20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』 作者:夏月左桜

第6回   其之一 薩摩藩邸
 三条の長州藩邸を後にした和奈は、龍馬達と一緒に京都御所の北に位置する二本松薩摩藩邸へとやって来た。
 門を潜ると、女中が一行を出迎えるために待っていて、龍馬が挨拶を述べると知らせてきますと奥へ姿を消した。
 武市はその間を逃すまいと、和奈の腕を自分の方へ引き寄せた。
「私達はここにしばらく厄介となる。事を荒立てる様な言動は慎むように」
 真剣な顔で和奈にそう注意する。
「はい、気をつけます」
「なんも心配はいりやーせん」
「相手が相手だ。忠告は必要と思うが?」
「なに、話しは判る人やき、なんちゃーがやないちや。武市は心配性やき」
「あの人に突っかかられては困るから言っている。能天気なおまえには判らんだろうがな」
「あのう」
 龍馬と武市が和奈に顔を向ける。
「そんなに怖い人が居るんですか?」
「今、この藩邸には薩摩藩の上役が滞在して居るんだ。何事かしでかして怒らせては、今後に差支えがあるゆえ、大人しくして居てくれればいい」
「解りました」
「いい子だ」
 にこりと笑った武市を見て、龍馬が目を大きく見開いた。
「なんだ?」
「いや、なんちゃーない」
 話が纏まったところで、龍馬達の後から玄関へと入った和奈は、不機嫌そうな顔で腕組したままの男性を見つけ、この人がそうかとその顔を見上げた。
「大久保さん、久しぶりやか。出迎えてくれるとは申し訳ないがで」
「誰が好き好んで出迎えなどするものか。桂くんから連絡があっては致し方ないゆえ、用も断り待ってやっていただけだ」
 その言葉にカチンっと来た和奈は、偉そうにこちらを見下ろしている大久保に口を尖らせた。
 背後に立つ和奈の気を悟った武市が、後ろを振り返る。
「言ってるそばから・・・」
 武市の言葉に、しまったと首をすくめても後の祭りだった。
 ある種の貫禄を漂わせている男の名は大久保一蔵と言い、薩摩藩藩主の御側役兼御小納戸頭取である。
 前藩主島津斉彬の時代は記録所書役助に就いていたが、お由羅騒動とよばれる後継ぎ問題に巻き込まれ、お役御免を言い渡され謹慎となっていた。時期藩主久光の時、その側役にまで返り咲いた英才だ。
 大久保は、一瞬自分を睨みつけた和奈へ視線を投げる。
「見かけない顔だが、後ろに居る貧相な奴は誰だ?」
 頭からつま先待て見流した大久保に、和奈はついムッとした表情を浮かべてしまう。
「桂さんの甥っ子ぜよ。訳あってわしが預かることになっちゅう」
 沈黙がしばし時を支配した。
 武市の手で背中を少し前へと押し出された和奈の耳に、様様な音が飛び込んできた。
「よろしくお願いします」
 ニコリとも笑わない大久保に向かって和奈は頭を下げた。
「・・・人数分の部屋は用意させよう」
 それだけ言うと、大久保は背中を向けて左の廊下へと入って行った。
 龍馬が玄関を出て屋敷の横手へと足を進めた。その後を追おうとした和奈の腕を、また武市が引き寄せた。
「どこへ行く?」
「えっと、龍馬さん達と一緒に」
 不思議そうな表情を浮かべた武市は、次に困ったという顔で草履を脱いだ。
「俺達はここからだ」
 武市と上へ上がり、龍馬達の声が聞こえてくる妻側へと歩いて行く。
 そこへ先ほどで玄関に居た女中が水の入った桶を運んで来て、縁側に座った龍馬達の足元へと置いた。
「こっちだ」
 武市に言われ、大きな部屋へと入って行く。
 足を洗った龍馬に続き、中岡、以蔵も足を洗うと部屋へと上がって来た。
「しかし、忠告したにも関わらず、あんな態度をとるとは。桂さんが困ると言うのも頷けるな」
「仕方なかろう」
