保代木(やどりぎ)の枝々で実をついばみながら、連雀が騒いでいる。 今年は冬越しの鳥が多い。野山の作物が豊富であれば、獣も民も飢えることはなかろう。昆伎は、珍しく晴れ渡った空に手をかざし、眩しさに目を閉じた。手には、父王の死を知らせる、兄からの文が握られていた。 「世は憂し、恥(や)すし」 この世とは、なんといやなところであろう、耐え難いところであろうと呟けば、涙が溢れるばかりだった。 攻め入った高句麗によって蓋鹵王は逮捕され、処刑されたと書いてある。 新羅に救援を求めて南方へ逃れていた兄は逃亡先で王に即位し、都を熊津(ゆうしん)に定めたという。 敵国が侵入し、戦闘が行われる。 勝っても負けても、それぞれを支配していた権力者の生死しか伝わらない。 父を亡くした哀しみ、生まれ育った城を奪われた寂しさ、苦労を背負う兄への想いに加え、川のごとくに流れたであろう民の血を想い、沈鬱な表情で立ち尽くす昆伎の背後に、そっと近づくものがあった。 「寒くはございませぬか、兄上様」 意志の強そうに口元を引き締めた少年は、前年の暮れ、十三になった。 母上が心配なさっておりますよと指を向ける屋根の下に、満開の花を思わせる女性が佇んでいる。 「そうだな、斯摩。寒いな。中へ入ろう」 文を丁寧に畳んで懐に収めると、昆伎は歩き出した。その後ろに少年が続く。 屋根の下の善夫人も、蓋鹵王死すの知らせを受けて、白い肌が青く見えるほど哀しげな様子を見せている。 「斯摩(しま)よ、しばらく母上と二人きりにしておくれ」 少年が奥に消えると、昆伎は善夫人のいる階の根元にゆっくりと歩み寄った。 「そこは風が吹いて寒うございます。どうぞこちらにお上がりを」 「いえ、ここで結構」 簪を揺らし、夫人は昆伎と向かい合うように近づいてきた。 「ははうえ」 母と呼ばれるたびに、善夫人は寂しそうに微笑む。 「ご心配には及びませぬ。父上亡きあとも、母上と斯摩はこの昆伎が」 大切にする、と誓った。 これまでにも幾度となく誓ってきた言葉であり、昆伎が誓いを違えたことはなかった。
倭へと渡る昆伎王子に従って船に乗った身重の善夫人は、対馬を経て壱岐を越え、那大津沖の各羅(かから)島にさしかかったとき産気づき、男児を産んだ。 島で生まれた王子は、斯摩君と名づけられた。 百済を出発する直前、父王は、くれぐれもと昆伎に頭をさげた。 子が産まれたならば、母親とともに百済へ送り返してくれ 齢四十を過ぎて出来た子が惜しかったのか、最愛の慕夫人に良く似た若い側室が恋しかったのか。 だが昆伎は母子を守るため、敢えて父との約束を破った。 帰国させたなら、嫉妬に狂う母からどんな仕打ちを受けるか知れない。母が亡くなる日を待とうと思った。 産みの母の死を望むという大逆に良心を痛めつつ、出来れば長生きをしてほしいとも願った。そうすれば、母と子をいつまでも自分のそばに置いておけるからだ。 だが昆伎は、歳の違わぬ夫人を母と呼び、幼い斯摩を弟と呼ぶことで、越えてはならない一線を引いた。
昆伎の笑顔を見つめていた夫人の指が、見えないものを掴むように伸び、欄干に載せられた。唇は紅く、吐く息は白い。 「昆伎様」 「何もお言い召さるるな」 「ただ、お礼を。わたくしは、わたくしと斯摩は、望外の幸せ者です」 深く礼をすると、善夫人は断ち切るように奥へ消えた。髪に挿していた保与の枝が落ち、昆伎の足元にはらりと舞い降りてきた。それを拾うと昆伎はそっと唇を寄せ、目を閉じた。百年も千年も、ともに生きたいと願う気持ちは、少年の頃から寸分も変わってはいなかった。
