後に残ったのは、目の前で起こった事態を飲み込めないが、興味本位で視線を向ける傍観者達と。 先ほどまでの躍動感が完全に消え、地べたに顔を向けたまま呻く男。 そして。 「ははっ、なかなか上出来だ。俺もやる時はやる男じゃねぇか」 まくしたてるように吐き出してから、一向に冷めない熱に体を震わせる。 「あんたも相当手際よかったじゃないか、あのタイミングで足入るか普通。いいもん見せてもらったよ」 康介は隣でタイルに転がった男と同じように、完全に動的印象を失った男に問いかけたが、涼しい顔から返答はなかった。 「まぁいいや。しかしこいつもなんだって逃げてなんか……あ、ダメだ」 そう言うが早いか、康介は両手で顔を覆った後に、隣の一利に右手を伸ばす。 「興奮して鼻血出てきた。悪い、お前のティッシュもらえないか?」
その問いかけには、一利は左手に持ち続けていたポケットティッシュの束から1つ抜き出して、康介に差し出す。 彼は受け取ると乱暴に切れ目を引きちぎってから、中身を数枚取り出して鼻をまさぐる。 「あー、鼻血とか学生の時以来だ」 そう言いながら、放っておけば干物になりそうな、タイルに転がる男に近づく。 そして、ねじれて背中に乗っていたそいつの右手が握り締めていたものをひっぺがした。 それもポケットティッシュだった。 くしゃくしゃになった消費者金融の広告が入った、一利が配っていたものと同じもの。
「お兄さん、売りもんに触らないでくれる?」 日頃から人と化かし合いをしている商売のせいか、その不快感しか感じ取れない声色に、康介の背中はむずがゆくなる。 もちろん、それは一利からではなく、広場で聞いた怒号の持ち主だった。 「よくやった一利。逃げられたりなんざしたら、お前もタダじゃ済まんかったけどな」 下品な笑い声を上げながら肩で息をし、エンジニアブーツを引きずりつつ近づく男を見て、康介は目配せをしたが、一利と視線が交わることはなかった。 顔中にピアスが埋まった眉毛の薄い男は、倒れたまま動かない男を一瞥してから、ためらいもなくつま先でその腹を蹴り上げる。 遠目に成り行きを見守っていた幾人かの中から、軽く悲鳴があがった。 「…お前、ウチの売りもん盗もうとするとはいい度胸じゃねぇか。若さってのはなんでも出来るんだな、あ?」 「売りものって、何盗んだんです、こいつ?」 真っ黒なレザーの上下を軋ませるようにしゃがみ込んで、優男の髪を掴みあげていたピアスの男が康介を見上げた。 「お兄さんも協力してくれてありがたいんだけど。それ、ウチの売りもん返してくれねぇかな」
指差されたのは、手のひらに収まりそうな宝飾品ではなく、やはりポケットティッシュだった。 「あ、え?…はい、すみません」 康介はわざと大げさにリアクションしてみせてから、一利にティッシュを差し出す。彼は何も言わずそれを受け取った。 恐らく一利の上司であろう男は、それをしっかり確認してから逃亡者を無理やり立ち上がらせた。 その時に、耳を掴まれたウサギにしか思えない男が、僅かに吐息を漏らす。 「う……ツェーン…」 言い終わるが早いか、そのみぞおちにピアスの男の拳が埋まっていた。 「おい、一利。今日はもう上がっていいぞ。俺はこいつの後始末してくる」 なんのオブラートもない言葉を文字通り吐き捨てた後、男は来た道を痩せ気味の男を連れて取って返す。 それを見て、さすがに康介も後ろめたさを感じずにはいられなかった。
主犯が消え、現場に残された男2人では関心が薄いのだろうか、徐々に野次馬もそこかしこに散らばり始めた。 康介がちらりと隣の男に目をやってみても、彼からなにかこの後について提案がありそうもなかった。 一度キョロキョロと辺りを見渡してから、彼は一利に声をかけた。 「まぁ、なんか大変みたいだけど、仕事に戻るとするよ、じゃあな」 そういってオフィス街へと続く北口へ振り返った時だった。 「待て」 極力抑揚をなくした、むしろ感じさせないあの声音だった。 「置いていけ」
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