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作品名:幕末奇譚 『志士 狂桜の宴』 作者:夏月左桜

第1回   時渡り
 昭和四十四年七月。
 第二次世界大戦が終結して二十年余り。欧米の文化が日本文化を押す勢いで流れ込む時代となり、古きとされる和の文化は次第に洋式文化へと変貌し始めていた。復興の勢いにあわせ、違った意味での混乱が日本を駆け巡り、古くから培われて来た日本人の心もまた、欧米化の波に飲まれつつあった。

 組太刀を終え、始めの立ち位置に位置に戻った村木和奈は、息を一つ小さく吐いてから一礼した。
 竹刀稽古が連日あったせいか、組太刀が思いのほかきつかったせいなのか、足全体に痺れるような感覚が広がっている。だからとふらつく事はできない。
 呼吸を整え、正面に座している師範の桂木正太郎に一礼を送ると、姿勢を正したまま剣道場の隅へと移動して行く。
 和奈が通っているのは、古流武術剣術|心形刀流《しんぎょうとうりゅう》を教える道場「練武館」だ。

 心形刀流は|伊庭秀明《いば ひであき》が本心刀流を元とに天和二年(1682年)に開いた流派で、一刀、二刀技法、居合術、|薙刀《なぎなた》術を教え、桂木の練武館もこの剣術の伝承を目的として門下生を集めている。
 江戸時代末期頃に於いて、江戸の三大道場で名高い玄武館、練兵館、士学館に並ぶ道場として練武館の名もあり、これを含め四大剣術道場とされた。
 
 ある日、父村木耕造を訪ねて来た桂木が、女性と言えども礼儀作法は必要であり、稽古を通し精神面を強くする武術は得はあれど損はしないと道場通い勧めてきた。旧友であるにも関わらず、耕造には剣術を教えているくらいの知識しかなかった。しかし、礼儀作法は封建社会に育った構造にとっては重要なもの一つであり、それならばと、当事者となる和奈の意志を確かめぬまま入門を快諾してしまった。
 渋々通い出して十年の月日が過ぎた。
 桂木の指導は言葉で言うよりも厳しい。常日頃から、養う努力を積み重なねる事こそが大事であると、道場に入った時だけでなく平素の生活に於いても、道場に居ると同じ心構えを要求する。云わば一日二十四時間が修練であり、鍛錬だと言うのである。それに堪え切れず根を上げ辞めていく門下生も少なくなかった。
 辛いと言っても、仕事のストレスや時折襲われる不安感を沈めるには、道場の凛とした空気が欠かせなくなっている。決して家で作り出せる空間ではない。父が出した決断だったが、良い判断であった事は和奈も認めている。他の女学生とは違った思春期だったが、それはそれで十分楽しい時期となった十年間である。

