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作品名:カレに代わってピッチャー元カノ 作者:雲翼

第12回   エンリケカーニバル
「冗談じゃねえぞ」
 九回表、沢谷香高校ベンチでは、八郎の怒りが爆発していた。
 「うちはまだノーヒットなんだぞ」
 八回は両チームともによく粘ったが、三者凡退に終わっていた。
 得点は三対一、泣いても笑ってもこの回二点以上入れなければ、沢高の負けである。
――ほんと、冗談じゃねえぜ――
 トップバッターの牛若は、珍しく顔に焦燥の色を覗かせながらバッターボックスに入っていた。
 沢高の攻撃は、打順だけは一番からの好打順だった。
 得点差は二点。
 ここまでくると、バントやファールでの揺さぶりはあまり意味を持たなくなっている。
 三日月山もすでにシフトはとってきていない。
 だが、それがねらい目だった。
 ――途中から交代した一塁手に捕らせる――
 第一球目、牛若は内角に沈むスライダーをいきなり一塁線にバントした。
 鳥羽も一塁手も一瞬棒立ちになった。
 ボールは一塁線のラインぎりぎりを転がって行く。
 「うまいっ」
 沢高のベンチから思わず声があがった。
 だが。
 「捕るな、見送れ」
 鳥羽が一塁手に怒鳴った。
 ――捕っても間に合わねえ――
 一塁手が鳥羽の声に弾かれたように、横に飛びのいた。
 「入れ、入れ……」
 沢高のベンチでは、皆うわ言のようにつぶやきボールの行方を見守っている。
 ボールはまるで生き物のようにゆっくりと転がり続け、ラインの上に乗り、ダイヤモンドの外へとそれて行った。
 「あ……ああ……」
 沢高のベンチからは、悲鳴ともため息ともつかない声がもれた。
 「くそっ」
 すでに一塁を駆け抜けていた牛若は、思わず叫びながらホームに戻って行った。
 「いけるいける、鳥羽も疲れてるぞ」
 大鉄が一人、ベンチで声を張り上げた。
 「あいつ今マウンドから動こうとしなかっただろ、足がもつれて動けなかったんだよ」
 大鉄はよく見ていた。
 鳥羽はバント処理にもファーストのカバーにも走ろうとせず、一塁手に口で指示を出しただけだったのだ。
 カキンという鋭い快音が轟いた。
 「やった」
 「抜けた」
 皆が口々に叫んだが、それは一瞬でため息に変わった。
 鳥羽が、反則なくらい長いリーチをいっぱいに伸ばして、そのライナーを捕ってしまったのである。
 ――もうだめか――
 運にも見放されてしまった。
 ベンチの空気は鉛でも溶かしたように、一気に重くなってしまった。
 当たりはよかったのだ。
 相手が普通のピッチャーだったらセンター前に抜けていた可能性が高かっただけに、ベンチの落ち込み方の落差も大きかったのである。
 「ナイスバッティング。あの調子だよ、鳥羽の球がジャストミートできるようになったじゃないか」
 大鉄だけが大声で盛り立てていた。
 大鉄の言う通り、ここへきてようやく沢高の打者は鳥羽の変化球に目が慣れてきたようで、また鳥羽の投げるボール自体にも、前半のような威力がなくなってきているのも確かだった。
 だが。
「ストライクスリー」
鳥羽はこの土壇場で、恐ろしいまでの執念を見せた。
牛若にジャストミートされたことで、返って野獣のような闘志に火がついたらしく、信じられないくらいの集中力で、二番花川口を三振に仕留めるのだった。
マウンドで仁王立ちになる姿には、近寄り難いほどの迫力がある。
沢高のベンチはもう、声も出なかった。
 ――つくづく恐ろしい男だぜ――
 ネクストバッターズサークルに向かいながら、大鉄も思わず下唇を噛んだ。
 沢高の応援スタンドからは祈るようなハチローコールが起こる。
 反対側の三日月山のスタンドからは、「あと一人」コールが聞こえ始めていた。
