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作品名:幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』 作者:夏月左桜

第8回   其之三 長州藩
 武市が江戸から戻って来たのは、夏の風が吹き、蝉の鳴く声が響き出した七月の初めだった。
「で、どうじゃった」
「悪い」
 龍馬の部屋に入って来た武市は、壁にもたれ掛かり疲れた顔で話し始めた。
 話しは公武合体を唱える薩摩と会津藩が、尊攘派を京から追放した事件よりも遡る。
 長州藩は長井雅楽の「航海遠略策」を藩是とし、公武合体を推進めようとする長井派と、尊王攘夷を推す久坂、高杉らと激論になっていた。
 日増しに激化する藩内の情勢に苦慮した桂は、高杉を一旦藩から遠ざけるため、幕府が募集を出していた上海視察に高杉を派遣してはどうかと藩庁に提出した。久坂と高杉を混乱を極める藩に留めて置いて、何かしら企てられては困る事態になると危惧しての事だった。
 予てから海外へ行きたいと思っていた高杉は、この命令に反発するどころか、嬉々として承諾して上海へと旅発ってしまった。
 高杉を欠いた攘夷派は、久坂を筆頭に藩政を許の尊攘へ戻すべく躍起になっていた。そんな折、江戸城の坂下門外に於いて、尊攘派の水戸浪士らが老中の安藤信正を襲撃する事件が起こる。暗殺こそ失敗したが、井伊直弼暗殺に続く事件で幕府の権威はさらに失墜の一途を辿ることになった。
 この事件を切欠とし、京に於いて公武合体派が失脚すると、これを好機と取った久坂は、「航海遠略策」は朝廷を誹謗するものであると朝廷に働きかけた。
 桂も、長井の策に賛成していた周布政之助の説得を試みようと、久坂と共に周布の許へと来ていた。
「周布殿も破約攘夷には賛成を示されたではありませんか!」
 桂の横から久坂がにじり寄る。
「それは・・・そうだが」
「長井殿の策は、幕府が朝廷の命も得ず締結した不平等条約を許に開国を是認するもの。策中にある「通商で国益を増加させる」。これについては私も意見を違えるつもりはありません。ですが、条約全体を見る限り、航海遠略策は我が藩ばかりでなく日本にとって後々大きな代償を支払うものとなるのは必至。夷国の民を日本に招き入れれば、いずれ自国の土地をも差し出す事にも成りかねない。現に幕府は和蘭だけでなく、仏蘭西にも膨大な借金を作ってしまっている。ここで開国となれば、その借金を楯にニ国がどのような手段で出て来るか、見識ある周布さんならば想像がつくのではありませんか?」
 借金の変わりに租借を持ち出されれば、幕府は否応なくどこかの土地を差し出さざるを得なくなる。恐らくニ国が提示してくるのは神戸と横浜かのどちらかだろうが、悪ければ双方の可能性も否定できないのだ。
「もはや幕府に政り事を任せているのは危険と思いますれば、朝廷の御命を賜る以外にないのです」
 苦渋で額に汗を浮かべている周布は、まだ首を縦に振ろうとはしなかった。二人の言いたい事も判るのだが、長井の策もまた頷けるものであるのだ。
「長井殿は方針を航海遠略策として示したに過ぎず、それを実現させるための改革を示されてはおりません」
 確かに策の内容には、長州藩を含めた幕府、諸藩の改革をどのように執っていくのかは明確に書かれていない。だが、吉田松陰も長井が書いた策と同様の事を過去に唱えている。それがあったからこそ、周布は長井の論に乗ったのだ。
「確かに先生も外国との交易による富国強兵を唱えておられました。しかし幕府存続あってのものではありません!」
「吉田先生はその身を以って、国の在り様を私達に示された」
「では聞く。桂よ、おまえが井伊殿の襲撃に長州浪士を加担させなかったのは|何故《なにゆえ》か」
「水戸浪士からの懇願を・・・私が跳ね除けたのは事実。だが、それも長州あっての改革を思えばこそのもの・・・万が一、井伊暗殺に失敗していれば、藩はお取り潰しとなりましょう。そうなれば、我々がこれまで積み上げてきたものが水の泡と消える事になる。それだけは絶対に避けねばならぬと考えたからに他なりません」
「おまえも薩摩も同じ穴の狢だな」
