外の世界に興味を持ち出したのは、一体いつからなのだろう……。
海が見たい、と彼女は言う。
緩やかな風に身を任すように、軽く両腕を広げて空を見上げる。
彼女の長い髪がなびいている後姿を見ると、それはまるで、一枚の絵のように見えた。
太陽の光を全身で受け止めいるその姿は、翼を広げた鳥がこの無限に広がる大空へと羽ばたこうとしているようだ。
燦々と降り注ぐ光を浴びる彼女の後姿を、俺は数歩後から見つめていた。
「海だって?」
この質問に、彼女はどう答えるだろう。
「この星の約七割の面積が水で出来ている……それが海。ただのおとぎ話を本気で信じているのかい?」
少し馬鹿にしたような言い方に、案の定、まるで歌を奏でているような口調と共に、理屈の言葉を並べた返答が返ってくる。
「雨が降る現象って分かる? 太陽の熱で暖められた大量の水が蒸発する事により水蒸気が出来きて雲が発生するの。その水蒸気が空気で冷やされる事により水に変わる。あれだけ広範囲の大地を雨の水で浸すのよ? それを可能にするには、やっぱり海の存在が必要って事じゃない」
「君の妄想には付いていけないよ」
やれやれ、と首を振る。視界を彼女の姿より横へ移動させて、遥か奥にそびえ立つ、全長五〇〇メートルの壁を見据えた。
そもそも、閉鎖されたこの国に入口も出口もないのに、あの巨大な鋼鉄の壁をどうやって抜けるというのか。
と、内心でそう思っていると彼女が俺の方に振り向いてきた。
見ているだけで癒されそうな彼女の顔が、今では少しだけ頬を膨らませて不機嫌になっている。
どうやら、ちょっとだけ怒らせてしまったようだ。
「せっかく教えてあげたのに。そんな態度をする人にはもう何も教えてあげないから」
ぷいっ、と俺に背を向ける。こうなると彼女は一向に俺の話を聞かなくなるのだ。
今日はこの後で大事な仕事がある。彼女の不機嫌が直らないとなると、個人的にとても困る。
「よし、分かった」
「何が分かったのよ?」
俺の言葉の意味が理解出来ない彼女は、先程よりも不機嫌そうに顔をしかめている。
「君がさっき言った事さ。海が見たいんだろ?」
予想にもしていなかったのだろう。膨れた彼女の頬が、一瞬にして元の状態に戻った。
きょとんとした目を俺に向けている。
「俺が連れて行ってあげるよ」
予想にもしていなかっただろう台詞に、心底驚きを隠せない彼女は、両目を何度も見開いている。しかし、それも数秒が限界のようで、半分開いていた口元が吊り上がる。
「……ふ、ふふっ」
「って、何がおかしいんだよ」
「ごめんごめん。あまりにも唐突な事を言うから」
「なっ、冗談なんかじゃないってっ」
「うんうん分かってる。絶対海に連れて行ってくれるんだよね?」
「絶対信用してない顔だ」
「信用してるしてる。じゃあ、指きりしましょうよ」
そう言って差し出される小指に、後頭部を掻いて恥ずかしさを紛らわしていた俺は、指同士を絡める行為に高揚してしまう。空が茜色に染まる夕焼けだった今だからこそ、誤魔化せられたが。
渋々指を絡ませると、彼女は心の底から喜びを浮かべている。この優しい笑顔を何度も見たいから、この人を悲しませたくないから、俺はここにいる。彼女を護る事が、彼女を脅かす脅威を全て排除していく事で、もう一度、その微笑みを向けてくれるのならば、俺という存在意義が確かに在ると認識出来る。
「約束ね?」
「ああ、約束だ」
そして、俺と彼女は約束を守る為、指きりをした。
小指から伝わる彼女の温もりと、その微笑ましい表情は、まるで小さな太陽のように思えた。
そう――彼女の存在は太陽なのだ。
全ての人に愛される存在。人が生きていくに必要不可欠な空気と同じように、この国の人々には彼女は必要な存在なのだ。この人を護りたい。その意地っ張りな性格も、一人だと不安になる弱さも、全て護れる強い男になりたいと。
絶えぬ戦に疲弊を覚え、一層……背負わされた重荷全てを投げ捨てたいと考えた事もあった。
何を信じ――何を想い戦ってきたのか。ある者は愛する者の為に。ある者は富豪と権力を手に入れる為に、その身と命を削り戦い抜いてきた事だろう。全ての人間が理想を胸に抱いて戦場を駆ける訳ではない。