「いえ。武市さん達が困る相手と判っていたんです、僕が悪いです」
「以後気をつけてくれ」
「はい」
「大久保さんは無愛想じゃが、人はいいちや」
 和奈の側へと来た龍馬は、心配してか笑いながらそう言った。
「あれがいい人・・・」
 無愛想どころではないと、和奈が抱いた大久保の第一印象は決して良いものではなかった。
 部屋の用意が整うまでと通された広間に、女中達が昼の膳を運んで来た。
「さすが大久保さん。俺達の腹の具合まで判ってますね」
 池田屋での騒動があった時、寺田屋に駆け込んできた中岡は嬉しそうに膳の上を見回す。
 中岡は龍馬達と同じ土佐の人間で、武市の掲げる思想に共鳴するところがあり門下に入った。それから志士として西国を飛び回っていたが、八月十八日の政変で都落ちした公卿らに付き添い長州に亡命した。龍馬と同じく、土佐藩からは脱藩者として手配が回っている志士の一人となっている。
「和太郎くんも早く座りなよ」
 屈託の無い笑顔で、中岡は自分の横の席を指し示す。
「はい」
 座ると、鰹のいい匂いが鼻をくすぐってきた。
「頂きます」
 武市の言葉で皆が一斉に箸を取った。
 出される食はここでも至って質素なものだ。無駄な贅を凝らし、箸をつけられることなく捨てられてしまうより、一人が食べるのに余らない量だったが、その方が正しい食のあり方だろう。
「そや、武市。桂さんから頼まれ事があったき」
「俺に?」
「おう。和太郎に手解きをして欲しいとゆうちょったが」
「剣術の?」
「ああ、頼まれてくれやーせんか」
「桂さんの頼みとあれば、断るわけにはいかんだろう」
 ちらりと左手に座る和奈を見る。
「よろしくお願いします」
 ああ、と武市は答えると、黙々と膳に箸を戻した。
「ほんなら明日からしごいてもらうといい」
「しごきですか」
「ちっくときついかも知れんがのう」
「覚悟しときます」
 週に一二度通うだけだったが、桂木の厳しい稽古を朝から昼過ぎまでこなして来たのだ。しごかれると聞いても不安に思わず箸を進めた。
 食事を終えた頃、おみつという女中が部屋の用意が整ったと知らせに来てくれた。
「暁七つ半には起きて来なさい」
 五人の中で一番に食事を終えた武市は、部屋を出る間際にそう和奈に声を掛けてから出て行った。
 暁七つ半と言われても、それが何時なのか和奈に判るはずもない。
「和太郎、ちっくと一緒に来いや」
「え?」
 和奈を連れて広間を出た龍馬は、時間について説明を始めた。

 江戸時代での時間はま定時法を元にしており、朝・昼・晩を分けると次のようになる。
「暁」夜中の零時から六時まで。
「明」八時まで。
「朝」十二時まで。
「昼」十六時まで。
「夕」十八時まで。
「暮」二十時まで。
「夜」零時まで。
 二十四時間を二時間ごとに分ける場合は、「九つ」の零時から始まり「八つ」「七つ」と四つまで数え、十二時からまた「九つ」と数えていく。
 合間の一時間は「半」を用いる。
「九つ半」なら一時、「八つ半」は三時となる。
 九つから四つが朝なのか夜なのかを判別するのに、明六つ、夕六つと言い表す。
 更に細かく時間を使う場合は、二時間を四十分ごとに分ける。
「上刻」零分から四十分。
「中刻」四十分から二十分。
「下刻」二十分から零分。
 和奈を悩ませたのは、更に三十分ごとに分かれた読み方がある事だった。
 この場合は二時間ごとに振り分けられた干支を四つに分ける。
「子一つ」零時から零時半。
「子二つ」零時半から一時。
「子三つ」一時から一時半。
「子四つ」一時半から二時。
 二十四時間を十二等分するだけならば「刻」を用いる。一刻は二時間、半刻は一時間、四半刻は三十分となる。
