心がざわついた。原因は正面に座った奴だ。僕より若い。配慮のかけらもない音をさせてシートに腰を落とし、つかの間の惰眠をむさぼる他の乗客を目覚めさせ、脚を通路に投げ出す。黒の背広に黒の靴、リクルートブックから抜けだしてきたようなサラリーマンスタイルだが妙な唐草模様のネクタイを締めいていた。鞄からコミックを取り出して読み耽る。乗客はそそくさと眠りの中に潜り直す。僕の血だけが騒ぐ。半年前から起こる発作を誘発する奴はサラリーマン風と決まっていた。年齢は関係ない。 高校生の頃、いっぱしの一匹狼を気取っていた僕は今でも喧嘩が強い。 当然だ。 高校の三年間、僕は地元の関西でキックボクシングジムに通い続けていた。トレーナーは僕には素質があり、回転のいいキックとよく伸びる左ジャブに次ぐ、肩の後ろから出るような速いストレートはプロでも避けられないと言った。だが僕はプロになる気はなかった。学校の成績も悪くなかった僕は自分の才能を過信し、その傲慢さで周りからも浮き上がり、目的もない夢を抱いて東京に出た。 大学生になっても社会人になっても青臭い正義感を振り回し、列に割り込む奴や、満員電車で新聞を広げる奴に喧嘩を売って負けたことはなかった。会社の上下関係がそのまま世間で通用すると錯覚している中年男を痛めつけた時はあやうく鉄道公安官に捕まるところだった。だがこの数年間で心が荒んで血気も消え、健康な怒りとは別の、世間へのどろっとした悪意練り込んだ殺人志向に苛まれるようになった。“十三日の金曜日”のジェイスンの殺意、立ち上がり、鞄から手斧を出し、男の上で振りかざす。観客となった乗客の悲鳴があがり、僕の快楽は極限に高揚する。犠牲者の顔が歪み、闇が晴れ、光が射す。歪んだ顔に手斧の刃を入れる。血であえた脳みそが散らばり、真っ赤に濡れた自分の手を見る。手斧を引くと、縦に割れた傷の奥に生と死の継ぎ目がある。二つになった顔の一つずつの目が感謝している。 僕は立ち上がりそうになる脚と、理性を訴える心のアンバランスを抱えて男を睨む。視線に気付いた男はドキッとしてコミックに目を戻し、さり気なくこちらを窺い、なおも粘りつく僕の視線にまたコミックに逃げ、脚をそっと引く。 それでいい。 電車が僕の住む町の駅に滑り込んだ。立ち上がった僕を男は上目遣いで警戒するが、もう彼への殺意は失せていた。 三年前、都心から電車で一時間ほど掛かるこの町に住み着いた頃は閑散とした田園風景が楽しめた。だがおもちゃじみた建て売り住宅が筍状に増え、気づいた時はアメリカ風ともヨーロッパ風ともつかないベッドタウンに転落していた。田畑や林もなくなり、蛇や蛙ももういない。無国籍な住宅の主たちは後がまのくせに僕らアボリジニの貧しい共同アパートを意識から消していた。安月給といえ、引越し費用や小洒落た部屋に住む家賃が乏しかったわけではない。表面を綺麗ごとで繕いたがる無国籍人に、現存するごみためを見せつけたかった。ささやかな先住民の悪意のプレゼンテーションとして共同住宅に居座り続けているのだ。 迷路状入り組んだ仕事で笑い虫に変身し、干からびて無機質になった群衆に混じって駅を出る。うぶだった駅も強姦されてスマートな駅前広場と商店街を押し付けられた都会の女になった。沿線のどの駅で降りても区別がつかない。群衆は集団になり、歩調を合わせて一方向へ進む。思考を停止させたゾンビ集団の流れに身を任せるのは抵抗もあるが、溶けて無になれそうな錯覚が快い。 錯覚を制御できない連中がたまにいる。笑い虫の幼虫からアルコールを媒体にしてしょせんは不可能な蝶へのメタモルフォーゼを夢見る連中だ。中年の三人のサラリーマンだった。酔いのさなかでも一人でルールを破る勇気はなく、何人かでたむろする。群衆は彼らに暗黙の了解を与えて分水嶺になる。日が変われば自分たちも夢の蝶を志すという共同体の掟があるからだ。ぽっかり空いた谷間に僕だけが残される。声高に喚く三人の酔漢に突き進む。五メートル、三メートル、気付かない。あと一メートルでようやく掟破りのアウトサイダーに不快な目を向け、肩をそびやかして突っ張ろうとするが、ぶつかる寸前に目をそむけて道を開く。僕はその空間を居丈高に通過する。背後でこれ見よがしに舌打ちが響くが、負け犬の遠吠えだ。負け犬。 