20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ
 ようこそゲストさん トップページへ ご利用方法 Q&A 操作マニュアル パスワードを忘れた
 ■ 目次へ

作品名:黒猿山絵巻 作者:tarty_north

第1回   桜狩の帝一の月
桜狩の帝一の月

 実際、どう考えても悪いのは確かに私だったのです。
 この山に来る前、それは多くの人からここに来るのを止められたことを、昼間でもほの暗く寒々とした景色を見るにつけても、何度も思い返します。
 大晦日の晩、私はふもとの小さな村にて八日目の宿をとっていました。宿と言っても宿屋があるわけではなく、庄屋の心遣いで小さな離れを借りていただけなのですが。
 私は、京では少し名の知れた絵師に仕えた見習いでした。門下生の中では比較的筋がよいことを何度も褒められ、少し思い上がりもあって師匠の認めが出る前に、名絵師のように放浪の旅に出ていたのです。ところがいざ旅に出てみると何もかもが自分の思ったとおりには行きませんでした。よく計画を練って旅に出なければならないのは当たり前のことだというのに、私は目的地も調べず、路銀がいくらかかるかも、旅には何が必要かも考えずに出かけてしまったのです。その結果道に迷ったり悪者にだまされたりして、命の次に大事な画材道具を赤子のように抱きかかえながらやっとの思いでその村にたどり着いたのでした。
 村の人々はもうお正月が来る準備に追われており、乞食のように貧しい身なりでふらふらと宿を求めた私を、なにやら汚いものでも見る眼であしらいました。庄屋も顔だけは柔和な表情を浮かべていましたが、目の奥は全く笑っておらず、しかし京からの絵師である旨を告げて一筆鳥の絵を描いてみると、仕方ないと言った様子で苦い茶と豆粥を出してくれたのでした。私は八日間のうちに、庄屋自慢の一人娘を描きました。京の娘に比べたら垢抜けておらず、さほど美しいわけでも取り立てて気立てが良いわけでも頭がよいわけでもなかったのですが。
 庄屋は私の絵の仕上がりをとても喜びました。そして正月の松の内が明けるまでここにいていいと言ってくれたのでしたが、私はそのとき庄屋の家に出入りしていた女中から、この山の話を聞きつけてしまっていたのでした。
 黒猿山には決して立ち入ってはならない、という話を。

 行くなと言われれば、行きたくなるのが人情というものです。あちこちを放浪している中にもいくつかこの類の「入らずの山」はありましたが、それは大抵、山賊が住んでいるとか、おかしな病を持った民がいるとかいう、いかにもな話でした。鬼や天狗がいるなどという話は禁制の何かを山で造っている方便であると、私は京にいたときから聞いていましたし、実際この世に妖怪や鬼神の類がいるかどうかなど、全く信じてもいなかったのです。
 私は見習いの身分ですが、絵師です。絵師はまずものをよく見続けなくてはなりません。幽霊画や妖怪画を描いて評判を博す名絵師も知ってはいましたが、私は自分の目で見たことのないものを平気で描けるそんな先生を、どうしても素晴らしいと思えなかったのです。
 黒猿山には、別に天狗や鬼が出るという言葉は誰からも出てきませんでした。ただ、村人はこの山の話をするとき、眉間に皺を寄せ、なんとも恐ろしげな、不愉快そうな顔になり、黙り込んでしまうのです。それは大人であろうが子供であろうが同じでした。
 鉄砲打ちの五平に、黒猿山で狩をしたかを訪ねると、険しい顔で首を振りました。そして言ったのです。
「黒猿山の近くの山にすら近づいちゃなんねえ。俺だけでなく、この界隈の村ではみんなそうだ。だから誰に聞いても同じだよ」
「どうして」
「なんねえと決まってるものは、なんねえんだ。まあ、あの辺りには道の一つもないから近づくことも難しいと思うがな」
 私は黒猿山の方角を見ました。この辺りは温暖なのか、今のこの時期になっても山には雪の白い衣はどこにも見えませんでした。寒々とした裸の木々がどこまでも続いていて、私は心の中で小さく笑いました。
 これなら道がなくても、子供でもその黒猿山とやらに簡単に近づけてしまえるじゃないか。
 私の心の中で、無謀な企てが音を立てて走り出しました。私の先祖は韋駄天のような仕事にでも就いていたのでしょうか、ともかく私は一度決めたらろくに考えずに駆け出してしまうのです。このときもそうでした。
 こうして私は正月の朝、冷え冷えとした空気を胸いっぱいに吸い込んで、音もなく庄屋の離れを後にしたのです。