 門下生の組太刀を横目に、桂木は和奈の横へと立った。
「相変わらず、組太刀は不得手てと見えるな」
「はい」
「太刀を振るう者は、一手二手と先の太刀筋を読まなくてはならんのだが、それが君にはできてない。技の鍛錬はもちろんの事だが、精神の修練もそれ以上に積まなくてはいかん」
「努力してるつもりなんですが・・・」
 恐縮してしまっている和奈を見下ろした顔が笑みを浮かべる。
「よく着いて来ていると、感心はしているのだがな」
 道場通いを勧めたが、正直言ってここまで続けられるとは桂木も予想していなかった。十二歳と言えば何事もにも多感になる時期である。まして女性ともなれば色々な面で変化の起こる年代だ。一年続けば良い方だと思っての勧めであった。
「勧められたからと来る者や、健康にと通ってくる者にとって、私の稽古は随分厳しいものだろう。だが武術を続ける事は良いものだ。心を澄まして座せば周りが見え、己の心も次第と観えて来る」
「あ、なんとなく解ります」
「ほう」
 意外だと言わんばかりの顔が和奈を覗き込む。
「道場の雰囲気が好きなんです。この雰囲気ってなかなか味わえませんから」
「嬉しい事を行ってくれる。そう言って貰えると誘った甲斐もあるな」
「実技の方はからっきしですけど」
 緩んだ桂木の顔が厳しく引き締まった。
「何かに打ち込むというのは決して無駄な事ではないよ。結果が良くても悪くても重要となるのは、そこに至る努力を積み重ねる経緯過程だと私は思ってる。辛くとも、何かを成した後の爽快感を私は忘れる事ができない。だから今もこうして毎日剣に心を通わせるのを怠ってはいない」
 剣に心を通わせる。
 これまでに何度となく桂木が口にして来た言葉である。
「心で振る剣は、その心のあり方に沿って応えてくれるものなのだよ」
 心のあり方。と、胸に何か刺ささったような痛身を覚えた。
(なんだろう。何かが−)
「そうだ。今度の土曜だが、予定はあるか?」
 一瞬戸惑った奇妙な感覚は、その言葉で消されてしまった。
「父から本の整理を手伝うよう言われていますが」
「耕造には私から連絡を入れておこう。一緒に京都へ来なさい」
「交流試合ですか?」
 いい機会だと笑う桂木は、腕組を解いたかと思うと組太刀の終った門下生に怒声を飛ばした。
「先生!」
 背は余り高くはなかったが、均整のとれた体格と、少年のあどけなさが残る顔立ちの赤井修吾は、道場に通う門下生の中でたった一人、桂木が良い剣士と褒めた人間である。
 和奈と同じ高校に通う同級生だった。クラスが別だった赤井と接する機会も無く、よって会話は交わした事がない。先に道場通いを始めたのは和奈の方で、赤井は一年遅れてこの道場の門下に入って来た。
 二人の前へ立った赤井はまず桂木に一礼し、和奈には一瞥をくれただけで視線を戻してしまった。
「今度の土曜の日程を確認したいのですが」
「後で私の部屋に来なさい。ああ、そうだ。村木君も同行する事になったから、旅館の方に連絡しておいてくれるか」
「え? あ、はい。解りました」
 ちらりと怪訝そうに自分を見た赤井が、ふん、と鼻を鳴らしたように和奈には見えた。
(やな奴)
 ムッとする和奈を気にするでもなく、赤井は軽やかな足取りで道場から出て行った。
「彼とは高校が同じだったね」
「はい。でもよくは知りません」
「いい腕をしているよ」
(腕が良くても性格が悪くちゃあねぇ)
「今の時代、剣気を読むのに長けている者に出会うのは中々無いものだ。いい手本となるだろうから、彼の組太刀をよく見ておくといい」
 そう言って、桂木は集まっている門下生の所へと歩いて行った。

