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作品名:罪と罰 作者:アゲハ

第17回   17

 その声に驚いたエレナは慌ててベリアスの腕の中から抜け出そうと腕を突っぱねてもがきだした。急に血相を変えて暴れ出した少女にベリアスはスッと口角を上げた。

「なるほど、エレナと言うのか。本当はその口から聞きたかったんだけどな」

 エレナはビクッと肩を震わせた。今さら違うとも言えず、とにかくここから逃げるのが先決と思ってありったけの力を振り絞って抵抗した。すると、ベリアスが腕を緩めて呆気なくエレナを地面に降ろした。エレナは拍子抜けしたが、慌てて体勢を整えると一目散で呼びかける声の元へと走り出した。

「お母さんッーーーー!!」

 今朝、新しく卸したばかりの白いワンピース姿の娘が水車小屋からこちらに向かってくるのを目にした女性は、緩く纏めて肩下に垂らしている茶色の髪をサッと振り払って安堵の表情を浮かべた。

「エレナ! 一人でここに来ちゃ駄目だって何度も言っているでしょ!! マナおばさんとこに行ったきりいつまでも帰って来ないと思ったらやっぱりここだったのね。今回ばかりはお父さんにしっかりとお説教してもらうから――――」

 覚悟しときなさいと続けようとしたエレナの母――ノエルは娘の衣服にべっとりと付着している血痕に顔色を変えて驚愕した。

「エ、エレナッ!? どうしたの、それッ!! どこか怪我したの!?」

 一瞬何の事かと思ったが、母親の視線が自分の服に釘付けなので改めて自身を確認してみるとそこにはベリアスの返り血がべっとり付いていた。

「えッ……あ、ううん! 違う、これ私のじゃなくて……それよりも早くここから逃げないと――お母さん、早く逃げなくちゃ!!」
「ちょっと待って! 何があったの!?」

 母親の問を遮って、エレナは素早く手を掴んで「後で話すから早くッ!」と捲し立てる。娘の切羽詰った様子にたじろぎながらもただ事じゃないと判断したノエルは言われるがまま村に戻ろうと急いで駆け出した。しかしその直後、母娘の退路を断つようにして黒い影がふわりと降り立つとそこには先程の男、ベリアスが腕を組んだ姿で立ち塞がった。
 ノエルは咄嗟にエレナを背に庇って、突然現れた男の姿を伺った。その時、娘の繋いでいる手が強く握りこまれ震えているのに気付く。ノエルは警戒を強めながら男の胸から滲んでいる血に目を止めるとエレナの服の血はその男のものだと確信した。

「ついて来ないでよ!」
「そう冷たい事言うな、お前とはもう知り合いだろ? 母親に紹介してくれないのか?」

 エレナの怯えを含んだ言葉とは逆にベリアスは笑いながら面白がるように軽い調子で返していた。ノエルはエレナの肩をしっかりと抱き込みながら、こっちにゆっくりと歩み寄って来る男の顔に視線を向けた。そして近づいて来た男の容姿を間近に捕らえた瞬間、ノエルは息を飲み体中が痺れる感覚に襲われた。
 妖しく光る鮮血のように色鮮やかな真紅の両眼を持つ異形の者――――その瞳に呑まれたノエルが男の正体に気付いた時には既に手遅れだった。

「そ……んな……不死人!? まだ陽が高いこんな真昼間にどうして……日光は大敵なはず……」

 愕然としたままノエルはその場へ崩れ落ちてしまった。

「お母さん、どうしたの!? フシビト……って?」

 母親の尋常じゃない様子を目の当たりにしたエレナはベリアスという人物が予想以上に危険な存在だと理解した。そしてこのままじゃダメだと感じて必死に母親を立ち上がらせようと腕を掴んで持ち上げようとする。小さい体で奮闘するエレナに我に返ったノエルは慌てて確かめるように彼女の首筋に手を当て噛み跡がないか探り出した。