 球場が、真っ二つに割れたようになっていた。
 「みんな、声が出てねえぞ」
 大鉄が振り向いてベンチに声をかけると、皆やっと我に返り、しぼり出すように声を張り上げた。
 「まだ、これからさ」
 大鉄は自分を奮い立たせるように、今度は独りつぶやいた。
 ――こんな時のハチローは頼りになるんだ――
 まるで野球選手の鑑のような男。
 大鉄は日頃から八郎をそう思っていた。
 攻・走・守、なにをやらせても巧い。
 およそ野球選手としての素養を全て備えているくせに、決して天狗にもならないのだ。
 人一倍練習熱心で、地味で泥臭いことも喜んでやるし、どんな時でも一塁まで全力疾走する。
 誰よりも野球に対して誠実な男。
 それが鎮西八郎という男なのである。
 あんなに仲の悪かった仁とも、最後の最後で打ち解けてくれた。
 それもひとえに、八郎の野球に対する誠実さの表れでもあるのだ。
 ――こいつが野球の神様から見放されるはずないさ――
 八郎と鳥羽の勝負は、まるで死闘だった。
 鳥羽は鬼のような形相で投げ込んでくる。
 八郎も必死で変化球に喰らいつき、バットに当てるが、全てファールになり、じりじりと追い込まれてしまった。
 ――あのボールがくる――
 鳥羽はまるで予告するように長い脚を高々と挙げた。
 ナイアガラエアーズロックである。
 八郎も気合負けすることなく強振した。
 当った。
 だが。
 「あっ!」
 それは完全な凡打だった。
 気合充分に思い切り振り抜いたバットの勢いとは裏腹に、拍子抜けするような力のないゴロが、鳥羽の足下に転がった。
 ――終わった……?――
 沢高のベンチから聞こえていた声が、完全に途切れてしまった。
 鳥羽は勝利を確信したように右手を挙げ「うおっ」と短く咆えて、ボールをすくい上げた。
 だが、次の瞬間。
 スタンドは大きくどよめいた。
 鳥羽が柔道の足払いをかけられたように、横向けにひっくり返ったのだ。
 沢高のベンチでは皆、言葉にならない声を発した。
 最早誰がなにを言っているのか分からないが、全員が必死でなにかを叫んでいた。
 ――足が滑った?いや――
 踏ん張りがきかないのだ。
 やはり鳥羽は疲れ切っていた。
 スパイクの裏を覗いたり地面を踏み慣らしたりなどしてごまかしているが、すでに限界と言っていいほど、疲労困ぱいしていたのである。
 ――また、首の皮一枚で助かった――
 大鉄は一度、大きく深呼吸してから、バッターボックスに入った。
 落ちるカーブは、決め球に使ってくるはずだ。
 その前に見せ球として投げるであろう、内角のストレートかシュートをねらう。
 第一球。
 「う……?」
 大鉄は手が出なかった。
 鳥羽は初球から、落ちるカーブを投げてきたのである。
 ――裏をかかれた……だが、次こそ内角にシュートかストレートがくる――
 だが第二球も同じボールだった。
 ――くそっ、手が出ない――
 追いつめられた。
 それも一度もバットを振らずに。
 ――だが――
 と大鉄は考えた。
 二球ともバットを振らなかったお陰で球筋がよく見えた。
 鳥羽の落ちるカーブには明らかに前ほどの落差がなくなっていた。
 ――これなら、打てるかも知れない――
 三球目、速い。
 大鉄は「うわっ」と思わず声を上げた。
 主審が一瞬間をおいた。
 ――やられた……?――
 「ボール」
 と、主審がいつもより時間をおいてから言った。
 大鉄は大きく息を吐きながら、顔からしたたり落ちる冷たい汗を、アンダーシャツの袖で拭った。
 完全に裏をかかれた。
 それは審判も迷うほど外角に、ギリギリに外れたスライダーだった。
 ――もう、こうなったらヤマを張る余裕なんてない――
 きた球を打つしかなかった。
 ストレートのタイミングで待って、右に打つ。
 右ねらいならば、変化球にも対応できるはずだ。
