死を以って、僕はまたしても片桐の凄さを痛感させられることとなった。あんなに楽しそうに毎日遊び呆けていたはずなのに、彼女はちゃんといつ旅立ってもいい準備を整えていたのだ。彼女の買ったばかりの鏡台のひきだしには、遺影用の写真、遺言、自分の葬儀の費用や望む葬られ方を書き記したノートが一式揃えられていた。墓のパンフレットも数種類あり、近々僕にも相談を持ちかけようと考えていたのだろう。二人の墓を建てようと。それは今や僕に託された使命のように思われた。
片桐里美を夫として見送ってからの日々は、老人に変貌を遂げてしまった運命のあの日からより、いっそう身の回りの全てが色褪せて見えるようになった。老いのスピードが、なんだかぐっと速まった気がした。それでも僕は、一人生き続けていた。 朝は必ずといって、里美の「私たちは二人だったから幸せだった」という声がすぐ耳元で聞こえた錯覚で目が覚めた。そうして、自分一人だけこの世に取り残されたことにひどく落胆して、涙してベッドから這い出した。 そう、僕らは二人だったからこれまで乗り越えられてきた。里美がいたからこそ僕は、あり得ない日常をなんとか耐えられたのだ。すべては彼女がいてくれたこそ成り立っていた。僕だけになってしまっては、この理不尽な生活を生き延びて何の意味があるのだろう。こうなってしまった無念を分かちあう、慰めあえる同士はこの世には誰一人いないのだ。老人に変貌してしまった浦島太郎は、その後どんな思いで残りの人生をやりすごしたのだろうか。
目標も意味も見出せない毎日をごまかすためにも、僕は無理矢理にでも心に引っかかるものを探した。そして見つけた。確かめておきたいことが一つだけあった。それはこの老人生活に入ってからすぐにでも確認しておくべき事項だった。 そうしていれば、もしかしたら元に戻れる手立てが掴めていたかもしれなかった。全ての鍵を握っている人物───あの赤い箱を僕に売った老婆だ。彼女はもしかしたら、こうなることを知っていたのではないか。その上で箱を僕に売ったのではないか。だとしたら、この状態を元に戻す方法を知っているかもしれない。そうできる品物も売っているかもしれない。
それを確かめるべく、僕は老婆が商売していたあの駅裏通りの人気ない道に、毎日行って見ることにした。 朝から日が落ちるまで見張っている日もあったが、あのときの老婆にもう一度お目にかかることはできなかった。それでも再会できるまで、直接話ができるまで、この命続く限り、原点となるここに通ってやろうと半ば意地にもなっていた。
そんなある日、老婆の占拠していた周辺を何かに憑かれたようにウロウロしている僕に、くわえタバコの青年が声をかけてきた。 「おい、あんたも、あの婆さんをさがしに来てるのか」 切れ長の鋭利な眼で射抜くように人の顔を覗き込んできたその青年は、一瞬あの矢崎を思い出させ、僕の心臓は冗談ではなく止まりそうになりながら、たどたどしく頷いた。 「実はさ、俺もあの婆さんをさがしてるんだ。ひどい目に遭わされたんでね。ひょっとして、あんたも被害者なのかなって」 苛立ったように煙を吐いた彼は、僕の腕を軽く掴んで近くの喫茶店で話をするよう、誘導した。
「つい一ヵ月前さ、あの道を偶然通りかかった時、婆さんに薄気味悪いほど黒光りした林檎を買わされたんだ。別にそんなもん欲しくはなかったけど、婆さんが突き出してきたその林檎は、ピカピカで甘い匂いがして旨そうでさ。その上『これは好きな相手をモノにできる林檎』とか抜かしてさ。まぁ、タダ同然だったし、小腹も空いてたんで買って帰ったんだ」 僕は、クリームソーダをゆっくりと吸い込みながら、面白くなさそうにタバコをふかす青年の話に口を挟まず耳を傾けていた。 「家に帰ったら、彼女が夕飯の準備をして待ってくれていたんだ。だから、持ってた林檎なんて下駄箱の上に置いて、すっかり忘れていたんだ。しかもそのあと、思いも寄らないショックな出来事があって・・・ああ、食事を済ませた後、別れ話を切り出されてしまってよ。余計に林檎なんてどうでもよくなってて。でも、その三日後さ、事件が起きたのは」 彼は、まだ長いタバコを灰皿に、さも憎たらしそうにもみ消すと、両手を革ジャンのポケットに突っ込み、下を向いて深いため息をついては黙りこくってしまった。 「なにか良くないことでも起きたのかね?」 僕は、きっと彼の身にも思いも寄らない災いが起こったに違いないと察して、先を促した。 「バイトで遅くなった夜、自分のアパートの部屋のドアを開けると、暗がりの中、そこに彼女が倒れていたんだ。