先を行く案内役が何度も振り返るのも構わずに、昆伎(こんき)王子は歩いては止まり、止まっては空を見上げ、鳥の行方を追い、花があれば花に見入っていた。 百済の王宮に甘く満ちる夏の匂いが、若い王子の心を刺激して止まなかったのだ。 だが老人は堪えきれなくなった様子で数歩戻り「お急ぎくださりませ」と昆伎に頭を下げた。 「父王様がお待ちかねでございます」 「もう少しだったのに」 「何が、でございますか」 「もう少しで詩が完成しそうであったのに。 兄上の婚礼の宴で披露する詩だ。 それなのに、カラスが喚くものだから、一番いいところが頭から抜け出してしまったではないか」 髭のないつるりとした老人は、一瞬眉を曇らせたものの、黒い衣の腰を慇懃に屈めた。これは、大層ご無礼をいたしました。 「殿下のお作が綺羅と光りましたもので。 カラスは光るものが好きでございますれば」 昆伎は明るい顔で笑うと袖の袂を探り、侍従に向かって拳を差し出した。 「見え透いたお世辞だが、今の言葉、気に入ったぞ。 さすがだな。いつか私の詩に使ってやるとしよう。だから、褒美にこれをやる」 皺びた掌に、小指の先ほどの小さな白い塊が落ちた。 見た目、なにかの食べ滓である。 この王子はまた悪ふざけをとは思ったが、有難く押し頂き懐に収めようとした。そのとき、えもいわれぬ芳香が鼻孔を突き上げ、彼は驚いて昆伎を見上げた。 王子はもう、すたすたと歩き始めている。 「お待ちくださりませ、昆伎様」 「乳香だ」 「しかし、このような高価なものを」 「いいから、取っておけ。傷や打ち身の薬にもなるというぞ。 さて、また父上からお小言をいただくとするかな」 足を止めると、もう王の居室の前である。 槍を携えた衛兵と居並ぶ侍女たちに迎えられ、昆伎は部屋に入った。 帳を巡らした奥に、父王、そして同母兄の文周(ぶんしゅう)が、沈痛な面持ちで待っていた。 重苦しい場所が、昆伎は苦手だった。高句麗でも責めてきたのかと問いたくなる。 だが、口を慎もうと決めると、遅くなったことを詫びながら彼は席に着き、父の言葉を待った。 「碁を打とうか、昆伎」 普段なら、歌舞風流にばかり耽溺せずに武術を磨き、国難に備えよという類のお小言をいただくのが決まりなのに、父自らが遊ぼうと誘ってくる。 だが険しい表情の上に露わになっている苦悩は、息子にはちゃんと見えていた。 「赤子より腕の劣る私で、お相手が務まるでしょうか」 「これ昆伎、父上の仰せだ。黙ってお相手せよ」 文周に軽く叱られると、昆伎は僅かに首をすくめた。 盤を挟んで打ち始めたが、その日の父王の碁は驚くほどに鈍く重かった。 下手は下手なりに工夫して打っているのだから、きちんと相手をして欲しい。 誘ったのは父上ではありませんかと昆伎が言いたくなったとき、盤上を覆ったままの影が「昆伎よ」と呼ばわった。 「昆伎よ、そなた、倭へ行ってくれまいか」 えっ。 「父上。今、何処へと仰せで」 「倭国へ行ってくれ」 「ええっ」 碁盤をひっくり返す勢いで、昆伎は驚いた。 倭とは、あの倭でございますよね、兄上。そうだ昆伎、あの倭だ。あの倭のほかにどの倭があるのだ。 息子たちの会話の間で父は静かに目を閉じ、腕を組んだ。 「倭の武王が」 あるときを境にして、東海に浮かぶ小さな国の粗暴な王を呼ぶとき、父の声には一種の恐れと侮蔑とが混ざるようになっていた。 「質を寄越せと言ってきたのだ」 「武王ならば、女を所望してきたのではありませぬか」 父の後宮には、同腹異腹をふくめ多くの娘たちが居る。しかし王は首を横に振ると、娘は駄目だ、と唸った。 「儂の娘は倭になど遣らぬ。もう二度とな」
