俺はすっかり冷たくなったマグカップを握りしめ、残りのコーヒーを一気に喉へ送り込んで、飲み干した勢いを使って小さな少女に尋ねた。
「君はさ、何なんだろうね。」
小さな少女はA4コピー紙に胡座をかいたまま、顔をしっかりと俺の目に向けて答えた。
「私は渡しであって、誰でもないわよ。あなたがあなたであるのならば、私は渡しなのよ。」
頭の回転がよくなく、学校でも単純な方程式や暗記問題だけで維持し続けただけの学年成績上位者では、とても理解に苦しむ問答になった。 とりあえず質問に答えてくれた安心感から、先ほどよりも気合いを込めずに質問出来るようになっていた。
「君の名前はなんだい。君はどこから来たんだい。なにをしにあらわれたんだい」
小さな少女は、ちょっとだけ顔を赤らめたような感じではあったが、しっかりとは確認出来ないほどの微妙さを残し、ちょっとだけ首をひねってから比較的大きな声で答えてくれた。
「私の名前はあなたの中にあるわ!私は渡しの居場所を探してあなたがいた場所から来たのよ!渡しがいるべき場所探しよ!」
これで俺の頭の中は、完全なるパニックを起した。質問の答えが理解出来なかったのだ。 色々哲学的な事も考えてみたり、この小さい少女が地球外生命体ではないかとも考えてみた。しかし、常識的にいって理屈が合わない。 これが俺の脳味噌が作り出した幻覚や幻聴ならば、あの少女が述べている言葉は俺の脳からの引用物となる。俺の脳の引用物が理解出来ないという事は、俺の脳が完全にこわれているか、俺の脳にも自らが自覚していないだけの能力が残されているという事になる。しかし、煙草の箱を動かした時、たしかに煙草の箱は動いていた。俺の脳が作り出した幻覚ならば、煙草の箱は動かせまい。 この小さい少女が地球外生命体だったとしてもおかしい。何故、地球外生命体が俺の所へ来るのだ。俺はまったくの一般市民であり、多少の仕事はしているが、そのステータスは下流に属する程の些細な物だ。それに臼蓋生命体が、人間の健康管理や成人病を気にするだろうか。日本語が美味く伝わるのにも納得いかないのだ…。
俺は最後の賭に出た。 この羽根付きの小さい少女を掴んでみるのだ。 掴めれば、この小さい少女は存在し、尚かつ、俺の頭は正常を保っているという事となる。 万が一、掴めなかったとしても、それで消えてしまうのならば、薬の副作用の幻覚ということになるし、消えなくても、ある種のカウンセリングや安定剤で消えてくれる物なのかもしれない。渡し脳が完全に壊れていなければノ話だが。
少しずつ、少しずつ、サイドテーブルに近づいていく。 その間も、羽根付き小さい少女は部屋のあちらこちらを見渡しながら、本の整理整頓の悪さや、掃除の全くされていない本棚のほこりや、壁に貼り付けてあるアイドルの水着ポスターにもケチをつけていた。それでも彼女は後ろ向きだった。 手を伸ばす。 両手で、なるべく力を込めないように配慮しながら羽根をおらぬように慎重に、そしてすばやく彼女の腰から下を両手で挟みこんた!
「キャッ」 少女は一言だけ、悲鳴を発して動かなくなった。 つかめる事を確認し、安心したと同時に心配になった。宇こかないし、喋らないのだ。
ゆっくりと手をゆるめ、コピー紙の上に横にしようと体勢を入れ替えた時、彼女は振り向いた。 ちょっとうれしそうな、そしてにこやかな笑顔がはっきりみえ、小さな小さな赤い唇がちょっと動いた。 「つかまえられたでしょ。これからは、もう大丈夫だよ。」
そう、小さな声でつぶやくと、彼女の姿は消えていった。 合わせた手のひらをひろげてみると、そこには薄緑色の蜻蛉のブローチがぽつりとあった。
それから5時間。明け方までかかって彼女の姿を探したが、部屋のどこにも姿はなかった。 朝方の冷え込みと、神経疲れのせいか、知らぬ間に寝入ってしまい、起きたのは昼過ぎだった。 手に残された、薄緑色の蜻蛉のブローチ。このブローチを眺めてはサイドテーブルの周辺を探すという行動を3週間ほど続けた記憶がある。 それでも小さな彼女は、あの日から一度も姿を見せてはくれなかった。 煙草もやめ、生活リズムも改善し、しっかりとした食事も摂るようになっていたが、なにか不安を感じずにはいられなかった。
毎日続けたのは、蜻蛉のブローチをA4コピー紙を敷いたサイドテーブルに置き、眺める事だった。
もう長袖が必要になった11月始め。 ネットで見つけた捜し物サイトに蜻蛉のブローチを掲載してみた。すこしでもこのブローチの情報が知りたかったのだ。 どうも販売物ではなく、ハンドメイドの特徴があるものらしいということはわかったが、それ以上の事はわからず、連絡先を明記したままサイトへ行くのをやめてしまった。 何か、身体の一欠片が脱落したような感覚と、日常に戻ったという安心感が入り交じった時間を過ごす事が多くなっていた。 あの日から3週間が経った。
今日、ポストに1通の封書が届いた。 封筒には、端に『とんぼのブローチの事で』と小さな文字が書き加えられ、薄緑色の蜻蛉の透かし模様が入っていた。 開封しようか、そのままにするか、マグカップに入れたコーヒーを飲みながら、3時間ほど迷っているのだ。
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