その手元には、歯型のついた婆さんから買ったあの林檎が転がっていたんだ」 僕も、それが何を意味するのかピンときて、思わず同情するような表情を彼に見せてしまった。 「そうだよ、まるで白雪姫みたいだろ? あれは毒林檎だったというわけさ。彼女は確かにあの林檎を食べて死んでたんだ」 彼は、皮肉さとおかしさを噛み殺したように口元を歪めながら、また新しいタバコに火をつけた。 「俺は、振られたけども悔しくて悲しくて怖ろしくて仕方なかったよ。でも、部屋に入って涙がいっぺんに吹き飛んだ。テーブルの上に彼女からの手紙があったんだ。実はずっと前から好きな幼馴染みがいて、最近そいつと再会して結婚を申し込まれたんだって。彼女のバッグからはみ出していた手帳を拝見したら、その男との会う約束でびっしり埋まっていた。俺の約束はすっぽかしてな」 どういうカラクリか分からなかったが、事件は事件で、彼は警察と一緒にあの老婆をさがしに来たが見つからなかったという。 「彼女の死と真実を知ってしまって悲しみとショックも二重になったけど、あの婆さんは占い師か何かで、ひょっとして彼女が俺を裏切っていたことも知っていたんじゃないかって、それでわざとあんな林檎を渡したんじゃないかって、そんな妙な考えが頭から離れなくてさ」 なるほど。彼は白雪姫の林檎を掴まされ、僕は浦島太郎の玉手箱を渡されたというわけか。それもこっちの悲惨な状況を把握しているかのように、それに見合わせたような代物を買わせているのが、どうにも腑に落ちない点ではあった。 僕は、勢いに任せて自分の体験もご披露してやろうと思ったが、この青年にはどうにも信用がおけなかったので、やめておくことにした。 それに僕は不幸の当事者であって、彼とは立場が違う。結局今の自分の姿を利用して、ただの老婆の話し相手だったことにしておいた。 この青年が、警察と一緒に老婆をさがしたというから、それを知って逃亡したのかもしれない。だから、ここにはもう二度と現れないのではないかとも思えた。
それでも暇を持て余した老人の僕は、その場所に引きつけられるように、たびたび足を運んでいった。 数日後、青年が僕を見つけたように、今度は僕が老婆のいた場所を往復している女性を見つけた。自分がされたように、「あの老婆をさがしているのか」とその若い女性にも声をかけてみた。 彼女は驚いた表情でこくりと頷いた。青年と話をした喫茶店に二人で入った。スーツを着た会社勤めらしい彼女は、やけにニコニコしていて、なにやら嬉しそうに頬を上気させていた。 話を聞いてみれば、どうやら彼女は老婆に、シンデレラの靴を買わされたらしかった。老婆から押し付けられたようにして買ったハイヒールのおかげで玉の輿に乗れたようだった。 「半年前、そこの通りを歩いているとお婆さんにいきなり声をかけられたんです。『幸せになりたいのなら、このヒールを毎日履きなさい』と手渡されたんです。そんなに高くもなかったし、綺麗で品物も良さそうだったので、だまされたと思って買ってみたんです。それで、数日後、気乗りしない数合わせの合コンにそれを履いて出席したら、そこに大手靴メーカーの社長の息子である今の彼と知り合ったんです。それで奇妙なことにやけに馬が合い、交際に発展して、少し先ですけど、このたび結婚の日取りが決まったんです。それであのお婆さんに一言お礼を言いたくなって。だって彼と話をするきっかけって、あのハイヒールを彼に踏まれたことが始まりだったんですもの」 あの婆さん、人に災いばかり及ぼしているかと思えば、幸いも運んでいたというわけか。不幸にする人物と、幸福にする人間を振り分けてでもいたのだろうか? 他にも、あの老婆に買わされた物によって、幸せな物語の結末を迎えている人がいるのかもしれない。 僕があの老婆の友人だと言うと、代わりにお礼を言っておいてくれと頼み、嬉しくて今にも飛び跳ねていきそうな足取りで、店を出て行った。 僕はここを訪れ、あの老婆におとぎ噺にかこつけた代物を売りつけられた人たちの悲喜こもごもの物語を聞き集めたいとも思った。それくらいしか生きている楽しみもなさそうだったから。もしかしたら、その中で僕の背負わされた体験と境遇が似た者が現れて、この不幸を共有できるかもしれないと思った。新たなるパートナーを得られるかもしれないと。いや、もしかしたら元に戻れる手段が見つかるかもしれないと考えた。しかし、すぐにあの老婆がいなくなってしまっては、もうどうしようもないのだという諦めの方が勝ってしまい、心が折れてしまった。これも老いのせいだろうか。