「周布殿と言えど、それは言葉が過ぎるのではありませんか!?」
「久坂、いいから」
 片手で制した桂は、それでも周布から視線を外さない。
「私がどう言われ様と一向に構わない。大局を見定める目を持たなければ、世を変えるなどできるはずもない。だからこそ、薩摩もあの手この手を使い幕府に食い込んでいるのです」
「それは、薩摩藩が我ら長州と同じ目論見を抱いていると言う事になるぞ?」
「術は違えど、真意はそこにあると考えております」
 袖に入れた腕を抜いた周布は、食って掛からんと身を乗り出したままの久坂をそのままに席を立つと、庭への障子を押し開いた。
「判った」
「周布さん」
「まったく。高杉が上海へ行って安堵しておったのに、桂までがこうして出てくるとはな」
「よく仰る。酒の席で暴れた方の言葉とは思えませんね」
「ここで酒をだすか・・・」
「土佐の容堂殿も大変だったと思いますが?」
 何かを思い出した周布は大声を上げて笑い出してしまった。
「おまえ・・・それを言っちゃあいかん」
「原因を作ったのは周布さんでしょう?」
「まあ、爺さまもおったしのう」
 何の事かと考えていた久坂も、心当たりを見つけたらしく笑いを堪えている。
「長井殿については力を借そう」
「心強い限りです」
 こうして、長井の策を指示していた周布が反長井派に転じると、久坂は藩重役に対して十二箇条の弾劾書文を提出し、長井の失脚へ繋げるために走り回った。
 以前から朝廷に働きかけた事も実を結び、長州藩に対し朝廷は遺憾の意を唱えた。
 これを受けた藩主毛利定広は長井を江戸より帰国させ謹慎を言い渡した。
 長井の免職へとこじつけた桂と久坂は、藩論を公武合体から尊王攘夷へと再び戻したのである。
 それから二ヵ月後、上海に赴いていた高杉が帰国して来た。
「俺の居ぬ間に、と怒らないのか?」
 友を出迎えた桂は、高杉の反応が予想とは違うものだったので拍子抜けしてしまった。
「俺達は阿呆な事ばかりやってる」
「おやおや。一体どういう風の吹き回しなんだ?」
「小五郎。このままじゃ日本もいずれ清と同じ道を辿る」
 語る双眸には今までに無い確りとした意思が感じられる。
「何を見てきたんだ?」
「阿片戦争で植民地と化した清さ。町の至る所に英吉利人が徘徊して、清の役人は英吉利人にへつらうばかりで足元を見ようともせん。阿片に体を蝕まれた者達が、薄暗い路地で屍と同じ有様で転がっていると言うのにだ」
 膝に置いた手が力いっぱい握り締められる。
「賊として蛮族を英吉利人が殺す。清の役人は国を守るためだと英吉利に助力を申し出た結果だ。あれが、日本の行く末だと俺は思いたくない」
「悲惨、と一言では片付けられない、そう言いたいのか」
「ああ。だから俺は幕府を討つ」
「もとよりそのつもりで動いている」
「徹底的に攘夷を推すしか道はない」
 藩論が攘夷に転じていたのは高杉にとって好機となった。
 高杉は長州と幕府の戦争へと繋げるため、江戸ので英国公使館襲撃を企てたのだが、藩を以って攘夷に当たるべしと言う久坂と今度は激論となってしまう。幾度も論を交え、とうとう折れた久坂は桂に知らせる事なく、長州藩志士十一名と共に襲撃を決定した。
 攘夷断行を促す勅使が江戸に滞在する中、定広と勅使の一人公卿の三條實美の説得によって襲撃は中止となり、高杉らは謹慎を言い渡された。
 ここで収まらないのが高杉という男で、勅使が江戸を去った後に品川御殿山に建設されている英国公使館を焼き討ちを計画。その実行部隊として御楯組を結成した。
 隊長には高杉晋作、副将に久坂玄瑞が付き、火付け役は井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎の三名が選ばれた。見張り役と護衛役に品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵が名乗りを上げ、有吉熊次郎、赤禰武人、白井小助ら四名は 英国公使館に居る幕吏の斬捨役となった。
 焼き討ちの知らせは長州に居る桂の耳にすぐさま届けられた。