 ややこしい事この上なかいが、覚えておいた方がいいと龍馬は半紙に円を描き、それぞれの時間を書き込んで渡してくれた。
「ありがとうございます」
「覚える事が多うて楽しいじゃろ」
 そう言う龍馬の方が楽しそうに見える。
「少しずつしか覚えれませんよ。で、暁七つって」
 指で円を辿っていく。
(午前五時頃かな・・・)
 時計という便利な物は見当たらず、よって「目覚ましを合わせる」事が出来ない。果たして目覚ましもなくて起きれるのだろうかと不安に駆られる。
「その顔じゃあ、寝坊は確実じゃのう」
「あはははっ・・・自信あります」
「わしが起こしに行っちゃるから、心配しのうていい」
「お手数をおかけします」
 翌日から、毎朝龍馬が和奈を起こし、早朝と昼、夕方の三回、武市から剣術の手ほどを受ける日々が始まった。
 一日三回の稽古で筋肉痛に苛まれ、龍馬が心配そうにしていた理由を身をもって知る事となったのである。
「道場の稽古よりきついよ」
 二時間ほど竹刀を振り、朝食をすませて部屋に戻って来ると敷いたままの布団にどっと倒れ込んだ。
 一日のうち、これほど稽古に時間をかけた事があっただろうかと考える。週末に道場へ出向くだけの十年間だ。桂木がいくら厳しい稽古を強いていたとは言え、他の門下生に比べれば自分の稽古など稽古の内に入るものではない。
 辛かったが、稽古を止めたいとは思わなかった。練兵館で赤井に一本を取られた時、強くなりたいと思った感情は、本人が気付かなくても心の中に小さな火種となって残っていたらしい。
「取れるようになるのかなあ」
 ここで稽古を重ねたとしても、時を隔て帰る術を見出せないのであれば、赤井との手合わせなど出来るはずもない。
 ふと、和奈は「帰りたい」と考えていない自分に思いあたる。帰る術を探すどころか、ここに適用しなければと、必要と思われるものは何でも受け入れてしまっている。
 ぶんぶんと首を振る。
「いやいや違う。帰るまで、帰るまでの事だし・・・」
 その言葉は言い訳の様な気がした。
 長州藩邸で感じた懐かしいという感情もおかしい。何かで見た事のある家に似ていたから、錯覚を起こしたのだと自分を納得させる。
【前にも来た事があるのか!? 】
「絶対にそれはないって・・・」
 頬に伝わる布団の心地よさに、いつのまにか和奈は眠りへと堕ちて行った。

 桜の花の匂いが鼻をくすぐる。
 桂が用意しくれた着物から漂ってきた匂いと同じだ。
 白く濁った景色の中、縁側で座っている人影が庭に咲く桜を見上げているのが見えた。
(父さん?)
 だが、家に縁側などない。
(ここは何処なんだろう)
 知らない景色のはずなのに、和奈には何処だか分かっている気がした。
 
 太陽が頂点を過ぎた頃。
 庭に立って和奈を待っていた武市は、やって来ない気配に、廊下が続くその向こうへと視線を投げた。
「さては、寝たか」
 それも仕方ないと、握った竹刀を肩に担ぐ。
 正直、よく続くものだと武市は感心していた。熱心と言うだけでは、自分の稽古にこうも喰らいついて来れるものではない。それに、教えた事を素直に受け入れ吸収してしまう早さにも驚くものがある。
「すみません!」
 ようやく姿を見せた和奈は、庭へと走り下りて行く。
「一日三度の稽古は辛いか」
「体も慣れてきましたので、平気です」
「ならば、今後は遅れるな」
「気をつけます!」
 自分でも厳しすぎる言葉をかけたと思うが、質を備えていると見た者には皆、同じ稽古をしてきた。桂が自分で稽古をつけず、自分にと頼んだ訳も汲み取らなければならない。
(女子に剣術など、不要なものなのだが)
 甥と紹介されて、そこに気付いたのは龍馬と自分だけだろう。以蔵も中岡も和奈が男だと信じて疑ってもいないはずだ。