僕も大学出たては勝ち組コースを歩んでいた。だが仕事でも人間関係でも自分の才能を信じて精神の自由を求め、上司に嫌われ、同僚にも疎まれ、転職を繰り返した。箱入り娘の美緒は僕の夢を理解し、転職のたびに世間で二流、三流といわれる企業に落ちても辛抱して従いてきてくれた。僕は美緒を愛し、幸せだった。僕なりに頑張っていたのだ。 五度目の退職を告げた時、美緒は僕の前から去った。 「娘はもう君に会いたくないと言っている」と電話に出たのは、一度だけ会ったことのある彼女の父だった。僕は最初からこの父親に嫌われていた。大手銀行の支店長というからあくの強いビジネスマンを想像していたが、痩せぎすのこわもての文芸評論家タイプでオールバックの髪を鳥のようにけばだてていた。進歩派を装い、娘の選んだ相手に横槍を入れないポーズを取っていたが、自分の推薦する婿候補のサラブレットを断わったあげく、よりによって頼りない男とという悔しさがありありと見て取れた。 「美緒さんと話しをさせてください。本人に聞きたい。美緒さんがそう言っているのなら僕も諦めます」 「必要ない。私とあれがきちんと話し合った結果だ」 心に砂ぼこりが立ち、ざらついた。砂に勢いはなく、すぐに湿り気を帯びて澱んだ。なぜ直接言ってくれなかったのかという無念はあったが、恨みはなかった。 商店街の明りが途絶え、深海に潜む生き物じみた住宅が終わりのない闇を背景にしてどんよりと現われる角を曲がり、薄暗い路地に入ると、僕の行きつけの“めしや”がある。食堂でもレストランでもない“めしや”だ。 「メシア」とだじゃれを言った。 「飯屋だろ。あんた。ガキの言葉を使うのかい」と店の婆さんが悪態をつく。 「婆さんがメシアさ」とやり返す。 「わけのわからないこと言って年寄りをからかうな」 まだ世間に心を開いていた頃、僕も駅前のレストランや、飲み屋の常連だった。隣合わせた客と意気投合し、杯やコップを重ねて気炎を上げた。だが心が風化するに連れ、彼等の会話が耐えがたくなってきた。 「お偉方の決めた例のプロジェクト、見事に失敗しただろ。なのに誰も責任取る奴いないんだって。俺たちが汗水垂らして稼いだ金を好き放題に使ってさ。やってらんないよ」 「まったくうちの会社はどうなってんだか。部下の失敗は部下の責任。部下の功績は自分の功績、いいとこ取りだもんな」 うちの会社って何なんだ。ロイヤリティなんかじゃない。救いがたい帰属意識だ。しだいに酒もまずくなって足が遠のき、暗い方へ人のいない方へと移り、婆さんの“めしや”に辿り着いたのだ。 暗い路地にそんな店があると思わなかった。暖簾がなかったら見過ごしていた。不幸のかたまりみたいなたたずまいなのに、“ハッピー食堂”という名前に興味をそそられて中へ入った。硬いセメント地に古い机と椅子以外何もない。テーブルクロスも調味料の類いも、箸置きも、メニューも、この種の店にある雑誌も置いてない。壁にも料理の張り紙は一枚も貼っていなかった。調度品といえば壁の隅を利用した三角台の上のテレビだけだった。そのテレビを古典的な割烹着を着た婆さんが椅子に座って見ていた。声を掛けても返事もしない。二度目でしぶしぶ立ち上がり、日替わり定食しかないと言い、ビールを注文すると酒だけでしかも常温で飲めと言う。だが定食の味はよかった。年期の入った味付けは婆さんの名人芸になっていた。お世辞抜きで誉めたのに鼻先で笑われた。迷い猫に餌だけ与えてあとは放って置くやり方が気に入り、僕は常連になった。 婆さんの態度がわざわいして固定客はどうやら僕だけだったが、 ある夜、先客が三人いた。僕と同年代のサラリーマンで、そのうちの二人は静かに食事の出るのを待っていたが、もう一人の黒縁眼鏡はろくに返事もしない婆さんに明らかに業を煮やしていた。人が自分と同じ価値観を持てば世の中はよくなると勘違いするタイプだ。 「どうなってんの、この店は。こんなんじゃ他のお客さんにだって迷惑だよ」とそれまで口の中でぶつぶつ呟いていたが、コップ酒を飲み始めた僕に同意を求めるように大きな声を出した。やれやれ、人を引き込まなきゃ文句の一つも言えないのか。 「どうでもいいけど巻き添えはやめてほしいな。この店、気に入ってる人間もいるんだから」 思わぬ伏兵にあって黒縁眼鏡は顔をこわばらせた。