コーン! コーン……! 向学大付属高校野球部第二練習場では、不気味な斧の音が響いていた。 「うふ……うふふふ……」 ――嬉しいぞ藤村くん、僕は猛烈に感動しているよ―― 足利が振っているのはバットではなく、斧だった。 打っているのはボールではなく丸太である。 一抱えほどもある太い丸太を、お寺の鐘突き棒のようにロープで吊り下げて、足利はそれを振り子のように揺らして打っているのだった。 ――我が宿命のライバルよ―― ついに明日、試合をすることに決まった。 「うわあっ」 足利は悲鳴をあげて弾け跳んだ。 丸太の勢いが足利の斧だけでなく彼の体ごと跳ね飛ばしたのだ。 「大丈夫か足利?」 後ろで見ていた監督の勅使河原が慌てて駆け寄った。 「試合はもう明日なんだから、それくらいにしておけ。今怪我でもしたらとり返しがつかないだろ」 足利は汗びっしょりの顔で「だめです」と首を振った。 彼の着ているアンダーシャツは、絞ればしたたり落ちそうなほど汗でぐしょぐしょになっている。 「だめなんです、藤村くんはもう去年までの彼じゃない、すでに別人と思った方がいいですよ」 「まあ、確かにインタビューとかじゃあ女言葉で話したりして、人が違ったみたいだったな」 「そんなことじゃありませんよ監督、彼はこの一年間で飛躍的に成長しています、チェンジアップという新しいボールを引っさげて僕の前に現われたんですよ」 ――だから、チェンジアップにこんな特訓意味ないんだって―― 勅使河原はそう思いながらも「そうか」とにっこり微笑んだ。 ――チェンジアップってのは、駆け引きの変化球なんだよ、読み負けさえしなけりゃ、ただの棒球だろうが―― 「だめだだめだ。だめなんだこんなことじゃあ」 足利は首を振って立ち上がると、再び丸太に挑みかかった。 「うわあっ」 そして再び跳ね返されるのだった。 「くそっ、こんなことで藤村くんのチェンジアップが打てるか」 勅使河原は舌打ちをしながら、黙ってそれを見ているしかなかった。 ――そんなに恐けりゃ、最初からチェンジアップを待ってりゃストレートより楽に打てるってんだよ―― 勅使河原が名門、向学大付属高校の監督をするようになって、十年以上になる。 その間、何度も甲子園に行き、プロの道へ進んだ教え子も、両手に余るほどだった。 だが、そんな教え子たちの中でも、この足利の才能はひときわ群を抜いている。 しかもその才能に全く驕ることなく、練習量も桁違いである。 ――これでもう少し頭がよければな―― 勅使河原は足利の汗まみれの背中をながめながら、首を振った。
「ごめんね、すっかり遅くなっちゃって」 麗華は横を歩く大鉄に言った。 バスに乗っていた時から、これで三度同じことを言っていた。 大鉄の話題を、野球のこと以外の話に変えるきっかけをつかみたいのだが、今日の大鉄は珍しく饒舌で、自分たちの試合の後に見てきた向学大付属の試合のことばかり熱っぽく語っていた。 大鉄の家は、仁の家から歩くと一時間ほどかかる。 大鉄はよほど話し相手が欲しいのか、麗華と一緒にバスを降りて、「俺は家まで歩いて帰るから」と言って麗華についてきたのだった。 麗華も今となっては少しでも長い時間を大鉄と一緒にいたかったので、断わらなかったのだ。 マッサージも今日は黙って受けた。 向学大の試合の後、学校にもどって簡単なミーティングが終わると、大鉄に勧められるまま、部室のベッドに横になった。 しかし、いざ二人きりになると、話す話題も見つからず、あれこれ考えているうちに麗華は不覚にも眠ってしまったのである。 あたりはすでに薄暗くなっていて、東の空にはいくつか星が見えはじめている。 