六回は両チームともに三者凡退で、試合は七回表、沢谷香高校の攻撃を迎えていた。 この回先頭の二番花川口はファールで四球粘ったものの、最後はナイアガラエアーズロックで三振にたおれた。 鳥羽はまだノーヒットピッチングを続けている。 ここまでくると球場は鳥羽の四試合連続ノーヒットノーランの期待にざわめきはじめているのだった。 だが沢谷香高校も決して鳥羽を気分よく投げさせていたわけではない。 序盤のバント作戦が封じられると今度は全員がファールで粘り、できるだけ鳥羽に球数を投げさせる作戦に切り替えていたのである。 「チッ!」 八郎はしばらく粘った後、シュートを引っかけ、舌打ちをしながら一塁に走った。 「いや、面白いぞ……」 ベンチで牛若がつぶやいた。 当たり損ないだったが、飛んだコースがショートの左の深いところだったのだ。 「よしっ!」 ベンチの全員が異口同音に口の中で叫んだ。 ボールはショートのグローブからこぼれ出て転がっていた。 内野手がよくやる失敗である。 送球をあせるあまり、捕球するより先に投げる方向を見てしまい、ボールから目を離したのだ。 「記録は……?」 皆一斉にスコアボードを注視し、そして一斉にため息を吐いた。 ランプはEに点いていた。 「まあ、よしとするか」 相変わらずノーヒットノーランという屈辱的な記録は続いているが、久しぶりのランナーにベンチは色めきたった。 だが。 「ばかやろう、さっきもワンバウンド投げやがって、いいかげんにしろ」 一回表に続くショートの二度目のミスに鳥羽の額はひくひくと震えていた。 「辞めちまえ、てめえなんざもういらねえ」 鳥羽は審判が見かねて「もう止めないか」と声をかけるまで、ショートを罵り続けるのだった。 ここへきて鳥羽は、はっきりと疲れを見せはじめていた。 沢高のファールによる消耗作戦と、自らのノーヒットノーランの記録のプレッシャーに加え、三日月山高校としては珍しく中盤に二点のリードを得たことで勝ちを意識する焦りが鳥羽に目に見えない重圧を与え続けてきたのである。 そしてこの鳥羽の乱心は、三日月山のチーム全体に張りつめていた緊張の糸を、思わぬ形で断ち切ることになるのだった。 四番の大鉄は、早くもバントの構えをしている。 ――次のエンリケが絶不調なのを考えるともったいないみたいだけど―― だが、これは大鉄が自ら監督に志願したバントだった。 大鉄という男は、そういう人間だった。 バントも巧い。 内角高めのシュートを実に巧妙に、一塁線ぎりぎりにボールを転がす。 ところが。 一塁手の動きは不自然なくらい緩慢だった。 ――ファールになるのを待ってるのかな?―― だがそうではなかった。 悠々とフェアグラウンドでボールを拾い上げ、鳥羽の顔をにらみつけている。 「ばかやろう、なにやってやがんだ」 怒鳴りつける鳥羽に返事をする代わりに口の端をつり上げた歪んだ笑みで応え、あきらかに遅すぎる送球を一塁に放り投げたのである。 それはまさしく「放り投げる」という表現が適切だった。 彼はわざと大暴投を投げたのだった。 しかも一塁のカバーには誰も入っていない。 本来そこにいるべきセカンドは定位置から動こうとせず、腰に手を当てて突っ立っていた。 およそ野球の試合としてはありえない、異様な光景だった。 八郎も大鉄も、呆気に取られながらもそのまま走り続け、代打からライトのポジションに入っていた玉川が、ボールに追いついた時にはすでに八郎はホームインし、大鉄は二塁まで進塁してしまっているのだった。 「て、てめえら……」 鳥羽の目が真っ赤に血走って、顔中の筋肉が怒りのあまり小刻みに震えている。 「よせ、鳥羽、やめろ」 一塁手に向かって歩き出そうとする鳥羽に、サードを守っている主将の七篠が後ろからしがみついた。 「お前ら、なにやってんだよ」 七篠も驚きのあまり声を裏返して一塁手と二塁手を交互ににらんだ。 観客も静まり返っている。 誰も声も出ないようだった。 両投手の好投と、玉川のホームランという好試合に熱狂していただけに、その光景はあまりにも寒々としていた。 