この世はあまりにも不条理だ。ねぇ神様、僕は何の為に生まれた。どうせ意味などないんでしょう?それくらい僕にだってわかる。 でもさ神様、僕は自由なんだ。生まれ落ちたのがあなたの意志だとしても、僕にはそれを終わらせることができる。それすらあなたはお見通しってか? でもね神様、僕にとってこれは僕の人生なんだ。あんたのもんじゃない。
僕は鉄塔の上から街に広がる淡い光を見下ろしていた。氷のように冷えた鉄塔を、僕は素手で天辺まで登った。しかしそんな鉄塔の冷たさも、真冬の凍える寒さも、僕にはとても心地よかった。そして僕は鉄塔から眼下に広がる街に向かって思い切りジャンプした。もちろん、真っ逆さまに地面へ落ちる予定だった。
いつだって誰かが僕の邪魔をする。僕の人生は、一度だってすんなりと事が運んだ例がない。
「あなたはこのまま死にます。それはそれはもう確実に」 そう僕に向かって話しかけるのは、あまり可愛くない女の子だった。誰にも振り向かれることもなく、話しかけても相手にしてもらえず、なのに何一つ気にすることなく誰にでも人懐っこく話しかけて疎まれるタイプ。そう、僕が一番嫌いなタイプ。 「あなたは本当に死にたいわけではありません。なのに選んでしまった。何故ですか?」 目を見開いて僕に尋ねる彼女。見れば見るほど可愛くない。僕は投げ捨てるように言った。 「面倒なんだよ。生きるって、めちゃくちゃ面倒くさくて僕には耐えられない」 彼女は神様か?僕は一瞬そう思ったがすぐにその考えは取っ払われた。 「あ、申し遅れました。私は交換屋です。人生交換屋」 人生交換屋だって?あぁ、そうか。僕は死んだらあらゆるものから開放されると思っていた。でも実態のない、いわゆる魂となってふらふらと彷徨い続ける可能性だって考えなかったわけではない。まさにその後者の立場に今僕はいるのだと悟った。死後の世界。やはり僕は、僕から逃げられないってわけか。
「ちょっと、聞いてますか? 今私が説明したこと、同意するかどうかはあなた次第です。でもまぁ、あなたはどうやら自分自身から開放されたいと思っていらっしゃる。その望みは間違いなく叶えられますよ」 彼女はそう言いながら「ぐふふっ」と笑った。不気味な笑いだ。僕は彼女の説明を全く聞いていなかった。でもこれ以上この女の顔も、耳障りな声も聞いていたくなかった。とにかく僕はもうありあとあらゆるもの事がどうでもよかった。だからこそ死ぬことにしたのだから。 「わかった。同意するよ。僕の魂なんて、好きにしてくれてかまわない」 何もかもわけがわからないままだったが、僕はとにかく早く死なせてくれという一心で、言葉を発するのも億劫なくらいだった。 次の瞬間、「ありがとうございまーす! 都築アタルくん、それでは早速あなたと日並繁夫を交換いたします。では少し時間を元に戻しまして、またお会いしましょう」 彼女はそう言うと指をパチンと鳴らした。どこまでも響く乾いた音だった。そして太陽よりも眩しい光が、全てを飲み込んでいく感覚だけがあった。
目を開けると、そこは小さな和室だった。六畳もなさそうな小さな部屋には、テレビと茶箪笥、小さな本棚。それだけが並んで置かれている。本棚の中には本がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。本の背表紙を目でざっと追うと、どれも物理のなんやかんやの本らしかった。 僕はそれらの中心にある小さなこたつに座っていた。さっき立っていた鉄塔と変わらないくらい寒い部屋だった。 鉄塔……?あぁ、そうだそうだ。僕はさっき、真夜中の鉄塔からジャンプして、それで可愛くない女が「交換屋」だかなんとか言って、指をパチンと鳴らした。そしてここにいる……。 僕はそんな状況にも驚いたりしない。どうでもいい気持ちの方が更に増している。しかしさっきは心地よいとさえ思った寒さが、今は辛いと感じていた。体を丸めてこたつに深く入ろうとした途端、体中がぎしぎしと音を立てて鋭い痛みが走った。あまりの痛さでさすがの僕も驚き、僕は「ひっ」と声を上げて更に驚いた。自分の声とは思えないスカスカでガラガラで、まるで九十歳のじいさんみたいな声だったからだ。
