――暑いわ……―― キャッチャーの遠藤が、陽炎のかなたのように遠く見える。 満員のスタンドのどよめきや、ブラスバンドの同じフレーズのくり返しが、催眠術のように麗華の眠気を誘ってくる。 麗華はゆうべ、ほとんど一睡もできなかった。 あれから一時間ほど後、大鉄の両親が迎えにきて、麗華もその車で仁の家まで送ってもらったが、麗華は床に就いてからもあれこれ考えてしまい、眠れなかったのである。 変な連中に襲われたことは、大鉄から堅く口止めされ、大鉄の両親には練習で怪我をしたということで口裏を合わせておいた。 結局大鉄はこの試合にも出ることになったが、キャッチャーはさすがにできず、遠藤とライトのポジションを入れ代わっていた。 大鉄は、試合の前に再び花川口クリニックで痛み止めの注射を打ってもらい、この試合に臨んでいたのである。 そうまでしてでも大鉄を外すことはできなかった。 攻守の要である彼が、グラウンドにいるのといないのとでは、他のメンバーに精神的に与える安心感がまるで違ってしまうのだ。 今のところ薬が効いて、痛みはかなり治まっているようだが、今日の試合に大鉄のバッティングを期待することはできないだろう。 打順も遠藤と入れ代わって六番にさがっていた。 遠藤は三番に入り、三番を打っていた八郎が四番に入っていた。 ――それにしても、よく打つわねこのチーム―― 麗華はすでに足利から、二本のホームランを打たれていた。 向学大先攻の一回表にスリーランを、三回表にソロを打たれ四点を取られていた。 だが、試合は沢高が一点リードしていた。 大鉄の穴を埋めて余るほど、エンリケが原因不明の大爆発をしているのである。 この気まぐれな火山は一回裏に足利と同じくスリーランホームランを打ち、三回に二点タイムリーとなるツーベースを打ち沢高は合わせて五得点をあげていたのだ。 他のメンバーも準決勝の貧打の鬱憤を晴らすようによく打っていたが、やはり大鉄がブレーキだった。 一方麗華も毎回ヒットを打たれながらも、足利以外は要所を抑え四回までなんとか四失点で切り抜けてきたのだが、五回表一番と三番にヒットを打たれ、ワンアウト一・三塁で三度目の足利を迎えていた。 「どうしよう……」 遠藤が陽炎のかなたからやってきて、困り抜いた顔で麗華に聞いてきた。 「仕方ないわ、敬遠しましょう、満塁になっちゃうけど……」 麗華は暑さと疲れにぼやけた頭で、即座に判断した。 玉川もそうだったが、足利のバッティングセンスも、ちょっと異常だった。 その上去年立て続けに凡退させられた屈辱からか、今日の足利はさらに目の色が違う。 また、麗華の疲れ方もひどかった。 昨日の大鉄のマッサージが効いている感覚は確かにあるのだが、そんなことくらいではこの真夏の連投の疲れが完全になくなるはずなどないのだ。 キャッチャーの遠藤が立ち上がると、足利はものすごい目でこちらをにらみつけてきた。 その目には、ありありと軽蔑の色が浮かんでいる。 向学大のベンチと応援席からは、矢で射るような非難の怒声が降ってきた。 ――く、くやしいけど、なんとしてもこの一点を守りきらなくちゃ―― 麗華にはある予感があった。 この試合中にフィリップが、仁の魂を連れてくるような気がしてならないのだ。 フィリップは昨日もこなかった。 理屈から言えばもう、いつきてもおかしくないことになるだろうが、麗華はこの試合がはじまってから、妙な胸騒ぎを感じていた。 魂がなにかを報せている感じだった。 試合中に仁と交代するからには、石にかじりついてでも勝っている状態で、仁に渡したかった。 仁への義理ではなく、仁では当てにならないと麗華は思っているのである。 少しでも沢高に有利な状態で、仁と交代したかった。 「よし」 麗華は思わず声に出していた。 五番をスライダーでサードゴロを打たせ、ホームゲッツーにしとめたのである。 「きのうの鳥羽と比べりゃ打ちごろな球だぜ」 ベンチで牛若がうそぶいた。 確かに牛若もこの試合ではよく打っていた。 今朝の朝刊では、総合力で向学大がやや有利、と書かれており、しかも攻守の主軸である大鉄が負傷していたが、いざはじまってみると沢高はよくやっていた。 なんとしてでも、このまま逃げ切りたかった。 五回裏、この回も遠藤と八郎がヒットを打ち、チャンスでエンリケに回ったが、エンリケは敬遠されてしまった。 六番の大鉄が普通の状態ではないことが、向こうにもばれてしまったようだった。 そしてこの回も、大鉄がブレーキになってしまうのだった。 「みんな、ごめん」 大鉄は心の底からすまなそうな顔をしたが、誰も彼を責める者はいなかった。 顔色が青ざめている。 口には出さないが、徐々に薬の効果がきれてきているようだった。 「大丈夫、一点あれば充分よ」 麗華は胸を絞めつけられるような思いで、精一杯の笑顔で声をかけた。 大鉄のそんな顔を見るのは堪らなかった。 六回は両チームとも三者凡退に終わった。 だが、七回表、再びピンチが訪れた。 