大鉄は眠っている麗華を起さずに、毛布をかけて待っていてくれたのだった。 「やっぱ強いな、向学大は……」 大鉄は首を振りながら、先ほどからなんども同じことを言っていた。 試合は十三対二で向学大の圧勝だった。 向学大は典型的な打撃のチームで、今大会ことごとく大量得点による大差で勝ちあがってきだのである。 特に足利を中心とするクリーンナップの破壊力は脅威で、足利はこの試合でも二本のホームランを打っていた。 ――せっかく恥ずかしいの我慢したのに、結局なんにも話せなかった―― 麗華はしゃべり続ける大鉄の横で独り臍を噛んだが、極限まで疲れきっている体はどうしようもなかった。 麗華は歩きながら焦りを感じてきていた。後数分も歩けば仁の家に着いてしまうのだ。 ――もう全部本当のこと言っちゃおうかな―― 「あのさ……」 麗華が大鉄に向かって話しかけようとしたその時だった。 白塗りのベンツが二人の横を通り過ぎて、道を塞ぐように停まった。 型の古い、中古で安く売っているであろう大型のベンツに趣味の悪い装飾をほどこした改造車の窓ガラスは真っ黒で、中は全く見えない。 狭い道のため二人は一度立ち止まるしかなかったが、後ろからも車の排気音が聞こえたので振り向くと、路地の入り口を大きなワンボックスが横付けに塞いでいた。 こちらも窓ガラスは真っ黒である。 ――なんだろう、嫌な感じ……―― 麗華がそう感じた瞬間、二台の車のドアが開き、それぞれの車から二人ずつ、四人の男が出てきたのだった。 「ひゃっ」 思わず麗華は、しゃっくりのように短い悲鳴をあげていた。 全員、年齢はほとんど麗華たちと同じくらい若いが、どう見ても普通じゃなかった。 タンクトップから大木の枝のように出ている筋肉隆々の腕や肩には刺青があり、髪は赤や金色に染め上げてある。 だが、麗華が金縛りのように身を縮こませたのは、そのいでたちよりも、彼らのうちの二人が、手に護身用の警棒や木刀を持っていたためだった。 その二人が、大股で麗華たちに近づいてきたのである。 残りの二人は、見張りのためなのか、前後の車の裏へ回って行った。 「なにか用か?」 大鉄が勇敢に、麗華の前に立ち塞がって、二人の男に聞いた。 「うるせえな、狭え道に二人並んで歩きやがって、お前えらのマナー違反にお仕置きしてやるんだよ」 あきらかに根拠のない言いがかりだったが、男はそう言いながら、暗がりを透かして見るように麗華と大鉄の顔を見比べていた。 「なにか気に障ったんだったら謝るよ、この通りだ、俺たちは明日、大事な試合があるんだ、許してくれ」 大鉄は言いながら最敬礼で頭を下げた。 麗華は震え上がって声も出ない。 「うるせえ、今さら遅えんだよ」 男たちは大鉄に凄んで見せながら、小声でなにか言い合っていた。 「……暗くてどっちだか分かんねえぜ」 「めんどくせえ、両方やっちまおうぜ」 大鉄の耳にそれが聞こえてきた瞬間、 「俺は藤村仁という沢谷香高校のピッチャーだ、明日の試合で投げなくちゃならないんだ、許してくれ」 彼は即座に、そう言っていた。 ――ちょ、ちょっと……―― 麗華が声を出そうとした時には、もう遅かった。 「そうかい」 大鉄の言葉を合図のように、金髪の男が大鉄に向けて木刀を振り回した。 「ぐわっ」 頭を目がけて横薙ぎに振られた木刀を、大鉄はとっさに左腕で受けていた。 「きゃあああっ」 麗華はその時になって、やっと悲鳴を上げることができた。 「おい、後ろのそいつもうるせえ、黙らせろ」 大鉄を叩いた金髪が、もう一人の赤毛に言った。 「待て、こいつはだめだ」 大鉄は、麗華に抱きついて男たちから守ろうとした。 