「驚いてますねぇ。いいですねぇ、その顔」 彼女は僕の向かいに座って、もぞもぞと体をこたつに押し込んでいる。いつの間に現れたんだ。 「私ね、結構この仕事好きなんですよ。ほとんどの人は、交換に同意したくせにいざとなると驚いて、絶望して、最後には必ず言うんです。死にたくないって」 彼女はまた「ぐふふっ」と不気味に笑った。そして僕にしゃべる隙を与えずに話し続ける。 「だったら最初から死ぬなって話ですよ。私その人たちの最後を見届ける瞬間が好きなんですよねぇ。こういうのって、いわゆるマゾってやつですかね? どう思います?」 また目を見開いて覗き込む彼女から僕は目を逸らした。彼女の可愛いくない顔と、耳に付く声は相変わらずだった。僕は彼女の質問を無視することにした。 「あんたは確か人生交換屋って言ってたね。僕と誰かの人生を交換させるって。名前は忘れたけど僕は今、その誰かとしてここに生きている。ということは、この体の持ち主は今僕として生きている」 彼女はきょとんとしている。何を言っているのかわからないとでも言いたげに。 「残念だけど、僕は驚いたりしないよ。確かにこの体の酷さにはビックリした。声だってまともに出ないし。でもね、絶望したりはしない。僕は今までどんなことだって受け止めて生きてきた。君が今までどんな人間を見てきたかは知らないけど、僕には期待しない方がいい。僕は後悔なんてしていないし、するつもりもないから」 彼女はまだ首を傾げている。 「つまり僕はもうすぐ死ぬんだろ? こんな体じゃあと数日ってとこなんじゃないかな。理由はなんとなくわかるよ。僕は自慢じゃないけど、物分かりのいいほうなんだ。それしか取り柄がないとも言うけど……つまり、あれだろ? 慈善事業ってところかな。もっと生きたくて仕方のない老人に、先の長い若者の体を差し上げます! それが自ら命を捨てるようなお粗末な人間なら、誰からの非難も受け付けないだろうからね」 彼女の顔がみるみる輝いていく。相変わらず全然可愛くはないけど。 「アタルさん、その通りですよ! 私はあなたのことをずい分前から見てきましたけど、頭の回転の良さは想像以上です」 「僕をずっと見ていた? なのに何故僕を選んだんだ? 僕だってもしかしたらあと数日の命かもしれないのに……」 そうなんだ。僕はわざわざ鉄塔から飛び降りなくたって、先の長くない体だった。自殺の三大要因とされる不治の病。治る見込みのない、可愛そうな十七歳。僕は静かに言った。 「あんたはどうやら大きなミスをしたみたいだ。この体の持ち主の老人に、与えるだけ希望を与えて、結局またすぐやって来る死に絶望させる。まるで悪魔だ」 彼女は黙りこくってうつむいている。図星か? だったらそうやって落ち込めばいい。僕は老人に同情した。こんなインチキ臭い女なんかに会ったばっかりに、二度も死に直面しなきゃいけないんなんて。僕だってそうだ。どうして生きたい人が死ななきゃならなくて、死にたい人は死なせてもらえないのだ。なぁ神様、やっぱりあなたは人間が作り出した出来損ないのまがい物だ。 またあの不気味な笑い声が聞こえた。「ぐふふっ」。彼女はもう俯いてはいなかった。あぁそうか、そういうことか。こいつは本当に悪魔なのだ。さっき自分でマゾですかね?なんて尋ねていたじゃないか。 彼女は初めて真面目な目つきをして言った。まるで今までとは別人だった。 「アタルさん、私たちはあなたの言う慈善事業なんかではありません。神と契約をしているプロなんですよ。さすがのアタルさんでも、自分の運命までは知り得ません。なぜならそれは神しか知らないからです。私がミスをした? 確かに私はあなた方の死に際を見届ける瞬間、心の中であざ笑ってます。しかし生きたいと願い、交換の契約を結んだ方たちに絶望などは決して与えません。それだけはお間違いなく」 僕は彼女の鋭い視線に耐え切れなくなり、目を逸らした瞬間彼女はもういなくなっていた。彼女の言った言葉を、僕は頭の中で何度も繰り返した。
神様……なぜ僕が生きたいと必死で戦った時、あなたは助けてくれなかったんだ。生きたいと願い、交換の契約を結んだ方たちに絶望などは決して与えません――。生きたくても生きられない運命だった僕をほったらかしにして、さらには自ら死なせ、あと何日生きられるかもわからない老人の体を与え、また死なせる。こんなのあんまりじゃないか。 僕は悲鳴を上げる体をなんとか横にして、小さなこたつの中で体を丸めて目を閉じた。
