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作品名:小説ボラカイ島 作者:南右近

第75回   再会
再会


 早苗が詩仙堂の縁側に座ると、静かに雨が降り始めた。しばらくすると軒先から雨が何本もの線になって、音をたてながら滴り落ちだした。訪れる観光客の数もまばらで、かえって早苗にとっては好都合だった。お庭を見るために開け放たれた詩仙堂の二十畳ばかりの部屋には老夫婦と、あとは中年の女性が一人で旅行案内を開いているだけだった。
 早苗にとって、このお庭は茂木との大切な思い出の場所だ。また来ようねと約束をした特別のお庭だった。計らずも、茂木が自慢をしていた見事な紅葉のお庭を早苗は一人で眺めていた。もし、正樹への熱い想いが無ければ、二度とこのお庭には足を運ぶことはなかったかもしれない。今は茂木への想いはすっかり消えてしまっていた。正樹にもこのきれいなお庭を見せたいと願う気持ちの方がより強かったからだ。
 まだ年寄りではないというのに、いったいこのお庭をこれから何回見ることが出来るのかと、ふと、早苗はおもった。外交省の役人になり、大切な茂木のことを死に追いやってしまった自分のことが嫌になり、人生の幕を引こうとしたこともあった。しかし、今は違う。正樹の為にしてあげたいことが山ほどあるのだ。横にいる老夫婦、ああして二人でお庭を眺めている姿は早苗にはとても羨ましくおもえた。愛する人の為に生きてゆきたいと願わずにはいられなかった。
「コーン」と獅子脅しの音がした。
 自分のことを愛していたボンボンにもすまないことをしてしまった。あの獅子脅しの音に心が動かされたボンボンもすでにこの世にはいなかった。最後までみんなのことを考えて、自らの命を絶ってしまった。人生とは長ければ良いというものでもない。一人一人の人生にきらりと光る価値があり、とても深くて重いものなのだと早苗は感じていた。

 ホテルに戻った早苗は、電話で戸隠の父親にボラカイ島へ明日旅立つことを告げた。その後、オーストラリアにいる親友のナミのところへも電話を入れてみた。明るいナミの声が返ってきた。
「ああ、良かったわよ。あたし、明日、日本に戻ることになっているのよ。」
「そうなんだ。あたしは明日、ボラカイ島へ帰るわ。」
「帰る? そうか、もう早苗は島の人間になってしまったというわけね。」
「まあね、ナミも島に来るんでしょう。しばらく休暇、もらえるんだから。」
「行く、行く。のんびりしたいものね。島でしばらく休ませてもらうわ。」
「紹介したい人もいるし。」
「誰よ、それ?」
「ああ、そうか。 もう前に、ナミと一度、会っていたわね。」
「ええ、誰よ、それ。」
「佐藤さん。」
「佐藤さん・・・・・・? 忘れちゃったな。あの時はだいぶ酔っ払っていたから、思い出せないわ。」
「今は、あの岬の家のボスになっているわ。あたしの為にオーストラリアからおみやげを買ってくるんでしょう。それ、佐藤さんに回してもいいわよ。」
「いいよ、そんなこと。早苗のおみやげは早苗のよ。じゃあ、空港で佐藤さんに何か買うことにする。」
「で、いつ頃、島に来る?」
「東京にいても仕方がないしね。上司に挨拶まわりしたら、すぐに行くから、あれかな、また、マニラから島まで、警察のヘリ、頼めるかな?」
「駄目よ! 無理、無理! 自分で飛行機と船を使ってちゃんと来なさいよ。もう署長さん。ナミのことなんか覚えていないわよ。」
「そうかな、じゃあ、賭ける?」
「嫌よ! そんな賭け。」
「だいたい、日本国の外交官が青色パスポートを使って、公私混同も甚だしい! 警察のヘリコプターを自分の休暇の為に使ったと知れれば、大問題になるわよ!」
「でも、土曜日に島への定期便は、まだ、飛んでいるのでしょう。」
「ええ、土曜の午前中に来て、忙しくない時は、お昼過ぎに帰るみたいよ。」
「じゃあ、それに乗せてもらうわ。それなら、問題はないでしょう。」
「分かったわ、それなら、あたしからも署長さんに頼んでおくから。」
「で、その佐藤さんって人、どんな人? 」
「佐藤さんはいい人よ。真面目で、やさしいし、それに頼りがいもあるし、まあ、将来は渡辺電設の社長さんになる人だと、あたしはおもうな。」
「そう、そうなの。・・・別にね、・・・あたしはそんなこと、どうでもいいんだけれどね。」
「やっぱ、興味あるわけ?」
「いいえ、別に。」
「オーストラリアでは、どうだったの?」
「何もなかったわよ。早苗はどうなのよ。」
「あたしは・・・・・・、いいじゃない、そんなこと。それじゃあ、ボラカイ島で待っているからね。もう、電話切るわよ。」
「分かった。それじゃあ、ね。」