ツーアウトから二番と三番に連打され、足利の四度目の打席を迎えてしまったのである。 麗華がうなずくと、遠藤は黙って立ち上がった。 足利の前にランナーが出たら歩かせよう、とあらかじめ決めておいたのだった。 だが第一球目、スタンドが大きくどよめいた。 足利は自分の頭ほどの高さにきたボール球を空振りして見せたのだった。 それもボールを打ちにいったのではなく、ど真ん中の球を打つように、思い切り強振したのだった。 そして、痛烈な抗議と非難の眼差しを麗華に向けた。 「藤村くん、僕は猛烈に残念でならない」 向学大のスタンドは、「勝負しろ」コール一色である。 足利はその呪文のような大合唱を背に、彼らの代表者のように熱弁を振るった。 「僕は悲しいぞ、この一年間僕がどんな思いで過ごしてきたか、君なら解かるはずだ。我が終生のライバルよ、頼むから僕をがっかりさせないでくれたまえ」 「乗せられちゃだめよ」 タイムをとって駆け寄ってきた遠藤が、麗華を諌めた。 その時だった。 麗華が遠藤に「うん」と言おうとしたまさにその時だった。 ついにきてしまったのである。 フィリップが。 遠藤の後ろに立っている。 麗華は息を呑んで、その、麗華以外の人間には決して見えない顔を見つめてフィリップの言葉を待った。 今日のフィリップの顔は傷ひとつなかった。 ――どうやら、うまくいったみたいね……でも……―― こんな時に。 最悪のタイミングだった。 だが、フィリップはにっこりと笑った。 「いや、よかったよかった。気になったんで先に私だけ様子を見にきたんだが、かなりとりこんでいるようだね。こちらは全て上手く運んだよ。後数分で本隊が到着する予定だから、それまでに一段落させておいてくれたまえ。いくらなんでもこんな大観衆の目の前で交代させるわけにもいかないからね」 ――今すぐじゃないだけまだいいんだろうけど、後数分でこのピンチを終わらせろだなんていい気なもんね―― 後数分。 敬遠などしていたら間に合わない可能性が高い。 また、最悪の場合、満塁で仁に交代することになってしまうのだ。 仁の虫けら並みの精神力など、麗華はまるで当てにできなかったが、麗華はフィリップに無言で大きくうなずいて見せた。 麗華の心が一気に弾けたのだった。 フィリップが右手を挙げながら笑顔で姿を消すと、麗華は一度ライトの大鉄に振り向いた。 大鉄は何度もうなずいていた。 正確な事情など知るはずもなかったが、彼なりに「勝負しろ」と言っているようだった。 ――さよなら、大鉄―― 麗華は心の中で別れを告げると、今度はスタンドに座っている仁の両親に向き直り、別れのあいさつをした。 ――さよなら、仁のお父さん、お母さん。いつまでもお元気で―― そして、守備に就いているチームメイト一人一人を見回し、短くお別れの挨拶をし、最後に全員に言葉をかけた。 「みんな、今まで本当にありがとう、今から最後の勝負をするから、しっかり守ってね」 「こっちこそありがとうよ」 真っ先に答えたのは八郎だった。 「お前のおかげでここまでこれたんだ、好きに勝負しろよ」 「そうそう、俺たちゃ一蓮托生ってやつだよ、いつでもお前と心中してやるよ」 牛若がそれに続いた。 麗華の言葉の真意は解からないまでも、皆元気いっぱいの笑顔を返してきた。 「な、なにかあった、みたいね?」 遠藤だけが事情を察して、悲しげな顔になりあたりを見回した。 「さっき、あなたの後ろに例の天使のおじさんが立ってたの、もうすぐ仁を連れてくるって」 「ええっ?」 と驚いて後ろを振り向く遠藤に麗華は「もういないわよ」と笑った。 「メアリーには一番お世話になったわね、本当に感謝してるわ、ありがとう、あたしはもうすぐ仁と代わっちゃうけど、がんばって甲子園に行ってね」 「いいのよ、そんなこと。でも、本当にいいお友だちになれたのに、こんな急に……」 遠藤が両目から涙をこぼすのを麗華は「だめよ」とたしなめた。 「今から投げる球は、目に涙をためていちゃ捕れないわよ、ほら、涙を拭いて、しっかり捕ってね」 「今から投げる球?」 「一つだけ試してみたいボールがあるの」 麗華は遠藤と打ち合わせを終わると、今度は足利に向かって言った。 「足利さん、ボールを振ってくれたお詫びに予告します、今からあたしは二球ストライクを投げます、プロへ行った後もこの男、藤村仁のことをよろしくね」 堂々の宣言を受けた足利の表情が、みるみる嬉しげに引きしまった。 まるで決闘をする前の武士が刀を腰に収めるように、足利はバットを左手で下げ、深々と一礼した。 「心得た、こちらこそよろしくお願い申し上げる」 顔を上げた足利の目はまさに武士のそれだった。 今にも火を噴いて麗華を焼きつくしそうな眼光である。 両者の間の空気が歪む。 ――みんな、今まで本当にありがとう、絶対に勝って甲子園に行ってね―― 麗華の五感がここへきて極度に研ぎ澄まされていく。 目を閉じるとランナーの足音や足利の息づかいが、手に取るように分かった。 ――一塁ランナーはまだ走らない、半信半疑でようすを見ているわ―― 麗華は自分の指先だけに意識を集中し、投げた。 「ば、ばかやろう」 思わず叫んだのは八郎だった。 麗華の投げたボールが、ただの山なりのスローボールにしか見えなかったのだ。 だが、打者の足利は手が出なかった。 思わず呆然と、その小学生以下の遅い球を見送っていた。 足利の手が出なかっただけではない。 キャッチャーの遠藤が捕れなかった。 あらかじめ球種を知っているはずの遠藤が捕球できず、ミットからボールをこぼしていた。 あわててボールを拾って、ランナーを見回す。 だが、一・三塁のランナーも呆然と立ちつくして、動いてはいなかった。 ――なんだ、今の球は?―― 遠藤が捕球できなかったことで、八郎も事の異常さをはじめて知った。 球場全体が静まり返った。 まるで全員が妖術にでもかけられたように、口を開け声も出ない感じだった。 足利はおびえたような顔で麗華を見ていた。 ――こ、これは……この球は……―― 真夏の炎天下だというのに、足利は全身に冷たい汗が流れていた。 「ナックル。じゃねえか?」 麗華の後ろから見ていた牛若が言った。 「ナックル?」 八郎も釣られて復唱していた。 「こっから見ててもボールが揺れてたぜ」 ――ナックル―― ――ナックル……―― 向学大のベンチやスタンドから、ささやく声が聞こえてくる。 ナックルとは、現代の魔球と呼ばれる変化球である。 握り方は親指と小指でボールをはさみ、残りの三本の指をボールに立てて、その指で弾くように投げる。 ほとんど回転を与えられず投げられたボールは、風の抵抗によりまるで氷の上を滑るように、左右に不規則に揺れながら落ちる。 だがこれは、世界中にも数人ていどしか投げられる投手がいないことでも解かるように、極めて難しい変化球なのである。 麗華の常人離れした指先の器用さが、まさに奇跡を起したのだ。 ――これが、最後よ……あたしの、最後の一球―― 麗華が足を上げると、一塁のランナーがスタートを切った。 ――走るのは分かってた、でも無駄よ―― そんなことで麗華の平常心を崩すことはできなかった。 ナックルを投げるには、指先の器用さの他にもう一つ、どんなことがあっても揺るがない平常心が必要だったが、今の麗華の心は月を映す湖のように澄みきっているのだった。 麗華の指に弾き出されたボールが、人を喰ったような山なりの弧を描く。 スピードガンでも計測不能なほどの超スローボールが、風にもてあそばれる羽毛のように大きく、不規則に左右に揺れた。 捕手が捕球できないほどの魔球である。 「く、くっそうっ」 足利が日頃他人には見せたことがないくらいの取り乱しようで、声を裏返し、まるで真剣で斬りつけるようにバットを一閃させた。 だが、すでに羽毛と化した麗華のボールが斬れることはなかった。 「くっ……」 遠藤はやはり捕球できなかった。 ボールを自分の前に落すのが精一杯だった。 ――振りに逃げがあるわ―― 慌ててボールを拾い上げたが、足利は一塁には走っておらず、その場に放心して立ちつくしていた。 「バッターアウト」 遠藤がボールを足利にタッチすると、主審は高らかにそう宣告し、一呼吸おいてスタンドが熱狂的に湧き上がった。 「サンバー」 麗華も思わず叫んでいた。 「なんという……」 足利は天を仰いだ。 「なんという、猛烈な感動だ……こんな僕などとの対決のために、君はこんな途方もない魔球を身につけていたのか、君は本当に我が終生のライバルだよ藤村くん」 足利はそう言ってマウンドを指差したが、そこにはすでに麗華の姿はなかった。 「ナックル……高校生が、ナックル……プロでもほとんど投げねえのに、高校生がナックル?」 ベンチで八郎が目を丸くした。 「いつ練習してたんだよ、そんな高等な変化球?」 牛若も目を輝かせて聞いてきた。 「こないだ入門書で読んだの憶えてただけよ」 麗華が忙しげに答えると八郎が「入門書?」と、よけいに目を丸くした。 「高校生にもなって、入門書?最後の大会だってのに、入門書?」 ――いちいちうるさいわね―― 麗華はそれどころではなかった。 早く人気のない所へ行かなければ。 だが、八郎の興奮は治まらなかった。 「そうか、そういうことか、つまりどんな時にも初心を忘れるな、ってことだよな。よし、俺も初心に帰るぞ、明日から、いや、今この瞬間からニュー八郎の誕生だ、俺は初心に戻るぞ、オウッ!」 「あのな……」 牛若がうんざりした顔で首を振る。 「高校三年生の、最後の大会の決勝戦で言うせりふじゃねえだろ。今さら初心に戻ってどうすんだよ」 ――この二人の掛け合いを聞くのもこれが最後ね―― 麗華は苦笑いしながら、つい足を止めてつかの間それをながめていた。 離れたくなかった。 本当に素晴らしい仲間たちだった。 特に。 ――大鉄……―― 大鉄は本格的に痛みがぶり返してきたのか、ベンチのすみで一人うずくまるように座っている。 その姿に麗華は胸が痛んだ。 一言くらい声をかけたかったが、少しでも言葉を交わしたら、麗華はこの場を離れられなくなることが分かっていた。 ――さよなら、大鉄、さよならみんな。あたしの、とっても長くて短かったロングリリーフはここまで―― 麗華は静かにその場を抜け出して、トイレへと向かった。
