ハンターの本部に着いたシセルは居住区のとある一室にいた。 ここで生活しているハンター達の多くは研究者や技術者など、主に後方支援を受け持っている非戦闘員が主だった。前線で活動しているハンター達の殆どは要塞には住まず街や村に住処を見つけて自由気ままに暮らしていた。 シセルのいる部屋はエレナの私室だった。昨夜から日記を持って戻って来るまでは待つように言われている為シセルは仕方なく大人しくしていた。 生まれた時から町で普通に暮らしていたエレナは両親亡き後、居場所を無くし、父親と同じハンターになる道を強く希望した為、彼女を不憫に思った総裁の了承を得て組織に引き取られてここで暮らしていた。 閑散とした部屋にはベッドと三段式の小さなチェストしか置いてなく、最近ここ数年ぐらいはこの部屋で生活した痕跡は全く感じられなかった。それを裏付けるように窓枠や床には埃や塵がかなり降り積もっている。
「こんな埃っぽい部屋でいつまで待たせる気だ」 シセルは顔の前を手で払いながら苛立ちさを募らせて呟いた。本来の目的である情報が必ず得られるのかさえ微妙なのに果たしてこれでよかったのかと疑問が生じる。 あの古城の後、エレナとさっさと別れて再び単独で動くべきだったと後悔さえ滲み出てきた。 シセルは埃っぽい場所にいるせいで更に気が重くなるのを感じ、気分を紛らわそうと白く曇った窓ガラスを勢いよく開け放った。 何年ぶりかに光が射し込んだ部屋の中は息を吹き返したように風が舞った。視界の先には空一面にシセルと同じ色の瞳である青空が雲一つなく澄み切っていた。 心地よい風が頬を撫でるように通り過ぎるのを感じながら、シセルはやがて窓を背にしてその場に座り込んだ。目の前には白い煙のような埃がくっきりと漂っていた。彼は深い息を吐き、結果がどうであれ待つしかないと諦める。やがて久しぶりの静寂にゆっくりと瞼を閉じるのだった。 目を閉じてから数刻、脳裏には数カ月前に目覚めてから今までの情景が淡い霧のように現れて消えていった。 その度にチラチラと見え隠れしてただひたすら隅に残るのは、返り血をその身に浴びて無表情で立っているマウリスのあの時の姿だった。その度にシセルの眉間は波を打つように大きく歪む。 その時、ふとシセルの耳元にヒンヤリと冷気を帯びた言葉が蘇った――――
“これから起こる顛末をその両眼でしっかりと焼き付けろ――それが最初に受けるお前への罰だ”
輝く白き人物から発せられた温かみも生気も感じられないただ冷酷なその言葉――それはまるで決壊したダムのようにシセルを飲み込んでいく。同時に思い出したくもない過去の記憶も溢れ出した。 その映像に映るのは鉄格子の中に体を拘束された自分の姿と格子の先に広がる灰色の広場――生きたまま火刑され悶絶する見知った顔の者達――直後、目の前が真っ赤な煉獄の炎一色に包まれた。
シセルは目を見開き思わず絶叫して声を張り上げた。脂汗が体中に吹き出し、恐怖で体が震え強い吐き気に襲われた。喉まで込み上げた胃液を辛うじて飲み込む。
(やめろッ……やめてくれ!! 見たくない…………消えてくれッ!!) シセルは冷静さを失い、無意識に壁に向かって頭を打ち付けていた。
(残された者達がどんな目に遭うかなんて解りきっていただろ! それなのに……身勝手なお前一人が起こした愚かな行いのせいで……全部お前が招いた、貴様のせいだ!! マウリスッ!!) シセルが部屋の奥で頭を抱え込んで蹲っていると、部屋の扉が開いて静かに人影が忍び込んだ。そしてその場に気が抜けるような暢気な声が響き渡った。
「あれ……? エレナじゃないのか? てっきり彼女だと思ったんだけど……」
我に返ったシセルは慌てて突然現れたその人影に目を見張る。長身で華奢な体格をしたその人物はシセルを見てもさほど驚かず、ただきょとんと惚けた様子で立っていた。そこに現れたのは使徒の総裁であるカルロス・ピタ・サザールだった。