「ぐわっ」 その背中を、男たちの持つ得物が容赦なく打ちつける。 「いやあああっ」 麗華は再び悲鳴を上げた。 その時。 「なんだてめえ、ここは立ち入り禁止じゃこらあ」 ベンツの向こう側で見張りをしていた男の怒鳴る声が聞こえてきた。 「……って、止めねえかこら、止めろ、痛てえ、痛ってえええ!」 続いて、凄んでいたはずの男の悲鳴が聞こえてきて、二人組みの男たちも殴るのを止め、そちらを振り返った。 「エンリケ」 ベンツの陰からひょいと顔を覗かせた巨体を見て、麗華は思わず叫んでいた。 「エ、エンリケ?」 二人組みの男たちは、釣られるようにエンリケの名前を復唱すると、なぜか電気が走ったように、棒立ちになってしまうのだった。 「愛の戦士、エンリケ参上」 エンリケはベンツと塀との狭い隙間を、いかにも窮屈そうに体を捻じ込んで入ってきた。 ベルトのバックルが遠慮なくベンツの窓のあたりをガリガリと擦っているが、エンリケは全く気にしていない様子で、後ろの手では見張りの男が髪の毛をつかまれて引きずられ、じたばたともがいている。 「やっぱり仁の悲鳴だったか」 そう言いながら見張りの男をポイと前に投げ捨てた。 「止めろエンリケ、暴力は止めろ、出場停止に……」 大鉄の言葉が終わらないうちに、金髪の男が「もしかして」とさえぎった。 「も、もしかして、エンリケさんって、あの、暮佐野場二中にいらした、あのエンリケさんのことですか?」 暗くて顔までは分からなかったが、男の声はあきらかに震えていた。 「ワシが男塾塾長、エンリケ誠である」 エンリケは、返事になっているんだかいないんだか意味の解からない口上を、歌舞伎役者のように芝居がかった調子で言った。 その瞬間、大鉄は目を見張った。 二人組みの男たちが、雷で打たれたように弾け飛び、警棒と木刀を投げ捨て、地面にひれ伏したのである。 「も、もしかして……その方たちはお連れさんでしたか?」 「マブダチだよ」 エンリケが天井面で言うと、男たちは笛のように喉を鳴らして息を吸い込んだ。 「すいません、すいません、すいませんでした」 男たちは「スイマセン」と鳴く鳥のように、何度も何度も甲高い声を発して頭を下げた。 「俺ら金で頼まれただけなんス」 「だめだよ、もう頭にきた、許さないよ」 エンリケは哀れむような口調で、男たちを見下ろす。 男たちは「ひいっ」と悲鳴を上げて、地面に額をこすりつけた。 いつの間にか、ワンボックスの裏にいた男も、その中に加わっている。 「エンリケ、馬鹿なまねは止めろ、出場停止になっちまうぞ」 大鉄が、やっとの思いで体を支えながら、再びそう言った。 「俺が手を出さなきゃいいんだろ?」 エンリケは、ちらと大鉄を見てそう言うと「お前ら……」と男たちに向かって一歩踏み出した。 静かに、たった一歩前に出ただけだったが、男たちは「うわあっ」と土下座をしたままカエルのように飛び退き、同じ姿勢で着地した。 「その木刀と警棒で、お前ら同士で殴り合え、俺がいいって言うまで」 エンリケの抑えた口調には、底知れぬほどの憎しみの険がこもっていた。 「止めろ、もういいんだよ」 大鉄が珍しく、怒りの感情をあらわにして、エンリケを怒鳴りつけた。 「お前が手を出さなくても、この場に居合わせてるだけでも問題になっちまうんだよ、あんたたちも、もういいから早くどっかへ行ってくれ、やられた俺がいいって言ってるんだ」 男たちは恐る恐るエンリケと大鉄の顔を見比べている。 特にエンリケの顔色を食い入るように窺っていた。 「……だ、そうだ」 エンリケはため息をつきながら、男たちに声をかけた。 「それならさっさと消えろ、俺が五つ数え終わるまでにいなくなれ」 男たちは恐るべき素早さで、「すいませんでした」と、なんどもくり返しながら車に乗り込み走り去って行った。 男たちが姿を消すと、大鉄は力つきたように「うーっ」と唸って、背中を押さえながらうずくまってしまった。