何の予定のない一日の始まり、部屋でただ死を待っているだけのような時間の経過に嫌気がさし、開けた窓から飛び込んでくる眩しい陽光と子供たちの楽しげな声に誘われるように、近所の公園に出掛けるようになった。なにも世界に自分一人きりになったわけではないのだと、自分を奮い立たせ、にぎやかな人の輪に飛び込もうとした。日当たりのよい、青々と緑の生い茂る園内の隅、一つだけ取り残されたような──まるで自分のような──古ぼけたベンチを見つけ、それを指定席とし毎日通うことを日課と決めた。 今の自分に似た風采、たぶん同じくらいの年齢の、決まった時間帯に犬を連れた老人が、僕のいるベンチの前を通り過ぎていくのが目につくようになった。そのうち自然と顔見知りになり、会釈の一つもするようになると、向こうも親近感をもってくれたようで、急かす愛犬を待たせ、僕の隣に腰を下ろし世間話をしていくようになった。
ある昼下がり、独り身の僕の分の弁当まで持参してくれた彼に、お礼と暇つぶしがてらに自分と里美の身に起こったことを話して聞かせてみた。信じてもらえないことは承知で、遠いどこかの逸話のように身振り手振りで語り聞かせた。どういう反応を示されるか、単に試してみたくなったのかもしれない。 犬連れの老人は、特に声を上げて笑ったり派手に驚嘆したりもしなかったが、「実に面白い話だ。そりゃ、平成の浦島太郎じゃないですか。絵本にでもしてみたらどうですか」と冷やかし半分な感想を口にした。冷めた眼差しを向けたのを見逃さず、頭がおかしいと思われたかもしれないと焦り、僕も一緒になって笑いながら、「そうしてみますか」などと頭を掻いた。
それから数日経った休日、指定席としているベンチに先客があった。三十代後半くらいの白いポロシャツが似合う好青年で、僕の姿を見つけるなり、立ち上がり頭を下げてきた。どうやら僕のことを待っていたらしかった。目の前で対峙した早々、彼は犬を連れてやってくる老人の息子であり、医者だと名乗った。 父上殿に「妻を亡くし、頭がおかしくなった老人が公園にいる」などと吹き込まれたのだろうか。挨拶を交わすと早速、体調や食生活について、あれこれ質問攻めにされてしまった。 それらに適当に答えたのち、会話が途切れたのを機に、彼が一番聞きたがっているだろう僕の世迷言を披露してやることにした。青年は待ってましたかとばかりに構え、言葉を挟まず最後まで聞き終えると、「なるほど・・・そんなことが。あはは、この世には説明がつかない不可思議なことなど山ほどありますからね」と困惑の色を滲ませた笑顔で天を仰いだ。これは、かなりの重症と判断されたかもしれない。 彼の誠実そうな雰囲気と真摯な対応に、ほんの一部でも僕の話を信じてくれたのではと爪の先ほど期待し、口を開きかけた時、「よかったら、うちの病院に来てまた楽しい空想話を聞かせてくれませんか」と事務的に名刺を渡されてしまった。なるほど患者扱いされただけだった。 僕も「ぜひ、そうしたいですな」などと落胆を隠して答え、用事を済ませ、一安心した様子で帰ってゆく彼の背中が小さくなってから、名刺を細かくちぎって風の中に花びらのごとく散りばめた。
帰宅して玄関で靴を縫いだ瞬間、僕は病院などへは行かない代わりに、この体験をノートに書き留めておくことを決めた。 自分の生い立ち、家庭環境、いじめを受けた学生時代・・・売れないグラビアアイドルとなった片桐里美との再会、道端の老婆に買わされた不思議な箱のこと、彼女への復讐にとその箱に火薬を詰めて自分の足で届けたこと、爆弾だと覚悟をしたうえで彼女は箱を開けたこと、箱から溢れ出た白煙で瞬く間に老人に変貌してしまった二人、そこからはじまった僕たちの早すぎた隠居夫婦生活、そして、突然すぎる別れ・・・。 文才もなく漢字も忘れがちな中、何の面白味も大げさな飾りも付け足すことなく、筆圧の弱くなっていく文字で毎日少しずつ書き綴っていくことにした。 最近は、空気もめっきり冷え込んできた。若いときより寒さに敏感になり、ぐっと身に堪える。ああ、これからクリスマスも正月もやってくる。本当なら里美と二人で過ごすはずだった冬・・・。一人で乗り切れる自信も保障もないが、どうかこれを最後まで書き上げるまで僕の精神力、生命力が続きますようにと、里美の遺影に毎日手を合わせている。そうして無事に春を迎えられたなら、二人のための墓を建てようじゃないか。 《 終 》
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