「君、顔色が悪そうだけど具合でも悪いの?」
「……いや、何でもない」
深い吐息を吐いたシセルは呆気にとられながらも何とか正気に戻ろうとする。そして目の前に現れた正体不明の調子を狂わされた人物にじっと鋭い眼光を向ける。しかしカルロスの方はそんなシセルの視線を気にする事なく相変わらずニコニコ笑いながら話し掛けてきた。
「えっと、もしかして君がエレナが連れてきたっていう噂の彼氏君かな?」
「………………」
シセルは何だかとても面倒臭い事になっていると思った。とりあえず元凶である人物、エレナが戻るまでこの場をうまく乗り切ろうと平常心を保つことにした。黙り込んでいるシセルを見ながらカルロスは目を細めて更に笑みを深くした。
「ロッシュから聞いたよ、ベタな演技の罠に引っ掛かって人狼に襲われていた彼女を助けてくれたんだってね――全くあれは一人前には程遠いのに正義感だけは強くて……すぐ熱くなって周りが見えなくなるのは父親譲りなんだけど……ほんとすまなかったね」
そう言ってカルロスは眉をしかめて苦笑した。
「そういえば自己紹介していなかったよね。私はカルロス――エレナの保護者で、ちなみにハンターの総裁でもある」
そう軽い調子に答えた人物の発言にシセルは一瞬固まった。今、目の前にいる頼りなさげで能天気そうなまだ若い男がハンター達の頂点に立つ人物だと明かされたからだった。
「……あんたがハンターの――使徒の総裁だと!?」
シセルはあまりにもこの人物の見た目や人柄が総裁という地位と結びつかなかったので思わず無意識に言葉に出てしまった。
「え゛っ……そこってそんなに驚くとこなの? 何かとても傷ついたかも……」
カルロスは少し落ち込み気味な表情を見せたがすぐに気分を浮上させてシセルに歩み寄って端正な顔を近づけた。
「――――失礼な彼氏君だね、人は見掛けで判断するものじゃないよ?」
急に意味深な顔つきになり口元を歪ませて囁かれたシセルは思わず瞠目した。その時、カルロスはシセルの背にある布で巻かれていた奇妙な物を視界に捕らえた。僅かに布の隙間から覗かせていたそれが剣であると気付いたと同時に王冠のオブジェを模した部分を目にして衝撃を受ける。 カルロスの異変は微かな物だったのでそれに気付かないシセルは詰め寄られた彼との距離をあけようと一歩後退した。すると今まで何ともなかった体が息苦しさを覚え、もぬけの殻である己の肉体に決して感じる筈のない痛み――胸の辺りが抉られるような鈍い痛みが襲ってきた。奇妙なこの感覚に焦りだしたシセルはこの場からすぐに逃げ出したい衝動に駆られた。
「俺とこんな所で無駄話している場合じゃないだろ? エレナに――あの女に用があったんじゃないのか、探しに行ったらどうだ?」
「……え? ああ、そうだったね――」
カルロスは素っ気なくそう答えると何かに取り憑かれたようにじっとシセルの背にある剣に釘付けになっていた。そしてしばらくの沈黙の後、今まで穏やかだった表情がスッと消え去った。
「予定変更するよ――エレナには急ぎの用じゃないからいつでもいい……それよりも君に至極興味が湧いた――」
「……何の事だ?」
シセルは眉をしかめて気持ち悪そうにカルロスを睨みつけた。胸の痛みは更に激しさを増していく。 そんな中、カルロスはシセルの背にある剣に人差し指を向けると含みを持たせるような口調でゆっくりと言葉を紡いだ。
「それ――【断罪の剣】でしょ? 君の背にあるのは――」
「っ!?」
カルロスが平然と口にしたその言葉にシセルは絶句した。しかし、そんな様子を無視して話は続けられる。
