――死んでやる―― それは乙女のプライドだった。 ――今ここで死んでやる―― 空も。 麗華に共鳴している。 暗雲が立ちこめ、一瞬で真っ暗になり、雷鳴が轟く。 ――私は乙女のプライドを貫き通すのよ、ざまあみろミルクめ―― 雷が。 近くに落ちたようだ。 ――えいっ!―― つかの間彼女は白鳥になった。 いやいや、そんなに綺麗じゃないから、アヒルかな。 空も校庭も、見慣れた町並みも、大きなブランコのように、ゆら〜りと上になり下になる。 死ぬ気まんまんの飛べないアヒルは、重力のまま落下する。 校舎裏の駐車場の、アスファルトが目の前に迫ると、視界はブラックアウトした。 暗闇の中で、ゴキン、グシャンと骨の砕ける音だけが響いた。 いくつかの本で読んだ臨死体験のとおり、暗くて狭いトンネルをすごいスピードで昇っていく感覚。 ――死んでやる―― 「……てくれ……」 ――このまま死んでやる―― 「……たす……くれ……」 ――え?―― 「助けて……くれ」 ――なに?―― 「助けてくれ」 ――誰よ?―― 目を開けてみると。 いつの間にか空は、綺麗な夕焼けに戻っていた。 麗華は屋上とアスファルトの中間くらいで浮いている。 足下に自分の死体がある。 夕陽に照らされ、黄金色に輝く絨毯のように広がった血の池に、浮かぶように。 躯はまだケイレン中で、ダンサーがフィニッシュのポーズをとるみたいに手足を伸ばして、そこで動かなくなった。 頭から顔にかけては、粘土のボールを床におとしたように潰れている。 ――あたしは死んだ―― 乙女のプライドを貫き死んだ。 蝉時雨が、静寂を一層引き立てていた。 「たのむ、助けてくれ」 「きゃあっ!」 「感慨に浸っているところを悪いんだが」 「誰よあんた」 それは初老のおじさんだった。 ついさっきまで高校生だった麗華には、年齢まではわからなかったが、髪の毛の半分以上が白い。 ウイーン少年合唱団みたいな白装束を着て、古ぼけたショルダーバッグを肩から下げ、麗華と同じ高さで浮いていた。 ――そういえば、昔のテレビでドリフターズがコントでこんなかっこうしてたっけ―― 「天使だよ」 男はいった。 「あんたが?」 「フィリップでいいよ」 「じゃあ、あんたがあたしを天国に連れてってくれるんでしょう?」 「いや、それが……」 フィリップは困った顔になり、 「ちと事情があってな、少しばかり手を貸してもらいたいんだが」 と言いにくそうに言った。 「じゃあ、さっきから『助けてくれ』って言ってたの、あんただったの?」 「まあね」 「『まあね』って、あたしはたった今死んだばかりなのよ、ふつうあなたがあたしを助けるんじゃない」 「だからそこをなんとか……」 麗華は「いやよ」という言葉を喉元で呑み込んだ。 このフィリップとかいう、インチキ臭いジイサンが本当に天使だとしたら、下手に機嫌を損ねたら、天国どころか地獄に落とされるかもしれない、と考えたのである。 麗華は一度大きな溜息をついてから、 「なによ事情って」 とフィリップをにらんだ。 「ある人に憑依してもらいたいんだが」 「憑依して、どうすんのよ?」 「その人に成りすまして、何日か過ごして欲しい」 ――め、めんどくさい―― 「あたしはね、生きるのが嫌になったから自殺したのよ。それをまた生き返れだなんて……」 フィリップは「そこをなんとか」と言いながら、ショルダーバッグからなにやら分厚い百科事典のような本を取り出し、パラパラとめくって「ああ、あった」と一つのページに目を留めた。 「姫野麗華くんね。自殺の理由は……家庭内の揉め事と、学校で特定の女子から日々繰り返される、嫌がらせ。いわゆるイジメというやつか……うーん、男性問題もあるようだね」 と、まるで市役所の市民課の職員のように、事務的に独り呟いた。 「自殺にしてはやや安易な動機だが、最近の若いコはずいぶん簡単に死ぬんだね、私も忙しくてかなわん」 最後は皮肉っぽく毒づいて嗤った。 「あんたには関係ないでしょう?その特定の女子ってやつから、あたしがどんな仕打ちをされ続けてきたか、あんたになにがわかるっていうのよ」 麗華がたまらず声を荒げると、 「確かに」 とフィリップは本から目線を上げて、上目遣いに麗華を見た。 「確かに私には関係ない話だが、君たち若い人は自殺をするということがどういう意味なのか、わかってないようだね」 フィリップの視線の鋭さに麗華は一瞬気を呑まれた。 「な、なによ意味って」 「霊界では自殺は大罪なのだよ」 「え……えええっ!」 「まさか君、死後に天国に行ける、なんて思っていたんじゃないかね」 「そこまで高望みはしてないけど……じゃあ、地獄に行くの?」 フィリップは目を閉じて、ゆっくりと首を振った。 「地獄以下、つまり論外、ということだよ」 「う、うそ……」 「考えてもみたまえ、霊界から人間界に転生するということは、修行のために送り出されたということなんだよ、自殺をするとは、その修行を自ら放棄したという意味になるわけなんだね、これが」 「じゃあ、どうなるの、あたし?」 「霊界の刑法三十一条にのっとり、霊界の森へ追放されるのだよ」 フィリップは、哀れむような視線を麗華に向け、今度は裁判官のように重々しく低い声で言い放った。 「えええっ……って、それだけじゃ意味わかんないんだけど、それってどういうことなのよ」 「つまり、広い霊界の中には、これまたとてつもなく広い森があるんだが、その森の奥深く、深くふかーいところで、木になって何万年、何十万年も動けずに、誰とも会話できずに過ごすという刑なんだね、これが」 話を聞きながら麗華の顔がひきつっていく。 それは、気が遠くなるほどの永きにわたる、孤独と拘束という絶望を意味していた。 「あの……じゃあ、その、あんたを手伝えば、そうならないようにしてくれるっていうの?」 「約束するよ」 「その、憑依する相手の人って誰よ?」 「藤村仁」 「えええっ?」 その名前は麗華を愕然とさせた。 「君もよく知っている人、だね」 「ちょ、ちょっと……ジンが……なんで、また?」 藤村仁。 名前はヒトシと読むが、麗華は「ジン」と呼んでいた。 彼は麗華の中学時代の同級生であると同時に、県内でも有名な高校野球のピッチャーだった。 本人もそれを鼻にかけて、ちょっと天狗になっているところもあったが。 将来を嘱望され、このあたりではちょっとした有名人だった。 そして、直接ではないが麗華の自殺の原因の一つでもあったのだ。 「彼はね」 フィリップはこれまでで一番厳しい顔つきで、遠くをながめて言った。 厳しい顔になると、目が猛禽類のように鋭くなり、最初の印象よりずっと怖い顔になった。 「彼は、やってはいけないことをやってしまったんだよ」 「やってはいけないこと?」 「悪魔を召喚して、魂を売ってしまった」
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