 四球目。遅い、ボールは鳥羽の頭上にふわりと上がった。
 ストレートのタイミングで待っていた腰が、条件反射のように勝手に回りだす。
 大鉄は走り出そうとする馬の手綱を引くように、体勢を整えるが、体の軸は崩されてしまった。
 ――ストライクだ、ファールでもいい、とにかくバットに当てなくては――
 ボールが急降下してくる。
 あの落ちるカーブ、ナイアガラエアーズロックだった。
 「ふんっ」
 喰らいつくように振り抜く。
 ――当った、だが……――
 ボールは、とてもジャストミートとは言えない不快な打撃の感触を手に残し、右上空に飛んで行き、大鉄は忸怩たる思いでそれを見送るのだった。
 それは大鉄も何度も経験している平凡なライトフライの軌道だった。
 体の軸が崩された分、打球が伸びることも期待できない、ただの手打ちの、浅いライトフライだった。
 万事休す、だった。
 ――みんな、すまん――
 大鉄は思わず空を見上げた。
 歓声があがる。
 ――終わったか……?――
 だが、その歓声は沢高の応援席からあがっていた。
 三日月山側からは、悲鳴のような声が聞こえてくる。
 「え……?」
 落としたのだ。
 ライトの玉川が、平凡なライトフライを一度グローブに当てて、落としてしまったのである。
 守備に不慣れな玉川が、浅めのライトフライの目測を完全に誤り、一度バックしてから慌てて前進して、落球したのだった。
 ――た、助かった……とにかく、また助かった――
 大鉄は、再び空を見上げた。
 空が、先ほどとはまるで違った色に見えた。
 彼の精神力をもってしても、自ら崩れ落ちそうになる体を支えるのが精一杯だった。
 「ちっ、くしょう」
 鳥羽はマウンドで、独り奥歯を鳴らしていた。
 ――タマに守備練させておかねえから――
 だが、どんなに悔やんでも、自分と玉川のエラーでは文句の言いようもなかった。
 ――でも、点が入ったわけじゃねえ――
 ファーストランナーの八郎は、サードで止まっていた。
 右のふくらはぎが、別の生き物のように痙攣している。
 先ほど転倒した際に、足が攣(つ)ったのだった。
 ――ちくしょう、あと一人だってのに――
 鳥羽は憎しみを込めて、自分の右の尻をなんども拳で叩いた。
 「代打だろ?」
 「んだんだ、代打だよな」
 沢谷香高校ベンチでは、最早誰もが露骨にエンリケへの代打を主張していた。
 「ちょ、ちょっと待てよみんな、誰も応援してくれないのかよ?」
 バッターボックスに向かうはずのエンリケが、わざわざ駆け戻ってきて、皆に訴えた。
 「作戦があるって言ったでしょうが」
 「お前えの作戦なんざ、当てになるかよ、代打だよ、代打代打」
 牛若がそう言うと、沢高ベンチから代打コールが湧き上がった。
 これは鳥羽とはまた違った四面楚歌だったが、監督は動かなかった。
 皆、口ではエンリケに辛く当りながらも一方では、こんな場面で任せられる打者も、強心臓のエンリケくらいしかいないことはよく分かっているのだ。
 「ひでえやつらだな、まったく」
 エンリケはぶつぶつ言いながらボックスに向かった。
 「おいおい……」
 エンリケの構えを見た沢高のベンチからは一瞬で「代打コール」が消えてしまった。
 全員開いた口がふさがらなくなってしまったのだ。
 エンリケは馬鹿でかい体で、目いっぱいホームベースに被って構えたのである。
 「さ、作戦って、そういうことかよ」
 牛若が目をぱちくりさせながらつぶやいた。
 ――このやろう――
 一方鳥羽は血走った目でそれをにらみつけていた。
 ――そんなくれえでこの俺さまが内角に投げられなくなるとでも思ってやがんのか――
 せこいまねしやがって。
 そんなにぶつけてもらいたきゃ、ぶつけてやるぜ。
 鳥羽は全く構わずに内角ぎりぎりに投げた。