早苗は予定を変更した。セブ島経由ではなくて、マニラに立ち寄ることにした。マニラ東警察の署長にナミのことを頼むためだった。驚いたことに、飛行場には菊千代が来ていた。マニラの役所に用事があって、島に帰ろうとしたところ、ネトイから早苗たちがマニラへ向かったと知り、ずっと半日以上も待っていたのだそうだ。三人で車を拾い警察署に急いだ。車の中で早苗は菊千代に茂木が育った紀伊半島の新鹿の写真を見せた。菊千代はその写真を、一枚、一枚、丁寧に心に焼き付けていた。珍しく渋滞もなく、車はマニラ東警察署に着いた。署長室に入ると、まだまだ元気な署長が机の上の書類を放り投げて、立ち上がった。
「いやあ、早苗さん。お元気でしたか。おー、今日は菊さんと茂木さんのお母さんもご一緒でしたか。どうですか、その後、おかわりはありませんか?」
 早苗が二人の間に入って通訳を始めた。
「ありがとうございます。おかげさまで元気でやっております。真田の奥様とお嬢様が保護されたとお聞きしましてね、直に会って、真田から預かっていたものを、一日も早く、お二人にお渡ししなくてはなりませんの。」
「そうでしたか、それはご苦労様です。今、あの二人は正樹君の浜辺の家で二人っきりで、親子水入らずで、静かな暮らしをしていますよ。娘さんの懸命な看病で奥様も次第に良くなってきています。二人には日比両国で自由に暮らす許可も出ましたし、特別年金も保証されました。」
「そうですか。それは良かったわ。早く、ご苦労をされたお二人には幸せになってもらわないといけませんわ。」
「ご尤もです。ところで早苗さん、お二人を島までお送りいたしましょう。」
「いえ、今日は土曜日ではありませんし、そんなことをしていただいたら、申し訳ありませんわ。実は、ナミが、次の土曜日にこちらへやって来ますの。どうかその時はよろしくお願いします。」
「あのナミさんが、いらっしゃるのですか。・・・・・・そうですか。それでは自分も今度の土曜日にナミさんと一緒に島へ行くことにしようかな。まあ、それはそれとして、今日は茂木さんのお母様を岬の家までお送りいたしますよ。すぐ、用意させますので、少しお待ち下さい。」
 署長は受話器を取り上げて、ヘリの手配をした。
「いつもすみません。本当に署長さんには感謝しております。」
「ところで、正樹君はどうしております。」
「ええ、最近は、島のご老人たちを見て回っていますわ。」
「そうですか。彼ともじっくり話さなくてはなりませんから、土曜日に、私も伺います。」
「分かりました。皆に、そう伝えておきますわ。」



 ヘリのプロペラの音は正樹の診療所まで届いた。その聞き慣れた音で、正樹は早苗の到着を確信した。

 岬の家にヘリが到着すると、先日会ったばかりの佐藤が手を振って豪邸から飛び出してきた。
「いらっしゃい。お疲れ様。」
 佐藤は何か物足りなそうな表情をしている。それを早苗が察した。
「残念でした。ナミは土曜日に来るそうよ。」
「そうですか。まあ。どうぞ、中へ。冷たい物を用意してありますから。」
 茂木の母親が出迎えに出ていた慎太郎のことを抱きしめていた。佐藤はヘリの中に乗り込み、パイロットにもミリエンダ(おやつ)を勧めた。
茂木の母親と茂木の忘れ形見である慎太郎は手をつないで歩き出した。そのそばで菊千代が言った。
「さっき、早苗さんから見せてもらった新鹿の浜、とてもきれいですね。あの人が育ったところだと聞いて何回も何回も拝見しました。」
「ええ、きれいなところよ。あたし、新鹿で暮らすことにしましたの。まだ、しばらくは京都にいますけれど、・・・・・・だから、新鹿はお二人の故郷だとおもって結構ですからね。いつか、二人がやって来ることを楽しみにしていますよ。」
 菊千代は慎太郎の教育について考えていた。マニラに行っていたのもそのためだった。と同時に、双子の姉妹である千代菊がこの島の魚屋に嫁いでいることや、茂木が築き上げたこの岬の家のことも合わせて考えていた。
「おかあさん、あたし、相談があるのですが。」
「何かしらね。まあ、まあ、そんな深刻な顔をして、あたしに出来ることなら、何でもしますよ。」
「ありがとうございます。実は、この慎太郎のことですけれど、学校はやはり、日本の小学校に入れてあげたいのです。でも、あたしはこの島から、今は、離れるわけにはいきませんでしょう。それで困ってしまって・・・・・・・。」
「菊さん、慎太郎のことなら、いつだってあたしは引き受けますよ。でも、菊さんは慎太郎と離れて暮らせるの?」
 荷物を持って一緒に歩いていた石原万作がポロリと余計なことを言ってしまった。
「マニラには日本人学校もありますよ。あそこの子供たちの偏差値は高いですよ。日本の学校でトップクラスの子供たちが集まって来ていますからね。一流企業のお坊ちゃまや、お嬢様ばかりですからね。親たちも教育熱心な人たちばかりだ。」
「菊さん、あたしは茂木を新鹿のおばあちゃんに任せてしまった母親ですよ。何も、あの子にはしてやらなかった。だから、あなたに意見する資格なんかありませんよ。でも、短い人生、親子はいつまでも一緒にいれるわけではないわ。だから出来るだけ一緒に暮らした方が後で愁いを残さなくて済むわ。」
「そうですね。もう少し考えてみます。」
「あたしはあなたも慎太郎のことも大歓迎ですからね。そのことは忘れないでね。新鹿に移り住むのだって、あなたたちが来てくれることを願ってのことですよ。」
「おかあさん、ありがとうございます。」
 石原万作がまた余計なことを言った。
「そうですよ。お母さんの言う通りだ。一緒に暮らしたくても、ゲリラに引き裂かれて暮らせなかった親子もありますからね。出来るだけ家族は離れない方が良いに決まっていますぜ。」
「そうだ、菊さん。あたし真田から預かっているものがありますの。あの人の日記なんですのよ。もし、奥様とお嬢様が見つかったら、それを渡してくれるようにと言われていましたの。奥様たちが誘拐されてからの、あの人の戦いが鮮明に綴られてありますのよ。」
 菊千代ではなく万作が答えた。
「それは貴重なものですね。その日記ですべてが分かりますよ。あの二人は、今、やっと二人で暮らすことが出来るようになりましてね、ちょうどこの岬の反対側の浜辺の家で静かにお暮らしですよ。」
「お手数ですが、あたくしをその家へ連れて行って下さいます。」
「へい、お安い御用です。いつでもお供しますよ。」
「ありがとう。では明日にでもお願い出来ますか?」
「承知しました。」