トイレのドアを開けると、フィリップたちはすでにそこに立っていた。 ――ジン……―― 麗華は思わず奥歯を鳴らした。 フィリップの後ろに仁が立っているのだ。 トイレにはその他に二人、霊界の護衛の兵士なのか黒いスーツにサングラスをかけた屈強な感じの男が、窓際と入り口の所に立っていた。 「すまなかったね、ずいぶん長いこと待たせてしまって」 フィリップは相変わらず鷹揚な物言いだったが、言葉には誠意がこもっていた。 ――こ、こいつ―― 麗華は仁をにらみつけていた。 仁はまるで悪びれない、斜め上を見上げたまま麗華を見ようともせず、薄笑いを浮かべている。 反省どころか、懲りてもいないようだった。 ――ぶん殴ってやろうか―― 麗華が一歩前に出ると、仁ははじめて麗華に気づいたかのように「ああ、久しぶり」と空々しく笑って見せた。 「ごくろうさんだったね、で、今試合の方はどうなの?」 麗華はこの元カレと改めて言葉を交わして、つくづく思い知らされた気分だった。 悪いのは悪魔じゃない、全ての悪の元凶はこいつだったのだと。 だが一方で、この男のおかげで良い思い出がたくさんできたのも事実であり、それが麗華をかろうじて思いとどまらせているのだった。 「……試合は七回、五対四でうちが勝ってるわ、たった今足利さんを三振させてきたから、あんたが頑張ればもう、あの人まで回らない」 麗華はチクリと皮肉を込めたつもりで説明した。 「なんだよ、四点も取られたのかよ、もっと楽させてくれよ」 仁もたっぷりと嫌味を込めてそう言って笑った。 この男もすでに姫野麗華とはこの世で二度と会わないだろうことを知っていて、全てを承知の上で自分の悪意を隠す必要がないと思っているらしかった。 ――つくづく不幸な男だわ―― 麗華は呆れ返ると、怒るのもバカバカしくなってくるのだった。 「さ、さ、はじめようか、ぐずぐずしてはいられない」 フィリップはそう言うと、二人を近づけ、両手をそれぞれ二人の額にあてがって、例の呪文を唱え「カーマハキマグレッ!」と念じた。 麗華が目を開けると、目の前についさっきまで自分自身だった藤村仁が立っていた。 仁は「あれっ」と回りを見回していた。 「もう、彼には私たちの姿は見えないよ」 フィリップが動物の観察でもするような口調で麗華にささやいた。 「魂だった時の記憶も消えた、代わりにニセモノの記憶を入れておいた。彼は、多少の混乱はするだろうが、今まで自分が投げ抜いてきたと思い込んで試合に戻れるだろう」 仁は首をかしげながら、本当にその場に誰もいないように麗華たちに目をくれずそのまま無言で出て行ってしまった。 仁本人には未練など微塵も感じなかったが、麗華にはその後ろ姿が、ひどく懐かしく思え、なんともいえない寂しい気分でそれを見送るのだった。 ――さよなら、頑張ったあたしの体―― フィリップがひと仕事終えたとばかりに「ふーっ」と息を吐いて護衛の二人に合図をすると、二人組みの黒服は、表情を変えることなく黙って消えていった。 すっかり脱力して自分の肩を叩いているフィリップに、麗華は「ねえ」と話しかけた。 「この試合くらい、最後まで観てっていいでしょ?どうせそんなにすぐ、いい死体なんて出ないんでしょうから」 フィリップは「ええっ?」と困った顔をした。 「ま、まあ確かに、そう言われるとそうなんだが……」 「どうせ後八回と九回だけなんだし、お願いよ。どうしても気になるの」 麗華にしつこく頼まれて、フィリップは渋々承諾するのだった。 「なにやってんのよ、まったく」 麗華はグラウンドを見下ろしながら、一人息巻いていた。 八回の表、仁はツーアウトから七番と八番に連打されたのである。 「魂でいる間は疲れを知らないんだよ、久しぶりにいきなりくたくたに疲れた自分の体に戻ったから、無意識のうちに戸惑っているんだろう」 「そう言えば、それであたしはこんなに元気なのね」 麗華とフィリップは今、バックネット裏のスタンドの最上部に立って観ていた。 仁は苦戦しながらも、なんとか九番をサードゴロに打ち取り、ピンチを逃れたのだった。 麗華は「ふーっ」と息を吐いた。 「後一回、なんとか一点差で勝ってるけど、危なっかしくて観ていられないわ」 向学大の打線相手に、たったの一点差では、ほとんど同点と変わらなかった。 しかも九回の向学大は一番からの好打順である。 向こうは死に物狂いで、四番の足利につなげてくるだろう。 せめてもう一点、なんとしても追加点が欲しかった。 だが八回の裏、沢高は八番の梶原がヒットを打ち一番の牛若がフォアボールを選んだものの、結局花川口が三振に倒れてしまったのである。 ――しかたないわ、こうなりゃ最終回をなんとしてでも三人で終わらせて……―― ところが。 仁はツーアウトから三番にヒットを打たれてしまったのである。 ――な、なにやってんのよ、今の仁じゃ足利さんは抑えられないわ、敬遠よ、敬遠―― 遠藤がマウンドに駆けて行く。 しかし仁は首を振っている。 二人がしばらく言い合っていると、八郎たちも笑いながらマウンドに集まって行った。 彼らは仁のナックルを当てにして安心しているのだ。 だが、遠藤だけが知っているのだ。 今の仁が、さっきまでの仁とは別人ということを。 しかも厄介なことに、当の本人である仁でさえそのことを知らず、前の打席の足利を自分の力で三振させたと思い込んでいるらしいのだ。 結局遠藤が仁をはじめとする他のメンバーに、上手く説明できるはずはなかった。 仁のくだらないプライドと、他の全員の笑顔に押し切られたらしいことが遠目にも見てとれた。 ――まさか、ナックルを投げるつもりじゃないでしょうね?―― 仁が歌舞伎役者のような、格好つけたしなでセットポジションに入るとスタンドは水をうったように静まり返った。 ボールが仁の指を離れる。 皆いっせいに目を凝らしていた。 日本人の投手ではほとんど投げる者がいないこの魔球を、皆一球でも多くその目に焼き付けておきたいのだろう。 ところが、その沈黙はほんの一瞬後には足利の快音に破られてしまうのだった。 足利の打った打球は、レフト上空に高々と舞い上がり、そのままスタンドを超えて場外へと消えて行った。 ――あ、あのドアホウが……―― 仁のナックルが変化するはずがなかった。 それは小学生の投げるボール以下の、ただのスローボールだった。 麗華はフィリップをにらみつけた。 「なんでナックルの記憶まで入れるのよ?」 「いや、そう言われてもね。君の記憶を参考にしたわけだから……」 「も、もうだめだわ……」 麗華は霊体であるにも関わらず、その場にへたり込んでしまった。 ――なんで敬遠しないのよ―― 試合は五対六。 たった一球だった。 麗華が時に屈辱に耐え、時に奇跡まで起して、血のにじむような思いで守り抜いてきた一点のリードがひっくり返された。 いや、自分の頑張りだけならまだいい。 八郎や牛若や、他のチームメイト全員の夢が。 あんな大怪我までして守ってきた大鉄の夢が。 仁などという、下劣な男の、虫けらの排泄物より下衆なプライドに全て踏みにじられたのである。 「……どうしてくれんのよ?」 「そ、そんなこと言われてもな」 「もしこの試合が負けたら、あたしは死んでも死にきれない……」 麗華がそう言って泣き崩れようとした、その時、また快音が聞こえてきた。 ――もう、いい加減にしてよ―― 麗華が顔を上げて打球を目で追うと、打球はライトのファールグラウンドに高々と上がっていた。 ――よかった、ファールだわ―― 麗華が安堵したのもつかの間だった。 「大鉄」 負傷している大鉄が、打球を追いかけて全速力で走っている。 「無理しなくていいのよ、そんなの、追いかけないで……」 麗華はライト方向に打たせた仁を呪いながら、思わずそう口に出していた。 だが、大鉄は走った。 フェンスを気にすることなく、ボールだけを見て走り、フェンス際すれすれに落ちてきたファールフライを見事にキャッチし、そして、フェンスに激突したのである。 「きゃあああっ」 ――どうして大鉄ばかりが、こんなに苦労するのよ―― 審判が駆け寄り、アウトを宣告した。 ボールは大鉄のグローブにしっかりと収まったままだった。 だが、大鉄が起きてこない。 ――まずいわ、かなりまずい……―― 「頭は打たなかったようだが……」 フィリップが遠目にながめながら、呑気につぶやいた。 エンリケが。八郎が。牛若と遠藤が。 皆が心配そうに駆け寄るが、大鉄は動かなかった。 仁だけが、涼しい顔でベンチに引きあげて水を飲んでいた。 麗華とフィリップも大鉄を間近に見下ろせる所に移動した。 大鉄は目を開けていない。 完全に失神しているようだった。 背中の痛みと、その痛みに耐え続けてきた極度の疲労と、そして恐らく腎臓の不具合による脱水。 大鉄の消耗はすでに限界を通り越していたのだろう。 「フィリップ……」 麗華は大鉄に視線を落としたまま、声をかけた。 「だめだよ、それは」 フィリップはにべもなく即答した。 「どうして解かるのよ、あたしまだなにも言っていないのに」 麗華はフィリップをにらんだ。 「彼に憑依させてくれ、と言いたいんだろう。できないことではないが、私は反対だ」 「お願いよ……」 麗華はフィリップに両手を合わせて頭を下げた。 その目は涙であふれている。 「最後のお願い」 「君に許されている転生は、一回だけだ。今やったら君はもう生き返れないよ」 つまり、生き返って大鉄と再会できる唯一ののぞみも完全に消えるということである。 だが麗華は即座に言った。 「いいわ、それでも」 フィリップは冷静に首を振った。 