「へええ、花川口の家って、整形外科のクリニックだったんだあ?」 牛若は待合室を見回して感心していた。 「そうだ、悪いか?」 「いや、悪くはないけどさ」 「僕は卒業したら医大に進んで、ここを継がないといけないのさ、だから甲子園には行くけどプロへは行かない」 「そ、それは正しい選択だね」 「だろ?僕はプロ野球選手より医者にむいているのさ」 「そ、それはどうか分からんけど」 ――それを言うなら医者よりもプロ野球選手には向いてないって言った方がいいんじゃねえか―― 花川口の人柄はともかく、沢高野球部にとっては、とにかく表沙汰になることなく大鉄の治療ができるのは僥倖(ぎょうこう)だった。 待合室は沢高のおもだった部員たちで、ごった返している。 エンリケが大鉄を背負ってここへ転がり込んだことを知った花川口が、連絡したのだった。 麗華はベンチのすみに腰掛けて壁にもたれ、放心している。 遠藤がその隣で、一言二言なにか話しかけていた。 「それにしても、エンリケお前、大活躍だったんだってな?」 牛若は珍しく、ちょっと尊敬の色を目に浮かべてエンリケに振り返った。 エンリケはよほど決まりが悪いのか「がっはっは」と大げさに照れ笑いをして見せた。 「ただのゴリラじゃなかったんだなあ」 牛若は皮肉も忘れなかった。 「でもお前、なんで仁の家の近くにいたんだよ?」 今度は八郎が、エンリケの後ろで首を捻った。 「いやいや、それがだね、中学時代のアミーゴたちから連絡があってね、この何日か、仁の回りで変な動きがあるって、それで仁の家に行ってみたら、まだ帰ってないって言われたんで、バス停と家の間をうろうろしてたんですわ」 「お前、顔が広いんだね、襲ってきたヤンキーもお前のこと知ってたんだって?」 「中学のころ悪いやつを懲らしめてたら、暮佐野場市内じゃ有名人になっちゃってね、そのうち相撲部屋からスカウトがきたりして、よけいにみんなから恐がられちゃってさ、いやいや、有名人は辛いね」 ――前からとんでもないやつだと思ってたけど、そんなに恐いやつだったのか……これからは、こいつとの付き合い方を考えなおそう―― 牛若は顔には出さなかったが、独り心の中で合点合点するのだった。 八郎は「思い出した」と目を開いた。 「そうだ、相撲部屋から誘われた話は、一年の時聞いたことがあったぞ、なんで行かなかったんだよ?そっちの方が金稼げるじゃん野球なんかやるより」 「……」 牛若も「ああ……」とそれに次いだ。 「聞いた聞いた、その話、野球より相撲やってりゃよかったじゃん、お前、相撲なら日本一になってたぞ、全然そっちの方がよかったじゃん、野球なんかより」 二人の話を聞いているエンリケの、眉間に刻まれたしわが見る見る深くなっていく。 「や、野球じゃだめなのかよ?」 八郎と牛若は顔を見合わせて「だって、なあ?」とうなずきあった。 「そもそもお前はチームスポーツに向いてねえよ、自分勝手で」 「そうそう、それに不器用なんだし球技なんて止めときゃよかったんだよ」 「あと、あれだな。集中力が長い時間持続しないんだから。全然だめだよ、相撲だったら個人技だし、十秒くらいで終わるし、とにかく相撲だったら……」 「うるさいな」 エンリケはついにキレた。 「相撲じゃ、チアガールが見れないだろ」 つい本音を言ってしまった。 