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作品名:眠り妃 作者:藤島聡

第2回   2
図星を指された僕は、一瞬、かっとなったが、社内で起きたらしい重大事態が気になって中に入った。
社長の外国趣味で、ガラス張りの扉の向こうには柔らかい光沢のベージュ色の壁がめぐらされて奥は見えない。その壁の前には受付用の、こんな会社には相応しくない豪華な机が置いてある。いつもなら由美か、他の事務員の女性が座っているが、今日は机の前に後ろ手で胸を張った制服警官が一人立っていた。その警察官に僕は営業部の部屋で待つように指示された。
壁に溶け込んだドアを開け、中に入ると、事務室、専務室、社長室までは一流会社を模した美しさに整えてある。だが顧客に見せない広い営業部の部屋は雑然としていた。いつもなら大声で電話を掛けまくっているか出かけている営業マンが全員揃っていて、小声でひそひそ話をしていた。硬い雰囲気に気おくれした僕は足音を忍ばせて自分の机に着いた。
「遅かったじゃないか」と隣の田部が声を掛けてきた。
「何があったんだ」
「警察の手が回ったのさ」
「なぜ? 社長は面接の時、私は絶対インチキはやらないって言ってたのに」
「そんなこと本気で信じてたのか、お前」
理想に燃える起業家だと思っていた。僕に夢を語り、君のような人材を求めていたと向けたまなざしが嘘だったと言うのか。だからこそ僕は底意地の悪い課長の下でも耐えていたのだ。
「騙されてたのか」と怒りで熱くなった僕を田部は哀れみの混じった目で見返した。
「騙されてたのは俺たちじゃない。顧客だ。なけなしの退職金を騙し取られた老夫婦が心中未遂をやった。それで警察が動いたんだ。老夫婦を担当したのは実村だ」
公家のように上品で無表情な顔立ちをし、質のよい濃紺の背広を着こなしているトップセールスマンだ。僕は実村には気味悪さしか感じなかったが、世間ではあの手が信用される。顧客の前では僕たちには見せない顔で完璧なセールストークを展開するのか。
「心中未遂って、そんなひどいことしたのか」
「ああ、俺もそこまであこぎだとは思わなかった。社長にも焦りがあったんだろう。世の中、騙されるだけの奴とは限らないからな。思ったより儲からなかったのかも知れない」
「人格者だと思っていた」
「お前のような甘いマスクの人間を採ったのはカモフラージュだ。お前が社内を歩いているだけで、訪ねてきた客は信用するんだよ。社長に利用されたんだ。厳しく言えば、お前にだって知らずに片棒を担いだ責任がないとも言えない」と田部は僕の無知に苛立ったのか刺のある言い方をした。
「実村も、いや、僕らも逮捕されるのかな」
「心配するな。警察はそれほどひまじゃない。本格的な取り調べはもう護送された社長や専務らが向こうでもっと偉い官僚に受けているだろう。ここに残っている官吏はどうせエリートコースから外れた奴だ。実村だって会社の内実は知らなかった、上に言われた通りやったとしらを切れば証拠は何もない。ましてや一件も契約を取っていない俺やお前を相手にするわけがない」
プレスに嘲笑された雑魚という科白が耳にこだました。僕は田部の言葉に安心しながら傷ついた。司直に両腕を取られ、ふてぶてしい含み笑いで、プレスのカメラを見据える僕の姿を明日の朝刊で美緒の父に見せてやりたい気もした。
気がつくと、部屋の人数が半分に減っていた。
「順番に事情聴取されているんだ。社員の聴取は下っ端になるほど早い。まもなく俺たちだから準備しとけ。いいか、下手なことは言うなよ。社長に騙されたの一点張りで通せ」
田部の言う通りだった。十五分もせずに部屋は彼と二人きりになり、そして僕一人になった。がらんとなった部屋で不安にさいなまれる間もなく僕は呼び出された。
事情聴取は社長室で行われた。いつも笑みを浮かべて僕に対処する若い社長の代わりに正面の机の向こうには思ったよりずっと年の行った男が座り、その横の小机では目付きの鋭い中年男が書記をしていた。僕には検察官なのか刑事なのかも分からなかった。机の前の椅子に座るよう手で示されて、ふわつく足を押さえて座ってからも手が震えていた。見られたくなかったが、ベテランの官吏が見逃すはずがない。
「顔が青いですね。硬くならずに楽にしてください」と案の定、彼は慰めを言ったあと、書類に目を通していた。社長に騙された、社長に騙されたんだと僕はその間、悪魔払いの呪文のように心で唱えていた。