だが向かってくる気力はなく、立ち上がると「帰ろう、不愉快だ」と仲間に八つ当たりして店を出て行った。あとの二人はあいまいに僕に会釈してあとを追った。 「余計なことするから客を逃がしたじゃないか」と婆さんは文句を言ったが、それ以来、僕に対する態度が少し柔らかくなった。 いつも通り七時過ぎに店に入った。客はいなかった。けちな婆さんには珍しく一人で酒を飲んでいた。しかも人殺しや殴り合いばかりのあちらもんは嫌いだと言っていたのに、テレビでは「ターミネーター」の再放送が映っている。焼き魚を肴に酒を飲んでいた僕の正面に婆さんは酒を瓶ごと抱えてきて座り、しばらく物珍しそうに僕を見ていた。 「好きなだけ飲みな、今日はあたしが奢っとくよ」 「いいよ、そんなの」 「遠慮するガラか。しめた、ただ酒飲めるって顔に書いてあるよ」 「かなわないな」 勧められるまま僕が飲むと、婆さんはなみなみと注ぎ足してくれた。 「もう酌はしないよ。あとは勝手に自分でやりな」と言って、自らのコップにもたっぷりと注いだ。僕が来る前から飲んでいた瓶の中身は半分に減っている。 「大丈夫か。そんなに飲んで」 「平気さ。こう見えても若い頃は花街にいたんだ。一升飲み干して助平な客を驚かせたもんだ」 テレビで爆発音が起こり、炎上したタンクローリーから不死身のターミネーターが特殊金属製の正体を現わし、ヒロインのサラに迫る。婆さんの目元がほんのりと赤くなり、妙に艶っぽくなった。若い頃は男好きのする顔だったかもしれないが、年齢の残酷さが艶っぽさを薄気味悪く変えている。 「あんた、いくつだい」と婆さんがねっとりした目付きで言った。 「二十六、あと二ヶ月で七になる」 「おや、あたしの息子も生きてりゃ同い年だ」 「気の毒に、亡くしたのか」 「年取ってから産んだ父無し子さ。孫みたいに年が離れてたもんで甘やかしたのがいけなかった。ろくでなしになってさんざっぱら悪さしたあげく、十八のとき誰かに殺られて路で倒れてたのさ」 「他に身寄りは」 「だあれもいないよ。今日がそのバカ息子の命日なんだ」と婆さんは残っていたコップ酒を一気に飲み干した。 「本当に大丈夫か。飲みすぎじゃないか」 婆さんの身体の心配より脳溢血でも起こして倒れられたら面倒だと思ったのだ。耳障りなターミネーターの金属音が満ち、工場に逃げ込んだサラの運命は風前の灯になった。 「あんた、女はいないのかい。ま、いりゃあ毎晩こんなところへ一人で来ないやね」 「いたけど、別れた」 「ふられたのかい。だらしない」 「父親と合わなくってな」 「あんたが強ければ父親なんか関係ないだろ」 「そうだな」 「占ってやろうか。あたしの占いはよく当たるんだ。この頃はあまりやってないけどね。手を見せてごらん」 「占いなんてごめんだ」 「いいから見せな」と婆さんは無理に僕の手を取って広げた。爬虫類が腕を這い、蜘蛛に変わって背中を走った。金属音が軋む。サラの逆襲が始まったのだ。大型プレス機の下に巧みにターミネーターをおびき寄せた彼女がスイッチを入れると、さしものターミネーターも悲鳴に似た断末魔の金属音を発して押しつぶされていく。 「おや、驚いたね。女運が出てる。それももうすぐだ。この店を出たら、いつもと反対の方角へ行ってごらん。そこで女に遭う筈だ。あんたの運命を変える女だよ。ただいい方へ変わるのか、悪い方へ変わるのか、あたしには分からない」 この店も潮時かと僕はがっかりした。婆さんがポン引きをやるとは思わなかった。店を出て婆さんの言う方向へ行けば、つるんだ男が「いい娘がいますぜ」と寄ってくる寸法なのだろう。 「そろそろ帰るよ」と僕が立ち上がっても婆さんはうろんな目で一瞥しただけで自分の世界に入っていた。顔がさらに赤くなり、声を掛けようとしたが、別世界に入った婆さんの姿に気圧されて、千円札一枚をテーブルの上に置き、追われるように外に出た。 驚いた。テレビの音に消されて気付かなかったのか外はどしゃ降りだった。路は水たまりどころではなく濁流になっていた。一瞬、店に戻って婆さんに傘を借りることも考えたが、魔女じみた顔が脳裏に大映しになり、僕は上着を脱いで頭からかぶり、いつもと反対の長い軒下の見える建物の方へ逃げ出した。 