「ファルター少尉」 塹壕の中で待機していたファルターに声がかかったのは空がうすぼんやりと明るくなって来た頃である。 雨は上がったものの霧が出ていて周囲の様子はよく分からない。 「司令官閣下がお会いになるそうです。少尉と書記だけついて来て下さい」 「リン、行こう」 歩く度に感じるねちゃっとした感覚は、粘土質であることを示している。あちらこちらに寄りかかったから、さぞや泥まみれになっているに違いない・・・
司令部は窪地の岩を巧みに利用して作られており、確かに案内がいなければたどり着くのは容易ではないだろう。 「どうぞ」 上げられた幕布の奧は作戦室ではなかった。 5m四方くらいの空間の奧に少将の階級章をつけた老人が疲れ果てたように椅子に座っている。 「ファルター少尉です」 ファルターが敬礼をすると 「王国軍司令官のベイロン少将である」 ベイロンは座ったままで名乗ると 「卿の父君は大貴族か?」 そうファルターに訪ねた。ファルターは訝しく思いながらも 「父は騎士で一代限りですが・・・」 「そうか」 ベイロンは目を輝かせて椅子から立ち上がった。 「ファルターと言ったな。やっと公爵の軍に鈴をつけられたというわけか」 ファルターは意味が分からず、黙っていると 「これでやっと、まともな戦いが出来るかもしれんな」 ベイロンはひとりごちた。 ファルターはリンを見た。リンは首を傾げて見せた。 「閣下、こちらはどういう状況なのでしょうか」 ファルターが質問すると、ベイロンはやれやれといった仕草で 「正面と右側面の連隊が圧迫を受けておる。敵を押し返しても攻勢に出る戦力がない」 「ファラボロスの戦場の統制は閣下の手にあると聞いております」 「左様」 「後方のフィロア公爵軍の境界線を引き直していただけませんでしょうか」 「境界線を?」 「現在、公爵軍の正面に敵の連隊がおりますが、押し返すにも退路を遮断するにも境界線に阻まれて軍を進められません」 「どうして欲しいのだ」 「現在敵に対して真横になっている境界線を縦に切り直していただきたいのです。軍を王国軍の線まで進めて態勢を整えたいのです」 「それは誰の考えか?」 「僕個人の考えです」 「ほう」 ベイロンは興味を持ったように考えていたが 「考えておこう」 そう言って手を振った。 「失礼します」 ファルターとリンは敬礼をしてベイロンの部屋から退室した。
「ファルター、どうする?」 「何名か伝令に残ってもらって、僕たちは戻ろう。戦場が静かなうちに」 塹壕を戻りながら、ファルターがそう言うと 「意外・・・」 「何が?」 「ファルターのことだから、絶対最前線を見に行くって言い出すかと思った」 「最前線には行くよ。でも、それは今じゃないし、ここでもない」
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