「エレナ、貴女まさか噛まれてッ!?」

 狼狽える母親にエレナは訳も分からず首を傾げる。そんなノエルの心配をきっぱりと否定したのはベリアスだった。彼は心外だと言わんばかりに物凄く不機嫌な表情で口を開いた。

「いくら怪我を負っているからって幼女趣味は持ち合わせていない」
「だ……だったらなぜこの子に構うの! 一体何が目的なの!!」

 ノエルはエレナに危害が加えられてない事に安堵したものの、そのままぎゅっとエレナを胸に抱き込んでベリアスを睨みつけた。ベリアスは興醒めしたとばかりに首を振って大きく溜息を吐き出した。

「目的も何も俺はただその小屋でじっと傷が癒えるのを待って大人しくしていた。そこにたまたまその子兎が紛れ込んできた。直ぐに立ち去ればいいものを好奇心を抑えられずに近づいてきっかけを作ったのはそもそもお前の子兎なんだが?」
「もう! さっきから人の事を子兎、子兎って!! 私は動物じゃないって言ってるでしょ!!」

 思わず母親の腕の中から顔を出して反論するエレナにノエルは慌てて「貴女は黙ってなさい!!」と制した。エレナは慌てて手を当て口を噤む。

「お願い……このまま私達を見逃して――貴方だってまだ怪我は治っていないんでしょ? 追手だっているんじゃないの? いつまでもここにいる訳にはいかないはず」

 ノエルのその言い分にベリアスはただ薄い笑みを浮かべるだけだった。

「端っからその子兎は見逃してやるつもりだったさ。少し怖がらせて揶揄う程度にな」
「それじゃ……!? 見逃してくれるのね」
「くくッ――そのつもりだった、最初はな」

 ベリアスの意味深なその返答にノエルは「どういう事?」と顔を顰めた。

「気が変わった……物凄く興味深い発見があったんだよ、その子兎に――」

 ベリアスの赤い瞳が愉快そうに妖しく光り、ノエルの腕の中にいるエレナへと視線が注がれた。目が合ったエレナはぶるっと身震いして更に強く母親にしがみついた。

「何を訳の分からない事を!! これ以上この子に関わらないで! エレナッ、行くわよッ!!」

 突然ぐいっとノエルに強く腕を取られたエレナは驚く暇もなく半ば引きずられるように母親と共に走り出した。しかし母娘の背を見つめながらベリアスは余裕の笑みを浮かべて短い言葉を発した。

「――止まれ」

 それと同時にノエルの体は硬直し急に立ち止まった。母親の背を追いかけていたエレナは突然の静止に「きゃっ!!」と小さな悲鳴を上げ、そのままノエルの背中に顔をぶつけてしまった。涙目で痛みに耐えながらオロオロとノエルの様子を仰ぎ見る。

「……お母さん、何で急に止まるの?」

 ノエルの体は小刻みに小さく震え、頭から足のつま先に至るまで金縛りにあったように動かす事が出来なかった。声を発したくても口も開けられず、ただ眼球だけが唯一動かせるだけだった。そして心配そうに見上げている娘に向かって必死に何かを伝えようとするがすぐにそこで意識が途切れた。そんな母親の異変にエレナはその元凶がベリアスにあると気づき悲痛な表情で叫んだ。

「お母さんに何をしたのよッ!! 元に戻してよッ!!」

 エレナは噛み付かんばかりの勢いでベリアスに飛び掛かると拳を振り上げて激しく叩いた。ベリアスは軽くあしらいながら静かに口を開く。

「心配するな、ただ服従してるだけだ。身体に影響はない」
「ふくじゅう……?」

 エレナは母親と同じエメラルド色の瞳に涙を浮かべながら難しい顔をして眉を寄せる。

「俺の命令に従う事だ。本来ならお前も同じようになるんだが……」
「どういう事? 誰でも命令出来ちゃうの?」

 ベリアスはエレナに膝を突いて同じ高さの目線になるように向い合わせに屈んだ。

「狩りの対象である人間なら年齢、性別関係なく魅了は発動する。この赤い瞳に呑まれた瞬間からな」

 エレナは目を見開いて「人を狩る!?」と声を上げて怯えだした。ベリアスは意地悪そうに口端を上げると「俺はやたらに襲わないから安心しろ」そう言ってくすくすと笑い出した。

