――疲れた……―― 鳥羽は一人、奥のベンチでがっくりとうなだれていた。 六番の遠藤をどうやって打ち取ったのかも憶えていない。 確か、打たれたヒットは、たったの一本だった。 四試合投げて、たったの一本打たれただけだ。 だが、それがホームランなのだった。 ベンチの中では、絶叫に近い怒声が飛び交っている。 皆、バッターに向かって、つべこべともっともらしいことを怒鳴っている。 ――もう、無理だよ―― 今さらしらじらしいことすんじゃねえよ。 打順は一応、一番からの、傍目から見れば好打順だった。 だが。 ――うちに打順は関係ねえぜ―― 俺とタマ以外はゴミクズだ。 つまりこの最終回、四番の俺まで回ることなんかねえ、三者凡退にされて、それで終わりってことだよ。 どんな形でも、一人でも塁に出れば鳥羽まで回るが、その可能性はきわめて低かった。 審判が「ストライクスリー」と叫ぶ声が、鳥羽には他人事のように聞こえてきた。 ――もう三振しやがったか、バカヤロウが―― 下腹のあたりに、やり場のない怒りがこみ上げてくる。 鳥羽は怒りに任せて、自分の右のふくらはぎを殴った。 内野の守備陣どころか、自分の体まで、土壇場で裏切りやがった。 去年、この沢高に負けて以来、本当に血のにじむような思いで体を作り上げてきた。 三日月山高校にはその名前が示すように、学校の裏に三日月山という小さな山があった。 冬の練習では、その三日月山を毎日二十キロ走って下半身をいじめ抜いてきたのだ。 それが、なんという体たらくだろうか。 誰かが自分に話しかけているようだった。 隣に立ってグズグズとなにか言っている。 「うるせえな」 見上げるとそこには玉川の顔があった。 「ごめんよシゲちゃん……」 玉川は試合も終わっていないのに早くも涙を流しながら、なんども詫びていた。 ――うっとうしいな―― 鳥羽は舌打ちをして、さえぎるように片手を挙げた。 試合どころか守備練習すら満足にやらせてもらえなかった玉川の守備など、最初から期待していない。 もともと三日月山は自分一人で勝つしかない。 ずっとそうやってきたのだ。 それが宿命のようなチームだったのだ。 また、主審が「ストライクスリー」と叫ぶ声が、聞こえてきた。 「帰るぜタマ、したくしろや」 力の入らない右の足を気にしながら、鳥羽はゆっくりと立ち上がった。 「だめだよシゲちゃん、まだわかんないよ」 玉川が泣きながら、鳥羽にすがり付いてきた。 「七篠が、絶対にシゲちゃんまで回すって言ってたよ」 「うるせえな、あいつに打てるわけねえだろ」 ――こんなクソチーム、やっとこれで終われてさばさばするぜ―― その時、金属バットの鈍い音が聞こえてきた。 いい当たりの音ではない。 ――終わったか……―― 鳥羽は「けっ」と吐き捨てて、グラウンドに背中を向けた。 だが、観客の歓声が鳥羽を追いかけてきた。 思わず振り向くと、七篠の打球はライト前に抜けていた。 ――まだやれってのか……―― 一度灰になりかかっていた闘志の炎が、再びぶすぶすと燃えてくる。 鳥羽は右足を引きずりながら、バッターボックスへと向かった。 ――あのくらい捕れよ―― 飛んだコースは確かにヒット性だったが、ファーストの守備範囲と言えなくもない、当たり損ないだった。 エンリケがまたよそ見をしていたのだ。 自分がホームランを打ったことで、すっかり安心していたのだろう。 ――仁がかわいそうだろ―― 仁の疲れ方が目に見えてひどい。 空振りをとりにいった球が、振り遅れとはいえ、一二塁間に転がされてしまった。 試合終了のはずが、これでランナーを出して鳥羽まで回ってしまった。 大鉄はかろうじで気持ちを切り替え、バッターボックスに向かう鳥羽を観察した。 ――右足を引きずっている、あの転んだ時になにかあったか?―― 通常ならば、こんな時の鳥羽は本当に恐いバッターだ。 配球の読みが上手く長打力もある、しかも恐ろしく勝負強い。 だが、これなら並の打者と変わらないか。 悪いが仁も、もう限界だ。 遠慮なく弱点を攻めさせてもらおう。 ――内角低めに沈むスライダー―― いくら鳥羽でも、怪我した足に向かってくるボールを、足を引きながら打つなどできないだろう。 ところが。 快音とともに、糸を引くようなライナーがセンター前にぬけて行った。 鳥羽はこれを狙っていたのである。 足を引き、腰を沈めて、長い腕を器用に折り曲げて、トスバッティングのようにあっさりと打ち返してしまったのだった。 