身の力が抜け、とうとう座り込んでしまうのだった。 「ま、まあ、『呪いのセット』はともかく、それ以外のオモチャだったら、今時の男はだいたいこんなもんだがね」 「そんなはずないわ、あんなさわやかだったジンが、まさか……」 麗華の心の中で、「ドヨーン」という音が響いた。 「人というのはわからないものだね」 フィリップがまるで他人事のように、DVDのケースをつまみ上げ、亀甲縛りに縛られた少女の写真をあれこれ見ながら、「ところで」と続けた。 「話は本題に戻るが……大抵、人間の行う召喚などというのは大部分がお遊びで、なにも出てこないのが普通であるし、相当の修行を積んだ専門家がやったとしても、使い魔ていどの小者を呼び出すのが精一杯なんだが。仁君の場合、どんな方法で呼び出したかは知らんが、とんでもない大物の悪魔を呼び出してしまったようだ」 「どうしてそんなことわかるの?」 「小者の悪魔というやつは知能もそれなりで、召喚された後も、人間のいうなりになったり逆にエサにつられて騙されたりするものなんだ。だが強力なやつほど知能は高く、プライドも高いから、人間のいうことなどバカにして聞かないものだ。だから『魂を売る』などの契約など無視して、いきなり仁君の魂をさらって行ったんだよ」 「それで、さらってどうするの?」 「食べるわけだね、これが」 フィリップは真顔で麗華をじっと見て言った。 「そ、そんな」 麗華はさすがに体が震えた。 フィリップはさらに追い討ちをかけるように言った。 「食べる……つまり魂がなくなる、というわけだから、もう人間に転生することもできないということだ」 「あたしはどうしたらいいの?」 「君はそのまま仁君として、普通に生活していてくれればいい。仁君の魂は私が取り返してくるよ」 フィリップの話を聞いて麗華は「そんな」と、頼りなげにつぶやいた。 「『普通に生活する』っていわれても、ジンって本気で甲子園とかプロ野球目指してるピッチャーなのよ。しかも、もうすぐ夏の大会が始まるのよ、あたしはどうすればいいの、とてもジンみたいに投げられるはずないし、ちっとも『普通の生活』じゃないわ」 フィリップは麗華の肩に手を乗せて、じっと目を覗き込みながら言った。 「かわいそうだが君の方は自分でなんとかしてもらうしかない、私の方だって、上級の悪魔と交渉するのは大仕事なんだよ……それに本来、これは君たちにとって大サービスなんだがね」 「大サービスって?」 「本当ならば、我々天使は自殺者や悪魔に魂を売った者に対しては干渉しないのが普通なんだよ、いちいち手を貸していたらきりがないからね。だが、今回のように大物の悪魔が人間の魂を喰って完全に目覚めてしまうのは霊界にとっても看過できない大事件なんだよ。だから君の大罪も帳消しにして、仁君の魂も救ってあげようというのだ」 「でも、それで相手の悪魔って、そんな簡単にジンの魂を返してくれるの?」 「いや、おそらく無理だろうね。対決する準備もしておかないと」 「対決って、戦うの?大丈夫なのそんな歳で?」 フィリップは本気で気分を害したらしく「失敬な」と鋭く言い、 「天使というのは神に仕える戦士でもあるんだよ、まだまだ私だって悪魔の一匹や二匹……」 とムキになった。 麗華は形だけうなずきながら、別のことを考えていた。 ――私はいったい何日ジンと代わってればいいのよ―― その時。 階下から仁を呼ぶ、母親の声が聞こえてくるのだった。 「仁、ごはんよ、早く降りていらっしゃい」 麗華は驚きのあまり心臓が再び止まりそうになったが、かろうじて「はーい」と返事をして、 「ジンのご両親は今回のことなにも知らないのかしら」 と小声でフィリップに聞いた。 「お父さんは仕事だし、お母さんは夕飯の買い物に出かけてたほんのわずかの間のできごとだったからね」 「でも、今日、練習はどうしたの?」 「仁君はよく練習をサボってたらしい」 「え?それ本当」 麗華にとってはそれも初耳だったが、そんなことを気にしているヒマはなかった。 「あたしだってバレないかしら?」 と、麗華は自分の体をながめ回しながら聞いた。 「バレるわけないじゃん」 フィリップは少しイライラした感じで、取り合わなかった。 