 高杉が何事か起こすたびに工作に走る桂だったが、今回は走り回る必要はあまりなかった。幕府は長州藩士の仕業と見ていたが、確たる証拠も出ず、攘夷運動に活気つく長州藩をこれ以上刺激しては厄介な事になると、お咎めどころか追求すらなかったのだ。しかし、幕府に目を付けられてしまった事には変わりなく、長州藩が置かれた立場は危ういものになってしまった。
 尊攘派の中心人物である久坂と、久留米藩士真木和泉の朝廷に対する影響力の大きさを疎んじた会津薩摩両藩は、長州藩を主に朝廷における尊攘派の一掃に乗り出した。桂も予測し得なかったこの件は、後に八月十八日の変と呼ばれるようになる。
 桂と京都留守居役の乃美織江は、天皇に忠義を尽くす心は変わっていない事を沿え、藩主と公卿三條實美ら七名の復権と、京から追われる事になった真意を訴え続けた。
 久坂も間京都詰の政務座役として在京し続け、失地回復を図ろうと駆け回っている。
「久坂くんは止められなかったがか」
「三條公と真木さんの説得に、久坂くんが折れた」
 久坂も桂と共に、武力進発すると言う三條と真木らを押し留めようとしていたが、薩摩藩島津久光と福井藩の松平春嶽らが京を離れたのを機と見て取り進発論に転じたのである。
 長州へ帰藩した高杉も、藩主の命で周布と共に、久坂と来島又兵衛の説得を続けていたが、七卿の後押しがある久坂達は、二人の説得に頑として応じる事はなかった。 
 来島は奇兵隊を作った高杉に触発され、周防国宮市において自ら町人、農民、浪士からなる遊撃隊を作り、進発に遊撃隊を加えるつもりでいる急進派の一人だ。
 高杉も共に戦うものと信じていた来島に、反論を持ち出してきた高杉を反対に臆病者と罵ったが、高杉も反対意見を覆さなかった。
 説得が難航する中、池田屋の件が長州藩へ伝わり上へ下への大騒ぎとなった。
「長州尊攘派一掃で激発寸前となっていた状況で、池田屋の訃報は火種としかならん。来島殿は兵を率いて上洛を始めた。高杉くんが来島殿の説得を続けると京へ戻ったが、徒労に終っている」
「ほき、高杉くんと桂さんはどうしたがだ」
「高杉くんは今獄中の身となっている」
 悔しいとばかりに顔を歪めた武市に、珍しく真剣に怒った龍馬の顔が近づく。
「どうしてほがな事になっておる!」
 京入りの許可を得ていなかった高杉は、藩主から呼び戻され脱藩の罪で野山獄へ収監されてしまった。
「加えて周布殿も謹慎を申し渡されている」
「なにをやっちゅうんだ二人とも!」
 高杉がいる野山獄へ、浴びるほど酒を飲んだ周布が抜刀したまま乱入したのだ。
 獄で抜刀する事は主君へ立てつく所業として、「禁」となっている。その禁を犯してまでも高杉が軽率な行動を執って獄送りなった事を嘆いての、周布の行動である。それが藩に知られ謹慎を言い渡されたのだ。
「久坂くん達を説得し得る人物が二人も動けぬのでは、桂さんと言えど容易に説得などできようはずもない。長州から海路陸路を使い、久坂くんも上洛を開始してしまったと言う事だ」
「ほんで桂さんは?」
「久坂くん達をなんとか押し留め、退去させようと共に京へ戻って来たのだがな。動き出した幕府に対してどう動くかも考えねばならなくなり、長州へと戻った」
「高杉くんがおらんとゆうのは痛いなあ」
「分かれ間際に、高杉くんほどの人望があればと一言漏らしていた」
 桂の心境が武市にはよく判った。
 武市とて人望は厚い。が、土佐勤王党全員を統率するには至っていない。その結果、龍馬の脱藩に、多くの勤王党員が賛同し土佐を捨てた。
「ああ、和太郎の事だが、しばらく頼むと言われた」
「ほがな事はなんぼでも引き受けるが。しかし、なんらぁ戦を避ける手立てはないろうか」
「おまえが考えるより根深い事情も多い。簡単に止めますとはいかんだろう」
 湯飲みを持ち、飲むでもなく手の中で器を揺らす。
「上の考える事が、必ず下へ通じるというものやないきの」
「人を率いる者は、山の頂から麓まで視野を広くし、物事を思議策謀しなくてはならん。それが下に広がる者には解らんのだ」
「謹慎中だった久坂さんの時勢論を以って、桂さんが藩論を尊王攘夷に転じさせたその苦労を思うとのう」
 とにかく、と武市は胡坐を組み直す。
「長州軍が京に入るまでの時間は残されていない。今は動きを見るしかあるまい」
 ほうじゃの、と龍馬は膝の上に肘をつき頬杖をついた。
「・・・以蔵から話しは聞いた」
 頬から手を放した龍馬は、座りなおすと頭を勢いよく下げた。