 土曜は良く晴れた天気となった。
 朝五時に起床した和奈は稽古道具を持ち、集合場所となっている大阪駅南口へとやって来た。
 桂木の長身はよく目立っており、週末で人で溢れ返っている中でも探す手間はかからなかった。
「おはようございます!」
「やあ、おはよう」
 桂木の後ろに赤井を見つけた。輪から少し離れた所で、誰と話しをするでもなくただぼうっと立っている。
「さあ、行こうか」
 電車に乗り込んだ桂木は、手にした紙を見ながら一人一人の名前を呼び席を示して行く。
 自由席なのでどこに誰と座ろうが関係ないように思えるのだが、こういう所でもきちっと仕切らないと気がすまない性格なのだ。
「うっ・・・」
 村木と指された席には赤井が座っていた。
 一瞬、体が後ず去りしそうになったのを必死と耐え、荷物を棚に乗せ空いた席に腰を落ろした。
(選りにも選って赤井修吾の横なんて)
 これは誰も居ないと思い込むしかない。そう思いつつも、右ひじを窓枠に乗せ頬杖をついている赤井をちらりと見る。
(うわぁ、気まずいというか、寧ろ私が居心地悪い)
「居心地が悪いのは俺も同じだから、我慢しろ」
 ビクッと和奈の背筋が伸びた。
 鳴り響く発車のベルを合図に、ゆっくりと電車が動き出す。
 握った両手を揃えた膝の上に置き、視線を真っ直ぐ向ける。京都へ着くまでの四十分は、長くなると、和奈は小さくため息をついた。
「あのさ」
 その声にまた背筋が伸びる。
「あのなぁ。話しかける度にそうやって背筋伸ばすのかよ。失礼な奴だなおまえ」
 おまえ呼ばわりされるほど、仲が良かったのかと思うが口にはしない。
「失礼してごめんなさい」
 変な日本語を口にし、笑顔を作ろうとした努力は頬を引き吊らせた形になり徒労に終わった。
「なんで剣術続けてるの?」
「はっ?」
 いきなりの質問に答えを窮し、無言のまま前の背もたれを見める。
「理由、ないの?」
 しつこい。
「ありますけど、話す必要ある?」
 赤井がやっと窓の外から視線を和奈へと向けた。
「・・・ないけど。二十を超えた女が、わざわざ休日に交流試合見に来るなんて珍しいと思ったから」
 途中、年齢のところで和奈は手を一段と握り締めた。
「すいませんね、デートの予約もありませんで」
「あ・・・いや、そういう意味じゃなくて」
「じゃあどう言う意味なんでしょうか」
 ニコッっと笑ったつもりだが、やはりヒクヒクと頬が攣った顔は笑顔にならなかった。
「ごめん、言葉が悪かった」
 素直に謝られてしまい、ついと出かかった言葉を和奈は慌てて飲み込んだ。
 居場所のなくなったこの腹立たしさを、一体何処に向けたらいいのか判らず無言になるしかない。
「集まってくる流派は頭に入れたか?」
 話の矛先を変えられ、肩透かし状態のまま顔を赤井に向ける。ここで蒸し返しても仕方がないと肩の力を抜いた。
「名簿はもらってるけど」
 それは今、棚に置かれた鞄の中にある。
 呆れた様子の赤井は、窓の外から和奈へと視線を移した。
「心形刀流からは俺と榎木稔さんがでる。|天然理心流《てんねんりしんりゅう》からは緒方貢さんと高崎司くん。|北辰一刀流《ほくしんいっとうりゅう》から杉本透哉さん。|神道無念流《しんどうむねんりゅう》からは佐々木晋一くんと朔月惣太郎さん。|鏡心明智流《きょうしんめいちりゅう》からは・・・確か武本達也さんと桜井慎吾くんだったな。|天心鏡智流《てんしんきょうちりゅう》からは荻原隆利さんが参加して来る。ちゃんと暗記しとけ」
 はっきり言って他流派の人など覚えてない。とは今更言い出せる筈もなかったので、和奈は苦笑するしかなかった。
「おまえ、とことん勉強する気ないだろ」
「そんな事はありません」
 剣術は覚えようと思わなくても自然と体や頭に入るのだが、流派は極意はとなると覚えようにも記憶しようという脳の活動がぱったりと止まってしまうのだ。
「他流の人相手に、流派間違えたらどうすんだよ」
 そんな馬鹿な真似などできないとも解っている。解ってはいても一度に覚えきれるものではない。
「流派は口にしないようにしておきます」
 そういう問題ではないのだがと、赤井は呆れて突っ込む気力を失ってしまった。
「だから未だに伝書も貰えないんだよ」
 痛いところを突いてくる。
 今回、他流試合に参加して来るのは伝書を貰った者のみである。赤井は切紙を貰っているので試合に参加となっていた。
 
 伝書とは師範が師弟に授けるもので、習得した技の名前や武芸の意味、流派の由来やその精神が記された書付書である。剣道のような段位制とは異なる。心形刀流の伝書は、下から切紙、初目録、中目録、高目録、免許、印可となり、印可を得たものは独立を許される。この伝書は各流派によって若干の差異があり、心形刀流で目録を得ても、北辰一刀流の目録と一緒のレベルとは限らない。 