「…………何でそんな事が出来るの? フシビトって何なの……もしかしてあなたお化けなの?」
「お化け? くくッ……面白い事を言う――まあ、お前が思っているお化けより数倍も性質が悪いものだとは言えるな――不死人っていうのは人を襲って生き血を吸う異形の者だ、覚えておけ」 
「え!? ……人の血を吸うの!!」

 エレナはサッと顔を青ざめて慌ててベリアスから飛び退き身動きできない母親を庇うようにして寄り添った。そんなエレナの反応にベリアスは更に声高にして笑った。

「やだッ、こっちに来ないで!! 酷いことしないで!」
「そんなにうるさく鳴くな。言っただろ? 俺は他の奴等と違ってやたらと襲わないし幼女趣味もない。それに既に他人の所有物になってる人妻にも興味はない」
「……だったらもう用はないじゃない、早くどっかに行ってよ」

 ベリアスはやれやれと息を吐いて前髪をかき上げると小刻みに震えているエレナを見据えた。

「可愛くない言い方だな、せっかく知り合いになったんだから仲良くなろうじゃないか――俺の名を呼んでくれないのか?」
「呼びたくない! こんな嫌がる事をする人なんかと知り合いたくないし、仲良くもしたくない!」
「強情だな――いいからさっさと俺の名を呼べ」
「知らない……忘れたッ!!」
「………………」

 お互い一歩も引かずに視線を交わし合って沈黙が流れる。

「ふん、そういう態度を取るのか? なら母親がどうなってもいいんだな?」

 冷たく笑みを浮かべたベリアスにエレナはハッと息を飲んで悔しそうに奥歯を噛み締めた。相手の理不尽な要求に幼ながらも屈服する事に抵抗があったエレナだったが最後にはボロボロと涙を零しながら口を開いた。

「ひっく……やだ……お母さんを傷つけないで……お願い……ううっ……べ……リアス……」

 少女の答えに満足したベリアスは嗚咽を上げて泣き出してしまったエレナの頬に手を当て涙を拭った。そして傍に引き寄せるとエレナの耳元に小さな声で囁いた。

『泣くな、脅して悪かった……俺の事を忘れるんじゃないぞ、エレナ』

 ベリアスはノエルの服従を解くと呆気なく母娘の前から姿を消した。まだ子供だったエレナは意識を取り戻した母親の変化に気付かなかった。ノエルの頬が赤く紅潮し、瞳も虚ろに朦朧としていたのを――――その出来事を機にノエルは人が変わったように情緒不安定に陥っていった。

 その頃までエレナは父親のアレックスが何の仕事をしているのか曖昧にしか聞いてなく深く考えた事もなかった。両親もエレナには詳しくは話していなかったので彼女が動物を狩る「狩人」だと思っていても特に訂正しようとはしなかった。そのせいか特殊な仕事の為に家を空ける事が多かったアレックスは帰宅する度に敢えて仕留めた動物を手土産にしていた。しかしベリアスとの出会いによってエレナの世界は一変してしまった。
 数日ぶりに帰宅したアレックスはそこで娘の首を絞める妻の姿を目撃して愕然とした。

「ノエルッ!! お前ッ何て事をしているんだ!!」

 直ぐに妻に飛びつくと意識を失いかけている娘を母親から引き離した。突然自分の手からエレナを奪われたノエルは半ば半狂乱で叫び声を上げた。

「だってあの人はこの子しか見ていないんだもの! 私だって……私もあの人の傍にいたいのに……だからこの子がいなくなれば……そうすればあの人は私を見てくれる!!」
「おいッ! ノエル、正気に戻れッ!! 一体どうなってる!! あの人って誰の事だ!!」
 
