最後の審判
日が経つにつれて、海難事故の被害は次第に大きなものになっていった。ボラカイ島のまわりの島々にも数多くの人達が流れ着いたのだが、残念ながら生きて救助された者はいなかった。ボラカイ島には渡辺社長を含めて五人の者が流れ着き、そして驚いたことには、その五人ともが奇跡的に助かったのだった。 渡辺社長はまる一昼夜、眠り続けた後、目を覚ました。日本では考えられないような大きな部屋の隅にぽつんと置かれたベッドの上で、意識を取り戻した。社長は上半身を起こして、部屋を見回していた。何が一体、どうなっているのか、分からないまま、しばらくぼんやりしていると、ボンボンが部屋に入って来た。 「良かった!やっと、気がつきましたね。心配しましたよ。」 「なんだ、おまえはボンボンじゃないか。」 「ええ、そうですよ。社長、どこか痛むところはありませんか?」 夢なのか、現実なのかさえも分からない渡辺社長が答えた。 「胸のあたりが凄く痛むな。何が何だかわしにはさっぱり分からん。何で、お前がここにいるのだ?ここはいったいどこなんだ?そうだ、たしか、わしは海を漂流していたんだ。ここはどこだ?わしは死んだのか?ここは天国なのか?」 「そうですか、海を漂流していたんですか。やはりあの船に乗っていたんですね。だんだん私にも分かってきましたよ。」 「沈没したんだ。わしの目の前でな。それから随分、流されてな、浮き輪に自分を括り付けてから眠ってしまったらしい。それが何でベッドの上にいるんだ?何だ、このだだっ広い部屋は?いったい、ここはどこなんだね。」 高瀬がその時、部屋に入って来た。高瀬は何もしゃべらずに、黙ってボンボンの後ろに並んだ。何故、社長が映画館から突然に消えたのかが分からない以上、何も話すことはなかったからだ。 「高瀬君じゃないか、どうして君までここにいるんだ?」 完全に混乱してしまった渡辺社長はおもわず溜め息をついてしまった。 「そうだ、映画館だ!映画を一緒に見に行ったんだ。高瀬君と映画館へ行ったんだよね?」 高瀬は返事をしないまま、ただじっと、社長のことを見つめていた。社長が話を続けた。 「そう、トイレだよ。小便をしていたら、後ろから羽交い絞めにされて、殴られたんだ。わしは誘拐されてしまったんだ。」 大きな社長の話し声に気づいた正樹とヨシオも部屋に入って来た。二人を見ると社長の眉が大きく歪んだ。 「おまえらまで、何で、ここにいるんだ。いったいここはどこなんだ。」 正樹が真面目な顔で答えた。 「社長さん、ここは天国の入り口ですよ。あなたはこれから最後の審判にかけられるところだ。あなたが天国に入るのがふさわしい人かどうか、これからみんなで話し合って決めるところですよ。正直に話さないと、すぐに地獄に落ちますよ。いいですか。」 菊千代と千代菊の双子と茂木も社長のベッドの前にやって来た。茂木は社長とは面識はないが、この双子の登場にはさすがの渡辺社長も驚いてしまった。かつてひいきにしていた京都の舞妓たちが、突然、目の前に出現したのだから、もう、観念するしかなかった。渡辺社長は正樹が言ったように、自分の最後の審判の日がとうとうやってきたとおもった。 「だめだ。もう、わしには何が何だかさっぱり分からん。ボンボン、何とか言ってくれ。」 ボンボンは静かに話し出した。 「社長はさっき、誘拐されたとおっしゃいましたよね。」 「そうだ、目が覚めてみると、船の中に監禁されていた。ボールペンと質問状、名前とか住所とか書くやつだよ。それが置かれてあった。身代金を要求するつもりだったのだろう。」 「それで、犯人はどんな連中だったのですか?」 「それが、分からんのだよ。奴ら、一度も姿を見せなかったからね。ただ、日本人の女がドアの外でわしを消すように指図をしていたのを聞いたよ。大きな音がして窓が吹き飛んでしまったおかげで、わしは奴らに殺されずに、海に飛び込むことが出来たわけなんだ。」 今度は茂木が話し出した。 「私は茂木と申します。はじめまして。ボンボンや高瀬君からあなたのことは色々うかがっております。随分とこちらに来られてから、災難にあわれたそうで、ご同情申し上げます。そうすると、あなたは何者かによって 映画館で拉致され、そのまま誘拐されて船に閉じ込められていた。