麗華はちょっとムッとして階段を降りて行った。 母親は不思議そうな顔で、麗華の顔をしげしげと見てから、階段の上を見上げ、 「誰か来てるの?」 と、聞いてきた。 「だ、誰も来てないわ……ないよ……」 「なにか話し声が聞こえたようだけど」 「え、英会話の勉強してたのよ」 母親は「えええっ」と目を丸くした。 「あんたが勉強だなんて、ちょっと熱でもあるんじゃない?」 そう言って、麗華の額を触ってきた。 「だ、大丈夫よ……だよ」 「それに、あんたが私の呼ぶ声に返事をするなんて、小学生の時以来じゃない、ホントに大丈夫なの?どっか悪いんじゃないの」 「えっ?そうだったの?」 ――しまった、早くもピンチ―― 「だ、だからさ、最後の大会ももうすぐでしょ?なんだか、今までの緊張がほぐれて、すっきりしちゃってさ」 すると母親は、「そ、そうなの」と言葉を選ぶように、 「そ、そうね、あんた今まで頑張ってきたもんね、やるべきことは全てやったんだから、そうよ、全てやったのよ」 と、なぜかぎこちなく『やった』という言葉を強調した。 ――だって、この時間にジンが家にいるってことは、練習に出てないのバレバレじゃん、返事のことなんかより、なんでそっちの方を聞いてこないんだろう?―― 麗華は首を捻ったが、キッチンに入った瞬間、それどころではなくなった。 ――うわっ!肉の焼ける臭い―― 麗華は肉が大嫌いだったのだ。 肉の焼ける臭いを嗅いだだけで胃のあたりがむかむかしたが、今度は仁の父親が視界に入ったので、とりあえず平静を装った。 お世辞にも広いとは言えないキッチンに置かれたテーブルの向こうで、父親は新聞で顔を隠すように椅子に座っていた。 挨拶をしようと覗き込んだが、なかなかこっちを向いてくれない。 麗華は仕方なく椅子に腰掛け、さりげなく観察していると、時々チラチラと麗華の方を覗き見ているようだったので、「おかえりなさい」と挨拶してみた。 すると父親は芸人がコントでコケるみたいに、椅子からガタンと落ちそうになり、怯えたような目を麗華に向けるのだった。 掛けていたメガネが、斜めにズレて落ちている。 「え?ああ……た、ただいま……あは、あはははは……」 とってつけたような大きな笑い声がせまいキッチンに響き渡り、それが返ってその後の沈黙を余計に気まずくさせるのだった。 時間にして一分くらいだったのだろうが、かなり長い沈黙に感じられた。 その間父親は終始落ち着かない様子で、そわそわし、自分に弾みをつけるように、コップのビールを一口グイッと呑み、「調子はどうだ?」と、上目づかいに身を乗り出してきた。 「え?うん、まあまあ、かな」 すると父親は、また一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに、いかにも嬉しそうに、 「そうか、まあまあか、はははは……そうかそうか」 と、ただの『まあまあ』をまるで思いがけない吉報を聞いたみたいに大喜びした。 ――なんなのよ、この腫れ物に触るような雰囲気は―― 『まあまあ』がそんなに嬉しいはずはない。 この父親は仁が会話に乗ってきたことが嬉しくて仕方がないんだろうと麗華は理解した。 それは、麗華にも心当たりがあった。 仁とまだ付き合い始めたばかりのころだ。 初めて彼氏ができたことが嬉しくて仕方ないのに、なにを話したらいいのかわからない。 仁のことを大事に思えば思うほど、彼をどう扱ったらいいのかわからない。 「こんなことを言ったら怒らせてしまうんじゃないか」などと余計な心配をしてしまい。 結局、どうでもいいようなことに食いついて、笑うところじゃないのにわざとらしく はしゃいでみせたりするあの感じだ。 「あらあら、お話が弾んでるのね、はい、今日は奮発してステーキよ」 ――弾んでるか?このぎくしゃくした会話が―― 母親の、取ってつけたような言い方と、不自然にトーンの高すぎる明るい声に、麗華は思わず失笑しそうになった。 だが。 ――この家って、いったいいつもはどんな雰囲気で夕飯食べてるのかしら?―― 何日も散歩をさせていなかった犬を久しぶりに連れ出したら、こんな感じで些細なことに大はしゃぎするのではないか。 