「いいかね、よく考えるんだ。彼がこのまま病院に運ばれても、試合が続行できなくなるわけではない、彼の学校の控えの選手と交代すればいいだけだよ」 「でも、次の回で同点にするには、チャンスで大鉄に回ってくるわ、控えの選手にそんな場面でヒットを打てる子はいないのよ」 最終回の沢高の攻撃は三番の遠藤からの好打順だったが、恐らくチャンスで五番のエンリケに回ったとしても、向学大は間違いなくエンリケを敬遠してくるだろう。 「君が代わっても打てるという保証はないがね」 「そうだけど、でも、自分と交代して出た人が打てなくて試合に負けたと知ったら、彼はどんなに悲しむかしら、例え負けたとしても、彼には少しでも悔いを残して欲しくないの」 麗華は言いながら気持ちを抑えられなくなり、ついに号泣してしまうのだった。 「彼はあたしの身代わりに怪我をさせられたのよ……」 フィリップは大きくため息を吐いた。 「仕方がない、試合が終わったら私と一緒に霊界に行くことになるが、いいんだね?」 「かまわないわ」 フィリップを見てうなずく麗華の目には、強い決意が表れていた。 「彼の体に入った瞬間、君はひどい激痛に襲われることになる。意識を失わないように気を強く持つんだよ、君まで失神しては元も子もないからね」 フィリップはそう言いながら麗華を大鉄の隣に座らせると、二人の額に手のひらを当て、また呪文を唱え「カーマハキマグレ」と言った。 麗華(大鉄)は目を開け背中を押さえながらゆっくりと立ち上がった。 スタンドからは歓声が起こり、雨のような拍手が降ってきた。 「まったく、どうしてそう何度も人間に生まれたがるのか。そもそも人間なんて生きているだけでも辛いもんなんだがね、霊体でいれば痛みも疲れも、悲しみも知らずにすむものを」 運ばれてきたタンカを断わってベンチに向かってゆっくりと歩き出す麗華の後ろ姿を見送りながら、フィリップは独りごちた。 ――痛い、痛い、痛い……想像していたより何倍も痛い。とんでもなく痛い。それに苦しい、寒気もする。かなり熱があるみたいだわ。こんな状態で今まで野球やってたなんて―― やっとの思いでベンチにたどり着き、痛みを気にしながら恐る恐る尻だけを椅子に着けた。 回り中からチームメイトたちが心配そうな顔でなにか話かけてくるが、視界はぼやけ耳鳴りもひどくてほとんど聞き取れない。 麗華は適当にうなずきながら「お水ちょうだい」と言った。 牛若が水と一緒に濡らしたタオルを持ってきてくれたので、麗華は「うーん……」と唸りながらしばらく額と目を冷やすと、目は普通に見えるようになってきた。 その視界に三番の遠藤がサードフライに打ち取られる姿が入ってきたが、今の麗華には落胆する余裕すらなかった。 ――どうしよう、夢中で入ってみたけど、これじゃあバットだって振れないかも―― だが、自分の転生をあきらめてまで大鉄に憑依しておいて代打を頼んだのでは、あまりにも浮かばれなかった。 とにかく少しでも体を休めよう。 たった一振りでいい、バットを振る力が戻ってくれれば。 麗華はふらふらと立ち上がり、水道の蛇口にすがりつくと頭から水を被った。 しばらくそうしていると、少しは楽になったような気がしてくるのだった。 水の流れる音に混じって快音が聞こえた。 振り向くと、八郎がライト前にヒットを打っていた。 これで回ってくる、六番の自分まで。 ――できればここで、エンリケが打ってくれないかな―― 麗華は淡い望みを抱きながらゆっくりと、ネクストバッターズサークルへと向かった。 向学大のキャッチャーが立ち上がっている。 エンリケはやはり敬遠された。 ――やっぱり?こうなりゃあたしがなんとかしなくちゃ、なんとか……―― 麗華は試しに軽くバットを振って「うわっ」と思わずうめき声を上げた。 気が遠くなるほどの痛みが背中と左腕を走り抜けたのだ。 ――や、やっぱりだめ、無理みたい―― 麗華が視線を落としたその時、快音が聞こえ、スタンドから歓声があがった。 「えっ?」 エンリケが敬遠のボールを打ったのだ。 ボールはライトの上空に高々と上がった。 「も、もしかして……入る?」 エンリケの行為は一見無謀なように見えるが、この男なりに大鉄を気づかい、できるだけ自分の番で片をつけたかったのであろうことが麗華にも理解できた。 だが。 「くっそおっ」 エンリケが珍しく感情を露わにして悔しがった。 打球はライトの深くまで飛んだものの、伸びがない。ライトはしばらく全力でバックしたが、さほどの苦もなくその飛球を捕ってしまうのだった。 即座に八郎がタッチアップして二塁にたっした。 皆懸命に最後まであきらめず、全力で戦っていた。 麗華はそれを見ていると胸が詰まって、体が震えてくるのだった。 すると、どういうわけか、体中にまとわり付いていた痛みが薄れ、わずかだが力がみなぎってくるような気がしてきた。 ――大鉄……?―― 大鉄の体が反応している。 意識が完全に途絶えているはずの大鉄が、彼らの全力のプレーに応えているのである。 ――これなら一回くらいはバットを振れるかも―― 大鉄の意識が、すぐ隣にある。 気のせいではない。 温かく優しい大鉄の心が、麗華と一緒に戦ってくれているのだ。 麗華は胸に手を当てて、一度大きく深呼吸した。 落ち着いて、大鉄に教わったバッティングを思い出していた。 「欲張って振り抜こうとするから空振りするんだよ、捕球する時みたいに、バットでボールを捕りにいくような気持ちでボールに合わせればいいんだ……」 ――わかったわ、大鉄、やってみる―― ねらい球は初球。 相手のピッチャーは、この試合最も恐いエンリケを労せずして外野フライに打ち取ったことで、かなり安心しているはずである。 一方、大鉄は先ほどのフェンスへの激突で負傷をしていることは、誰の目にも明らかである。 ――絶対油断してくるはずだわ―― だが勝負は一球きりである。 それ以上は本当に代打を出してもらうしかなかった。 ピッチャーが、投げた。 きた、真ん中寄りの甘い球だ。 ――捕球する気持ちで、ライトを目がけて―― 「えっ?」 バットが軽い。 大鉄が、一緒に振っている。 麗華には確かにそう感じられた。 当った。 ボールはなんと、高々とライトの頭上に上がっていく。 ――バットに当てるだけのつもりだったのに―― 伸びる。打球がどんどん伸びていく。 ――あんまり飛ばないで、ヒットでいいんだから。ライトフライじゃ試合が終わっちゃう―― ライトがフェンスを背にしてこちらを向いた。 ――ま、まさか……?―― 腕をめいっぱい頭上に延ばしてグローブを突き出している。 ――捕らないで、お願いだから―― ボールがわずかに。 ほんのわずかにそのグローブの上をかすめて、フェンスを越えて行った。 「は、入っ……た?」 グラウンドが、かすかに揺れていた。 観客が興奮して踏み鳴らす足音が地響きのように、伝わってきていた。 麗華は痛みを気にしながら、一歩一歩確かめるように足を踏み出し、ダイヤモンドを一周した。 どういうわけか痛みはうそのように消えていた。 ホームを踏むと、先にホームインしていた八郎が狂喜して抱きついてきた。 なぜかベンチからは仁が、こんな時だけ真っ先に駆け寄ってきた。 「いやあ、ごくろうさん。俺の勝利に花を添えてもらって嬉しいよ」 ――こ、このボケナスが、全部お前のせいだ、このヤロウ―― 麗華はついに最後の最後で堪忍袋の緒が切れて、その顔に思い切り張り手を見舞うのだった。 ボコボコにしてやりたかったが、背中と腕の痛みがぶり返し、二発だけ殴るのが精一杯だった。 テレビ中継ではアナウンサーが、 「いやはや手荒い喜びの洗礼ですね」 などと苦笑いしながらいい加減なことを言っていた。 「麗華?麗華なんでしょう?」 何番目かに抱きついてきた遠藤が、目を輝かせて聞いてきた。 「そうよメアリー、よく分かったわね」 「やっぱりそうなのね、なんとなく分かったわ」 その場の全員が喜びのあまり、わけがわからなくなっていた。 麗華と遠藤が大声でこんなやりとりをしても、誰一人まったく気にとめるものはいなかったのである。 「で、でも大鉄はどうしたの、まさか死んじゃったの?」 「大丈夫、気を失ってるだけよ、すぐに目を覚ますわ」 「よかった、そうなんだあ」 遠藤は珍しく少し邪(よこしま)な邪念を見せ、今がチャンスとばかり、大鉄の胸に顔をうずめて人目もはばからず泣きじゃくった。 ――い、痛い。でも、この子には本当にお世話になったんだし、これくらいのサービスはしてあげてもいいかな―― 麗華は痛みで気が遠くなりながらも、しばらく遠藤の好きなようにさせておいた。 ふと気がつくと、二人の隣にフィリップが立っていた。 「気の毒だがそこまでだ、もうすぐ彼が意識を取り戻すよ」 フィリップはそう言って、また例の呪文を唱えはじめたが、麗華は「カーマハ……」という言葉を聞く前に意識を失っていた。 大鉄は立ったまま「うーん」と目を覚ましたように唸った。 「大好き大好き、わたしの大鉄……」 遠藤はなにも知らず、相手が麗華と思い込み胸に顔をうずめて、日頃はとても口にできない想いを言葉にしていた。 「お、お前、なにやってんだよ」 「ええっ」 想い人の豹変ぶりに驚き顔を上げた遠藤は、大鉄の冷めた視線と目が合い、愕然とするのだった。 「あ、いえ、あの、これは……」 「ちょ、ちょっと離れてくれねえかな」 大鉄は目の端でちらりと遠藤を一瞥すると、背中を向けて仲間たちの輪にもみくちゃにされながら離れて行った。