僕は体を揺らされて、全身を走る痛みで目を覚ました。 「繁夫さん、起きてください」 目の前に、中年女性の大きな顔がある。「なごやかホーム」と刺繍された黄色いエプロンを付けている。女は無理やり僕の体を持ち上げながら言った。 「こたつで眠るのはよくありませんよ。こんなに寒いのにまたストーブも付けないで。繁夫さんが思っているほど冬は甘くないんですからね」 繁夫さん……。僕は今までの出来事をかき集めて整理した。あぁ、僕はまだ生きているのか。 「繁夫さん、ごはんよ」 そう言って、茶色くて気味の悪い物をスプーンに乗せて僕の前に差し出す。それはスプーンの上でプルプルと揺れている。僕は病院での流動食には慣れていた。しかし、どうしてもそれを食べる気にはなれなかった。口を固く閉じ、首を振って必死に拒否する。 僕はこうして、繁夫という老人の体に交換されたわけだが、そうされる前の体となんら変わっていないことに気付いた。病に犯され、意識が朦朧とするほどの痛みと戦い、チューブから栄養を送られまたチューブへと排出する。そんな毎日を僕は送っていたのだ。 調子のいい日もたまにはあった。しかしそれでも、普通の食事を取ることは許されなかった。 「繁夫さん、食べたくないなら薬も飲めませんよ。痛いままでいいんですか」 まったく同じ言葉を言われたことがある。いつもそう言われると渋々食べるしかなかった。でも今は違う。なぜならこの痛みから逃げることは、死から遠ざかることだからだ。 「ごはんも、薬もいりません。布団に寝かせてもらえますか」 女は大きくため息をついて、しかし僕の言うことに従ってくれた。ここが以前と違うことと言えば、僕が十分長生きした老人であるということと、病院ではないということ。生きることを強制されることはもうないのだ。
女が玄関を閉める音がすると、隣にあの女の子が立っていた。 「気分はどうです?」 もちろんその顔に心配している様子などない。 「繁夫さんは、何歳なんだ?」 僕はたいして気にもならない質問をしてみた。 「日並繁夫さんは、明日で九十九歳になります。とても丈夫な体でしてね、気も強いんですこれが」 僕と同じ誕生日か。 「どうして、この人を僕と交換することにしたんだ?」 これは少し気になる。そうするだけの価値のある人間なんだろう。なんせ神の決定なのだから。しかし彼女は答えない。 「この人は、今僕の体で同じように苦しんでいるはずだ。今日は薬を投与される日だから、もしかしたらこの体より辛いんじゃないかな……」 「アタルさんは優しいんですね」 彼女は口を綺麗にへの字に曲げた。そんな顔をしても可愛くは決してない。 「でもご心配なく。アタルさんの苦しみも、繁夫さんの苦しみも明日までですから」 「僕も、この人も明日死ぬのか?」 彼女はへの字を崩さず黙っている。だったら本当に、何の意味もないじゃないか。無性に腹が立ってきた。この女に、この女が属しているらしい交換屋に、そして何より神に。
でも何も言えなかった。
目が覚めると、騒々しい物音と声が飛び込んできた。 「先生、先生!」 重い瞼を持ち上げて周りを見回すと、見慣れた景色がそこにはあった。 「アタルくん! 聞こえるかい?」 いつもの主治医の声。僕は……。そしてまた意識を失った。
「どうしますか? 同意していただけると、私も助かります」 彼女の声が聞こえる。人生交換屋。彼女は最初僕にそう告げた。 「僕は死んだのか?」 「え? 聞こえませんよ」 「都築アタルは死んだのか?」 僕はハッキリとそう言った。 「都築アタル? あぁ、あの若者ですか。ご心配には及びません。しっかり生きていらっしゃいます。それより繁夫さん、若者の体は十分に楽しめましたか?」 彼女の言っている意味がよくわからない。 「十七年間ってあっという間ですよね。でも私も少し歳を取りました。繁夫さん、もちろんあなたも」 「僕は都築アタルだ。あんたは僕とあの老人の人生を交換すると言った。なのに急にまた元に戻されて、一体何が目的なんだ。神は一体何を考えてる!」 彼女の顔は見えない。僕は目を開けているはずなのに、何も見えない。暗闇の中から彼女の声だけが聞こえる。 「やれやれですよ、繁夫さん。あなたなら忘れたりはしないと、私たちは踏んでいました。けれどやはり十七年という歳月は長すぎたようですね。いいですよ、説明してあげます」