 手にしていたお茶を飲み、脇へと置いた武市は困った顔を浮かべる。
「まっことすまん。わしがおったとゆうのに」
「関係なかろう。俺が居ても、あれは一人で飛び出して行っただろうからな」
 ほうほう、とニヤけた顔で身を乗り出す龍馬。
「なんなんだ」
「いや。おんし、ちっくと変わったのう」
 片目を吊り上げて友を睨む。
「一生懸命な弟子は可愛いもんやきの」
「だから何が言いたいんだ!」
「ほっとけんのう」
「なぜおまえはいつもそうやって−」
「太刀を見れば振るうもんの心は解る」
 ふん、と顔を逸らす。
「あの件の次の日から、以蔵の稽古が変わったが。のう武市」
「俺達がどうしろとは言えまい」
「けんど、やっぱりいかんと思うてしまう」
 大きなため息が武市の口から漏れた。
「傍に俺達が居ると言えど安全は約束できん。身を守るの為と言うなら剣術を教えるしかない。それ以外の術を俺は知らん。納得してもらわねば困る」
「しかしのう」
「選ぶのは和太郎自身だろうが」
「だがのう」
「心配いらん・・・俺が守る」
「おんし、本気か」
 いくら稽古をきつくしても和奈は弱音を吐かず必死に食らいついて来る。その姿はこれまでの弟子にも見れたし、以蔵や中岡もそうだった。しかし二人に対するそれとは違う想いが心の隅に在ると、京を離れた時に気付いた。
「長州に居た頃に出会っていれば、さぞ頼もしい剣士となっていただろうな」
「阿呆をゆうがやない」
「ともあれ、どう桂さんに詫びるか考えておかねばなるまい。まったく、頭が痛い事だらけで気も休まらん」
 和奈が時の向こうから来たのを話すべきかと龍馬は一瞬迷ったが、今後の長州の行く末が不透明な今、悩みの種を増やすのも気がひけてしまい、後日でいいだろうと心の奥にしまい込む。
「なに。わしとおんしの首持参で和太郎を帰せば、桂さんも怒らず許してくれるじゃろ」
「おまえの首だけ持っ行くとするさ」
 武市は腰を上げると、稽古場を見てくると部屋を出た。
 今日は藩邸に人気が少ない。稽古場もこの分では和奈と以蔵の二人だけだろうと、足を速めるのを、気配を消した大久保が、廊下を歩く武市を障子の僅かな隙間から見ていた。
(桂くんの親類とは言え、士分の時間を裂いてまで稽古場に足を向けるとは、一体何としたことだ)
 武市が桂よりも冷静沈着であると知っている大久保にっとて、興味をそそられることであった。
 武市の姿が廊下の端へ消えるのを待って、大久保も部屋を静かに出た。
 稽古場がちかくなるにつれ、背中を伸さずにはいられない掛け声が大きくなる。
「体力をもっとつけろ」
 以蔵の稽古は、武市よりも厳しいものだった。手加減できないと忠告された通り、振られる太刀は重い。
 疲れを知らない以蔵の太刀を受け続けている和奈の腕は、そろそろ限界に近かった。腕から背筋にかかる負担は力をもぎ取り、木太刀を持っているのがやっとの状態になっている。
「疲れてきたら普段以上に神経を研ぎ澄ませ。相手の動く気配で、次の一手を交わせば、その分腕を休める時間ができる」
 語る間も、以蔵は容赦なく木刀を振り下ろす。
「ぐっ」
 力はすでに尽き、肩の上に振られた木刀が肉を、骨を軋ませる。
「これでおまえは三度死んだ」
 垂れ下がった腕を上げる余力など、今の数にはないだろう。
「おまえが死んだらどうなる?」
「え?」
 太刀を捨てて、その場に倒れこみたい衝動を必至で抑える。
「浪士は二人居る」
 対峙しているのは以蔵のはずなのに、なぜあの男が立っているのか。
「ここで俺に斬られたら、どうなる?」
 地面に倒れるお宮の体が以蔵の後ろに浮かぶ。
(そうだ、もう一人居たんだ。それに私は気づかなかった)
「もう一人、男が居る。おまえの後ろには護るべき人間が居るんじゃなかったか? ここでおまえが倒れたら、そいつはどうなる?」 
 柄を握っていた手に力がこもり、ゆらりと動いた和奈の体が前へと出る。
(唐竹から左切上)
 振り下ろされて来る木刀をかわし、右脇から振り上げられて来る木太刀を受け流して、薙ぎを払って斜めから打ち下ろした。
 打ち込まれて来た木太刀の勢いを殺さず押し出した和名は、間合いを取るために後ろへ飛んだ以蔵の懐へと飛び込んだ。
(右薙!)