「お前……」 ――なんちゅう不純な動機なんだ―― 牛若と八郎が呆れて、あんぐりと口を開けた時、診察室の扉が開いて、花川口の父親が出てきた。 「骨は大丈夫だったよ、骨はね……」 父親は頭を掻きながら、言葉を探しているようだった。 「分厚い筋肉のおかげで、骨には傷ひとつついてなかったよ」 「じゃあ、明日の試合は出れるんですよね?」 八郎がすがるように聞いた。 だが父親が残念そうに、 「結論から言うならノーだね」 と答えると、チームメイトたちは「ええっ」とはじめて顔色を変えた。 「だってエンリケの話じゃ、途中まで歩いてこれたって……」 「さすが、よく鍛えてあるね、普通の人じゃあ考えられない」 「そ、そんなにひどいんですか?」 麗華と遠藤が真っ青になって詰め寄った。 「特に背中はね、起立筋の打撲による部分断裂……皮膚の上からでも分かるくらいひどいのが二箇所、若干だが血尿もあるから腎臓にも炎症があるんだろう、一週間は絶対安静だよ」 父親の説明が終わるのを待ちきれず、全員が雪崩のように、診察室に駆け込んだ。 「あんまり話しかけるなよ、麻酔で痛みを止めてあるけど、筋肉は切れてるから」 花川口の父親がため息をつきながら言った。 診察室のベッドで大鉄はうつ伏せに寝ていた。 「お前ら、もっと静にしろよ、待合室の声がこっちまで聞こえてきたぞ」 「なんだよ元気そうじゃん」 大鉄の怪我人とは思えない笑顔に、部員たちは再び安心して軽口を叩きはじめたが、大鉄の体は左の腕から背中、腰にかけて体の半分ほどに包帯が巻かれていて、その姿が麗華にはひどく痛々しく見えるのだった。 「大鉄」 麗華は堪らず大鉄にしがみつくように泣き崩れていた。 「本当だったらあたしがやられるはずだったのに」 あのヤンキーどもは、大鉄がとっさに気転をきかせて「藤村仁」だと名乗ったのを聞いて、襲いかかったのだ。 ――あたしの身代わりに、こんなことになっちゃうなんて―― 「気にすんなよ」 大鉄は笑いながら言葉をかけてきたが、その笑顔はどこか虚ろで苦渋を覗かせていた。 「そういえばあいつらに聞くの忘れちまったな」 エンリケが頭を掻きながら、上から覗き込んだ。 「あいつら、金で雇われた、って言ってたけど、雇ったやつの心当たりあるかい?」 ――こんなことするのは、あいつくらいよ―― 麗華は怒りに頬を震わせた。 心当たりはありすぎるほどあった。 そもそもあのバカ女は仁のことが好きだったはずだ。 それが自分の意に沿わないとなったら、金で人を雇って襲わせるとは、仁をさらった悪魔より卑劣だ。 ――ちっくしょう、ミルクめ―― 「もういいよ」 だが、大鉄は即座に話題を打ち切ってしまった。 「最初からあいつらに目的なんてなかったんだよ、相手構わず手当たり次第に暴れたかったんだろ、たまたまそこに出くわしたのが俺だっただけのことさ、エンリケお前、よけいなことすんなよ、頼むから」 大鉄は横になったまま、正面を見据えてそう念を押した。 例え一方的な被害者であっても、警察沙汰になれば、明日の試合にもなんらかの影響を及ぼすことは目に見えている。 そんなことより大鉄の頭の中は、試合のことでいっぱいなのである。 「当面の問題は、明日の試合……だな」 八郎が自分の首の後ろを揉みながら、大鉄の気持ちを汲み取るようにつぶやいた。 「大丈夫、俺は結構平気だぜ」 大鉄は笑いながら、自分で自分を励ますように言った。 「あんまり長居しちゃ悪いし、あたしたちはそろそろ帰りましょうか?」 遠藤が皆の顔色を窺うように切り出した。 