数メートル走って立ち停まった。雨がふいにやんだのだ。それも少しずつ小降りになるのでなく、シャワーの水栓を締めたような唐突な止み方だった。あっけに取られたまま路地から通りへ出た僕の背後からヘッドライトの明りが襲い掛かり、ターミネーターの金属音より鋭いブレーキ音がし、我ながら見事な身のこなしで身体を回転させて路の端へ跳び、転ぶ前に素早く地面に手を付いて泥まみれになるのを防いだ。低い姿勢になった僕の横に赤いヴァナディースのかっこいいヒップが停まった。今春、A社が高級車と大衆車の中間を狙って若者向けにリリースすると爆発的な人気を獲た車だ。若者向けと言ってももちろん僕のような貧乏人には手が出ない。乗り回しているのは金持ちのドラ息子だ。 ゆっくりと立ち上がって手の泥を払い、久々にみなぎる発作とは別の健康的な怒りを楽しみつつ、僕は相手がどんな屈強な男でも殴り合うつもりで闘志を逆立てた。 運転席のドアが開き、車を挟んでスラリと僕に対峙したのは女だった。白いブラウスに濃い茶色のスーツに身を包み、長い髪が肩まで垂れている。落ち着き払ってこちらを凝視する様子は僕より二、三歳、あるいはもっと年上か。女にしては背が高い。肉付きもいいが、スタイルもいい。薄闇でもはっきりと光る瞳で僕をたじろがずに見据えている。その目が、一瞬、あらと言う表情になったのは僕の見間違いか。 「路の真中でふらふらしないでちょうだい。危ないでしょ」 意識の隙間を抜って脳細胞の隅々までしみわたるふくらみのある声だった。胸を張った姿勢のよさ、自信に満ちた態度。僕の意志が働かなくなり、高いところから低いところへ流れる水のごとく僕はただ女に魅せられていた。 「分かったわね」と声も出ない僕に念を押して女は車に消え、出足のいいヴァナディースはもうスタートしていた。寒気がして血が震え、辺りの風景が変わり、心臓に重いパンチを食らったように胸騒ぎがした。 しまったと走り出したのは、ヴァナディースのテイルが二十メートルも先の角を曲がって消えてからだった。息を切らし、四つ辻まで走ったが赤い車影はなかった。気落ちした僕の周りの風景が再び動き出し、記憶に結びついた。都会の夜の街のあやかし、何のことはない、そこは駅前の商店街とは別の、広場の左隅から続く飲み屋街の一角だった。迷路も解いてしまえば迷路でなくなる。僕はそんなことはあり得ないのに、安酒場をヴァナディースの女を求めてはしごして泥酔した。 眠りの彷徨がどんよりと一点に集中し、中国語風の甲高い声が聞こえた気がして目が覚め、鳴らなかったのか、無意識にストップを押したのか、平然と時を刻んでいる目覚し時計に舌打ちして頭痛に耐えながら起き上がった。 遅刻だ。陰険な課長の叱責の雨が降ると思うといっそ休んでしまおうかと思ったが、三ヶ月前に入社したばかりでもう休暇を五日も取っている。身支度もそこそこにアパートを飛び出し、歩きながら携帯の短縮をプッシュした。 「もしもし」と電話の向こうから細い声がした。事務員の由美だ。気立ての優しい娘だが、喘息の病で苦しんでいた。だが今日は様子がおかしい。会社名も名乗らないし、課長に代わってくれと頼んでも逡巡している。 「あなたは」と威圧的な男の声が由美に代わった。聞いたことのない声だ。こっちこそ同じ問をしたかったが、男には有無を言わせぬ迫力があった。僕が身分を明かすと、パラパラと本をめくる音がしてしばらく待たされた。 「分かりました。できるだけ早く、必ず、出社するように」と命令口調の声の主は押しかぶせて一方的に電話を切った。男の態度にも何の抵抗もできなかった自分にも腹を立て、それでも僕は急いで電車に乗った。 ちっぽけなビルの三階の一角に会社がテナントしているガラス張りの入口の前にプレスの腕章をつけた男が五、六人いた。中に入ろうとした僕をさっと囲んで矢つぎ早に質問を浴びせてきた。 「社員の方ですか? 」 「役職は? 」 「今回の捜索についての感想は? 」 「被害者に何か言いたいことは? 」 捜索? 捜索って、被害者って何だ。僕の呆けた反応を見た一人が言った。 「放っとこう、雑魚だ。おおかた酒でも飲みすぎて遅刻したんだ」
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