ヘリが到着して、しばらくすると、岬の豪邸の庭に一台のトライシクルが入って来た。早苗はそのバイクの音を聞いて、すぐに庭に飛び出して行った。正樹だった。二人は他人の目も気にせずに、豪邸の庭で抱き合ってしまった。
「お帰り。」
「会いたかったわ。」
「僕も。」
 しばらく離れて暮らしていたが、二人の気持ちは逆に近づいた。お互いがそれぞれの悲しい過去を気遣うことよりも、一緒にいたいと願う心が芽生えていた。
 早苗が正樹の胸に顔を埋めながら言った。
「もう、危険はないの?」
「ジャネットのこと?」
「ええ、あたし、そのことが心配で・・・・・・。今も浜辺の家にいるの?」
「もう、大丈夫だよ。ボラカイ島がジャネットのことを変えてしまったからね。」
「そう。」
 正樹は引き返そうとしていたトライシクルを呼び止めた。
「早苗ちゃん、ちょっと、浜辺の家に行ってみようか。」
「ええ、いいわよ。」
ヘリからパイロットと降りてきた佐藤に向かって正樹は言った。
「ちょっと、早苗ちゃんと浜辺の家へ行ってきます。すぐに、戻りますから。」
「分かりました。気をつけて。」

 浜辺の家に着くと、ジャネットと母親はいつものように手をつないで長椅子に座っていた。二人で静かに海を眺めていた。正樹が早苗に言った。
「いつも、あそこで、ああして、ふたりで座っているんだよ。」
「ずうっと、離れ離れになっていたのですものね。何だか、こうして見ているだけでも、あたし、涙が出できそう。」
「もう、ジャネットは戦うことは止めてしまったよ。だから、心配ない!」
「よかったわ。茂木さんのお母様がね、真田さんが書き残した日記を持ってきたんですよ。直接、会って二人に渡したいそうよ。」
「そう、それじゃあ、今は何も言わない方がいいね。今日はあの二人には会わずに帰ろうか。」
「そうね。」
 早苗と正樹は少し離れた道路まで歩き、待たせてあったトライシクルに乗り込み、再び、岬の豪邸へ向かった。
「正樹さん、ちょっといいかしら、丘の上の墓地に寄ってもいいかな?」
「いいですよ。じゃあ、運転手にそう伝えましょう。」

 風が吹きぬける共同墓地の入り口にトライシクルを待たせて、早苗と正樹はゆっくりと墓地の敷地内へと進んだ。
「あたしね、茂木さんとボンボンにどうしても報告しておきたいことができたの、だからね、ちょっと待っていて下さい。」
 早苗は並んで眠っている二人のお墓に手を合わせた。正樹も早苗が祈っている間、ディーンのお墓の掃除をした。早苗が正樹のところへ来た。
「もういいのかい?」
「ええ、もう、済んだわ。」
「いったい、何を報告したんだい?」
「それは言えないわ。秘密よ。」
「そう。」
「僕もディーンに分かってもらったよ。」
「あら、何を?」
「それは秘密。」
 声を出して二人で笑ってしまった。早苗は正樹の腕の中で大きな幸せを感じていた。

 その夜、岬の豪邸では茂木の母親がやって来たこともあって、盛大な歓迎パーティーが開かれた。ネトイと早苗、そして正樹はいつものようにバーベキューを焼く係りとなった。焼いても焼いても焼き足りない、なんせ、子供たちの数が半端ではなかったから、三人は話す暇もなく炭火で串刺しにした豚肉を焼き続けた。些細なことだが、三人にはこの上もなく幸せな時間だった。



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