「そ、そうだな」 全員がお互いの顔を見合わせてそう言い合う中、 「ひ、仁は残っててあげなよ、バッテリーなんだから」 遠藤は笑いながら麗華だけを引き留めた。 「え?仁が残るんなら、俺ももう少し……」 名残惜しそうに振り返ろうとする八郎のシャツの背中を、遠藤は強く引っぱった。 「馬鹿ね、少しは気を利かせてあげなさいよ」 「な、なにを、気を利かせるんだよ?」 八郎は不思議そうな顔で遠藤を見て首をかしげた。 「いいから、二人っきりにさせてあげるの」 「だからなんで、男同士で二人っきりにさせるんだよ?」 「いいから、黙って言う通りにしなさいよ」 「お前、女言葉で気持ちの悪いこと言うなよ」 「うるさい、どこが気持ち悪いって?」 しきりに首を捻る八郎だったが、結局遠藤の迫力に押し出されて、渋々と診察室から出て行った。 ――ありがとう、メアリー、本当にありがとう―― 麗華は心の中で何度も遠藤に頭を下げたが、遠慮して辞退する余裕はもう、残されていなかった。 「ごめんね大鉄」 二人きりになると麗華は少しだけ落ち着きを取り戻し、改めて大鉄に謝った。 「だから大丈夫だって、明日の試合だって出られそうだよ、勝って甲子園行こうぜ」 この男にとって、「甲子園」という言葉には魔法の力でもあるのか、みるみる顔が生気を取り戻してくるように麗華には見えた。 「そんなことより、俺の方こそ、今までいろいろとごめんな、お前にいろんな我慢させちまって」 麗華は強く首を振った。 「いいのよ、あたしの方こそ、おかげでいろんな本当のことが分かったわ、この藤村仁って男がどんな人間かよく分かった」 ――そ、それで女になった、って?―― 大鉄の笑顔が一瞬でこわばった。 女遊びを禁止された欲求不満から、自分が女になって、男相手に切り替えた……。 麗華の言葉にはそんな誤解を相手に与える要素が含まれていたが、大鉄は「そうか」と笑って、さりげなく話を元に戻した。 「今さら言うまでもないけど、夏の大会が終わったら、もうお前の好きにしていいよ、遠慮なく彼女つくって付き合いなよ」 だが、麗華は再び首を振った。 「いいのよ、あたしには大鉄がいれば……」 ――だ、だからそういう趣味はないんだって、俺は―― 大鉄は首を捻ろうとして、「痛てて」と顔をしかめた。 しかし麗華は大鉄の困惑にひるんでなどいられなかった。 ややためらいはしたが、強く決心して大きく息を吸い込んでから言った。 「これからあたしが言うことは、深い意味とかは考えなくていいから、話だけは覚えておいて」 麗華が「いい?」と念を押すと、熱意だけは伝わったようで、大鉄も真剣な顔で「うん」とうなずいた。 「あたしはもうすぐ、前の藤村仁に戻るの、あんたもよく知ってる、あの生意気で変人で変態でうじ虫みたいな仁に戻るのよ、でも、その前にあんたに言っておきたいことがあるの」 「う、うん」 大鉄はうなずきながら、ちょっとホッとしていた。 ――よかった、男に戻ってくれるのか……って、それも考えものだけど―― 「今、あんたのことが大好きな女の子が一人いるんだけど、その子はたぶんこれから一生あんたに会えないの、でも、もし、もしも奇跡が起こってあんたに、その子が会えたら……あんたの目の前にその子が現われたら……」 どう考えたってこの言葉の真意が大鉄に伝わるはずなどなかった。 「その時には、その子に優しくしてあげてね」 だが、全てをありのままに話して、大鉄が解かってくれるとも思えない。 麗華は話しながら、もどかしさに涙を抑えられなくなってきた。 「お願いだから、野球のじゃまだなんて、邪険にしないであげてね……」 そこまで言ったところで、麗華はたかぶる感情とこみ上げてくる嗚咽が抑えきれなくなり、後は言葉にならなくなってしまった。 しかし、この泣きながら言った最後の一言だけは、大鉄にもはっきりと理解できたのだった。 「……わかった、約束するよ」 大鉄は不思議そうな顔をしながらも、力強くうなずいて見せるのだった。