ファーストランナーは三塁まで達してしまい、これでツーアウトながらランナー一塁三塁になってしまった。 ――ちっ、センター前が精一杯だぜ―― 鳥羽は、なんとか一塁に駆け込みながら、自分の右足をにらみつけた。 右足が言うことをきかないのは確かに本当だった。 だが鳥羽がこの一年間鍛えぬいた下半身の粘りは、シングルヒットていどであれば、左足一本で充分支えられるほど強靭だったのだ。 鳥羽はわざと大げさに右足を引きずって見せ、内角低めのスライダーを誘ったのである。 そしてこれは逆転のランナーだった。 ――これでタマまで回ったぜ―― 今度は鳥羽の方が空を見上げた。 三日月山の応援団が、最後の力をふりしぼるように、太鼓を連打する。 すがるような期待を込めているのだろう。 チアガールが胸の前で握り合わせた両手を抱きしめるようにして祈っている。 その、せつないまでの思い入れの念力に押し出されるように、蒼白の魔人がバッターボックスに入ってきた。 目が据わり、足下はおぼつかない。 ともすれば、自分に対する声援に背中を押された弾みで、前のめりに転びそうなほどそれは頼りなく見える。 その、自分の真正面しか見えていないような目つきからは、狙い球が全く読めない。 大鉄にとってこれほどリードしにくいバッターもはじめてだったが、この打席に関して大鉄は玉川と心理戦の駆け引きをするつもりはなかった。 ――とにかく今回は歩かせる方向で、ボールを続けさせよう―― 恐らくギリギリのコースなどは、物ともせずに打ってくるに違いない。 外角にはっきりと外していこう。 手を出して凡打してくれれば儲けもの。 振ってくれなければフォアボールでも仕方ないだろう。 仁も今回は、黙って従ってくれるはずだ。 ――負ける……俺のせいで、俺のエラーで。俺が二塁でアウトになったせいで、負ける―― 玉川はおびえたような目でつぶやき続けていた。 ――負ける……俺が打たなきゃ、今打たなきゃ負ける―― せっかく勝っていたのに。 俺がエラーをしたせいで負けている。 もう逃げるわけにもいかなかった。 仮に今ここで代打に代わってもらったりしたら、鳥羽は一生、自分を許さないだろう。 ――打たなきゃ、俺がここで、打たなきゃ、打たなきゃ、打たなきゃ―― 「うおおおおん!」 火の出るような打球が三塁線を襲った。 「うおうりゃああ!」 気合とともに横に飛ぶ八郎のグローブの左を、ボールは一陣の風のように通り過ぎて行く。 だが、ボールはサードベースの上を通過した後わずかに切れて、レフト線のファールグラウンドでバウンドした。 ――た、助かった……―― 大鉄は、この試合なんどもつぶやいた言葉を、また繰り返していた。 肝を冷やす、というより呆れていた。 完全なボール球だったのだ。 それも遊び球ではなく、仁が全力投球した外角低めのボール球が、ほぼ完璧にジャストミートされたのだ。 この男にはこんな球でさえ、凡打を期待できないのか。 ――中途半端な敬遠じゃだめか―― 大鉄は立ち上がり、はっきりと敬遠の構えをとった。 ところが。 「がおおおおん!」 外角のあきらかなボール球を、玉川は飛びつくようにほぼジャストミートしてしまったのである。 「ば、ばかな」 大鉄は思わず叫んでいた。 打球は今度もレフト線へ。 だが、今回は角度が違う。 それは間違いなくスタンドに入る飛距離だったが、レフトのポールを数メートルほどそれてファールになってくれた。 ――バットの届く範囲じゃだめってことか……―― だが、これ以上外に外したら、三塁のランナーにホームスチールされる可能性がある。 縦の変化、横の変化、高め、低め外角、内角。敬遠の球まで、全て打たれた。 まるで詰め将棋のように一駒一駒逃げ場を塞がれたようで、その上その、一手一手が大鉈で木を削るように荒々しく重い。 最早絶望だった。 ――もう、投げる球が……いや―― 一つだけあった。 大鉄はタイムをとって、マウンドのゆるい傾斜を駆け上がった。 「どうしよう、これじゃあ敬遠もできないし、もう投げる球がないわ」 仁も疲れと不安で、青ざめていた。 「いや、一球だけ思い出したよ。ほらお前二回戦の時、何球か投げてただろ?」 「ああ、あれ……あれ、変化球だったの?」 「お前、もしかして、知らないで投げてたのか?」 「だって、あの時は指先に怪我してたから、痛くない握り方を試して投げてみただけだったのよ。でも、大丈夫なのあんなボールで?」 大鉄は大きくため息をついて、ちらと玉川をひとにらみした。 