戦いに身を投じ、他者の血に汚れた己の手が、かつて思い懐いていた正義や志が色褪せていく現実に、誰もが葛藤と矛盾に苛まれてしまう。
それでも――絶望という名の海から這い上がれなくても、己の人生(うんめい)に抗う術が見つからなくても、最期の一瞬だけは、全てを投げ捨ててでも安堵と幸福を胸に眠る事を、赦してくれると信じている。
悠久の時を、いつまでも健やかに、この人の隣で限りある時間を噛み締めながら過ごせれば、絶望と混沌に塗れた、こんな腐り切った世界でも、安らかな時を過ごせられると。
微笑みを浮かべていた彼女が、何か思いついたような顔を見せる。
「どうやら、貴方を探してる人がいるみたいよ」
俺より先に『感知』したようで、繋いでいた小指をそっと離した。伝わっていた温もりが、すぐに消えていく。
「気を付けてね」
ひだまりのような笑みに隠された不安の表情。彼女がこのような表情をするのは初めてではないが、今のはいつもと何かが違うような気がした。
俺は敢えて気にしない素振りを見せ、笑って返す。
「ただ討伐隊として行くだけだよ。別に本格的な戦闘になる訳じゃない。簡単な任務だ」
「命の奪い合いを『簡単』なんて言葉で言い包めたらダメ。もし流れ弾が貴方に当たったらどうするの?」
俺が身に纏っている甲冑は銃弾すら弾く程の硬度だが、頭に当たったらどうするのか、と心配してくれているのだろう。
「そんな馬鹿な死に方したら、俺達の存在価値そのものに意味がなくなってしまうだろう。『物理的な攻撃で俺達が死ぬ筈がない』んだからさ」
だが、俺の言葉が気に食わなかったのか、それとも単に呆れただけなのか、俺に向けられる彼女の視線がとても冷たい。
「そういう言葉を言う人ほど、すぐに死んじゃうんだよねぇ」
「遠くを見つめながら呟くの止めてもらえないか? さり気なく怖い」
毎度毎度の事だが、彼女には振り回されっぱなしの自分も、懲りない性格なのだなと思ってしまう。そして今も、俺が反応に困っている姿を見て、耐えきれなくなって吹き出す始末だ。
「ふふっ、これも冗談」
「うぉい……」
「あっ、それよりもいいの?」
「何が?」
「このままここにいて大丈夫? あの人、ずっと探し回ってるよ」
言われた途端、背筋が凍る。すぐにあいつがどこにいるのか探し出す――いた。
ヤバい。物凄く怒ってる……。平然とあいつの前にのこのこと現れたら殺されそうな勢いだ。
「悪い。もう行く」
そう言って、俺は彼女に背を向け、一歩駆け出す。
「待って!」
呼ばれた反動で思わず振り返ってしまう。
「さっき言った事、絶対だからね」
「……ああ、任しとけ」
「絶対だよ」
手を振る彼女を目に焼き付けながら、俺は急いで駆けて行った。
一人になった彼女は、空を仰いで呟く。
「雨が、降りそう――」
―――。
もはや肉眼では捕えられない程の遥か上空。音速を超えて飛翔するその姿は、まさに空の王者と呼ぶに相応しい雄大を持つ。
分厚い雲が視界を遮っているため、パイロットの視界に映る外の世界は暗闇でしかなく、レーダーも無線もその機能を失われている状況は、あまりにも危険区域でもあった。
けれど、パイロットは至って冷静にこの状況を見守っていた。通信機器のアクシデントは偶発で起こったものではないのだ。
分厚い雲を抜けると、上空を飛ぶ計六機の戦闘機――F-15は、夜月によりその姿を現せた。ようやく回復を見せた通信機能を使用し、パイロット達は早速言葉を交わし始める。
「ブラボー1より各機。もうすぐ目標地点の上空に到着する。こちらの機影が捉えられる事はないと思うが、万が一という事もある。その時は分かってるな?」
返事はブラボー3から返ってきた。
『まあ、見つかっても奴等にはどうする事も出来ないと思いますけどね』
「万が一って言ってるだろ……と、そう言ってる間に見えてきたぞ」