話は一時間ほどさかのぼる。 麗華と大鉄が襲われた襲撃事件の場所からそれほど離れていないホームセンターの駐車場に、例のベンツとワンボックスが並んで停まっていた。 「だらしないわね」 ワンボックスの後部座席で、胡桃美琉久は不機嫌にたばこを吹かしながら、男たちに毒づいた。 先ほどの襲撃の一部始終を、その座席からスモークガラスの窓越しに見ていたのである。 まるで物見遊山、高みの見物だった。 麗華がすくみあがり、大鉄が警棒や木刀で打ちのめされる様子を、にやにやと薄笑いを浮かべてながめていたのだが、途中からとんだ邪魔が入った。 「顔、覚えられちまったかな?」 「いや、暗かったから大丈夫だろ?」 「とにかく髪の毛の色は落として、しばらくこの街から出ようぜ」 四人の男たちは美琉久のことなど完全に無視して、自分たちの今後の保身の対策に余念がなかった。 男たちの情けないくらいの狼狽ぶりに、美琉久のいらいらは頂点にたっしていた。 「ちょっとあんたたち、あたしの話を聞きなさいよ、四人もそろって、なんでそんなにビビッてるのよ、あんな馬鹿、ただのスケベなガイジンじゃないの」 「冗談じゃねえ」 金髪の男がうるさそうに助手席から振り返った。 「俺はあいつ……あの人と同じ中学だったんだ。学年は俺らより一コ下だったけど、あいつ、あの人はとんでもねえバケモンだよ、あんなにおっかねえ人はいねえよ」 「このあたりのゴロツキでエンリケさんの名前を知らねえやつはいねえぜ」 赤い髪の男も真っ青になって、首を振った。 「とにかく強ええなんてもんじゃねえんだよ、中学の時にはもう、相撲部屋とヤクザの事務所から誘われてた、って噂だぜ」 「K1の道場からもだよ、その道場から、とりあえず遊びがてら見学にこいって誘われて、ふざけ半分でスパーリングやって、あの人に叩きのめされた相手の選手がこないだテレビの試合でKO勝ちしてたらしいぜ……遊び半分だったにしても、素人の中学生がトップファイターをボコボコにしたんだってよ」 「ふざけないでよ」 麗華は灰皿でたばこをもみ消しながら怒鳴った。 「あたしがいったいいくらあんたたちに払ったと思ってんのよ、こんなことなら返してもらうからね、お金」 「やかましいぜ」 だが男たちの剣幕は、美琉久よりさらに激しかった。 「言われたことはちゃんとやったぜ、ちゃんと相手のやつに怪我させたじゃねえか」 「馬鹿言うんじゃないよ、あれは藤村仁じゃないわ、相手間違えやがって脳無しどもが」 「うるせえこのアマ、こんなやべえ話に俺らを巻き込みやがって、裸にひんむいてここの看板から吊っちまうぞこら」 「ちょ、ちょっと、なによあんたたち、汚い手で触るんじゃないわよ」 「けっ、どうせしばらくこの街にゃいられねえんだ、やっちまおうぜ」 「ちょっと、いや、やめて、きゃあああっ……って、このうじ虫どもがあああ!」 「うわっ、やべえ、こいつスタンガン持ってやがるぜ」 芸は身を助けるというが、性格の悪さも美琉久ほどになると、立派な特技といえるのかも知れない。 彼女はこの一芸が幸いして、虎口を逃れ、裸にされることなく車から蹴り落とされ、その場に置き去りにされただけで助かったのであった。
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