「タイムお願いします」 七篠は慌てて叫んだ。 ショート、セカンド、ファーストの三人が、監督の交代の指示も出ていないのに、勝手にベンチに向かって駆け出してしまったのである。 監督の北条は慌てて三人の交代を告げた。 「なにやってんだ、あいつら……」 たった今ホームインしてきた八郎が、息を弾ませながら狐につままれたような顔で、グラウンドを振り返った。 「船は帆で持つ帆は船で持つ。鳥羽の暴言は度を越えてたもんね、まさに自業自得の四面楚歌ってやつだね」 牛若も呆れて目を丸くしながらそう言った。 「いいのかよ?こんなんで一点もらっちまって」 「クーデターだよ、向こうが自滅したんだから仕方ないさ、三年の野手にとっちゃ下級生の前で鳥羽に怒鳴られ続けてきた鬱憤がたまりにたまってただろうからな。そういう意味じゃうちだって……」 牛若は声を一段低くして、 「ついこないだまで事情はたいして変わらなかったけどな」 とチラと麗華を見た。 「なあに?」 麗華も牛若を見ていて、目が合ってしまった。 「いや、なんでもない、気にすんなよ」 牛若も特に悪気はなかったので、すっかり動揺してしまった。 「ま、まあ、後味は悪いけど、うちにとっては願ってもない棚ボタだよ、一点入ってまだランナー二塁だもんな」 「でも、次はエンリケだぜ、ここはバントじゃね?」 「まったくあいつ、今大会まだノーヒットだもんな、一体どうしちまったんだ」 牛若はいら立たしげにエンリケの背中をにらんだ。 もともとエンリケは波の激しい打者なのだが、今大会のブレーキは特にひどかった。 だが彼の場合、一旦当り出すと爆発的な固め打ちをするという期待感もあるため、引っ込めてしまうわけにもいかないのである。 「ランナーを三塁に送れば、遠藤なら内野ゴロくらい打てるだろ、向こうの内野はほぼ総入れ替えになって浮き足立ってるし、転がしゃあなんとかなりそう……え?」 「ストライクスリー」 八郎が言い終わらないうちに主審が三振を宣告していた。 「は、早すぎだろ、あのバカ」 「このチャンスで三球三振かよ、あのバカ」 「お前、少しは粘れよ、せっかく相手が自滅してくれてるってのに」 首をかしげながら帰ってきたエンリケに、八郎が咬みつく。 「いやー、あんまりボールがバットに当らないから、試しに目をつぶって振ってみたら、やっぱり当らなくてさ」 エンリケはにやにやしながらそう言った。 相手チームが乱闘寸前にもめていようが、この男には関係ないらしい。 「お前……」 三振したエンリケよりむしろ八郎と牛若の方が泣きそうな顔になって口をそろえた。 「……狂ってるよ……」 「そうかな?ははは」 「こ、このやろう、いつもエラーはしやがるし、今日負けたらお前のせいだぞ、ドアホウ」 「いやいや、大丈夫、次は打てるから」 「なんだとこのやろう、根拠のねえハッタリぬかしやがって」 「いい作戦を思いついたよ」 「けっ、だいたいこのままじゃ次はもう、お前えまで回らねえよ」 「まあ頑張って回してちょうだいな、次は保証するから」 「死火山が噴火するのを待つようなもんだぜ」 牛若の痛烈な嫌味にもエンリケは肩をすくめてにやにや笑うだけである。 ――いやいや、ほんとはチアガールが気になっちゃって打てないから見えないように目をつぶった。なんて言ったら怒るんだろうなこいつら―― 敵に回すと彼ほど恐い男もいないが、味方につけてもこれほど頼りにならないやつもいない。 エンリケという男はそういう人間だった。 一方、遠藤はよく粘ったが、結局平凡なサードゴロに終わるのだった。 だが、沢谷香高校はこの回ノーヒットで貴重な一点を手に入れたのである。
