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作品名:愛しき玉手に 作者:えま

第3回   倭国泊瀬朝倉宮 西暦479年頃
 是非は無い。
 若い王子は秀でた額をまっすぐにあげて、父の言葉にただ頷いた。開け放った庭先で、飼っている番の雉が一声鳴いた。
「倭の太子はそなたを宮殿に召し、百済新王として認める儀と祝いの宴を催したいと仰せだ。王座が長く空くのはよくない。ただちに出発できるよう、心構えもしておくように」
 大事を告げ終わってほっとしたのか、少し首を傾げ、半眼でこちらを眩しそうに見ている父に「どうなされましたか」末多は訊いた。
「いや。こんなに早く、そなたを送り出す日が来ようとはな」
「叔父上が先ではなかったのですか」
 年の変わらぬ斯摩と、普段は互いに名で呼び合っているが、人前では叔父と呼ぶ。
「いや、そなたが先だ。白髪皇子様も、末多は賢王になるであろうと仰せだ」
 父の言う、斯摩が若くして即位すれば百済が滅びるなどという話は、生まれて初めて聞いた。だが自分は王となる。些末なことは考えまいと、少年は思った。
 雉を追って秋の陽の射す庭に下り、末多はどこへともなく歩いた。
澄んだ野の彼方に、香久山が滑らかな姿を見せている。百済の山はどんなふうであろうかと、倭で生まれ育った末多はぼんやりと考えた。
 屋敷を囲む垣の内側に植えられた果樹などを眺めながら行くと、炊屋へ続く曲がり角に近い樹の下に、男と女がいた。
談笑しながら、暗い紅色に熟したナツメの実をもいでいる。
生ナツメの、酸味のある味を思い出したとたんに、口の中で唾液が広がった。
「斯摩……」
 声を上げれば届く距離ではあったが、末多は生唾とともに言葉を呑み込んだ。
 斯摩は、それほど丈の高くない樹の頂上からもいだ一粒を袖で拭い、女に、口を開けて、というような素振りをした。
女が素直に口を開くと斯摩はナツメを入れてやり、両手で女の、白い頬を包み込んだ。
女が恥ずかしそうに身を逸らすのを許さず、それを咀嚼する間、末多には見せたことのない種類の微笑みで女を見ていたが、ふと顔を近づけ、女と重ねた。
その瞬間、末多は身を隠さずにはいられなかった。
見てはいけないと、思った。女は末多の母方の従姉で、名をヌイといい、行儀習いのために屋敷に入っていた。歳は、末多よりも二つほど上だった。
 末多はくるりと背を向けると、来た道をわざと足音を鳴らし、来た道を戻り始めた。斯摩の、彼を呼ぶ声が聞こえたが、聞こえないふりをして立ち去った。あれは、私の叔父上なのにと、少年はヌイを憎み始めていた。
 果たして、夕餉の膳に供されたナツメに触ろうともしない末多に、同席していた斯摩が訊ねた。
「今宵は食が進まないね。ナツメは好物だろう」
「干したのがいい」
「冬になれば、干したのが出来る」
 末多はちらと年若い叔父を見ると、乱暴に膳を脇に退けた。
「冬には、ここにはもういない」
 斯摩は黙って末多を見つめていたが、
「末多が王になるのは喜ばしいことだが、居なくなるのは寂しい」
 椀を置き、百済王になれば、もうこうやって差し向かいで飯を食えなくなるのだなと、呟いた。面長の整った顔は、母親の善夫人にそっくりだ。頭がよく、誰からも好まれる。父が、実子である自分よりも期待をかけているのも知っている。
「斯摩は、いつ百済に戻られる」
「わからない」
 あっさりと言う。思えば斯摩はいつも、風に吹かれ水に流されるままに生きているようなところがあった。
高杯から柿の実を取り掌で遊びながら、照れるように笑った。
「老いるまで倭で暮らすかも知れぬ。それならそれでよいと思っている。」
 ヌイが居るからであろうと思ったが、末多は黙っていた。
「北には高句麗、西には北魏。百済の置かれている立場は険しい。そなたが困難に思うことも多いだろう。私はいつでも、末多の幸せを祈っている」