ブラボー1のその言葉に、パイロット達は一斉に外の下に目を向ける。彼等の両目が、恐らく人生で最も大きく見開かれた事だろう。ある者はその光景に一瞬、操縦桿を握り締める事も頭から忘れてしまい、ある者は自分の任務が何なのかを消え去ってしまう程のものだった。
それは、果たして何と表現すればいいのだろうか。否、言葉のみで、これを表現出来る人間が存在するだろうか。
『凄い……』
ブラボー2から漏れる声に、彼等はこの時だけ互いの意思を共有しているような心境を覚えた。だが、ただ一言、凄いで済ます事は、この光景に対して、そしてこの光景を生み出した者達への冒涜だ。
遥か五〇〇前――。世界から、世界地図からその存在を消された国―――通称・ロストヘブン。その中心地こそロストヘブンの首都・巨大都市エデンの直上を彼等は飛翔している。
夜闇を照らす都市の光一つ一つが、七色に光るキャンドルだった。『百万ドルの夜景』とはまた違う。この壮大を言葉に表すとなれば、彼等が見ているそれは『世界』だ。地球にもう一つの惑星が、そこに存在していると断言出来よう。
『こんな、こんな都市、見た事ねえよ……。奴等、この五〇〇年でとんでもねえモノを造りやがった……!』
この五〇〇年間、この大都市を見た者はおろか、上空から見下ろす者などいない。それを彼等は、五〇〇年の暗黙の規則を破ってまで来なければならなかった理由――。
見惚れる為に来た訳ではない。時刻は残り二分で深夜〇時。この時刻に、作戦は実行へ移るのだ。
「ブラボー1より各機――作戦を開始する」
先程まで感激に浸っていたパイロット達が、彼の命令に瞬時な対応を見せた。
六機のF-15の後方。同じく分厚い雲の中を潜ってやってきた戦闘機よりも巨大で闇色に染め上げられた機体。
機体全てが『翼』のような異常にも見える形状は『B-2』と呼ばれる爆撃機が、左右に展開したF-15の中心位置で並行して飛行する。
パイロット達の無線の向こうから、B-2に搭乗する若い女の声が聞こえてきた。
『こちらアウター機。閉鎖国ロストヘブンまでの護衛に感謝致します』
「こちらブラボー1。礼には及ばない。逆に俺達のチームを護衛役に選んでくれて感謝したいくらいだ。こんな凄い都市を見れたんだからな」
だが、その美しい都市を見れるのも、これが『最後』だと思うと、無性に胸を締め付ける痛みが走る。
『では、作戦を開始します』
無線が切られた。途端、B-2の下部から何かが投下された。彼等の任務内容――国際会議により決定された極秘作戦。
それは、人類の脅威と判断された、大都市エデンの壊滅だった。
誰もが呼吸を停止させた。
B-2から投下された兵器が、吸い込まれて行くように大都市エデンの中心地へ落下していき……その一秒後、美しかった光景が瞬く間に一変する。
まるで都市の中心に、小さな太陽が誕生したようにも見えた、が、灯された光は、静かに破壊と轟音を拡大させていく。
突如と降りかかる暴威に、エデンに住まう人々は成す術もない。
先程までの歓喜な声はどこへ行ったのやら。手を下していないとはいえ、パイロット達はこの一件に関わっているという実感に、改めて恐怖していた。
また、無線から女の声が、僅かにキーボードを叩く音も聞こえた。
『ミッション開始時刻、午前〇時。大都市エデン内の研究施設及び軍事施設の破壊を確認。並びにロストヘブンの権力者数名排除終了。民間人死傷者及び負傷者数不明』 キーボードの叩く音が消えた。
『ミッション――コンプリート』
―――。
針で刺されるような鋭い痛みが全身に走る。
身体の感覚が無いと錯覚してしまう程、身体が冷え切っているのだと気付くのにどれだけの時間を費やしたのだろう……。
ゆっくりと瞼を開ける。
目に映る光景は闇。漆黒の空から降る雨はとても汚れているように見えた。
口を開けても呻き声すら出ない。手を動かそうにも、指すら動かせない状態に陥っているのは……何故か、思い出せない。
何があったのか……。ここはどこなのか……。何故自分は死に瀕しているのか……。
思い出そうとしても『自分が目覚めた時』からの記憶しかない。
思い出せない……。
自分が一体何者なのか――。
名は? 家族は? 家は? 友人は?