七回裏、三日月山高校の北条監督はベンチの前に円陣を組ませていた。 試合は二対一、点こそリードしているとはいえ、勢いは沢高にある。 しかもつい今しがた一点取られた三日月山の内野陣は、総崩れと言っていい。 だがそんな緊迫した局面にあって、北条は実におだやかな口調で選手たちに語りかけていた。 「……この大会が終わったら三年生のうち、何割が野球を続けていくか俺は知らん。だが、お前たちには野球の世界だけでなく、ごく普通の社会人として生きてゆくためにも、一つだけ大事なことを言っておく」 先ほど自ら退いた三人の内野手は円陣に加わろうとしなかったが、北条は強いて入れとも言わなかった。 北条はただバックスクリーンのあたりをぼんやりとながめていた。 「全員玉川の手のひらをよく見ろ、お前らも言いたいことはあるだろうが、俺がお前らに教えられなかったことをこいつの手が教えてくれるだろう」 北条は「それだけだ」と言うとベンチの奥に引っ込んでしまった。 そしてベンチの隅に座っている三人にも「おい」と声をかけた。 「お前らも、試合終わってからでいいから、よく見ておけ」 そう言い残していつもの場所にどかりと腰をおろした。 北条が腰をおろしたのを合図のように、円陣の選手たちは次々に、玉川の手を取った。 玉川が恥ずかしそうに出す手を見た者は、まるでその手に頬を張られたかのようにうなだれ、その打たれていない張り手の痛みに堪えるように顔を歪めるのだった。 「残り三回だ、力を出し切れ」 全員が一通り見終わると、ベンチの奥から北条の力強い檄が飛んだ。 「オスッ」 彼らの返事は、今にも泣き出しそうに裏返っていた。 ――どうしたんだろう、急にバッターの目の色が変わったわ―― 三日月山高校三番、主将七篠の目つきは前の打席とはあきらかに違った。 構えも違う。 バッターボックスのラインぎりぎりに立ち、ホームに被っている。 あわよくばデッドボールでも出塁しようという構えだ。 ――今まではいじけた子供みたいだったけど―― 三日月山高校の打者には、共通した特徴があった。 よく言えばスマートと言えなくもないが、悪く言えば淡白、というより、もっと鼻につく屈折したニヒリズムのような雰囲気を、鳥羽と玉川以外の三年生は漂わせていたのだ。 運動のできない小学生などが、一生懸命やって出来ないのが格好悪いため、体育の授業などで最初から本気でやろうとしない、あのかわいげのない虚無感である。 だが、この打席の七篠はまるで別人のように泥臭かった。 内角球を恐れず、逆に「当ってくれ」とばかりに体を寄せてくる。 不恰好なほど短く持ったバットで、とにかくコツコツと当てにきていた。 ――いったいなにがあったか知らないけど、打たせはしないわ、この回は鳥羽と玉川に回るんだから―― しかし、麗華も疲れている。 決め球の、空振りを獲るはずのスライダーが甘く入った。 いや、それでもいつもなら空振りが獲れたかも知れない。 相手は三番で主将、腐っても鯛だ。 しかも目の色が違う。 執念で振り抜いた打球はショートの左に転がった。 ――オーケー任せろ―― 当たりは悪くないが牛若の守備範囲は広い。 だが。 「うわっ、痛てっ」 打球は七篠の執念が乗り移ったようにイレギュラーし、牛若の左肩に当った。 ショート強襲の内野安打である。 しかも七篠は一塁にヘッドスライディングをして、三日月山のベンチもにわかに湧きかえっている。 この回の三日月山はあきらかに違った。 そして。 ――え?―― ――おいおい……―― 沢高の守備陣全員が、我が目を疑った。 鳥羽がバントの構えをしているのだ。 ――プライドがユニフォームを着てるようなこの男が、よほどもう一点が欲しいんだな―― 無理もないことだと大鉄は思う。 三日月山は三人もの内野手が突然入れ代わったのだ。 少なくともその三人が、スタメンより優れているとは、とうてい思われなかった。 投手戦で恐いのは、長打とエラーと四死球だ。 三日月山はその長打で優勢に立っているものの、これからの八、九回、自軍のエラーの影におびえ続けなければならないのである。 ――させるもんですか―― 麗華は内角高めに思きり速球を投げたが、鳥羽はあっさりと一塁線にボールを転がしてしまうのだった。 そして「あの男」がおどおどしながらバッターボックスに入ると、グラウンドには再び、拍手の雨が降ってくるのだった。 「敬遠。する?」 