――あら?―― どれくらい時間がたったか、麗華はベッドの上で目を覚ました。 ひどく頭が痛む。 ――どうしたんだろう、霊体に痛みなんか感じないはずなのに―― 麗華は自分にかけられたタオルケットをめくって仰天した。 ――なにこれ?―― 自分はまた、誰かの体に入っている。 しかもこれは大鉄でもない、女の子だった。 どこかの学校の制服を着た女子高生らしかった。 「お目覚めかね?」 背後からフィリップの声が聞こえた。 「どうしたの、これ?」 「見ての通りさ、君は同い年の女子高生に転生したんだよ」 「だ、だって、あたしはもう転生できないんじゃ……」 「まあ、堅いことは言いっこなしだ。今回の件で君にはずいぶんと頑張ってもらったからね、私の独断でやらせてもらったよ」 フィリップは少し疲れたような顔で笑いながら言った。 「ありがとう、なんてお礼を言ったらいいか」 「いやいや、いいんだよ。ただし相手の女の子も私の独断で決めたから、君が気に入るかどうかは保証できないがね」 「そんな、いいのよ、あたしは生きていられるだけで本当に嬉しいわ」 麗華は感激のあまり少し涙ぐみながら部屋を見回した。 「ねえ、ここって、もしかして?」 「そう、君が試合をした野球場の保健室だよ、その子は西島奈緒美という君と同じ町に住んでいる女子高生だ」 「野球場って。じゃあ、あの試合中にこの子は死んだの?」 「そう、ほとんどの人が気づかなかったがね」 「熱射病とかで?」 麗華が妙な胸騒ぎを感じて聞くと、フィリップは哀れむような目をしながら、しっかりと麗華の目を見て答えた。 「お別れの前に君には一応本当のことを教えておこう、彼女、西島奈緒美は君が打ったホームランのボールが頭に当って亡くなったんだよ」 「そんな……」 麗華は蒼白になって言葉に詰まった。 「あたし、そんな子に転生なんてできないわ」 フィリップは大きくため息をついて言った。 「いいかね、よく聞くんだ。彼女にとってはこれも運命だったんだよ。君にとっては辛いだろうが本来人間なんてものは生きているだけで罪深くて、辛く苦しいものなんだよ、自分が幸せになるために、例え不本意でも誰か他人を不幸にしてしまうこともある。君は野球というスポーツでそれをよく学んだはずだが?」 「そ、それは……」 麗華の脳裏に、鳥羽や玉川や足利をはじめ、自分との勝負に敗れて戦いの場から去って行ったライバルたちの顔が浮かんでは消えた。 「君はもう、誰かに道を譲って自殺などしてはいけない、君は今から記憶がなくなるが、譲る者とそれに取って代わる者の両方の記憶をわずかに心のすみに留めて、それを背負って生きて行くんだ。これが私の君に課する行(ぎょう)だ。彼女の分まで真剣に生きて、そして楽しむんだよ、君たちの人生を」 フィリップは珍しく感情の抑揚を言葉に込めて麗華に説いて聞かせた。 「いやよ、あたしそんな風に他人を不幸にして生きたって、ちっとも幸せなんかじゃないわ……え。君たち、って?」 「君は幸せになる、少なくとも私はそう願う」 フィリップがそう言いながら扉を指差した瞬間、その扉が勢いよく開いて、一人のユニフォームを着た若者が真っ青な顔で飛び込んできた。 「えっ?」 麗華は驚きのあまり声も出なかった。 「おっとそこまで、カーマハキマグレッ」 麗華は思わずフィリップに振り向いたが、すでにその姿は見えなくなっていた。 「悪いが約束どおり、君にはたった今から西島奈緒美として生きてもらうよ」 フィリップはそう言葉をかけたが、その声ももう、麗華には届いてはいなかった。 「よかった……ああよかった。気がつかれたんですね?」 若者は心から安堵の表情を浮かべると、思い出したように「痛ててて……」と背中を押さえベッドの脇に這いつくばってしまった。 「あなたこそ大丈夫ですか?フェンスにぶつかったりしてたけど」 西島奈緒美は、まったく思いがけない人物との邂逅(かいこう)に戸惑いながら聞いた。 「俺は大丈夫です、それより、本当にすいませんでした、俺の打った打球があなたの頭に当ってしまったそうで、俺、なんて謝ったらいいか」 奈緒美はクスッと笑った。 「いいんですよ、わたし、よっぽど頑丈にできているのか、意外となんともないみたいなんです……」 二人の若い男女のやりとりを、フィリップは部屋のすみで満足げな笑みを浮かべてながめていた。 「やれやれ、これでこの私もただじゃすまないな。天使の資格を剥奪されて、人間に生まれて修行し直すことになるかも知れん……もしかして、この二人の子供に生まれてきたりして」 フィリップはそこまで言って、クククと含み笑いをした。 「まさかそこまで話はできすぎておるまいて……だが、カーマは気まぐれってことで……」 フィリップは独りうなずきながら踵を返し、部屋のすみに消えて行った。 真夏の風が舞い起す土ぼこりや、観客の捨てて行った紙くずが、保健室の窓に張り巡らされた金網を優しく叩いている。 グラウンドでは整備の作業車のエンジンが、群れからとり残された獣の遠吠えのように、寂しげな唸りを上げていた。 興奮冷めやらぬ観客もすでにほとんどが立ち去って行った。 こうして夏の高校野球の戦いの舞台は甲子園球場へと移り、地方の予選会場はその、年に一度のお祭りの舞台の役目を終え、いつもの静かな球場へと戻って行くのだった。 了
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