 体を揺すってみてもノエルの目は焦点が合っておらず、その瞳にはもはや夫であるアレックスの姿など映っていなかった。あるのは暗く蠢く狂気だけだった。
 
 そして数ヶ月後、悲劇が起こった――――
 
 真夜中、いつの間にか居間のソファーで寝てしまったエレナは外から聞こえてきた男女の争うような声で目が覚めた。

「お母さん……? お父さん?」

 部屋を見渡し寝呆け半分で目をこすって二人の姿を探した。ふらふらと立ち上がり引き付けられるように今しがた声がしたであろう外へと出て行く。すると暗闇の中、納屋がある建物から灯りが漏れているのを見つけた。エレナは静かにそっと開けられている扉の中へ足を踏み入れた。
 その先で視界に入った光景に一瞬にして頭が覚醒され、這い上がってきた恐怖に全身が血の気を失い蒼白になってその場に縫い付けられたように動けず硬直した。
 エレナの瞳に飛び込んできたのは血まみれで倒れ込む男女の姿――それは愛して止まない父と母の変わり果てた姿だった。
 ひゅっと乱れた呼吸が漏れたと同時にエレナの心は崩壊し狂ったような悲鳴を上げながら両親の元へと抱きついた。半ば錯乱状態に陥ったエレナは二人の体にしがみつき、言葉にならない叫び声を上げて泣き出した。

(何で!? どうしてこんな事に!! 違うッ!! これはきっと夢だ……夢に違いない!!)

 まだ微かに残る二人の温もりを感じながら、エレナは必死に現実から目を背けようとしていた。しかし、それが叶わなかったのは自分たちの他にもう一人の存在を見つけてしまったからだった。エレナは真っ赤に充血した目を大きく見開くとやがて憎々しげにその人物を睨みつけた。

「…………ベリアス……どうっ――して……どうしてお父さんとお母さんをっ――!!」

 納屋の隅で佇んでいたベリアスは一瞬、虚を突かれたように驚いた表情でエレナを見ていたが直ぐにそれを消すと、妖しく赤い瞳を光らせ先程とは打って変わって冷酷な笑みを浮かべて口端を釣り上げた。

「俺が憎いか? ――――殺したい程、俺が恨めしいか? だったら俺を殺しに何処までも追いかけて来い――他の事など一切考えずに俺だけをその瞳に脳に焼付けろ」

 まるで洗脳のようなその言葉を受けた幼い少女は、ぐっと歯を食いしばって心に杭を打ち込むように強く刻み込んだ。

 ダンッ!!
 記憶の海に沈んでいたエレナは急に浮上すると悔しそうに口元を引き結んだまま壁へと拳を振り上げた。

(あの時……壊れた母を……廃人になってしまった母を父は最後まで信じて庇うように倒れていた……私は愚かだった。ベリアスを……あまりに信用し過ぎていた……家族を害することは決してないとなぜそう思ってしまったのか!? ……あいつは人ではなく化物だったのに…………)

 エレナは痛む拳とは反対側の手に持っていた母親、ノエルの肖像画の額縁をそっともとの場所に戻すと気分を落ち着ける為に深呼吸を繰り返した。そして今やらなければならない事を先ずは片付けなければと頭を切り換えて日記探しを再開するのだった。

 本に目を落としていたウラ爺ことウラゴスは、保管庫から出てきたエレナに気づくと少しばかり眉を寄せて怪訝な表情を浮かべた。

「何じゃ……思っていたより大分時間が早かったではないか。アレックスの遺留品はそんなに少なかったのか?」

 ウラ爺のその言葉にエレナは苦笑を浮かべて大きく息を吐いた。

「その逆よ……殆どがガラクタのゴミだらけで少ないどころか整理しながら探し物を見つけるのが大変だったわ。よくもまあ、あんなに押し込んだものよね。昔から整理整頓出来ない人だったけど……」