十数年前。 蓋鹵(こうろ)王が即位したとき、百済で武と呼ばれていた倭の雄略王は、慶賀を祝い、使者に贈り物を預けて遣わしてきた。阿礼某という使者は王に向かい、百済の美女を倭王への土産に要求した。 こうして選ばれ倭に渡った王女は、まだ初潮もみない少女だった。 家族や故郷から引き剥がされて泣き暮らす彼女に、倭王は池津(いけつ)媛と名づけた。一年が経ち二年目に入る頃には、泣いてばかりだった媛も、麗しい女性に成長していた。 いよいよ正式に妃として入内させようとなったとき、思わぬ事態が露見した。池津媛は、雄略王の臣下・石川楯(いしかわのたて)と、深い仲になっていたのだ。 「儂のものになることは拒んでおきながら」 雄略王の怒りは凄まじかった。 皇子であった時代から、相手が血のつながった兄弟であっても、己の意に沿わないものの命を戸惑いもなく奪い、欲しいものを力づくで手にしてきた男である。 池津媛と石川楯は捕らえられ、生きたまま火刑に処せられた。 これを知った池津媛の生母・慕(も)夫人は、自害しようとして引き止められ、尼僧となって蓋鹵王の後宮を去った。
「確かに、倭から提供される兵力は高句麗を威嚇するのに役立ってはいるが、百済からは優れた文物を与えているではないか。 百済は倭に屈し、隷属しているわけではない。 百済がなければ、あの東方の蛮族は、いつまで経っても蛮夷のままだというに」 「父上」 誰が聞いているやもしれませんよと、文周王子は人差し指を口元に立てて、辺りの気配を伺った。王はうん、と頷き、再び昆伎を見据えた。 「碁に、相碁井目(あいごせいもく)という言葉がある。 意味はちと違うが、人にはそれぞれに見合った力量があるというふうに儂は捉えている。 昆伎よ、お前は放埓と見せて実は深いものを持っている。 質にふさわしいと見込んで、お前に頼みたいのだ。行ってくれるな」 質と書いて、むかはりという。 友好関係を結ぶ国どうしが交わす物的保障であったが、一方で、外交官としての役割も果たしていた。 質としての値打ちを保つために、王族から選ばれて倭に渡り、倭の宮廷では賓客の扱いも受ける。しかし一歩間違えば、異腹姉の池津媛と同じように命を落とすことになる。 自分に「行かない」という選択が最初から与えられていないことは、昆伎にはわかっていた。 「昆伎、済まぬ」 夕暮れ、兄が部屋を訪れた。婚礼を控えて揃え始めた口ひげが、まだ似合わない。弟は相変わらず、雲が墨を刷く夕暮れの空を眺めていた。 「私が行くべきなのかもしれないが」 「倭に行くために海を渡れるような歳の男子といえば、兄上か私しかおりませぬ。兄上は、世に軟弱者と知れ渡る私などと比べても、お体がお強くない。もしものことでもあれば、母上がどれほどお嘆きになるか。ここは私で決まりでしょう。相碁井目でございますよ」 知ったばかりの言葉を使って得意そうに胸を張る弟に、兄は額が触れるほど近づいた。 「昆伎、ここは人生最大のわがままを言うべきときぞ」 「どういうことですか」 「とぼけるな。わかっておろう。 まぁよい。父上には私がお願いしておくから、安心せよ」 「一体、何を」 「まったく、お前は本当に喰えぬ」 文周はすっ呆けを続ける弟の肩をぽんと叩き、にっこりと笑った。 「お前、先ほどはわざと盤をひっくり返したであろう。父上に勝たぬように、な」
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宴の果てない広間を出ようとする鼻先に、灯りが差し出された。 従者見習いの少年が、不慣れな仕草で部屋に帰る足元を照らそうとするのを、昆伎は断った。星を凌駕して、煌々たる月の夜である。 少年は傍らに立っていた年嵩の女官の、冷たい横顔を伺っていたが、おずおずと引き下がった。 昆伎は宴の広間から流れる音曲に合わせるように鼻を鳴らしながら二〜三歩歩き始めたが、くるりと身を返すと、少年を呼んで手招きした。 「案内を頼む」 王子に声をかけられた少年は、黒子のある目元にほっと安心したような笑顔を浮かべ、腰を屈めて走り寄ってきた。 「ぼんやりしていた。済まなかったな」 回廊の角を曲がりきったところで、昆伎は少年に謝った。そこまで来れば、女官からは死角になって、見えることはない。 自分の部屋になど、目を瞑っていても戻れるが、見習いの少年は自分の務めを果たさなかったと責められ、罰として鞭を受けることになる。