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熊津で百済の新しい都を開いた第二十二代文周王は、半島南部を伺う高句麗に備えるため、軍事の実力者であった兵官佐平(長官)・解仇(かいきゅう)を重用した。 王権が低下していることをよいことに、解仇は専横に振る舞い、王と対立するようになった。結果、文周は即位して三年で軍事政権によって暗殺されることになる。 後を継承した長子・三斤(さんきん)王も、解仇一派の反乱を制圧するなどのうちに、まもなく十五歳の若さで病死してしまう。妻子なく、嗣子もない。百済王家は、ここで断絶の危機を迎えることになる。 倭に、昆伎がいるではないか。昆伎には子も居よう 声を上げたのは、蓋鹵王の正妃であり、文周・昆伎きょうだいの生母・禾(か)夫人だった。 倭王に願いでて、急ぎ誰かを帰国させよ 百済の重臣たちは、用意した三隻の船それぞれに正大使、副大使を任命し、さらに正大使にも序列をつけた。彼らに中身のまったく同じ親書を預け、 「汝らのうち、必ず誰かは倭に至れよ」 祈るように言い聞かせて、送りだした。 百済から船出した大使のうち、一番位の低かった朴大使が乗った船を、耀(よう)号という。 嵐の前夜、それまで元気だった朴大使は突然、胸を押さえて昏倒した。手の施しようもないまま明け方までに息を引き取り、黒雲湧き起こる海に葬られた。 副大使の梁は、朴大使の護衛を任されていた武官・崔斉夏(ちぇ・じぇは)を呼び、亡き大使に託されていた手紙を預けた。 「水手(かて)によれば、大嵐が近づいておるそうだ。 大禍なく過ぎればよいが、朴大使様の急死も、不吉の前兆かも知れぬ。これは、大使様がお預かりしていた文だ。同じものは、儂もお預かりしている。朴様亡き今、次はお前がお預かりせよ」 そして海は荒れ始め、まず、先を進んでいた船が沈んだ。 耀号は、帆を破りつつもなんとか夜明けを迎えようとしていたが、浸水が始まっていた。船がぶつかるという叫び声で甲板に出たとき、近くを航行していた残りの一隻が波を受けて大きく流され、耀号の横腹にめり込んだ。 その勢いで折れた柱が斉夏の脚を襲い、彼は動けなくなった。倒れたまま、傾いた甲板から見る間に流されてゆく同胞たちに向かい、何にでもいいから掴まれと声を嗄らして叫び続けた。やがて風と雨の中で彼も力尽き、いよいよ気を失いかけたとき、若い水手から、両の頬を叩かれた。 「目を閉じてはなりませぬ。これをお使いあれ」 嵐は幻のように去り、明けの空に嘘のような青が湧き、虹が架かるのを見る頃、耀号は完全に沈んだ。 水手から渡された板切れに掴まって漂流し、斉夏は生き延びた。
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薄く目を瞑り、昆伎王は全身を耳にして待っていた。辺りから音は払い去られている。この世にたった一人で取り残されたならば、このように静かなのであろうかと思う。 待たされるのはいつものことだが、今日は何倍にも増して、時の過ぎるのが長く感じられていた。 瞼の隙間から光を伺い、鼻孔を膨らませて空気を嗅いだ。 落ち着け。落ち着けと自分に言い聞かせ、膝に置いた手を開きそしてまた閉じた。 だん。 板敷を踏む音が響いたのはそのときだった。 ようやくお出ましか。 冠を傾け、礼をしたまま足音を待った。 「お待たせしたな、軍君(こにきし)殿」 “こにきし”という、昆伎が倭で与えられた名を呼ぶ皇子の声は、雷鳴さながらだ。 生まれつきそうであったことから、白髪皇子(しらかみのみこ)と呼ばれている。 父・雄略に似た堂々たる体躯の偉丈夫で、腕などは昆伎の倍もあろうかと思うくらいに太い。上座にどっかと胡坐をかいて座ると、いきなり話を切り出した。 「話は聞いた」 潜めたつもりの声も地鳴りに似ている。 光の加減で赤く見える瞳は、人に恐れをなさしめた。 「先の百済王が身罷ったのは、いつだった。まだ二〜三年にもならぬであろう。