幸運と言ったら良いのか、あるいは不運と言ったら良いのか分かりませんが、兎に角、その沈没した船から脱出することが出来たというわけですね。」 「その通りです。」 茂木が大声で言った。 「それで、だいたい分かりました。でも、ご無事で何よりでした。渡辺社長、あなたのことを神様は必要だから、あんなに荒れた海を漂流したにもかかわらず、命が助かったのですよ。渡辺さん、あなたはきっと選ばれた人なのですよ。」 部屋に集まった豪邸のスタッフは浜に渡辺社長が打ち上げられた理由を何とか理解した。もし、それが事実ならば、高瀬は本当の意味で救われることになる。高瀬はゆっくりと椅子に腰をおろして、次の話の展開を待った。正樹が再び茶化した。 「選ばれた者が子供を殴ってもよろしいのでしょうか?このヨシオは彼に殴られたおかげで何週間も生死をさ迷い歩いたのですからね。茂木審判長、それは許されないことではありませんか。」 ヨシオがそれに答えた。 「兄貴、もう、いいんだ!そのことはもういいんだよ。この社長さんのおかげで、おいらは兄貴と巡り会えたのだからね。」 「ヨシオ。おまえ、随分と成長したじゃないか。この助平オヤジを許すことが出来るようになるとは、まったく感心、感心。」 渡辺社長は反論をしないで、自分の最後の審判に耳を傾けていた。何と言っても、黙ったままの、菊千代と千代菊の姿が渡辺社長にとっては恐怖であった。いるはずがない所にいるはずのない二人がいるのだから、これは下手なことを言うと、本当に地獄に落とされるとおもっていた。高瀬が質問した。 「社長、そうすると、芳子さんとはお会いになっていないわけですね。」 「ああ、君とあの旅行社の彼女のオフィスに行ったのが最後だよ。それからは、さっきも言ったように何者かに拘束されていたからね。芳子さんとは会っていない。」 「実は、芳子さんも姿を消してしまいましてね。そうですか、とすると、社長とは別の問題ということになりますね。さっき、バランガイのキャプテンが言っていましたが、隣の島に日本人の女性の溺死体が打ち上げられたそうです。もしそれが芳子さんだとすると、社長を誘拐した犯人グループと何か接点があるかもしれませんね。それは今、調べてもらっています。その社長が聞いたという、船から脱出する前に聞いたドアの外の日本人の女の声は芳子さんではなかったのですか?」 「さあ、どうだったかな。あの時は爆風で少し耳がやられていてな、誰の声だったかと聞かれても判断できる状態ではなかったな。ああ、そうだ。君からお借りしたお金は心配しないで下さい。必ずお返ししますから。私はこうしてまだ生きているようだから、お金はどうにでもなる。」 「早く、日本にいる社長のご家族とか会社に連絡をされた方が良いかもしれませんね。もし、社長を誘拐した犯人グループの中に芳子さんがいたとしたら、身代金が要求されている可能性がありますからね。」 「そうだな。高瀬君の言う通りかもしれない。」 茂木とボンボンはすでに、これまでの成り行きをほとんどつかんでしまっていた。茂木が部屋に集まった人たちに向かって言った。 「今日のところはこのくらいにして、みなさん、もう遅いので休むことにしましょう。渡辺社長もまだ混乱しておられるようだから、時間をかけてゆっくりと説明していくことにしましょう。今日はこれで各自の部屋にお引き取り願います。」 皆が部屋を出るのを見て、慌てたのは渡辺社長だった。このまま、何も分からないままで解散されたのでは頭がおかしくなってしまうとおもった。何でここに菊千代と千代菊がいるのだ。社長は部屋を出ようとしていたボンボンを呼び止めた。 「ボンボン、もう少し説明してくれんか。一体ここはどこなんだ。何でお前さんたちがここにいるんだ。あの双子の舞妓が何故、ここにいる?説明してくれ!」 「分かりました。それではゆっくりとご説明いたしましょう。」 ボンボンは一人部屋に残って、渡辺社長に話を始めた。静まり返った大きな部屋の中でヤモリが「キキキキ・・・」っとひとしきり鳴いていた。
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