「武市さん?」
 苦笑を浮べ、始めるぞと武市は竹刀を構えた。
 竹刀を振るう腕には、確かに剣術を習っていた筋肉を見て取れた。だが、振り下ろされる力は弱わく、何よりも肝心な体力が付いてない。
 腕、肩から胸、背筋、腹筋の筋力が未熟であれば、相対せる時間は少なくなる。事実、力を抜いて打ち合っても、竹刀を握る和奈の腕は四半刻と持たなかった。
 和奈の腕が落ち、竹刀の先が地面に付く。
「もう終わりにするか?」
「いえ、まだ。もう少しやれます」
 向かって来る意気込みも以蔵と中岡によく似ている。
「問題は体力か」
 今の世、刀を持てば斬るか斬られるかの二つに一つだ。技を身につけさす事も然る事ながら、肝心となる体力、筋力双方もつけさせねばならない。
「せいがでるのう」
 縁側に出て来た龍馬は、そう二人に声をかけた。
「龍馬さん」
 横を向いた和奈の頭に、竹刀が振り下ろされる。
「ったぁぁ!」
「こら、稽古中に余所見とはなんだ」
 頭を抱えて蹲ってしまった和奈を見て、龍馬が慌ててその傍らへと走り寄って来た。
「おんし、乱暴はいかんぜよ」
「乱暴? 今が稽古中だと言うのを忘れてはいまいな?」
「阿呆ゆうがやない。おんしなら止めれたぜよ」
「斬り合いとなった時に、知り合いに声をかけられたからと気を殺ぐのは、命取りしかならん。今のが真剣ならば、間違いなく和太郎は即死しているぞ?」
 剣の事となると融通が利かなくなる男にのは解っていた。それは武市なりの、弟子に対する思いやりなのだと解ってはいたが、もう少し臨機応変に処する術を持てないのかと、龍馬は口に出した。
「常日頃からの心構えがある無しで、生きるか死するかが決まる」
 それが剣士である武市の心構えなのだ。
「だがのう」
「稽古は遊びなどではないと、道場でもよく言われました。だから気にしないで下さい」
 痛む頭をこすりながら立ち上がった和奈も、武市の言う事を理解しているらしい。
 龍馬は一瞬目を細めて和奈を見た。
「今日の稽古はこれまでとしよう。和太郎、すまないが茶を入れて来てくれ」
「はい」
 竹刀を立て掛けようとした和奈の手が止まり、竹刀を脇に挟み武市に向かって一礼する。
「ありがとうございました」
 そうして竹刀を置き、廊下へ上がると小走りで奥に消えて行った。
「剣術を習っちょったがとゆうちょったが、どう思っちゅう」
 武市は縁側に腰掛け、和奈の消えた方へ眼をやる。
「確かに刀を持つ者の心得は身につけている。素質はあるのだが、稽古不足であることは否めまい」
「けんど、武市。おんしが教えちゅうのは護身術じゃーないが。剣術やか。それを判っておるかえ?」
「当たり前だ」
「桂さんから頼まれたのは、和太郎に護身術を教えてくれとゆうことじゃったろうが」
「桂さんが俺に頼んだ。だから俺はあいつに剣術を教えている」
「!」
「すぐに気づけ、阿呆が」
「油断したき」
「で、そんな事をわざわざ聞きに来たのではあるまい?」
「ほがな事でくるめるな」
 だが武市はそれ以上、和奈への稽古について答える様子を見せなかったものだから、龍馬はしぶしぶと懐から出した文を渡した。
「おんしに渡して欲しいと、桂さんから言付かって来た」
 文を開いて目を通す顔が、次第に険しくなって行く。
「高杉くんは今日にでも長州へ戻るとゆうちょったが」
「その様だな。これから桂さんと共に京を発つ」
「慎太郎の帰りを待てやーせんか」
「池田屋の件が長州に届くのも時間の問題だろう。報せを受けた長州兵が上洛するのも必至となれば、時を急ぐに越した事はない」
「止めに行くのか」
「血気逸っての上洛は、時期尚早だ。その点で桂さんとも考えを一致させている。何千もの長州兵が京に雪崩れ込む事になれば、もはや止める手立てがなくなる。なんとしても久坂くんと真木さんを圧し留めなければならん」