またしても暗殺か」 「遣いによりますと、重き病を得ましたそうでございます」 明らかに退屈そうな顔をしている。つまらない、と言いたげだ。 これだから蛮人などと陰口されるのだと、昆伎は冷ややかに思った。誰か、倭人に洗練というものを教えてやってくれ、と。 那大津からそう遠くない浜辺に流れ着き、村人に助けられた斉夏は、船で負った傷も癒えぬうちに筑紫の王に願い出、瀬戸の内海を旅して泊瀬朝倉(はつせのあさくら)宮に入った。そんな経緯などに、この皇子が興味を持つはずがない。 昆伎は両手をついて頭を低くした。 「英明なる太子殿下にお願い申しあげます。 三斤王亡き今、百済の王位は空の巣でございます。このままでは、いつ高句麗に攻め入られるやもしれません。これは、貴国におきましても重大な危機にございます。 さすれば、わが一族のうちより誰かを選び帰国させたく存じ、お願いに参上いたしました。何卒新国王の帰国をお認めくださりますよう、大王によろしくご進言ください」 この頃、雄略王は病を得て、長く表に現れていない。 実権はこの皇子が握っているも同然だった。 「父は儂の言うことを支持するだろう。儂が、新しい百済王を任命していいのか」 昆伎は畏れながら、と更に低頭した。 「御承認願いたく存じます」 頭の上で笑い声が轟いた。言葉とはむずかしいものよのと、膝を打って面白がっている。皇子はしばらく笑っていたが、ふと真顔に戻り、昆伎の顔を覗き込んだ。 底光のする大きな瞳が、昆伎を探ろうとしている。 「軍君殿のお考えは。ご一族の誰を王になさりたいか、伺おうではないか」 「わが子、末多(まつた)を新王として帰国させたく」 色は無いが、濃い眉が動いた。 「末多王子か」腕を組み、頷いている。 「あれは確かに賢い。若いが立派な王になるであろう。だが、先に王として立てねばならぬ者が居るのではないか」 「と仰せになりますと」 「斯摩王子だ。末多よりもあれのほうが年上であろう。 しかも斯摩は、先王、お前の父の実子であろう。 君は倭と百済の仲立ちであるから外すとしても、順番から言えば斯摩王子を王位に就けるほうが先ではないのか」 「わたくしは」 百済にはいまだ、斯摩の母親・善夫人を疎んじる母が生きている。 帰国させてしまえば、守ることはできなくなる。まだ帰国させることは出来ない。 「わが子を、王にしとうございます」 白髪皇子は鼻先を掻いている。 日照り雨が、幻のように降り注ぎ、去って行った。秋草にまろぶ露を目の端に感じたが、昆伎は皇子から視線を離せなかった。 「斯摩を国に帰せば、軍君殿にはよりめでたきことがあるのではないのか」 「……弟は」 敢えて弟、と呼んだ。 「生まれたときの占いで、亡国の卦ありと言われましてございます。若くして即位すれば、国を滅ぼすことになろうと。ですから」 「亡国とは、それは愁事であるな」 巨躯に似合わぬ薄い唇がにやりと笑みの形を作り、重ねて「亡国のぅ」と呟いた。 「百済の男子は、我慢強い。飢えているのに目の前の馳走も取らぬ」 この好色な太子が、善夫人と昆伎の仲を興味本位で見ていることを、彼は知っていた。 欲も得もなく大切なものを守るということを知らぬ、哀れな蛮人めが。 だが言葉を尽くして病床の雄略の快癒を祈り、重ねて末多王子の帰国を求めると、昆伎は静かに引き下がった。 宮殿の階を降りきった所に、昆伎が百済から連れてきた古株の近習が、沓(くつ)を揃えて待っていた。 「昆伎王様、お顔のお色が。ひどくお疲れのご様子でございますが」 「うん。疲れた。ひどく疲れた。ムンよ、お前、馬を牽きながら、百済の歌でも歌ってくれぬか」 歌えるかと訊くと、ムンは沓を履かせながら、では子守唄などはいかがでしょうかと微笑んだ。
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