 見学だけの自分と伝書を貰っている赤井。その差に劣等感を抱いた事はない。稽古に出る回数は赤井の方が断然多かったし、自宅に小さいな稽古部屋も在るらしいので差がつくのは当然と思っている。
「あのさ。あ、背筋伸ばすなよ」
 そう、伸ばしかけたのだ。
「敬語はいいからさ、普通に話せば?」
「はぁ」
 片手で顔を覆う赤井を見て、同じ年なのにと自分が情けなくなってくる。
「ともかく、錬兵館に着くまでに頭へ入れておけよ」
 上着のポケットから折りたたんだ紙を取り出し、和奈に差し出す。
「ありがと」
 赤井は口数は少ないが、細かい事によく気がつき面倒見も良いと、年下の門下生からは人気がある。急遽きまった和奈の同行でも、旅館への連絡、切符の手配と手間を掛けてくれていた。
「赤井くん」
「修吾でいいよ」
 これまでの状況からして、いきなり名前でいいと言われても呼べるものではない。
「色々手配してくれてありがとう」
 和奈はそれとなく話しを逸らした。
「まったくだ」
 やはり赤井という男は嫌な奴だ。
「なになに。修吾ってば、和奈ちゃんにちょっかい出してるの?」
 突然の声に横へ振り向くと、榎木稔がニコニコ顔で立っていた。
「ちょっかいって、榎木さん誤解してます!」
「慎吾でいいよ。なんて、僕からしたらもう告白に聞こえるね!」
 顔を赤らめ、赤井は半開きの口のまま榎木を見上げている。
「いいねぇ青春ってやつは。もっと楽しみたまえ」
 誤解を解く暇を与えないまま、榎木はさっさと自分の席へと戻って行ってしまった。
 困り過ぎて話しずらくなったのは和奈も同じで、窓枠に肘を付き外の景色へと視線を向けた赤井を横に気にしながら、京都に着くまで落ち着かない時間を過ごす羽目になった。

 初夏の京都は、すでに暑い日差しが町に蒸した空気を漂わせていた。
 宿は三条駅を西に出て、三条通りに面して建っている加茂川館となっていた。ここは桂木が合宿をする際にいつも使う旅館である。試合の行われる練兵館は、河原町通りを下った祇園四条に在る減光院の側で、観光地として名高い八坂神社や祇園、円山公園も近くにあった。
 加茂川館の表戸を潜ると、飛石の敷かれた細い小道が奥へ連なっていた。
 桂木を先に榎木が続き、他の者も連なって入って行く。
「ようお越しやす、桂木はん」
 薄紫色の着物を纏った女性が、板の間に手を付き頭を下げた。
 この旅館の女将、武上八重子である。
「久しぶりだな女将、また世話になる」
「楽しみにしておりましたさかい、どうぞゆっくりして行っておくれやす。榎木はんも、お達者そうでなによりどすな」
「お久しぶりです。今回もよろしくお願いします」
 榎木は一歩進み出て軽く頭を下げると、それぞれが脱いだ靴を綺麗に並べ、お世話になりますと各々挨拶をしながら奥へと入って行く。
「村木さんはうちとどうぞ」
 男性陣とは反対にある細い廊下へと歩き出した八重子の後を、和奈は急いで追いかけた。
「すべりますさかい、気をつけておくれやす」
 磨かれた廊下は確かにすべりが良さそうだった。
 歩く廊下の左手に、小さな庭が広がっている。
 苔がびっしりと敷き詰められた庭の中央に小さな池が設えられ、周りで花菖蒲が花を咲かせている。池の左右には桜と橘が一本ずつ、青々とした枝を空に向けて伸ばしていた。
「綺麗ですね」
 名勝とまではいかないまでも、庭園として鑑賞するには十分な景色に見えた。
「おおきに。庭の手入れは欠かせまへんさかい、庭師に頼んで毎日来てもろてます」
 二日、いや三日に一回でも十分綺麗だろうと思う。
 近年、京都へは外国からの泊り客も多く訪れるようになっている。和を好む客に対する持成しには、大変でも毎日の手入れは必要となるのだろう。
 六畳一間の和室へと和奈を案内した八重子は、トイレや風呂等の位置を伝えると部屋を出て行った。
 井草の良い香りに、大きく深呼吸をする。
 道路に面して建っているにも関わらず、部屋は静かだった。車の音もここには届いてこない。