そんな風に考えると、この不器用で優しい夫婦がひどく憐れに思え、なんだか涙が出そうになってくるのだった。 ――でも、無理、ステーキは、無理―― 麗華はとりわけ牛肉が大嫌いだったのだ。 特にレアの、半生の、あの乳臭い臭いが苦手だった。 「明後日から大会だからな、母さん、今日と明日は奮発するって。今日がステーキで、明日がカツレツ……『テキにカツ』、なんちゃってな、あはははは」 父親が、顔をくしゃくしゃにして笑った。 ――なんか、いい人たちじゃん……あたしん家なんか……―― 大手銀行員の父親と、経営コンサルタントの母親。 父親は大阪の支店に単身赴任中だし。 母親は主に地方の旅館の、経営アドバイザーとしてあちこち飛び回っているため、今は二人ともほとんど家にいない。 プライドが高く、エリート意識むきだしの二人。 夫婦というより、お互いライバルみたいな二人。 おかげでお金に困ることはなかったが、麗華は高校に入ってから、ほとんど一人暮らしだった。 キッチンはこの家よりずっと広かったが、食事はその無駄に広いキッチンで、四人掛けのテーブルで一人、コンビニの弁当を無言でつつく毎日だった。 父親は大阪に愛人がいるらしいのだが、母親は全く気にしていないようだ。 たまに家族三人がそろった時には、高給レストランで食事をするのだが、両親の携帯に代わりばんこに電話がかかってきて、退席する時に「失礼」と言う以外は、ほとんど誰も喋らない。 今日の麗華の自殺でも、すぐに帰って来るかどうかさえわからない二人である。 形はともかく、こんな賑やかな食事は、何年ぶりだろう。 だが。 ――ステーキだけは、ちょっと……―― 幸いなことに、汁物は洋風のスープではなくワカメの味噌汁で、ワカメはごはんのおかずになった。 キュウリとナスの浅漬けもちょうど旬で美味しかったので、そっちばかり食べていると、 「どうしたの?大好きなお肉食べないで」 と、案の定というか、母親が心配そうに聞いてきた。 「いや、あの、別に、ちょっとダイエットしようと思って……」 「そんなんで大丈夫か?試合はあさってなんだから、力つけなきゃ。あさってに向けて肉を漁って、なんてな」 父親は完全に上機嫌で、ビールで真っ赤な顔になっている。 「うん、は、はい……」 ――『テキにカツ』もお父さんのアイディアだったのね、どうでもいいけど―― 麗華は赤身の所を選び、ナイフで一切れ、できるだけ小さく切って、息を止めて(ついでに鼻もつまみたかったが)極力噛まずにそれを呑み下した。 「ふう……うっぷ」 ――やった、食べれた―― 母親は本当に奮発したようで、肉が高級品だったのが幸いし、ほとんど噛まずに飲み込めたのだった。 ふと我に返って回りを見ると、父と母の視線とぶつかった。 二人ともなぜかひどく不安げな顔をしていたが、目が合うと、嬉しそうに微笑むのだった。 「美味いだろ?」 と父親は言った。 「う、うん」 この勢いを駆ってもう一切れ。 こんなに喜ばれるなら、食べないわけにもいかない。 こんどは少し大きめに――と言っても普通サイズくらいに――切ってみた。 大嫌いではあるが、決して肉アレルギーというわけではないのだ。 だが。 「ぐへえ、うげえ……」 ちょっと調子に乗りすぎた。 噛まずに呑み込むには肉が大きすぎて、むせたのである。 血相を変えて、シンクに駆け寄り咳き込む。 おかげで返って、口、喉、鼻の粘膜が全て肉の臭いで満たされ、しかもヒリヒリする。 「大丈夫?」 母親が悲鳴のような声をあげて背中をさすってくれる。 「だ、大丈夫……」 「あんたやっぱり、病院で診てもらった方がいいわ、あんなに大好きなお肉でもどすなんて」 「ほんとに大丈夫……」 ――ちょっとしつこい、でも……―― この感覚。 嫌じゃない。 これは、遠く離れた所に住んでいる祖父や祖母の家に久しぶりに行った時の感覚に似ていた。 このぎこちなさ。 このいささか見当違いな深情け。 そしてこの、あふれるばかりの愛情。 それにしても。 ――ジンのドアホウ、普段いったいどんだけ親に気を遣わせてんだよ――
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