「お前、勝負させろ、って顔に書いてあるぞ」 大鉄は苦笑いしながら、麗華の顔を覗き込む。 麗華は不機嫌にそっぽを向いて「そお?」と言った。 「いいのよ、あたしのプライドなんて。打たれて試合に負けたんじゃなんの意味もないんだから」 「まあ、確かにここでもう一点取られたら……」 と大鉄は真顔になって、一度玉川をちらと見て、ため息をついた。 「鳥羽相手に四点取るのは難しいな」 「じゃあ敬遠しましょう。あたしのことならお気遣いなく」 「いや、確かに俺もそう言いにきたんだけど、お前の目を見て安心したよ、お前、ちょっと打たれるとすぐいじける性格だったのに、成長したんだな」 大鉄が仁のことを言っているのは麗華にも解かったが、麗華はにやりと笑った。 「女は好きな男のためなら、いくらだって強くなれるのよ」 「女?」 だが大鉄は面倒臭そうに顔をこわばらせるだけだった。 「いえ、なんでもないわ」 「ま、まあ、いくらあいつだって十割打てるわけじゃないんだろうし、ぎりぎりの臭いとこつきながら様子を見よう」 大鉄はそう言うと首をかしげながら帰って行った。 ――もう、全部本当のこと言えたら楽なのに、キーッ―― 「なんども振り返るんじゃねえよ、ばかやろう」 玉川は鳥羽に怒鳴られて、ようやくバッターボックスに入った。 足の震えが止まらない。 ――そんなになんどもマグレなんて出ないよ―― さっきの打席の記憶は完全に飛んでいる。 どんな球種をどんな風に打ったのか、全く憶えていなかった。 それが玉川を余計に不安にさせていた。 だが、試合には勝っている。 勝てばまた鳥羽と野球ができる。 負けたらその場で終わる。 玉川にとって大事なのは、下手な野球を十年近くもやっていたことではない。 鳥羽と一緒にやっていた、ということだけが、唯一他人に誇れる矜持なのである。 プロへ行った友達と、ずっと一緒に野球をやっていた。 大人になって、それだけが自分の人生を支えてくれるはずだ。 仕事が終わり、夜テレビをつけると自分の友達がプロ野球のエースとしてそこに映っている。 なんの取り柄もない自分にとって、それがどんなに誇らしい思い出になることか。 ――勝たなきゃ……勝たなきゃ―― 朦朧(もうろう)とした頭に、それだけがなんども木霊する。 灼熱の炎天下、応援席ではブラスバンドが幻想的なほど執拗に同じメロディーをくり返しているが、玉川には全く聞こえていない。 鳥羽は甲子園の出場経験こそなかったが、プロ野球のスカウトがなんどか家にきたと、言っていたことがあった。 だが、三年間、予選で負け続けたとしたら、彼らはそんな無名の投手を本気で誘ってくれるかどうか。 できれば甲子園に行って、プロのスカウトにもっと鳥羽の名前を覚えてもらいたかった。 たくさんの球団から上位で指名してもらいたかった。 ――勝つんだ、勝つんだ、勝つんだ……―― 鬼気迫るほどの蒼白な顔でなんども呪文のように、心の中で強く念じた。 ――困ったな―― 大鉄は独り、マスクの下で顔をしかめていた。 あんな風に言ってみたものの、変化球はスライダーもフォークもほぼ完璧に対応されてしまっている。 今日の仁のカットボールではとても勝負球には使えない。 二回戦のあの時は、やつの指が出血していたからよく曲がってくれただけで、今日はあの試合のようなキレがない。 ストレートにもほとんどタイミングが合っていた。 ――いや、待てよ―― 前の打席で、唯一打ち損じてくれたのはストレートだった。 最初にストレートをファールされたことに惑わされすぎていたのではないか。 いい当たりは二球とも変化球だった。 ――あのスイングの速さに、俺が一番ビビッちまったんだ―― 本当は低めの変化球が得意なのかも知れない。 初球、ちょっと勇気が要るが、内角高めに思い切り速いストレート。 上下に揺さぶってみよう。 ――いくらなんでも仁の速球を、そう簡単にジャストミートはできないさ―― 大鉄の配球は一見博打のようだが、絶好球とウイークポイントは意外と紙一重であることが多い。 