「りっぱな大学を出ておられますな」と男が言ったので彼が見ているのは僕の履歴書だと初めて知った。
「ずいぶん転職を繰り返してますが、何が不満だったのですか。人間はある程度辛抱しなくては。最後にとんでもない会社を選択してしまわれた。これからはよくよく注意して職選びをしてください。あなたならきっと相応しい会社が見つかります」
呪文が切れ、僕は不覚にも泣きそうになった。あらいざらい老官吏に思いのたけをぶちまけたかった。熱くなっている僕に彼が言った。
「よろしいですよ」
「はっ? 」
「お帰りになって結構です」
怒りが込み上げた。涙ぐんだ僕にも、官吏にも、社長にも、本当なら安堵すべきおざなりな事情聴取にも腹が立った。立ち上がり、ドアに向かう僕を書記の男が横から支えてくれた。怒りで熱くなりながら、僕は緊張を解かれて腰が抜けそうになっていたのだ。
「大丈夫か、君。脚がふらついてるよ」
気丈にその手を振り切れたらどんなによかったか。だが僕は病人のようにされるがまま廊下に押し出された。
事務室の半開きのドア越しに人声がし、由美の姿が見えた。乱暴な性欲が起こった。細い由美の身体をむちゃくちゃにしてやりたかった。由美の向こうに田部がいた。二人は僕の汚い欲望を嘲笑うように親しげに話し合っていた。ドアを離れた僕の背後から田部の呼ぶ声がしたが、かまわず会社の外に出た。すでに見張りの警察官もプレスもいなかった。雑魚に用はないのだ。
昼の明るすぎる太陽が光の霞をつくり、風景が白っぽく濁った。時計の針は十二時過ぎを指していたが、昼食を求めるサラリーマンの姿がない。光を照り返す舗道に僕だけが歩いていた。ぎらつく霞の中から巨大な自動販売機が現われた。コインを入れて冷たい缶ビールを出す。自販機に寄り掛かり、呷る。
旨かった。
どんな精神状態でも反応する胃が哀しい。酔いが一気に回る。霞が僕を覆い隠し、カプセルになった。思考が断絶し、事態に反応する力がない。ふいにヴァナディースの女の面影が僕を誘う。人気のない都会のビルの谷間を面影を追って移動した。迷路の果てに噴水のある小さな広場に行き着いた。鳥が青い空に向けて、水を吐き出していた。苦しそうな鳥を自由にしたくなり、近づくと水しぶきを透して美術館の建物が見えた。「遊戯空間を創造する夢獏生の彫刻芸術」と書かれたサインがあった。読み方も知らない、聞いたこともない作家だ。ギリシャ風の丸円柱に囲まれた入口を抜け、愛想の悪い受付の女に料金を払って、僕は隠れ家を求めて急ぎ足で展示室に入った。グロテスクな抽象彫刻が立ち並ぶ第一展示室を通り、同じような作品がひしめく第二展示室を目もくれずにまっしぐらに進み、ようやく小さな休憩場所を見つけ、椅子に座ったとたん眠ってしまった。
四方を密林に囲まれた狭い空間にいた。真中に井戸がある。人が通れそうにもない蔦や蔓の絡まった密林をどうやって抜けてきたのか思い出せない。髪を振り乱した半魚人の魔女や、ターミネーターと死闘を演じてきたような気もする。女の歌声が井戸から聞こえてきた。覗くと下には別の世界があり、もう一人の僕が人のいない都会のビルの間を彷徨っている。ビルも路も電柱も何もかも僕を歓迎していない。邪悪さを内包し、隙あらば僕を呑み込もうと狙っている。歌声が大きくなり、一台のヴァナディースが四次元の空間から現われ、下界の僕の前に駐まり、中からあの女が降り立った。僕は女に引き寄せられていく。
「よせ、その女は危険だ」と井戸の上の僕が叫んで目が覚めた。悪夢の続きのように、展示室の彫刻群が踊り出して迫り来る錯覚にふらふらと立ち上がり、目の片隅で第二展示室を出ていく女の背中を捕えた。服装は違うがヴァナディースの女だった。幻覚ではない。
走ろうとしてめまいが起きた。吐き気も込み上げる。その場にしゃがんで気分が回復するのを待った。どれだけロスしたのか分からない。立ち上がり、急いで第二展示室を抜けた。第三展示室には隅の椅子に座って眠そうな目をした監視人以外に人影はなかった。彫像の間を速度を変えずに通り抜けて出口をくぐった。再び美術館の受付前のホールに出た。回廊になった各展示室を一周して元の場所に戻ったのだ。二階に通ずる階段を上がろうと迷いかけて、美術館のガラス扉越しに噴水の水飛沫に散ってきらきらと光る女の影を認めて飛び出した。


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