 りぃーん。

 静寂の中、突然鈴の音が小さく響いた。
「へ?」
 首を傾げて部屋を見回す。が、掛け軸と花瓶以外の装飾品だけで鈴の音が出る物ではない。風鈴かとも思ったが、窓は閉まっていたし軒下に風鈴は付けられてはいなかった。
 暫く耳を澄ませていたが、もう鈴の音は聞こえてこなかった。
 鈴の音の探索を諦めた和奈は、ボストンバックから道着・角帯・袴を取り出すと麻袋に詰めかえ、木太刀が入っている布袋を手にすると部屋を後にした。

 試合開始までまだ小一時間あると言うのに、練兵館にはもう人が集まっていた。試合に臨む前に精神を整えようと、早い者は二、三時間前からやって来るのだ。
 和奈も道着に着替えると急いで道場へと戻り、邪魔にならないよう壁沿いに座る。試合が始まれば板張りの床に正座にならねばならない。
 正面の神座に目をやると、神道無念流の流儀四ヶ条が書かれている幕に目が止まった。

一、兵は凶器といえば、その身一生持ちうることなきは大幸というべし。
二、これを用うるは止むことを得ざる時なり。
三、わたくしの意趣遺恨等に決して用うるべからず。
四、これ、すなわち暴なり。

 神道無念流は「力の剣法」とも呼ばれ、略打を良しとせず真を打つ渾身の一撃を強く勧めている剣術だ。
 剣術とは、禅など心法に重きを置きながら真剣を用い、相手を殺傷するための武術とされる。ゆえに兵法が数多く存在している。兵法とは、剣術を中心とする相手を殺傷する為の武術で、実技・学問から成る。
 流儀を持つ剣術が現われ始めたのは安土桃山時代にまで遡るが、禅など心法に重きを置く流派が現われたのは江戸時代に入ってからで、柳生宗矩が『兵法家伝書』に、禅とは違う解釈を用いている。
【一人の悪に依りて、萬人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして萬人をいかす、是等誠に、人をころす刀は人をいかすつるぎなるべきにや。人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ亂れたる世には、故なき者多く死する也。亂れたる世を治めむ爲に、殺人刀を用ゐて、已に治まる時は、殺人刀即ち活人劔ならずや。こゝを以て名付くる所也】
 悪に打ち勝ち確実に滅す殺人剣であり、その悪を滅した事によって万人が救われ活きるのが活人剣であると言う。流派によって殺人剣と活人剣の解釈は異なる。
 剣を振るう者はこの両面を持ち合わせなければならないと解く事が、剣術を殺人技法に留まらせず、武術としての位置を獲得できる事になった所以であり、禅の思想を取り入れることで広まったとも言える。

【なんで剣術続けてるの?】
 気が休まる。自分にはそれしかない、と和奈は赤井に問われた言葉に答えた。
 様様なストレスから精神が疲れると体にも影響が出始める。その前に、和奈は静寂と張り詰めた空気が存在する剣道場へと足を運ぶのだ。
「君は参加しないの?」
 えっ、と視線を上げた先に見知らぬ男性がニコニコと立っていた。
「いえ、私は見学です」
「あ。そうなの? どこの流派なんだい?」
「心形刀流です」
「ああ、赤井くんのところか。僕は神道無念流の朔月惣太郎、よろしくね」
「あ、私は村木和奈です」
「村木和奈さん・・・か。うん、いいね」
 なにがいいのやら。
「惣太郎!」
 別の男性が息せき切って駆け寄って来る。
「お? なになに、おまえ試合前に女の子くどいてんの?」
 また、このパターンかと、和奈は興味津々と身を乗り出している男性を見た。
「君じゃあるまいし、一緒にしないでくれないか晋一」
 どこかで聞いたことのある名前だ。朔月と親しいそうなので同じ流派だろう。
「佐々木さん・・・」
 名前を呼ばれた晋一は、さらに和奈へ顔を近づけた。
「おお、そんなに俺って有名?」
 すごく嬉しそうに、鼻の頭を人差し指で掻きながら顔を突き出してきたものだから、上半身が仰け反ってしまう。
「えっ、いえ、あの名簿にあったのを思い出して・・・」
「ちぇっ、なんだ」
 朔月は邪魔だと佐々木を横へと押しのける。
「君も参加できるようにならないとね」
「え、まあ、はい」
「剣術はいいぞ。毎日に張り合いがでるからな」
「張り合いですか?」
「ただ時間に追われ、意味もなく過ごすだけの人生なんて、なんの面白みもないだろ?」
「面白みですか」
 桂木もそんな事を言っていた。
 意味を考えながら毎日を過してはいない。道場通いも剣術を極めたいと続けているのではなく、ストレスを解消する手段として生活の中に組み込まれているだけなのだ。
「剣術に限った事ではないよ。何か目的を見つけてそれに進むのはいい事だと、晋一は言いたいんだよ」
「なるほど」
「さて、時間だ。行くよ晋一」
「おう。じゃまたな!」
 元気活発が服を着て跳ねていると、思わずくすりと笑いが零れた。
「へぇ。和奈ちゃんて、案外もてるんだね」
 へっ? と横を向くと、これまたニコニコとした榎木が膝を抱えて座っていた。
「・・・時間、そろそろらしいですよ」
 苦笑しながら、人が集まっている方向を指差す。
「はいはい、じゃ行って来るから応援しててね」
 榎木の場合は疲れる人だった。