 黒猿山には、すぐでした。
 本当にあっけなく着いてしまったことに私は驚きを隠せませんでした。日はまだ中天にさしかかる前で、方々で霜の解けた枯れ草がようやく乾いた頃でした。山々はしんと静まり返り、小鳥の声も聞こえません。
 と、私は見たのでした。
 雪のように真っ白な、大きな角をふり立てた一頭の大鹿を。
 鹿は私のそばに恐れもなくゆっくりと歩み寄り、そしてあるところまでくるとさっと駆け出しました。それはとても速い足取りで本来なら私はすぐに見失ってしまうところでしたが、おかしなことに鹿はしばらく駆けると立ち止まって振り返り、私を見つめるのです。私が追うと、また逃げ、そしてまた適当なところで立ち止まるのです。
 これは黒猿山の謎に近い生き物かもしれない。私はつい嬉しくなって夢中で後を追いました。山は最初は緩やかな勾配でしたが、すぐに急になり、私は足元を枯れ草や泥にとられたりしながら、それでも真っ白い鹿を見続けて山の奥まで進んで行ったのです。
 ――そのうちに、私はおかしなことに気がつきました。
 山の中がどうも、薄暗いのです。空は晴天で、ちょうど今は正午のはずです。木々は葉の一つもなく裸の枝を虚空に伸ばしているだけであり、どこにも暗くなるような理由などありませんでした。それでも、一歩一歩進むたびに確実に足元は陰りを帯びて、とうとう私が我に返ったときは、向かいの山すら見えぬほどの闇が私を包んでしまっておりました。
 勿論、先ほどの白い鹿はどこかに消えてしまっていました。
 私は叫びました。
「誰か! 誰かいないか! 私を助けてくれ! 明かりを持ってきてくれ!」
 何も答えるものはいません。しかし、どこかで、シェシェシェ、という低くあざ笑うような声がしてきました。蝉の声をもう少し低めたような、そんな耳に障る嫌な声です。私は真っ暗な中、足元を気にしながら今来た道を戻りかけました。何かまずい、何か恐ろしいものに私は遭遇しようとしている。今逃げなくては。逃げてしまわなくてはならない。
 しかし、何歩か進んだところで私の後ろ頭が突然激しく殴られました。すぐ近くまで、笑い声は近づいてきていました。私はうめいて倒れましたが、自分を大勢の何物かが取り囲んだのを知った後、身体中が恐ろしく痛み出して、それきり気を失いました。