「その刃は触れた対象の罪を貪り、完全に存在ごと無へと消滅させる――そもそも人間が使いこなす事は愚か、手に触れる事さえ不可能なんだけど……なぜなら人は生まれながらにして既に罪をその身に宿しているものだからね――よってその剣を扱えるのは罪を持たない全くの穢れ無き存在である審判者だけ――それなのになぜ人間の君が何事もなく平然と所有出来ているのかな? どうやってその剣を手に入れたんだい?」
カルロスの瞳が妖しく光り、獲物を見つけた捕食者のようにじっとシセルを見定める。一気に空気が緊迫し、シセルの額に冷や汗が滲み出た。
「言ってる意味が分からない……これは俺の剣だ。人間が使いこなせないだと? 審判者? 悪いがこいつはとてもしっくり俺の手に馴染んでいる……悪いがあんたの妄想話に構ってやってる暇はない」
シセルは顔を強張せながら部屋を後にしようと歩き出した。部屋の中央でカルロスとすれ違った途端、素早く伸びてきた手は強引にシセルの肩を掴んで引き戻してしまった。華奢なカルロスの体からは想像出来ない程の握力だった。
「もうちょっと付き合ってよ、話はまだ終わってないんだよね――質問にはちゃんと答えて欲しいな」
「放せ!! 話す事なんてない」
シセルは声を荒げて掴まれたまま肩に乗せられていたカルロスの手を思いっきり振り払った。カルロスは機嫌を損ねて険しい表情へと変化する。
「君には用はないかもしれないけど、こっちは大ありなんだよね。だってその断罪の剣を創造したのも所有しているのも私……いや、もうこの場合は違うか……私を含んだ我々だと言った方が正しいかな」
「何を……どういう意味だ……我々……?」
直後、胸の痛みが頂点に達して激しく胸元を鷲掴みしたシセルはその場に膝をついて崩れ落ちた。
(くそっ!! この痛み、この感覚……まるであいつと対峙しているみたいじゃないか――まさか、そんな筈は……目の前にいる人物は普通のただの人間のはず……ならばなぜ体が拘束される? ――なぜ逆らえない!)
カルロスは床に倒れ込んで苦しみ喘ぐシセルの姿を冷たい視線で見下ろしながら何かを確信すると口元に不敵な笑みを浮かべた。
「さっきからとても辛そうだけど、どうやらそれは初めての経験じゃなさそうだね」
意味有り気な含み笑いでカルロスはそのままシセルをじっと観察していた。 荒い呼吸を弾ませながら目を見開いたシセルは気力を振り絞る。体に起こった異変に少しづつシセル自身にもある確信が浮かび上がっていたが噴出した絶対的な恐怖からそんな筈はないと必死で否定し続けもした。しかし着実に予感という警鐘が体中を突き破るように鳴り響いている事実も突き付けられる。そんなシセルの葛藤を伺っていたカルロスは大きな溜息と共に埓が飽きそうにないと感じて口火を切った。
「もう気付いているんでしょ? なぜ体がそんな事になっているのか、なぜ私に逆らえないのか。その理由が君にその剣を与えた人物と私が同類……つまり同族だから服従の契も発動するって事だね――さて、そうなると私の正体もおのずと暴露する羽目になってしまったのは不本意なんだけど――」
「…………っ!!」
カルロスが話した内容はシセルを奈落の底へと突き落とすような決定打だった。シセルの体はワナワナと震えだして口の中は砂漠の大地のように枯渇した。脳裏には白一色に染められた光輝く人物が浮かび上がった。
「未だに信じられないって顔だね……私だってこんな展開になるとは予想外だよ。こんな場所でまさか地上で断罪の剣を所有している人間と出会うなんて思ってもみなかったんだし」
「そんな……あいつ以外にも仲間がいるというのか? まさかお前はあいつと一緒の……白くて……眩しい純白の……悪魔ッ!?」
シセルがそう言い放ったと同時にカルロスは屈辱な表情で眉間に深く皺を寄せた。
「――――酷い言い様だねぇ……しかも悪魔呼ばわりされているなんて――」