 硬球が人間の肉にぶつかる生々しい音がベンチにまで響いてきた。
 鳥羽のシュートがエンリケの左わき腹に当ったのである。
 だが。
 「ストライク」
 主審は冷静にストライクのコールをした。
 「や、やっぱり?っつうか、当たり前だよな」
 牛若もただ呆れて首を振るばかりである。
 例えバッターの体に当ったとしても、投球がストライクゾーンを通ればそれはストライクである。
 「あのバカ、当てられ損だっての、それにしても痛そうだな」
 ところがエンリケはなんどか咳き込んだだけでにやにや笑い出し、こう言ったのである。
 「なんだよ、こんな遅せえ球ちっとも痛くねえよ、みんなこんなの打てなかったのかよ」
 エンリケワールド全開だった。
 「あ、あのバカ……そういうことだったのか」
 気性の激しい鳥羽は、この挑発に乗って次ははっきりとぶつけてくるだろう。
 コントロール抜群の鳥羽に対して、生半可に被って構えたところで、デッドボールなどそうそう期待できるものではない。
 ならば鳥羽を本気で怒らせて、はっきりとぶつけにきてもらう、というわけである。
 エンリケはそこまでして、塁に出ようというのだ。
 ――あいつらしい、といえばらしいやり方だな――
 鳥羽の顔面は怒りのあまり蒼白になっていた。
 ――なめたまねしやがって、そんなにまでしてデッドボールが欲しいならくれてやるぜ、思いきりな――
 満塁になったところで、次のバッターを打ち取ればいいだけのことだ。
 あと一人くらい余計にランナーを出したって、こっちは痛くも痒くもねえぜ。
 エンリケは顔がストライクゾーンに入るほど更に深く被って構えている。
 ――そこまで深く被れば危険球はとられねえだろう。地獄へ行け――
 「おらあっ」
 鳥羽はエンリケの顔を目がけ、思い切り速球を投げた。
 ところが。
 「うおりゃあああ!」
 バットがすさまじい快音を上げた。
 エンリケはこのボールを思い切り振り抜いたのである。
 彼はこの球を待っていたのだった。
 「ば、ばかな……」
 思わず叫んだのは鳥羽だけではなかった。
 スタンドからも沢高のベンチからも、同じ言葉が聞こえてきた。
 ボールは「キィーン」という、調子に乗った風斬り音を残して、レフト上空に舞い上がった。
 「ま、まさか……」
 その場に居合わせた全員が呆気にとられながら見上げるボールはゆっくりと弧を描き、レフトスタンドに吸い込まれて行った。
 「は、入った?」
 鳥羽は、悪い夢でも見ているような顔で、つぶやいた。
 「サンバー」
 エンリケは脳天気な声で叫ぶと、踊るような足取りで走り出した。
 ――いやいや。こうすりゃ間違いなくストレートをこっちの予想したコースに投げてくれると思ったよ――
 つまり彼にとって、自分の体を目がけて投げさせる、というのは全く別の意味があったのだ。
 彼は変化球が苦手なうえ、配球の駆け引きではとても鳥羽にはかなわない。
 だが、鳥羽を怒らせれば、間違いなくストレートを自分の体目がけて、ぶつけにくると読んだのである。
 エンリケの頭には最初(はな)からデッドボールなどという文字はなかったのだ。
 「めちゃくちゃだぜ……」
 牛若が呆れ返って、口の中で吐き捨てるようにつぶやいた。
 彼のような小柄で技巧派の選手がどんなに頭で考えて百策をめぐらせようと、ゴリラのようなバカ力の一振りに一瞬で全てひっくり返されてしまう。
 牛若にとっては、最も馬鹿馬鹿しい瞬間だが、それが野球というスポーツなのである。
 「サンバー」
 球場が異様な雰囲気に包まれる中、エンリケはすっかり有頂天で、ダイヤモンドを一周し、サンバのステップを踏みながらホームインし、そして、審判に怒られたのである。
 


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