 目が覚めたとき、やはり見えた空は真っ暗でした。空が真っ暗というよりも、私の視界そのものが狭くなってしまい、遠くが全く見えなくなっているのです。
「なんということだ……」
 私は自分の目を覆いました。目が駄目になってしまったら、絵師は終わりです。私はまともな目を失ってしまったのです。もう自分がどこにいるかも分かりません。
 ふと、すぐ近くの耳元で、シェシェシェと笑う声が聞こえ、私は身体を硬くしました。
 ごく狭い、遠くがぼやけきった視界に、うっすらと銀色の大きな塊が肩の辺りを震わせて座っていました。座ってはいますが、体格は大の大人の二人分くらいでありましょうか。胡坐をかいたその銀色の塊は私に向かって言ったのです。
「この山に近づいてはならぬと、誰かから聞かなかったか」
「……」
「なぜ、ここに来た。命が惜しくなかったのか」
「……」
「命を取られると、聞かなかったのか」
「ああ、そうだ」
 確かに誰も命を取られるとは言いはしませんでした。しかし態度ではそれと同じことを語ってもいましたし、私が聞いていないというのは厳密には間違いということにもなるのです。しかし、相手が物の怪の類であったとしてもはっきりと人の言葉を喋っていることが分かったときに、私も少し意地が出てきたのでした。
「お前を殺してもいい。それはとても簡単だ。我らには出来ぬことはないのだ。ただその前に聞きたいことがある」
「なんだ」
「お前の持ち物の中から筆とすずりと紙が出てきた。墨もあったな。お前は坊主か」
「いや、私は放浪の絵師だ。僧侶ではない」
「絵を描けるなら、描いてみろ」
 銀色の大きな塊は、その長い手で私に画材道具を投げてよこしました。私はムッとして言い返しました。
「私の目は、今この山が真っ暗にしか見えない。近く以外はぼやけて何一つ見えない。こんな腐った目で何を見て描けというのだ」
「お前にこの山を降りてもらっては困るから妖術をかけているのだ。何も描けないなら、殺すだけだ」
 私は懐に括り付けてあった瓢箪から水を取り、すずりに墨を滑らせ始めました。そして墨をすりながら実に後悔したのです。幽霊や妖怪の画を描く絵師を、馬鹿にするのではなかったと。目に見えるもの以外のものをこうして描かねばならない瞬間が訪れるときもあるのだということを。
 薄墨が濃い黒に変わり、やがて一枚の紙に鮮やかな漆黒を滴らせるほどに筆を黒く染め上げたとき、私はよく見えぬ目で、村で描いたさして美しくもない庄屋の娘を描きだしたのです。
 どうして、こんなに全く気にならなかった女を描こうと思ったのかは自分でも分かりませんでした。美しいものを描けるのであれば、先ほどの私を誘った白い鹿でも描けばよかったのです。しかし、なぜかあの鹿の印象は、私が考えれば考えるほど淡く頼りないものとなってしまい、どうしても頭の中で纏まりませんでした。
 鹿だけではありません。この黒猿山に来てから目にしたものは、草木の一本でも実際に見続けていなければおぼろげな印象になってしまうのです。目だけではなく、頭までやられたのかと思うくらい、景色が頭に入ってきません。できれば目の前にいる銀色の塊そのものを描きたかったのですが、困ったことにこの距離だと私にとってそれは、ただの動く大きな石のように見えてしまうのです。
 私は、頭に残った娘の画を、ただ一心に描き続けました。頬の形、唇のつくり、目の開き、結い上げた髪の流れ。
 絵と私の周りを、いつしか数多くの視線が見続けているのを私は感じます。あざ笑うような声は一つも立てず、黙って見守るような、監視するような、そんな眼差しです。
「……できた」
 半時ほど経ち、私は筆を置きました。庄屋の娘が桶を持ち、うつむき加減でこちらに微笑みかけているという図です。
 上手に描けているという自信はありませんでした。しかし、下手に描いたつもりもありませんでした。
 私は深く息を吸って、声が震えぬように注意しながら聞きました。
「私を、帰してくれるか」
 銀色の塊は絵をじっと見つめていましたが、やがてゆるりと立ち上がりました。その小山のように大きな姿に、私はぞっとしてとうとうのけぞり、しりもちをつきました。
 殺されるのだ。私は、殺されてしまうのだ。
 大きな腕が私の懐に伸びてきます。私は観念して目をぎゅっとつぶりました。ああ、私はなんと浅はかな一生を終えるのだろう。恐れに蝕まれながらなんと愚かで、つまらない一生をこうして終えるのだろう。南無。
 ――銀色の塊の指先が、トントン、と私の心の臓辺りを叩きました。私は思わず目を開けました。
 目の前に、銀色の、人の顔の何倍もある老いた猿の顔がそこにありました。銀色の大猿は私の顔を見て凄みのある笑みを漏らしました。
「とても面白い絵だった。お前を殺すのはやめた。ここにいるがいい」
 私は呆然として銀色を見返しました。私に笑いかけた大猿はそれきりきびすを返し、ぼんやりした視界の向こうに消えていきました。

 ……後には、すずりを脇に置き、筆を呆然と片手にした私と、その私を取り囲んだ正体不明の無数の眼差しが残るだけでした。眼差しは口々に言うのです。
「お前は運がいい」
「そうだとも、人間よ、お前は運がいい」
「喰われもしない、引き裂かれもしない」
「ここにいろ、ずっとここにいろ」
「主はお前を気に入った」
「逃げようと思うな、どうせできないが」
「そうだとも、逃げ出せなどしないから、諦めろ」
「諦めろ」
 私は彼らを見ようと懸命に目を凝らしましたが、結局はそこに何があるのか分かりはしませんでした。ただ、黒々とした、主に似た形の大きな猿のような生き物がそこにうごめいているのだけは何となく理解できました。
 私は荷物を纏めるとよろめきながら山の中腹を歩き回り、天然に出来た狭い横穴に転がり込みました。黒い眼差しはそれを容赦なく追ってきます。そして横穴の近くまで来ると納得したように散っていきました。
 私は不自由な目を閉じて、深く、絶望に塗れたため息をつきました。
 捕まってしまった。恐ろしい、存在すら認めていなかったおかしな生き物に、私は捕まってしまって逃げられなくなったのだ、と。

 これが、桜狩帝一の月の、私と私を取り巻く風景です。


次の回 → ■ 目次

■ 20代から中高年のための小説投稿 & レビューコミュニティ トップページ
アクセス: 542