 うんざりしながら話すエレナにウラ爺も「ああ、確かにあいつは片付けだけは不器用だったな」と納得して何度も頷いていた。

「あのね、ウラ爺――聞きたい事があるんだけど?」
「うん? 何じゃ、わしが答えられる範囲だったら何でも聞いてくれ」
「実は今日ここに来た目的は、父の日記を取りに来たんだけど――でも保管庫を隅々まで捜索したのに見つからなかったの。何か思い当たることはないかなと思って……」
「ふむ……アレックスの日記かの――それはどんな物じゃったか特徴は分かるか?」
「えっと……確かこれくらいの大きさで……」

 エレナはそう答えると胸の前で日記の大きさを両手を使ってジェスチャーしながら「革表紙の色は明るいグリーン」と付け加えた。ウラ爺は記憶を呼び起こしているのかしばらく「うーん」と唸り声を上げて顎に手を当て考え込んでいた。
「すまないの……これといって心当たりが見つからんのぉ――」
「そっか……絶対ここにあると思っていたんだけどな……念の為、もう一度あのゴミ山を探してみるか」

 エレナはまたあの中を捜索するのかと思うとどっと疲れを感じて溜息をこぼした。うなだれながら踵を返そうとしたエレナに何かを思い出したウラ爺がポンっと大きく手を叩いた。

「お! そういえばアレックスが亡くなって直ぐに確か総裁が調べたい事があるとかで一度訪れた事があったの。あやつの保管庫に入った者は今日まであれ以来誰もいない筈じゃ。日記と関係あるか分からんがの、それくらいしか気になる事はないの」
「カルロスが……? ありがとう、ウラ爺。少しでも手掛かりが掴めればなんでもいいわ。総裁に聞いてみる!」

 エレナは素早く身を翻すと思うように走れない自分の足を恨めしく感じながら慌てて歩き出した。後ろではウラ爺の「おい、そんなに慌てたらコケるぞ!!」という叫び声が保管室の地下全体にこだましていた。
 
 息を弾ませ、やっとの事で階段を上りきったエレナは少し休憩とばかりに手摺に寄りかかって息を整えていた。そんなエレナの姿を遠くで目にしたロッシュは複雑な思いを抱えたまま声を掛けた。

「エレナ、ちょっと聞きたい事がある――」
「あ、ロッシュ――どうしたの……?」

 困惑した顔で振り向いたエレナに「時間は取らせない」と付け加えて足早で歩み寄った。

「例の人狼の件でお前が話していた集落を調べたんだが確かにアザムという男を見つけた。そこまでは何ら問題はなかったんだが一体奴に何をしたんだ?」
「え、言っている事がよく分からないんだけど……私が最後に会った時は別に何ら変わった事はなかったわよ。そいつを思い出すだけで腸が煮えくり返そうになるけど」
「そうなのか? 仲間の報告だと異様な雰囲気で――つまりここが壊れているらしい」

 ロッシュはそう言いながら人差し指を自分の頭に向けてくるくると回して手を広げる仕草を見せた。エレナはポカンと口を開けたまま呆気にとられて立ち尽くす。

「はい? 何それどういう意味?」
「だからアザムって奴は精神が崩壊していて手に負えない状況なんだよ。本当に何か心当たりはないのか? 奴の左肩には誰にやられたのか刺し傷があったぞ」
「嘘……私が家を出る時には怪我なんかしていなかった――――」

 途中まで言葉を発したエレナはハッとして脳裏にシセルの姿が思い浮かび咄嗟に手で口元を覆った。ロッシュは顔色を変えたエレナの様子を見逃さず、同時に彼女が頭に思い浮かべているだろう人物に思い当たった。

「どうやら尋ねる相手を間違えたようだな……奴か――確かシセルとかいったな」

 剣呑な目付きで話すロッシュにエレナは慌てて口を挟んだ。

「待って! シセルには私から聞いてみるからその件は私に任せてくれない?」
「…………ふん。俺も奴と顔を合わせるだけで虫唾が走りそうだ。分かった、エレナに任せるが下手な誤魔化しや言い訳は許さないからな。肝に銘じておけ」

 ロッシュは厳しい顔を向けると用はそれだけだと言い残してその場から去って行った。エレナはホッと胸を撫で下ろし、まずは日記の事を片付ける為に総裁の元へと足を向けた。


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