「まあ、かなりのバクチだけど、どの道、手の届く範囲はなに投げたって打たれるってことだからな」 「もう、他人事みたいな言い方して」 「女は度胸、だろ?」 「えっ?」 大鉄はにやりと笑って戻って行った。 ――もう、こんな時に、とぼけたこと言うんだから―― 大鉄の背中を見送りながら、麗華は思わず噴き出していた。 でも、お陰で少しリラックスできた。 ――なんで女扱いすると嬉しそうにするんだ?―― 大鉄は自分で自分のわざとらしさが恥ずかしくなり、マスクの下で顔をしかめていた。 だがこれで少しは気楽に投げてくれるか。 今から投げるボールは、あらゆる球種の中で最も度胸の要る球である。 どんな手を使ってでも、例えやつに調子を合わせてでも、それが少しくらい自分にとって不本意であっても、とにかくリラックスしてもらわなくては。 ――いや、俺は調子を合わせただけだったのか?―― 妙な気分だった。 時々仁が本当の女に見えてくる。 この大会の直前から、急にいいやつになった。 それは確かだ。 そして、いいやつになったと思ったら、今度は女みたいになりやがった。 いや、「みたいに」などというものではない、もっとリアルに女そのものになったのだ。 頭でもおかしくなったか。 ――いや、もしかして、おかしくなったのは俺の方か―― ふと気がつくと、こいつが本当に女だったら、と本気で考えていることがある。 大鉄は慌てて首を振った。 ――女だったら、どうするというんだ―― というか、誰が見たって、どう考えたって女じゃない、男なんだぞあいつは。 馬鹿馬鹿しすぎる妄想だ。 ――それに今は試合中なんだぞ―― 大鉄は一度大きく深呼吸して、意識を玉川に向けた。 玉川は相変わらず震えながら肩で息をしている。 世の中には、とんでもないやつがいるもんだと、大鉄は横目でそれを見ながらつくづく呆れた。 勝負は一球。 これで終わりだ。 終わらせなければ、この一球で打ち取らなければ、もしファールにでもされたら。 間違いなく二球目は通用しないだろう。 いや、その一球目だってこの化け物に通用するかどうか。 大鉄はごくりと喉を鳴らした。 口の中はからからに乾いている。 ――勝負だ……―― クイックモーション、主に玉川へのフェイントだ。 投げた。 速い球、ど真ん中だ。 「うおおおおん……」 怪物が、悲鳴のような咆哮を上げながら打ちにくる。 大鉄から見てボールは完全にバットの陰に覆われた。 ――だめか……?―― 大鉄の肌が粟立ったその瞬間。 「うっ、うわっ」 怪物が叫んだ。 同時にミットにはボールの感触があった。 「ストライクスリー」 審判が叫んだ。 「や、やった……」 大鉄は思わず、ミットの中のボールを見た。 丸くなめらかな白い球体に、ほんのわずかにバットに触れた痕が刻まれていた。 ――危なかった―― 大鉄は背筋に寒気を感じ、思わずその場に崩れ落ちそうになった。 「勝った……」 その事実だけが体を支え、マウンドに向かわせた。 そこにはすでに内野の仲間たちが集まって麗華を囲んでいた。 「おい、最後の球、ありゃあなんだよ?」 「チェンジアップだよ」 目を丸くする八郎に、大鉄が答えた。 「チェ、チェンジアップ?そんな球、仁の球種にあったか?」 八郎は余計に目を丸くした。 「二回戦の時に三球か四球投げてたよ」 「よくこんな時にそんな球投げたな」 「バクチだよバクチ、恐くてお前らには言えなかったよ」 八郎は「うへえっ」と肩をすくめた。 「聞いてなくてよかったぜ、知ってたら心配で守ってらんなかった」 チェンジアップとは、いわば「遅いストレート」である。 ちなみにこれは、スローボールとは違う。 手のひらでボールを包むように親指と小指で挟んで、その他の三本の指はボールに引っかからないように立てて握り、ストレートの腕の振りで投げる。 初速はストレート並みに速いが、ボールに回転がかかっていないため、途中から急激に失速して、バッターの手元で沈むのである。 投手の能力によっては、フォークボール並みに落ちることもあるが、多くの場合、「落す」ことよりも、ボールに急ブレーキをかけることに目的を置いた、「タイミングの変化球」なのである。 「玉川が打った変化球は全部、ストレート系の変化球だっただろ?だからあとは遅いボールでタイミングを狂わせるしかないと思ったんだよ」 スライダーとフォークは、ともにストレートのタイミングで変化するボールである。 