 ざわついていた道場内が静かになり、それぞれの流派に分かれて剣士が並び出すと、徐々に空気が張り詰め出した。
 体に纏わりつく緊張感。澄んでいく心。現実から隔絶される瞬間だった。

 りぃーん。

「えっ?」
 また鈴の音が聞こえてきた。しかし、どれだけ耳を済ませても鈴の音は響かなかった。

 赤井は高校生と見える桜井と、後は年長組みらしく緒方と朔月、杉本と萩原、佐々木と武本、高崎と榎木となり、組太刀の組合わせが決まると試合が始まった。
 和奈が一番に惹きつけられたのは、緒方と朔月の組太刀だ。緒方の雰囲気が只ならぬ殺気を帯び、相手を打ち負かそうと先手を取って行く。我武者羅な攻め方に見えるが、朔月の二の太刀はちゃんと読みかわしいているので、考え無しと言うわけではなさそうだ。
 その他の組合は、稽古で養った実力の出し合いを手習い通りやる感じである。それが面白くないと言う訳ではないが、他の組太刀を見ていても、いつの間にか朔月と緒方の組太刀に目が戻ってしまっていた。
 仕掛ける緒方に受ける朔月。必死なまでに攻める緒方の腕も凄いが、余裕を見せて交わして行く朔月が一枚上手のように見えた。
 ほんの一瞬の事だった。
 受手だった朔月が緒方の攻めを受け流しつつ攻めに転じ、勝負がついた。
「さすがだよなあ」
 その声に横を向くと赤井が座っていた。どうやら先に試合が終わっていたらしい。
「朔月さん強いよなあ。俺としては緒方さんより、武本さんか杉本さんとやってほしかったな」
「どして?」
 呆れ顔をまた和奈に向ける赤井。
「力の剣法、立の剣法、技の剣法、どれが一番になるか見たくないか?」
「ああ、そういうこと」
「・・・俺にはおまえがわからん」
「赤井!」
 桂木に呼ばれた赤井は真顔に戻り、試合を終えて集まる輪へ小走りで駆けて行った。
 試合が終り、主催者である桂木が訓示を言い終えた頃には、傾き出した太陽のが放つ朱色の光が道場の中を一杯に満たしていた。