何も思い出せない……。
空いた穴はとても大きい。
大切な何かを奪われた喪失感。己の身体の臓器全てが取り除かれたように、今まさに生きているのかさえ分からない。
本当は死んでいて、霊となった自分が、ただ空を見上げているだけなのかもしれない。 何も、ない。
全てを諦め、もう一度目を閉じようとした、その時だ。
名が無い――その女性は言った。
雨の音とは別に、地面を擦る音が耳に入った。僅かに呻き声も聞こえていた。 ゆっくりと、首を横に曲げる。
「君には、名前がある。だけど、私には名前がない」
そこには、女性がいた。女性の手と自分の手との距離は拳一つ分しかない。
だが、その拳一つ分の距離でさえ、縮める事は、もう限界だった。
「私は君の名を知っている。知りたいのなら、お願いがある」
僕は黙している。女性の言葉を遮らないように。いや、正直に言うと、言葉を交わすのも出来ない状況だった。
「私に、名を付けてほしい」
そう、女性は言った。必死に喉から絞り出す最後の言葉のように……。
女性の目を見つめた。女性も同じく瀕死の状態。ボロボロになった身体でも、その瞳には揺るぎない決意のようなものがあった。
僕は見据えた。言葉が出せない代わりに、女性の問いに答えるように。
一瞬――女性が微笑んだように見えた。その笑みを、僕はどこかで見たような気がした。
「ユウヤ」
ユウヤ……。
それが僕の名前――。
ようやく人間らしさを持てる、僕自身を証明する名だった。
なら、次は僕の番だ。目の前にいる女性に名前を付けなければならない。
血のように紅い髪を持つ女性を見つめる。身体中に傷を負い、泥まみれになった姿でも、僕は純粋に美しいと感じた。
唇を懸命に動かす。無論、言葉は出ない。それでも、必死に伝えようとしていた。
すると、女性は優しい微笑みを浮かべた。
「エレン……か。良い名だな」
―――。
閉鎖された国。世界から消された国を、人はこう呼ぶ。
失われた楽園――ロストヘブン――。
各国から監視され続けている、自由のない国。
もし戦争を起こそうというのであれば、ロストヘブンを囲む隣国から軍隊が押し寄せてくるのだ。
戦争に参加しない国は、前線で戦う兵士の為に物資を送る仕組みになっている。
そうなれば、ロストヘブンは一瞬にして灰の海と化すだろう。
いや、そもそもこの国から戦争を仕掛ける事など不可能だ。
何故なら――。
国境にそびえ立つ巨大な壁。
全長五〇〇メートル、厚さ一五メートルもある鋼鉄の壁は、ロストヘブンそのものを幽閉する為だけに造られた代物だ。
破壊は不可能。故に、この閉鎖国から脱出する事は不可能という訳だ。
各国はロストヘブンには一切関与しない。ロストヘブンも各国に一切関わらず、例え何年何十何百年経とうが、壁の向こう側には興味を持たないという教育を施すようになった。
何故、興味を持ってはいけない? 何故、閉鎖されているのか?
その疑問は、思っても決して口に出してはならぬ決まり。
そういった数々の掟を縛り、既に五〇〇年の月日が流れていた――。
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