打者のタイミングを狂わせるスローボール系の変化球の代表はカーブだが、仁はカーブが投げられない。 だが麗華は二回戦で偶然、指の負傷をかばったことで、本人も無意識のうちに、このチェンジアップを投げていたのである。 そうは言っても、これは大鉄も言っているように、きわめてリスクの大きな賭けだった。 このチェンジアップというボールは、「タイミングの変化球」といえば聞こえはいいが、見方を変えれば、ただの「伸びのない遅いストレート」、つまり棒球とも言えるボールで、打者にとっては絶好のホームランボールと紙一重なのである。 玉川の実戦経験の少なさと、超人的なスイングの速さと、そしてなにより彼の最大の武器である、アガリ性による極限まで張りつめた集中力が、返って仇になったのである。 張りつめすぎた糸ほど切れやすいのだ。 かくして諸刃の刃同士の対決は、かろうじて麗華に軍配が上がったのだった。 「……おい、立てよデブ」 鳥羽は玉川を見下ろしながら声をかけた。 玉川は這いつくばっている。 バッターボックスで、額をグラウンドにこすりつけたまま動こうとしなかった。 大きな肩と背中がぶよぶよと震えている。 「そんな格好、ほんもんのアザラシだってしねえぜ」 「ごめんよシゲちゃん」 喉からしぼり出すようにやっとそれだけ言うと、声を上げて号泣した。 人目もはばからず、子供のように。 鳥羽の言葉を借りるなら、本物のアザラシでも、そんな声で鳴かないだろうほど、獣じみた嗚咽の奇声を上げた。 「なんのこたあねえ」 鳥羽は口の端を歪めて笑った。 「俺はホームランを打たれて、お前えは三振させられて、ごく当たり前の負け。完敗じゃねえか」 ――もっと早く、こいつの才能に気がついてりゃあ……―― それだけが悔やまれた。 整列して一礼する間も、玉川は泣き続けた。 「おい、どうせお前えはプロに行くんだろう?」 別れ際に鳥羽が麗華に声をかけてきた。 相変わらず歪んだ笑顔だが、目もとはどこかすがすがしかった。 麗華はとりあえず「うん」と言っておいた。 ――どうせジンはプロに行きたがってたんだし、まあいいか―― 「俺は大学に行くことに決めたぜ。こいつと大学に行って、もっと一回りも二回りもでかくなって、プロに行く。そん時はこてんぱんにしてやるから、せいぜい指洗って待ってろや」 「うん、よろしくね、ボッコボコにしちゃっていいから」 ――ジンなんて、こてんぱんにされちゃえばいいのよ、っつうか、指じゃなくて首でしょ、洗って待ってるのは―― 「ちょっと待ってよシゲちゃん」 鳥羽に「こいつ」と言われた玉川が、突如泣き止んで泥だらけの顔で割り込んできた。 額にはバッターボックスの白線の石灰まで、汗で貼り付いている。 「俺、大学なんて無理だよ、頭悪いし、うちは貧乏だし」 「授業料免除の野球特待生として誘われてんだ。お前えも一緒だったら行くって言ってやるよ」 「だから俺に大学で野球なんて無理だよ」 「だまれ、あんだけ打っといて甘ったれんじゃねえ。まあ、もっとも野手じゃ無理だろうから、お前えは俺さまのキャッチャーやらせてやる、俺さまと一緒にプロ目指せや」 「そ、そんな、メチャクチャだ……」 「明日から俺と特訓だ……今日から、と言いてえが、今日はやることがあるんでな」 鳥羽は玉川にそう言うと麗華に向き直り、 「月日はひゃくだいのくわかくにして、行きかふ年もまた旅人なり。ってな」 と、また意味不明な言葉を残して背中を向け、足を引きずりながら去って行った。 「それを言うなら月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして……だろ。大学行くならもっと勉強しろよ」 牛若が鳥羽の背中を見送りながらつっ込んだ。 「明日から特訓だってよ、最後の試合がたった今終わったばっかだってのに、まったく恐ろしい男だぜ」 練習マニアの八郎は、なんどもうなづきながら盛んに感心して見せた。 だが、鳥羽という男の恐ろしさは、そんなものではなかったのだ。 彼が「今日やること」と言ったのは、「跳ぶ」ことだったのだ。 鳥羽は馬鹿律儀に下級生たちとの約束を守り、監督以下、野球部員全員が止めるのも聞かず、疲れきった体と傷めた右足も無視して失点×千回、つまり四千回跳んだのである。 敵に回しても味方につけても恐ろしい男、それが鳥羽という男なのだ。
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