 夜が近づくと、加茂川館のある三条界隈は祇園が近いせいもあり一層賑やになる。
「食事まで一時間ほどある。散策したい者は自由にしていいぞ」
 そう許可されて部屋に篭っていられるほど、皆大人ではない。急げとばかりに、皆外へと繰り出して行く。
 和奈も荷物を部屋に置きに行き、玄関へと戻って来る。玄関の脇の窓際で、赤井が庭を眺めながらぽつんと座っていた。
「外、行かないの?」
「行きたい所もないからな」
 和奈を見ようともせず、そう答える。
「祇園だよ? 京都の夜だよ? 二十超えた健全な青少年がなにジジくさい事いってんの」
「おまえなぁ!」
 どうだと言いた気な和奈の含み笑いに、赤井は拳を握り腰を浮かせた。
「仲がよろしおすなぁ」
 うっ、と動きを止めて振り返ると、女将がくすくすと笑っていた。
「仲良くなんてありません!」
 同時にそう叫ぶと、ほら息もぴったりと女将は笑い続ける。
「外に出はらんのでしたら、飲み物を持ってきますさかい」
 きっかけを失ってしまった和奈は、赤井の前の椅子に腰掛け、女将が持って来てくれたお茶を啜ることになった。
「そっくりそののまま、さっきの言葉返してやる」
「へ?」
「ババくさい」
 その顔は笑っている。馬鹿にした笑いではなく、優しい微笑みだった。
「今日の試合、どうだった?」
「もうすごいの一言しか出てこないよ。特に朔月さんと緒方さんの試合は見ごたえあったなあ。ほら、ずっと守りに徹していた朔月さんが出した最後の一手。あれはさすがに緒方さんでもかわしきれないよね」
 うんうんと頷く和奈に、赤井はまた呆れ顔を浮かべた。
「その試合だけ見てたってことか」
「えっと・・・いえ。ちゃんと他のも見てました」
 実を言うと全部は見ていなかった。それを隠くしたところで、赤井の顔を見れば嘘がばれていると判る。
「高校生っぽい子もいたね」
 だから話しをそらしてみた。
「それ、天然理心流の高崎くん」
 榎木を相手に引けを取っておらず、押す場面さえあった。
「私もいつか参加できるのかなぁ」
「無理!」
 即答されて落ち込むしかない和奈だったが、今の腕ではそう言われても仕方ないと反論すら出来ない。
「練兵館に行ってみるか?」
「今から?」
「一太刀、付き合ってやる」
 赤井は玄関横の小部屋に入り、頭だけ暖簾から出すと用意して来いと言い中へ姿を消した。


 練兵館にはまだ明かりが灯っていた。
 二人がそっと中を覗くと、正面を向いて座している朔月の姿があった。
「邪魔しちゃ悪いんじゃない?」
 その声が聞こえたのか、朔月が振り向く。
「おや、君は昼間の」
 太腿に両手をついて立ち上がり、二人の所へとやって来る。
「どうしたの?」
「夜分に申し訳ありません。良ければ道場を使わせて頂けないかと伺いました」
「これからかい?」
「はい。村木が見学だけだったんで、忘れないうちに剣捌きの一つでも覚えてもらおうと思って」
 和奈は、真剣な眼差しで朔月に頭を下げる赤井に感心した。そういう事を考えれる赤井だからこそ、年下の門下生達が集まってくるのだろ。
「で、そういう君は和奈さんの彼氏?」
 二人は言葉を失って朔月を見つめた。
「な、なんで、そういう事になるんですか!?」
「いや、ただの友人にしては面倒見が良過ぎるからね。邪推し過ぎたかな、ごめんね和奈さん」
「い、いえ!」
「僕ももう少し稽古がしたいから、道場は使ってくれて構わないよ。ああ、そうだ。良ければ太刀筋を見てあげるよ。二人とも早く着替えて来なさい」