 以蔵はここに置いて行くと武市は言った。
「長州が京に入れば否応なく薩摩も動く。両藩の和解を考えるおまえにとっては、厄介な火種となる」
「わしにとってだけじゃのうて、薩摩との和解は長州にまっこといるな事ちや。抑えれるならそれに越した事はない。が、武市、無茶はしな」
「おまえに気遣われるまでもない」
 と、武市は空を仰ぐ。
 お盆を抱え、戻って来た和奈は二人の座る間に湯飲みを置いた。
「私が戻るまで、稽古は以蔵につけてもらうといい」
「武市さん、出かけるんですか?」
「ああ、江戸へ行く」
 以蔵と喋る機会など殆んどなかった和奈は、その不安が顔に出てしまったのだろう、だから武市は、
「素っ気ない奴だが、悪い奴ではないから安心しろ」
 と笑った。
「悪い奴とか、そんなことは思ってません」
 武市が居ない時は、部屋に閉じ篭って皆の居る所には顔を出さない。食事時になると、いつ入ってきたのか静かに座って居るのだが、近寄りづらい雰囲気があり、何をどう話しかけたらいいのか見当もつかなかったので、話しかけたことは一度もなかった。
「無口な男だが、剣の腕は俺が保証する。安心してしごかれておくといい」
「うへっ」
 首を引っ込めた和奈に、くすりと笑った武市は、用意をして来ると腰を上げて部屋へと戻って行った。
「どうがな、ここでの暮らしは」
 不自由などしていないだろうかと、龍馬の気掛かりは尽きないのである。
「毎日、稽古稽古で、生活してる実感がないんですよね」
「武市は厳しいからのう、疲れて何かをする前に寝ちゅうがやないがか」
「そのとおりです・・・・でも、ここでの稽古は楽しいです」
「ほう。あっちとこっちじゃー、稽古が違うがか?」
「流派が違うので構え方とか立ち方は少し違いますが、稽古の内容はそう変わらないです」
「ほうか。ま、楽しいと思えるなら、なんちゃーがやないやき。困っとる事があったら言うとうせ」
「困るというか・・・」
「なんじゃ?」
「手水は外にあるのがどうしても慣れなくて、夜なんか本当に大変なんですから」
「未来には厠が無いがかぇ!?」
「在ります在ります!」
 厠は言わばトイレで、手水も同じ意味を持つ。あからさまに口にするのがはばかられるので、「はばかり」とか「|手水《ちょうず》」と口にする。
 長州藩邸もこの薩摩藩邸も、トイレは家屋の側屋に在る。
 下に水を流す溝が作られていて、川へ流れる仕組みになっているから衛生面は良い。ただ、夜の闇の中で、|手燭《てしょく》の小さな灯りで厠へ歩くのは、暗闇に慣れていない和奈にとって骨の折れる仕事となっている。
「ほりゃあ、わしではなんちゃあ出来んぜよ」
「ですよね。そのうち慣れると思います、はい。すいません、変な話で」
「いやいや、ほがな事で悩めるなら、なんちゃーがやない」
 龍馬の笑顔は、桂の笑顔と同じで心を落ち着かせてくれる。
「あの、龍馬さん」
「ん?」
「ずっと気になってたんですけど、私が居た所の話しって聞かないんですか?」
 初めて会った時に、これから起こることを知っているのかと聞いてきたにも関わらず、馬は一度としてどんな所なのだと聞いてこない。
「わしらがここで何をして、どうなっちゅうのかとかかの」
「はい」
 龍馬は、いらんいらんと手を振った。
「結果なんぞ聞かぇうても、いずれ判る事やき」
「でも、判っていたら・・・・・死ななくていい人も、死なずに済むんじゃないんですか?」
 恐らく自分なら悪い結果にならないよう、結果を聞いて違う術を選んで進むに違いない。
「ほりゃあそうじゃが、わしは聞きたいとは思いやーせん。桂さんと、何一つおんしに聞いたりはしちゃーせんじゃろ」
