くぐもった色のコンクリートの階段を上って左に折れると、突如開けた光が差し込む空間に、人の頭が並ぶ。 タイルを基調にした構内は、プラットホームとは打って変わって空気が軽くなった気がした。 彼は、少しだけ軽くなった双肩のしこりを感じながら、改札口をすり抜けて今度は右に折れる。 エスカレーターで下って5分も線路沿いに歩けば、愛しのさんま定食にありつける予定だ。 その後には、少し会社に立ち寄って書類の確認でもしようか。 懇親会に参加するため、放ってきた契約書の内容を反芻する。 巡り巡って彼に身についた一本気な性格は、休日だろうが出勤を苦にしない。 やるべきことがあるなら、それを成して当たり前だろう、仕事なんだし。 真顔で思わず口にして同僚に苦笑されてからは、余計な発言は控えるように気をつけている。 ただ、口に出さないだけで、顔には出ていない保証はなかった。
軽くうわの空のまま、彼はエスカレータを跨いで放射状に広がった駅前広場に降り立つ。 中途半端な時間帯のせいか、飲食街が並ぶ南口は夜の喧騒に比べると、まだ寝ぼけているようだった。 それぞれの足音が、右のバス乗り場、左のタクシー乗り場へと散っていく中、彼は真っ直ぐ閑散としたアーケード街を目指す。
そして、それを見つけたのだ。
不思議で、それでいて明らかな違和感だった。 事実としては、男がティッシュを配っている。それだけで表現にはこと足りる。 しかし、割と自身のある彼の直感が、異質であることを脊髄反射で訴えている。 細身で長身の男は、ボリュームのあるキャスケットを目深に被り、するりと伸びた腕でティッシュを差し出す。 それが受け取られると、右手にある束からまた1つ左手に持ち替え、次の通行人へ振り返る。 別に、ほとんど口元しか見えない表情に愛想がなかったとかが、言いたい訳ではなかった。 その動作が、あまりにも完成されていた事が、彼の興味を引いたのだ。 さんま定食を目指していた足取りは、ふいに歩みを止めていた。
傍目から見た男は、まるで踊っているようだった。 ほんの少しだけ唇を揺らす男は、何かをずっと口ずさんでいる。 ステップを踏んでいるでも、リズムを体が取っているでもない。 ただ、洗練された無駄のない動作が、彼にそう判断させていた。 距離にして20メートル程の場所で、観察を続ける彼に男は視線すら合わせない。 彼自身も、立ち止まってまでその様子を見守る自分に、軽い困惑を覚えていた。 そうした戸惑いは、背後から聞こえた足音のせいで一気に増幅することとなった。
こつり、ずる。こつり、ずる。 硬質な革靴のゴムがタイルを叩き、引きずられる感触が、直に背中に触れたようだった。 連続する異質な感覚に、彼は鳥肌が立つのを覚えながらその靴音の軌道から身を逸らす。
振り返った彼の双眸に映ったのは、身なりの整ったサラリーマンだった。 彼も仕事着であるスーツにはこだわりを持っていたため、その服装がしっかりとしたものだと理解した。 恐らく同じ職種の人間だろう、清潔感溢れるその姿は、得意先に好印象を与えるだろう。
感情を感じない、その動物のような眼差しを除けば。
変則的な足音が、流れるようにワルツを踊る男に近づく。 そして、彼は見た。 男が左手に持っていたポケットティッシュを別の1つに持ち替え。 そのサラリーマンがちょうどいいタイミングで通りかかったのごとく。 絶妙なタイミングでお互いの歩幅を合わせたのを。 その証拠に。 疎らに行き交う人々は誰一人として、彼のようにこの光景に釘付けになることはなかった。
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