 朔月の指導は判りやすかった。
 流派が違うというのに心形刀流の技も勉強しているらしく、赤井の太刀にアドバイスを加えて行く。だが、指摘されるのはやはり和奈の方が多い。稽古不足だと否むしかなかった。
「重心はもっと前足に置くんだ」
 言われたまま、体重を前に出した右足に乗せていく。
「もっと、倒れるかって位までね。だが、かけ過ぎて上半身が前に出てはだめだよ、動けなくなるからね」
「はい」
 腰から前へ体重をかける。
「赤井くんが切りかかる」
 上段から木太刀をゆっくり振り下ろす。
「左足を蹴る感じで、同時に切っ先は下へ移動させる」
 手が下段になり左肩が後ろに向き、半身をとる。
「刃を返して上段に振り上げる」
 カン!
 赤井の振り下ろした木太刀が上へと弾かれた。
「右上から相手の懐へ斬り込む」
 脇の空いた箇所に切っ先が滑り込む。
「重心はとても大切だから、自然と体重移動ができるようにしておくといいよ」
 確かに足捌きは楽にできた。
「一刀はどうしても隙ができやすい。一太刀振るう前に相手がどう振ってくるか、振られた剣をどう防いで、どこへ斬り返せばいいのか体で覚えておくことだ。形どおりに相手が切って来るとは限らないからね。相手に付け入る隙を与えてやる必要は無いだろ?」
 桂木にも言われたことである。
 十年続けている。十年と一言で言っても、稽古に参加した日数だけ足したら三年にも満たない。桂木から良しの言葉をもらえないのも頷けるのだ。
「和奈さんは筋がいいみたいだし、稽古すればもっと上手くなるよ」
「ありがとうございます!」
「じゃ、手合わせと行こうか」
 えっ? と朔月を見る。
「赤井くんとね」
 ちらりと赤井を見て朔月は笑った。
「さあ、位置について」
 困惑していた赤井だが、頷くと立ち位置へと歩いて行った。
「いいかい、剣に心を委ねてごらん。そしたら剣は答えてくれる」
 耳元で朔月はそう囁いた。
 桂木が言っていた言葉と同じだ。
「では、始め!」
 落ち着いて平常心のまま心を乱さず、気を呑まれないこと。
 和奈は、精神を集中させながら中段に木太刀を構え、赤井が間合いを計るように一歩利き足を前に出したのを見て、前へと飛び出した。
「!」
 左から打ち上げられる和奈の木太刀を、詰めの早さに驚きながらぎりぎりの所で受け止め、後ろへ下がった。すぐに和奈が上段から斬り込み、それを受け流すと体勢を戻して和奈の左脇へと打ち込む。
 カン!
 振り向きざまに和奈がその一手を止め、身を返して対峙する。
(これが村木? さっき朔月さんがなにか囁いていたけど、なんだ?)
 床を一蹴りし和奈との間合いを詰め、振り下ろされる木太刀をかわし右脇へと木太刀を滑らせる。
「!」
 和奈の体に付く寸前で、赤井は手にした木太刀を止めた。
 やはり赤井は強い。
「無理、無理すぎですよ朔月さん」
「こらこら、ちゃんと挨拶をしなさい」
 あ、と慌てて立ち位置に戻り、相手に一礼を送る。
(赤井くんから一本でも取るくらいになりたいな)
 和奈は初めて強くなりたいと思った。
「ありがとうございました」
「ありがとう、ございました」
 放心したように床に目を落とす赤井のところへ、朔月が近づいて来た。
「師範の桂木さんだが」
「はい?」
「彼女にも君と一緒の稽古をしてたのかい?」
「え? はい、そうです。俺より先に道場へ通い出しているので、その時はどうかわかりませんが」
「そう・・・」
 呟く朔月の顔が一瞬、哀しんでいるように見えた。
「二人とも、こちらへ来てごらん」
 言われるままに後をついて行き、庭の方へと出て行く。

 月明かりが庭を照らしていた。
「剣術は力があればいい、技があればいいというものではない。両方とも欠かせないものだ。上達したいと願うならほんの一時でもいい、毎日剣と向き合いなさい」
 それをしてこそ、剣は自分の一部になり心のままに振るうことが出来るのだと、月を見上げながら朔月は言う。
「和奈さん、心を迷わせてはいけないよ」
「え?」
 朔月の言葉に首を傾げ、何に心を迷わすかと問いかけようとした時、また鈴の音が響いた。

 りいーーん。

 今度は確りとした音色だった。
「鈴の音?」
 そう言った瞬間、地に着いていた足が心なしかふわりと浮いたような気がした。
「剣を振るう身になったとしても、決して心を惑わすな。己の信じた想いを捨ててはいけない」
 次第に朔月の声が次第に小さくなって行く代わりに、葉の擦れ合う音が大きくなり、景色の輪郭が歪み徐々に曖昧になって行く。その歪んだ景色の中で、白い大きな物がゆらりと揺れた。

 りぃーん。

 鈴の音は段々遠くに聞こえ、大きくなった月だけが鮮明に残り、周りの景色は波紋が広がるように弛んだ。
「・・・お・・・・・な・・・!」 
 意識が遠のき、赤井の叫び声を最後に思考が途絶えた。


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