 帰国のための準備が急ぎ行われるなか、末多王子は泊瀬朝倉宮で百済王として承認された。簡素な儀式の後の宴には、昆伎王の一族全員が招かれた。
「まぁ、いかがなされました」
 善夫人の控えの間に、百済王となったばかりの末多が顔を覗かせた。困った様子で、お頼みしたいことが、と赤くなっている。
善夫人は我が子を胸に抱くように優しく部屋に招きいれ、何かお困りですか、と新王に訊ねた。わたくしにお手伝いできるなら、と。
「若日下媛(わかくさかひめ)様に」
 雄略王の正妃に、贈り物を持参したいのだと言った。百済王になったと言えども、高貴な女性の部屋を一人で訪れるのは恥ずかしい。ヌイに同行してはもらえないだろうか。
彼女は、善夫人の伴をして宮殿に入っていた。大王の正妃に直接会えるという名誉は、若い娘を喜ばせた。
 贈り物を捧げ持ち、自分の衣擦れの音にすら怯えながら、彼女は静かな宮殿の奥へ進んだ。前を行く王となった少年に、誰もが道を譲って深々と挨拶をし、彼の行く先を止めるものはなかった。
「ここだ」
 他のどこよりも分厚い帳(とばり)が下りている部屋の前で末多は足を止め、ヌイが頷くのを見てから中へ入った。だが、誰もいない。
「この更に奥が、お部屋なのだ。まずご挨拶をしてくるから、待っていてくれ」
 後宮のしきたりなど、ヌイは知らない。滝の水が重なり落ちるように巡らされた白い帳の中に一人残され、心もとないままに辺りを見回し、腰を下ろした。
 かすかに人の声がする、ような気がした。
自分の纏う衣とは異質の、はるかに滑らかな衣の音もする。
どこからか、良い香りも漂ってくる。お妃様とはどんなお方だろうかと胸を弾ませながら待っていたヌイの前に、ぬっと人影が現れた。思わず、額を床に擦り付けた。
「ほう、これは。なかなかにいい女ではないか」
 顔を上げるとそこには、髪も肌も眉も白い大男が、舌舐めしながらこちらを見ていた。末多はどこへ行ったのだ。逃げようとして腕を掴まれ、ヌイは叫びを上げた。末多を呼び、どうかお助けをと呼ぶが、誰も来ない。もがけばもがくほど男はヌイから自由を奪い、とうとう床に組み敷くと、耳元に告げた。
「儂は、倭の太子であるぞ」
 顔中に髪と同じ白い産毛が密生し、荒い息の漏れる口の中だけが、地の底のように赤い。ヌイは恐ろしさに震え、お許しくださいと懇願したが、抵抗されるとますます興奮を覚えたように男は乱暴を続け、衣を裂き、ついには彼女を我が物にした。
「いい想いをさせてやろうというのだ。家はどこだ、名は。儂が気に入れば、倭王の正妃になれるのだぞ」
「いやです。誰か、助けて」
 しまさま
 叫ぶヌイの眼前で、赤い瞳が残酷に光った。
「しまとは、斯摩王子のことか。あやつには平気でここを」
 皆はどこに行ったのか。
何故自分がこんな目に遭わねばならないのか。
暴れもがき、叫び続けるヌイの頬に、男は二度三度と平手を与えた。
「あやつにはここを許しているのだろう。なぜ太子たる儂には許さない」
 首を絞められながら、娘は必死にもがいた。何度も、優しい斯摩の名を呼んだ。
 斯摩なら、こんなことはしない。
抱きあったり、唇を重ねたりすることはあっても、人が面白可笑しく言う、男と女のすることを、斯摩が求めてきたことは、まだない。
 激しく動き続ける男の体のしたでのたうち、助けを求めて伸ばした手に、何かが触れた。冷たく硬いそれを握り締め、ヌイはかっと目を見開くと、男めがけて振り下ろした。
 ヌイしゃぶりつき、獣のように息を吐き、快楽に喘いでいた男は、頭を殴りつけられた瞬間、おぉぅ、と大きく唸って仰け反った。ヌイは腰を捩ったが、逃れられない。また、頬を打たれた。
「おのれ、よくも」
 白い額に血が一筋流れるのを舌で舐め、男はヌイが握ったままの短剣を鞘から抜くと、左の胸を一突きに刺した。
 突き刺さった短剣の柄を、さらにぐるりと捻じ込まれ、ヌイは目を見開いたまま動けなくなった。恋人の名をもう一度呼んだつもりだったが、もう声にはならなかった。

 王になった日に、宮殿の中で人が死ぬなどと。
 不吉だと、声には出さなかったが、誰もが末多の行く末を案じた。泣き崩れる善夫人を労わりながら、斯摩は唇を噛み締めていた。
「なぜ、白髪皇子の部屋で死んでいたのだ。末多よ、そなた、若日下媛様のもとへ贈り物を届けるのに手伝って欲しいと、ヌイを連れて出かけたのであろう」
「はい」
 若日下媛の部屋から戻った末多も、知らせを聞いて顔を蒼くした。
「ここで待てと、お妃様の部屋の前で待たせたのですが、迎えに行ってみると居なくなっていたのです」
「ヌイが無断でその場から動いた、というのか」
「そうなります。お妃様をお待たせするわけにはいかぬので、探しもしませんでした。まさか、こんなことになろうとは」
 末多は斯摩をちらりと見た。
「直接亡骸を見てはおらぬが、可哀相に、胸を突かれていたそうだ」
「そうでございますか」
 善夫人の細い啜り泣きは震えている。
「まさか、あのおとなしい娘が、白髪皇子様に殴りかかって額に傷をつけようとは」
 皇子がそう言う。ならば、責めようもない。だが実際は、無理やりに犯され、精一杯の抵抗をしたのだろうということは、皆わかっていた。
「ともかく、宴は行われる。雄略王も、病を圧して末多を祝いにおいでくださるそうだ。そなた達、くれぐれも失礼のないよう振舞うように」
 宴の前に、末多には着替えが待っている。新王が別室に消えると、昆伎は斯摩を近くへ呼んだ。
「斯摩。私は残念でならぬ。悔しくてならぬ」
「兄上」
 暗い顔で斯摩の肩に手を置いた。斯摩も、遠い昔に雄略王に背いて殺された、池津媛の悲劇を聴き知っていた。
「そなたは、私以上に残念でならぬだろう」
「……ご存知でしたか」
「そなたは若く、これからが永い。悲しみに囚われるな。だが、ヌイを忘てはならぬぞ。忘れぬことが、あの哀れな娘を救ってやるだろう」
 丁寧に弔ってやりたいなと呟いた昆伎を、善夫人の泣き濡れた瞳がじっと見つめていた。


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