カルロスは冷たくそう吐き捨てると次の瞬間、勢いよく両手を広げて身を翻した。 その途端、粉雪のように降り注ぐ真っ白な羽がシセルの周りや部屋中に舞い降りた。カルロスの容姿は一変し、藍色だった瞳は琥珀色に輝き、背には真珠のように煌びやかな目も眩む程の大きな六枚の羽を纏っていた。神々しいほど荘厳でその姿はまさしく天使と言われる存在だった。 突如として正体を晒したカルロスに一望したシセルは顔面蒼白になり、益々胸を抉られる痛みで自身の意思にも抗えず、否応なく彼の足元へと跪く形となった。 己のそんな無様な姿に苦々しく奥歯を噛み締めながらシセルは恨めしいそうに言葉を吐き捨てる。
「滑稽だな…………ハンターの親玉が人ならざる者であり、更にその人を蔑む者だとは……何も知らずに呑気にあんたに尽くしている使徒の奴らに心底同情する……吐き気がする」
床から両足を離し、宙に浮いたままその言葉を耳にしたカルロスは腕を組んで極上の笑みを浮かべた。そしてやや間を置いてから跪いているシセルの頭を思いっきり踏みつけた。
「生意気だ、人の分際で身の程を知れっ!! そもそも我が人に紛れカルロスとして正体を偽っているのは我なりのある信念の為だけだ。その為だけに地上で貴様ら人間達を管理してやっているに過ぎん。少しは労いの情を態度で示して欲しいもんだ」
それまでカルロスの姿だった時の穏やかな性格や口調は消え去り、本来の姿に戻った彼は一瞬にして残忍で冷酷な人格に一変した。床に顔を埋めながらシセルは怒りに耐え、歯を食いしばって鋭く目だけを上に向けて睨みつけた。
「ふん、威勢だけはいいな。とりあえず本題に移ろうか? 誰がお前に断罪の剣を与えた? 我らの同族の誰かなのは確かなんだろ……そいつは一体何の目的でお前にこんな茶番をさせている? 狙いは何だ?」
しかしシセルは黙ったまま無言を貫いた。その態度にカルロスは舌打ちして押さえ込んでいたシセルの頭から足を退けると、今度は彼の首を締め上げて執拗に問ただした。シセルは掴まれている腕を必死に振りほどこうとするが逆らうという行動が制され、全身の力が抜け落ち、まるで赤子のように無力だった。
「解せぬ……本来はその剣に人が少しでも触れようものなら罪を貪るという剣の能力により心を食われ正気を失い……それはやがて自我も崩壊する事になるのだが――そうなると残る理由は一つだけか……」
カルロスはしばらくの間、思考の海へと沈み込み、やがて何かを会得したようでシセルの胸元に視線を注いだ。部屋に入ってシセルを目にしてから微かに感じていた違和感――カルロスは必死に体を捩って抵抗を見せる弱々しい彼に片方の腕を上げるとシセルの胸元に指先を当てた。すると次の瞬間勢いよくシセルの胸に当てていた指先を衣類ごと胸へと突き刺し、それは直ぐに皮膚を突き破った。
「う゛がッ!? な、何をッ!! うぐッ……やめろッ!! 俺に触るな!!」
シセルは悶絶し絶叫を上げる。 その間にもカルロスの片手はあっという間に手首までシセルの胸の内部へと侵入していた。胸の中を乱暴に掻き回されているシセルはそれまで以上の苦痛を強いられる羽目になり目を剥き出していた。首元を強く締め上げられながら、もはや為されるがままの状態が続いた。
「――思った通りだ……魂が存在していない……堕天の儀式までされているとは――どうりで断罪の剣を奮える訳だ。儀式によって罪を消滅され魂さえ宿していないんだからな」
納得したカルロスの呟きの前で、青ざめて半ば意識が朦朧として俯くシセルの姿があった。
「――――気に入らん……我の信念とは全くもって相容れないやり方……その上この男を裏で使役しているまだ判明していない同族にも腹が立つ」
そう言葉を零して眉根を寄せて訝るカルロスの背後に、すーっと静かに細い影が降り立った。
|
|