 太刀筋は読まれている。以蔵の体に、切っ先すら掠らなかった木刀が空を斬った。
 勢いあまってバランスを崩した和奈は、膝をついてすぐ、後ろ足を蹴り出した。
「なっ!?」
 低位置からの薙ぎを跳躍で後ろへとかわしたが、着地寸前の足元にニ太刀が振られて来た。
(低位置からの左薙に間髪入れず右薙だと!?)
 足に届く寸前、以蔵は木刀を縦に下ろして和奈の木刀を止めた。
(こいつ!)
 上げられた和奈の目を見て、ぞくりと背筋を凍らせる。
 先ほどの一撃には正直驚いた。低姿勢のため爪先の位置が見えず、太刀筋を読むのが遅れただけでなく、和奈の気を読み取れなかった。
(冗談じゃない。この俺が剣気を読めんなどと)
 以蔵は間合いを一気に取る。
 太刀筋が読めないのであれば、木刀の動きに意識を集中させるしかない。
 和奈の肩がぴくりと動き、以蔵は前足に力を込めた。
「そこまでだ二人とも!」
 その声で我に返った和奈は、声がした方へ顔を向け、憤怒の形相で立つ武市の姿を捉えた。
「武市・・・さん」
 自分の声が耳の奥で反響して行く。
 和奈の手から木刀が滑り落ちると、和奈の足から力が抜けた。
「おい!?」
 崩れる落ちる体を、以蔵は床に転がる手前で受け止めた。その背後に武市が立つ。
「加減を知らないのは判っているが、やりすぎたな」
「申し訳ありません」
 気を失った和奈を以蔵から受け取った武市は、稽古場を出て行くと急いで二階へと駆け上がった。
「龍馬!」
 武市のただならぬ声に部屋から顔を出した龍馬は、その腕に抱えらた和奈を見て飛び出して来た。
 和奈の部屋へ向かっている武市の前へ回り込み、障子を開け放つ。
「どうしたとゆうんだ」
「いいから布団を敷け」
 龍馬は言われるままに布団を引っ張り出し、畳の上へ投げるように広げた。
「大丈夫ながか?」
 和奈を寝かた武市はその上に布団を被せる。
「以蔵の奴、加減を知らなさすぎる」
 そう怒りながら武市に目をやった龍馬は、真剣な面持ちで和奈を見下ろしている武市の側へ座った。
「寝込みを襲うのはいかん、わしもおるんやき」
 いつもなら食いついて来る言葉に反応せず、膝を付いたまま動こうとしない武市を怪訝そうに見る。
「何があった?」
「この子の流派、桂さんと同じか?」
「いや、心形刀流だ」
「伊庭の小天狗か」
 講武所に出仕して教授方を務めている伊庭八郎の異名である。
 心形刀流は、江戸の三大道場である玄武館(北辰一刀流)、練兵館(神道無念流)、士学館(鏡新明智流)に並ぶ剣術流派であり、御徒町に練武館を構えいてる。
「抜刀術も教えているか」
「一刀の技法ばあでのうて、二刀技法、枕刀(小薙刀術)も教えちゅう。で、抜合がどうしたがか」
「抜刀術は近間の飛び道具と同じだ」
 刀を鞘に収めたまま帯刀し、鞘から抜き放ち一撃を加える。もしくは相手の攻撃を受け流して、二の太刀で相手にとどめを刺すのに卓越した剣術である。
「初撃にはかなりの速度が出るし伸びも出る。一撃必殺とされるがゆえに抜刀した後が問題となる」
 心形刀流の極意は"捨て身"だ。
【剣にやぎらず物事ニは、万策尽きて窮地ニ追ゐ込まらるる事である。そが時は、瞬息ニ積極的行動ニ出で候、無茶と如何ニも良き、捨て身が行動ニでる事也。是即ち流儀であり極意なり】
 初太刀の剣速よりも二太刀目の速度は普通なら落ちてしまう。しかし、以蔵がかわした後の斬り返しは初太刀と同等の速度を保っていた。
 龍馬と武市は同時に眉間を狭めた。