打者は甘いボールがきたことで、思わず力んだりボールから目を離してしまったりするのである。 高めとはいえ、仁の伸びのある速球ならば、並みの打者であれば空振りに終わったであろう。 だが。 「がおおおおん……」 玉川はこの、見送ればボールだったかも知れない高めの球に、見事にバットを被せてしまったのである。 濁りのない金属音が球場に木霊した。 ――やられた―― 今度はジャストミートだった。 打球はまるで弾丸のように空を切り裂き、ライト遠藤の頭上を超えていく。 ――入るな、入るな―― 大鉄は祈るような気持ちで、ボールの行方を見守った。 この試合最速と言ってもいいくらいの速球だった。 悔やまれるが、あの速球をあそこまで完璧に打たれては、二塁ランナーが還るのは仕方がない。 ――だが入ったら、ホームランになっちまったら―― 四点目が入ってしまう。 今日の鳥羽から五点を取るのは無理だと、大鉄は思っていた。 ――入った……?―― ボールがフェンスを越えてしまった。 観客のどよめきが丸い球場の中で渦を巻いた。 さすがの大鉄も途方に暮れ、一瞬呆然と立ち尽くした。 ――いや―― 塁審が指を二本立てている。 エンタイトルツーベースだった。 ――た……助かった―― 遠藤の影でボールがよく見えなかったが、打球はワンバウンドしてフェンスを越えたようだった。 高めのボールにバットを被せるように打った打球は、ドライブの回転がかかっていたのである。 この場合、ルールでは打者・走者ともに二つ分の進塁が許されるため、打った玉川は二塁打、セカンド走者の七篠は、ホームインが許される。 ――三点目か。キツイな……―― 三日月山に、値千金の一点が入ってしまった。 ようやく一点返した直後に、長打で追加点を入れられるというのは典型的な劣勢のパターンだった。 しかも、相変わらずワンアウト・ランナー二塁のピンチが続いている。 だが、大鉄はまだ前向きに考えている。 その根拠は鳥羽が強打ではなく送りバントをしたことだった。 それは、ミスというものとは別物なのだろうが。 大鉄にとって鳥羽は、玉川と同じくらい嫌なバッターだったのだ。 そんな曲者が、犠打とはいえ簡単にアウトになってくれたのは正直助かったと、大鉄は思っていた。 あそこで鳥羽がヒットを打っていたら、沢高のピンチはこんなものでは済まなかったであろうし、ピッチャーである鳥羽が、体力と精神力が大きくものを言うこの終盤でヒットを打てば、それはピッチングにも影響するであろう。 ――まだ首の皮一枚でつながってる、ってことさ―― 見ればマウンドの仁は、今度は泣いていなかった。 次のバッターは、すでにバントの構えをしている。 ――玉川の足を考えれば、盗塁は、まずないと思っていいだろう。だったら……―― 一球目、外角にスライダー。 麗華は投球が終わるのと同時にダッシュする。 これがランナーにプレッシャーをかける。 バッターはぎりぎりまでボールを見極めようと前のめりになる。 投球は外角に外れるボール。 バッターは寸前にバットを引く。 セカンドランナーは味方のバッターにフェイントをかけられ、中途半端に離塁する。 ――そこがねらい目なのさ―― 大鉄は、一歩横に踏み出し、セカンドへ。 強肩の大鉄の送球が風斬り音を上げてセカンドに発射される。 それは観衆も息を呑むほどの、麗華の速球と大差ないくらいの剛球だった。 塁審が「アウト」のコールを叫んだ。 麗華と何度も練習したサインプレーだった。 送りバントの際のセカンドランナーというのは意外と熟練が必要なのだが、ランナー玉川の離塁が素人であることを瞬時に見破った大鉄の隠れたファインプレーだったのである。 ――もう一点もやれない、無駄なランナーも出さない、出せばまた玉川まで回る。それには……―― 玉川本人をアウトにするのが一番なのである。 大鉄の頭はすでに先の先まで考えていた。 気落ちした六番バッターは、その後あえなく三振にたおれたのだった。
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