それでは夢見が悪いではないか。言葉にはしなかったが、昆伎はそう思っていた。 月光は廂深くまで入り込み、ひどく明るかった。庭石の蔭で鳴き騒ぐ虫の音を分けて、昆伎は自分の部屋の前の石段に足をかけた。 幼い頃から世話をしてきた乳母が、帰りを迎えて静かに微笑んだ。王子は再び、見習いに声をかけた。 「お前、このあとなにか仕事があるのか」 少年は「特には」と震える声で答えた。肩が上がって、小さくなっている。 「名は」 「ムンと申します」 「私の部屋で遊んでいかないか、ムン。双六をしよう。菓子もあるぞ」 ひどく大人びたことを言ったりしたりする一方で、多くの異母きょうだいを持つせいか、昆伎は年下と遊ぶのも好きだった。少年はどう応えていいか戸惑い、視線で老いた乳母に助けを求めた。 「昆伎様、お客様がお待ちでございますよ」 「もう夜だ。客など追い返せ。私はムンと遊ぶ」 「もう夜なれば、この者は当直の夜食の世話をせねばなりませぬ。 持ち場へ帰してやらねば、叱られて可哀相でございます」 昆伎は膨れっ面で老女と少年を交互に見ていたが、やがて小さなため息をつくと、 「お前、次は必ず遊ぼうぞ」 とムンに言い残し、部屋に入った。 静まり返った部屋には、広間で催されている兄の婚礼の宴の騒ぎは届かない。 だが、衣の袖や裾の端に残る華やかな宮廷の香りが、昆伎を孤独にさせた。 彼はもうすぐ、海を渡って倭国に向かう。 明ければ十六になる。じきに兄のように、正妃を迎えることになるだろう。一人前の男として、王族の務めを果たせねばならないのだ。 「分かってる」 「なにか仰られましたか」式服の上着を取りながら、乳母が訊いてきた。 「なにも」 分かってなぞいるものか。心の中で罵詈を飛ばすのだった。 誰が好きこのんで、野蛮人の国になど行きたいものか。 いっそ倭に着く前に嵐でも起こらぬものか。 そして、どこか遠い南の島へ私を流してくれぬものか。 星を月を空を眺めて詩を作り、魚を釣り、花の蜜で喉を潤して暮らすものを。 「客が来ていると言ったな」 「はい」 「どこに」 「隣の居間におられます」 「誰だ」 「善(せん)夫人様でございます」 はっ、と目が覚めた。 父の後宮で一番年の若い、善夫人涼慈(りゃんじゃ)である。 昆伎は鏡を覗き込み、襟を正すと、急いで居間に入った。気配を受けて、明かりの中の女性が深く頭を下げて迎えた。結い上げた黒髪は、重たくはないのかと問いたくなるほどの簪で飾られている。 昆伎は一礼して席についた。 「お待たせしました」 「兄上様におかれましては、本日めでたく正妃様をお迎えになられ、誠におめでとうございました」 美しい切れ長の瞳に、昆伎の姿が映し出されている。 口上は拙いが、昆伎には、その日聞いたどの祝辞よりも心がこもっているように思われた。 「ご用でしたら私が伺いましたのに」 王子は、喉が渇くのを感じていた。 父の側室が、いったいなんの用だろうか。紅をさした唇が自分に何を語りかけてくれるのかと期待に踊り、胸の高鳴りが相手に聞こえはしないかと、恥ずかしさで赤くなった。 「お元気なようですね」 つい間抜けな質問が出たが「昆伎様も」と、善夫人は温かく応えた。 「それで、あの、今夜はどのような」 「お父上様から、ご命令を受けて参りました」 「父上から、ですか」 夫人は膝の前に両手をつくと、昆伎に向かって丁寧な礼をした。 「わたくしは昆伎様とともに、倭に参ることになりました。お父上様はわたくしが今後、昆伎様に侍ることをお望みであられます。ですから、なにとぞよろしくお願いいたします」 昆伎は仰天して目を見開いた。思わず「馬鹿なことを」と叫んだのも無理はなかった。なぜなら。 「それは出来ません」 「わたくしでは不足でございますか」 「とんでもない。十分過ぎる……いや、そうではなく。あなたを倭にお連れせよとは。父上はいったいどうなさったのだ。駄目。駄目だ、駄目。なぜならあなたは、今あなたの腹には、父上の子がいるではありませぬか」 王子の慌てぶりを、夫人は哀しそうに見ていた。