「はい」
 未来の事に興味ありそうだった高杉とて、聞きに来る事はなかった。
「これから何が起こるか判っちょったら、確かに思い通りの顛末を描けるじゃろう。けんど、ほいたら意味がないちや。解らんからこそ、皆必至に生きようと努力する。それが一番大事やき、生きちゅう実感をこの手にできる。違うか?」
 龍馬は和奈の顔の前で手を広げて見せた。その手には竹刀稽古でついたと思える肉刺が残るっている。
「じゃからおまさんも語らのうていいし、聞かれても答えんでええ」
 生きる努力をする。
 果たして自分は生きようと努力して生きてきただろうか。
「よし、わしがちっくと稽古につきあっちゃる」
 武市が置いて行った竹刀を手に取り庭へ下りた龍馬は、はよう来いと手招きをする。
「はい!」
 二人が竹刀をあわせて初めてしばらく後、奥の部屋から出て来た以蔵は庭へと視線を向けた。
「何をやってるんだ」
 二人の稽古にもなっていない打ち合いにため息を吐く。
 その気配に気付いた龍馬が、中段に構えたまま顔を横へと動かした。
「おう、以蔵」
 横顔が見えた時にはもう、和奈の腕は上段から振り下ろされている。
 止める技量など今の和奈にはない。
「あっ!」
 その声に反応した龍馬の体が後ろへと一歩退いたが、前に出されていむた腕はそのまま竹刀を受けてしまった。
「痛っ!」
「龍馬さん!」
 駆け寄って来た和奈に、大丈夫だと笑いながら手の甲を摩る。
「馬鹿が」
「いかんいかん、これじゃー武市に怒られてしまう」
 手を振り、申し訳なさそうにしている和奈にもう一度笑いかけた龍馬は、竹刀を手に縁側へと歩いて行く。
「ほれ」
 竹刀の柄を差し出してきた龍馬に、以蔵の眉がつり上がる。
「なんのまねだ?」
「武市がのう、和太郎の稽古をおんしにさせろと言うちょった」
「先生が?」
「あ、こら、待ちやー」
 踵を返した以蔵の背中に声を上げるが、聞く耳もなく以蔵は走って行ってしまった。
「まっこと、武市の事となると余裕のうなっていかん」
「岡田さんて、武市さんの側をあまり離れませんよね」
 龍馬の横に立ってその顔を見上げる。
「武市もわりぃ」
 早く手放してやらないと、死ぬ事になる。
 これまで多くの命をその手にかけてきた。例えそれが命をかけることになったとしても、武市がやれと言えば躊躇いなくその剣を振るうだろう。
「ほがなこと、武市は望んでないんやけどのう」
「お弟子さんだからですか?」
「ん? ああ。そうじゃな。中岡の様に、時間をもっと大切にしたらえいがやけど」
「中岡さんもお弟子さんなんだ」
「おお。話さんかったか。土佐におる頃は毎日の様に道場につとおておったが、今は別行動を取っちゅう」
 明るい中岡に、影のある以蔵。対極を成す二人を弟子としている武市。なんとも奇妙な取り合わせに思えた。
「明暗じゃのう」
 けたけたと龍馬が笑い声を上げる。
「間におるおんしは、どんな色に染まるんかのう」
「色、ですか」
 龍馬はそんな事を考えてそう言ったのだろうが、明の白と暗の黒の間ならば、どちらにもつかない灰色しかない。
「灰色もいいかも知れませんね」
「! いや、そうゆうつもりでゆうたがやない。誤解しやーせんでいとおせ」
「誤解してませんから、そんなに慌てないで下さい」
「おんしが大人で助かった。以蔵も、もうちっくと成長したらいいがやき」
 二十二にもなって大人扱いされるとは思ってもみなかった。
「岡田さん、いくつなんですか?」
「二十六になるがで」
「えっ!? 私より年下かと思ってた」
「中岡も二十六ちや」
「下に見える!」
 中岡は背がちっこいから、と笑う龍馬だったが、年齢に背は関係ないだろうと和奈は思う。