「止めに入らなければ以蔵は一撃を食らっていた。下手をすれば骨の一本も折られていただろう」
「和太郎はそれを教わっちょったがか」
「俺は抜刀術など教えた覚えはない。ならば、それ以外にないだろうが」
 稽古場に近づくと、以蔵のものではない剣気を感じた。和奈と二人だけしか居ないのであれば、その剣気は間違いなく和奈のものだ。
 そうして稽古場に足を踏み入れた武市の目に映ったのは、本気となった以蔵と、熟練した太刀筋を繰り出した和奈だった。
「以蔵に向けた抜刀は殺気を帯びていた」
 自分が稽古をつけていた時には、微塵ほども感じられなかったと言うのに。
「先生」
 障子を開けて立っている以蔵に、龍馬は中へと促す。
「おまえが本気で避けなければならなんとはな」
 返す言葉を見つけられないのか、以蔵は黙ったままである。
 力が弱い、弱いがゆえに相手を剣気で制す抜刀術だったはずだ。だが、和奈は相手を確実に滅する剣技をやって見せた。
 武市は目頭を押さえる。
「以蔵では駄目だ。明日からの稽古はまた俺がつける。いいな、龍馬」
「けんど」
「けんどもへたっくれもない。このまま人斬りにさせたいのかおまえは!」
 武市らしくない剣幕で龍馬の胸倉を掴み上げる。
「阿呆をゆうな、誰がほがなことを望むか!」
 その手を払い退け殴り掛からんばかりに身を乗り出す。
「人斬りは俺だけでいい」
 はたと二人の動きが止まり、和奈の側で呟いた男を見る。
 言葉とは裏腹にその横顔は穏やかだった。諦めているのでもなく、かと言って納得している訳でもなく、ただ自分の立場を受け入れている。そう思える|表情《かお》だった。
 人斬りと言う異名がどれだけ以蔵の心に影を落としているのかは、同じ人斬りにしか解らないだろう。人斬りへと育てたのは武市なのだが、それを責めるつもりなど龍馬にはない。どういう形にしろ以蔵を土佐から連れ出さなければ、足軽のまま人生を終える。足軽の以蔵が這い上がるには並大抵の努力をしても無理に等しい。土佐となれば他の藩よりも更に困難を極める。よって足軽の辿る道は殆んど決まっていると言っても過言ではない。だから武市は、普通の生活が出来る場所へと以蔵を連れ出したのだ。
「こいつに、人斬り家業をさせるつもりはない」
「おまえに言われずとも、桂さんから預かった身だ。そのつもりはない」
 和奈が身じろぎ、喋るのを止めた三人は和奈の周りへと座った。
「気がついたか?」
 ゆっくりと瞼が開き、視点が武市に定まると、和奈は慌てて上半身を起こした。
「稽古!」
 重い空気を漂わせたまま座る武市達は、呆気にとられて固まり顔を顰めた。
「えっと・・・あれ?」
「くっ・・・くっくっ」
 笑い声を上げながら龍馬の背中を何度も叩く武市は、ついに腹を抱えて笑い出したものだから龍馬もつられて笑い始め、以蔵は肩から力を抜いて背中を丸めた。
「いや、まっことすまん。じゃが、とまらん」
「本当に、とまらん」
 暫くの間笑い続けた武市は呼吸を整えると、
「呼ぶまで休んでいるといい」
 と言い残し、さっさと部屋を出て行ってしまった。
「あの・・・龍馬さん?」
「気にせんでええ。どれ、わしも下へいっちゅうき、もう少し寝とるとええ」
 以蔵も龍馬の後から部屋を出て行き、一人残された和奈は状況を掴めないまま、夕餉まで布団の中で惰眠を貪ることになった。


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