「あなたは十七年前、神に選ばれ交換条件を飲みました。それで、都築アタルとして生まれました」 「……ちょっと待ってよ」 彼女は構わず続ける。 「その時の交換条件というのが、十七歳であなたは自殺をし彼の体から開放されるということです。そして、今度は私たちと契約を交わし元の日並繁夫に戻っていただくという、こういった運命にあります。思い出しましたか?」 どうしてだろう。彼女の言っている意味が理解できてしまう。 「僕にはあの時、あの選択しかなかったんだ……」 「知っています。あなたは新しい宇宙を作るために、あの時死ぬ運命にあった自分の体を拒んだ。新しい命を手に入れ、その命で自分の目的を果たそうとしました。どうですか? 新しい宇宙はそろそろ生まれそうですか?」 厭味な言い方だ。 「こんな十七歳の病弱な少年に、宇宙など作れるわけがないだろう」 「そうですか、それは残念でした。でも安心してください。それは運命ですから」 「安心だって? とんでもない。僕はやらなきゃいけないんだ。宇宙を……」 「ですから!」 彼女が怒鳴った。 「神がそんなの許すはずがないんです。神は、あなたの生きたいという強い意志は汲んでくれました。それが神の勤めみたいなものですから。しかし自惚れないでください。あなたは神に売られたんですよ、私たちに」 「私たち?」 「死神です」 今度は本当に、僕は全てを思い出した。
あの時、今まで病気一つしてこなかった自分の体を治る見込みのない病が襲った。宇宙の研究に人生を没頭させてきた私は、新しい宇宙を作るためのシナリオを完成させていた。だからどうしてもまだ死にたくなかった。そこへ神の使いだという者がやってきた。あなたに新しい命を与えてあげることができると言って。私はもちろんそれに飛びついた。その使いの者は、私にある条件を飲むように言った。それは、私が犯されている病をそのまま新しい命に持っていくこと。それから、十七年後に死神と契約をし元の体に戻って今度こそ死ぬこと。私はその条件を飲んだ。その時の私にとって、十七年と言う歳月は永遠のように長く感じられたのだ。 「まさか新しい体が、生まれたての赤ん坊だとは予想外だったでしょう。おかげであなたは宇宙の作り方どころか、自分が日並繁夫だということすらわからない。あなたはとても頭のいい人なのに、残念です」 「それすら運命という神の思惑だったんだろう。私に宇宙を作らせないために……。私は、神の脅威的存在だった」 「それは知りませんよ、私はそんなの興味ありませんから。しかし思い出してくれたようでよかった。話し方も思い出しましたか。やはりあなたは頭の回転が速い。私もあなたのおかげで寿命が縮められました。私たち死神の雇われは、死に導いた分だけ自分の死に近づけるんですよ」 彼女はそう言って笑った。いつの間にか暗闇は取っ払われ、私は自分の家でこたつに座っている。向かいに彼女の笑顔がある。 「あなたも大変なようだ。私はとても申し訳のないことをしてしまったね。あの少年の大切な十七年を奪ってしまった。あの子をこんな老人の体に押し込めて、たった一人でこの部屋に閉じ込めた……」 「ふふふふ」 彼女が楽しそうに笑う。私もつられて笑ってしまった。 「大成功ですね!」 「えぇ、あなた方のおかげです。感謝しています。だって……」 そう言い掛けて私は口をつぐんだ。すると彼女が声は出さずに口を動かした。 「カミサマガ、キイテイマスカラ」 私は深く頷いた。 「それではそろそろ」 「はい。どうぞ安らかにお眠りください」
誰にも知り得ることのないここではない宇宙は、すでに時を刻み始めていた。それを知っているのは、宇宙の創造主である繁夫と、あまり可愛くはない交換屋の少女だけだ。
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