「おんしはなんぼになるんだ?」
「二十二です・・・」
「ほう。おんし、見た目より若く見えるのう」
「何も出ませんよ?」
 改めて皆の年齢を聞いた和奈は驚くばかりだった。
 年長から並べると、三十五歳の武市、無愛想極まりない大久保は武市より一つ下の三十四歳。三十一歳になる桂。二十八歳の龍馬、次に以蔵、中岡ときて、最後に二十五歳の高杉となる。
「桂さん若っ!」
「確かに若いのう。高杉くんの二十五歳は間違いのような気もするがで」
「あの奔放ぶりですからね・・・」
 どう見ても考えても年下にしか見えない男であると和奈は真面目に答えた。
「けんど、長州の上士にゃ変わりない」
「上士?」
 藩士には上士と下士の身分がある。上格の家柄に生まれた者は上士であり、城下以外に住む武家が下士と呼ばれる。
 上士下士共に、名字帯刀が許されているが、騎乗を許可されているのは上士のみだ。
 上士の身分の者には少ないが、名字帯刀と士分を持つと少なからず藩から給金が賄われ、職にもありつける事から、下士身分を買う農民や商人も多く居た。
「身分を買うんですか?」
「安い買い物じゃーないき、欲しがるもん全部が買えるとは限らんがのう」
「龍馬さんはどっちなんですか?」
「他の藩じゃー下士になる郷士やか」
「ごうし?」
 土佐藩に山内家が入封した時、山内家臣を上士とし、長宗我部氏の家臣や郎党等を郷士とした。士農工商の一角を占める士分より下の者である。下士と同じく城下には住めず、農村地帯などに居を持ち藩に仕えている。 
 土佐は、上士と郷士の身分差別が厳しい藩で名高い。名字帯刀は許されているが、上士とのその扱いには大きな違いがある。目通りや上申などは叶わず、足袋や下駄などは履く事を許されていない。
 武市は足袋を履いているが、龍馬や以蔵は裸足で草履を履いている。他の三人が妻側へと回ったのは、そういう理由があっての行動だったのだ。
「裸足だと汚れてるから足を洗ったんだ」
「汚れたまま畳にゃ上がれんからな」
 足袋や下駄など、貧富の差があっても買えるなら誰しもが履く物だ。 身分差など考える必要のない環境で育った和奈にとっては驚くべきものである。
「武市さんは上士なんですか」
「武市は元々郷士よりも上の白札じゃったがだ。上士と郷士の間におる侍だ。今は上士に取り立てられ、藩のお役目を務めちゅう」
「身分けが一杯ある、ってことですね」
 和奈の思考はすでに停滞しつつあった。一度に沢山聞いても覚える自信がなく、それ以上は身分について尋ねるのを止めてしまった。
「桂さんと高杉くん、大久保さんは上士ちや」
「大久保さんは、なんか納得です」
 あの態度である。身分が低いと言われた方が不思議に思える。
「三人とも国の政に意見出来る人物ちゅうことちや」
 武市が忠告した理由は、だからなのだ。
 政り事に関わるなら、国会議員のようなものだろう。和奈の知る年老いた国会議員とは随分と差があったのだが、そう考えるとすんなり頭の中に収まってくれた。
「大久保さんには絶対逆らったらいけん」
 真剣な顔なのだが、真剣さが欠けていたものだから、和奈はつい噴出してしまった。
 そう念を押されなくても、喧嘩を売ろうなどと思わない。売ったが最後、何をされるか判ったものではない。
 そこに、拗ねた面構えで以蔵が戻って来た。
 聞くまでもなく、連れて行けと懇願しに行ってあっさり断られたに違いない。
「俺の稽古は先生ほど優しくはないから、覚悟しておけ」
 八つ当たりになりそうな予感がして、和奈は引き返して行った以蔵の背中にため息をついた。


← 前の回  次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 2369