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「で、どうした」 兄はまだ、髪も整えていない。 早朝、新床を訪れた弟の無礼に小言を漏らしながらも、部屋に迎え入れてくれた。 寝室には新妻が、まだ横になっているだろう。だが昆伎には、夜のけだるさを残す兄を気遣う余裕も無かった。 「眠い。寝ておらぬのだ」 「それはお疲れ様でございます。 でも、私も寝ておりませぬ。しかし、寝ている場合ではありませぬ」 善夫人は、王命であると言い張り、昆伎の部屋で一夜を明かした。 昆伎は身重の彼女に寝台を明け渡し、自分は居間に敷物を敷いて横になった。 扉一枚を挟み、憧れの女性が眠っている。 自分より一つか二つ年上の美しい女性は、父が一番可愛がっている側室だ。父が許したからといって、迂闊に手を出すわけにはいかないと思えば、尚更眠れなかった。 夜が更けるにつれて冷えてゆく固い床が、火照った頭と体には有難くすら感じられた。 「だがお前は、善夫人のことを好ましく思っているだろう」 「あのような女性を妃にできればと、憧れているだけです」 「それで十分だ。お前は倭国に行く。嬬(つま)も持たずに行くのは寂しいであろう。だから私は父上に、昆伎に善夫人をお与えくださいませと願い出たのだ。遠慮なく嬬にすればよいのだ」 「人は物ではありませぬ」 昆伎は善夫人が哀れに思え、思わず叫んでいた。 男の都合だけで女を右から左へするなど、倭国の蛮王と変わりないではないか。 兄は、実は、と言葉を次いだ。 「先にこの話が出たのは、父上からだった」 「どういうことでございますか。わが子を身ごもっている夫人が、邪魔になったとでもいうのですか」 まさか、もう別の寵媛をみつけたとでも言うのか。そのような冷淡な人物ではないと、昆伎は父を信じている。 「昆伎、善夫人を守ってやってほしいのだ。我々の母上から」 あっ、と昆伎は息を呑んだ。
二人の生母である百済王妃は、若い側室たちを憎んでいた。 歳を重ねるにつれて、夫である蓋鹵王の愛情を受けられなくなった傍らで、夫は新しい側室を招き入れ続けている。 しかも彼女たちは皆、出家した慕夫人の骨族である。 王が最も愛する女性は、いまだに池津媛の母であり、彼はその面影を追い求めている。 当の善夫人は、慕夫人とはまったく血縁がないが、どの側室たちよりも慕夫人に似ていた。
「先日、善夫人の夕餉の椀に、死んだネズミが入れられていたそうだ」 「そんなことが」 「配膳した官女が捕らえられ、斬首された」 「存じませんでした。まさか、それを指示したのが母上ということなのですか」 線が細く影の薄い、一見おとなしい母の姿を思う。 兄の、鼻筋の通った細面の中に母の面影を見ながら、昆伎は「まさか」と繰り返した。 「証拠がない。 だが、母上がかねて後宮の女どもに辛く当たっているのは周知のことだ。 父上はネズミの一件で、ご自分が母上を遠ざけているからだという責任も、多少は感じられたようだ。 そして不安を覚えられたようだな。このままでは、善夫人もろとも、腹の子も無き者にされてしまうかもしれないと」 父王から相談を受けた文周は、倭国に行く昆伎に善夫人をお預けになられては、と進言した。産み月からすれば、子は倭国で生まれるはずである。 昆伎の性格からして、善夫人と赤子を粗末に扱うことは決してないであろう。 子は倭国で育てばよい。善夫人が昆伎の嬬になっても、腹の子は確かに百済代二十一代蓋鹵王の子である。男児であれば、必ず、百済がその子を王として迎える日が来るだろう。 「無理でございますよ。 父上が、母上を大切にされればよいことではありませぬか。 そんな簡単なことが、なぜお出来になれない」 不服を露わにする昆伎を、文周は笑った。子どもだなとからかった。 兄上とは、ひとつしか違いませぬ。昆伎はぷいと横を向いたが、頬は赤く染まっていた。
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