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作品名:その箱は開けないでください! 作者:矢田なれん

第3回   3
 
 二人は精神的、肉体的にもどっぷりと疲れ果てながら、唯一の拠り所となった僕のアパートの部屋になんとか辿り着いた。狭い玄関に倒れこむようにして入った僕とは違い、片桐は「お邪魔します」と早々に靴を脱いで部屋に上がりこんでしまった。
「へぇ、男の一人暮らしのわりにきれいにしてるじゃない。でも、なんか物がいっぱいで息苦しいわね」
 痩せこけた老女は、少女のような柔らかな声でつぶやき、窓を開け放した。
「あーあ、これで明日にはニュースになるのかな。『グラビアアイドル羽田舞子 失踪!』なんて」
 人事のように、のんきにあくび交じりにそう言ってみせた。
「でも、これじゃ、失踪じゃないよね。羽田舞子は死んでしまったも同然よ、もう」
 そんな科白にさえ、少しの寂寥も未練も滲ませない彼女が僕は怖かった。気を落ち着かせるため、冷蔵庫から好物のコーラを取り出したものの気が変わり烏龍茶にし、彼女にもコップについで渡した。

「ねぇ、今の私たちって、いくつくらいに見えるのかなぁ」
 冷蔵庫に調理できるものはなく、カップラーメンを二人分用意する僕に問いかける。
「わからないな。たぶん七十か八十くらいじゃないかな。今の六十代はもっと若いしね」
「ふーん、七十、八十か。思えば、そこまで自分が生きてるなんて考えたことなかったな。借金を返し終わったら事務所も追い出されて、どこか田舎で細々と生きていくか、そうじゃなかったら、どこかで野垂れ死するもんだと思ってたから」
「グラビアの仕事は楽しくなかったのか? あの番組ではけっこう人気あったんだろ?」
 麺をすすりながら、初めて彼女の老いた顔を正面からはっきりと見た。皺が多かったが、笑うと二十代の笑顔にぴたりと重なった。
「楽しかった時なんて、一度もなかったよ。ビキニになるのも最初は嫌で泣いてたんだから。で、次からもうどうでもいいやって開き直ったら、元気がいいねって、人気出ちゃってさ。それ以来、元気娘キャラで定着しちゃった」
 老女の口から語られるそんな話は、なんだか遠い過去の栄光でもあるようだった。
そこから片桐は、マイナーなグラドルの人生がいかに辛いものだったかを冷茶と麺を交互にすすりながら聞かせてくれた。しかし、今日あった奇天烈怪奇な出来事など振り返ろうともせず、嘆き悲しむこともしなかった。
 悲観したところが微塵も見受けられない彼女とは逆に、僕の方はこれからどうして生きていけばいいのかという不安で胸が押し潰されそうだった。自分の身に起こったことをまだしっかりと把握できず、何一つ現実に起こったことだと受け止められなかった。

 食事を済ませると、急な眠気に襲われた。あまりにあり得ないことが起こり疲労困憊したせいだと思われたが、ひょっとすると年齢のせいかとも思われた。自分の体力と気力が、めまぐるしく落ち込んだ感覚が確かにあった。
 その前に寝床を作らねば、と部屋の片づけを始めた。部屋中に積み上げたマンガやDVD類を、とりあえず壁際に全部よけた。その作業だけでも僕たちには、えらく重労働だった。
 何をするにも力もスピードも足りなかった。注意しなければ簡単に転倒しそうになり、それで骨折でもしかねなかった。この際だからといらないものはゴミ袋にまとめた。ようやく居間の中央に布団一枚敷き終えた頃には、二人ともヘトヘトだった。
とりあえず彼女には僕のベッドで寝てもらうことにし、僕が布団で寝ることにした。
 僕は、飲めない酒でも体に流し込んで、すぐにでも寝てしまいたかった。もしかすると明日目覚めれば、今日のことはすべて夢でなかったことになっているかもしれないと本気で期待していた。
 それなのに、片桐ときたら、持ってきた鏡に真っ白になった髪の毛を恨めしそうに撫でながら溜め息をつくものの、勝手に僕の部屋を動き回り、引き出しを開けて何かと確認していた。それにも飽きると、シャワーを浴びたいとユニットバスに入っていった。
 その短い間、その日初めて一人きりになれた時間だった。ブカブカになったパジャマに着替え、布団に潜り込むと今日起きた出来事を反芻していくと、家に初めて女性を泊めたこと、それが片桐里美だということに気づいたが、あのヨボヨボの姿を思い出しては思わず吹き出してしまい、いつの間にか眠りに落ちてしまっていた。

 翌朝、自分が生きているのが不思議な感覚で目覚めた。老化が進んでそのまま死んでしまうか、もしくは前日のことは全て夢で元に戻っている、そのどちらかだと考えていた。しかし現実は、そのどちらでもなく昨日の延長のまま、僕は存在していた。
目覚めても身を起こすだけことが、ひどく億劫で難儀な作業だった。立ち上がろうとすると、各関節がギシギシと音を立てて軋む感覚に落胆した。ようやくといった感じで布団から出て、鳥の声に誘われるようにして、窓の外をのぞいた。
 きっと普通に一年ごと年を重ねていくのであれば、心身ともに老いていく現実を少しずつ着実に受け止められたのかもしれない。しかし僕らは二十代から一気に数十年の老いを重ねてしまったのだ。この衝撃とショックは計り知れないものがあった。
 片桐は、ツヤのない白髪と皴の多い細い顔には似合わないヒラヒラのピンクのエプロンをして、楽し気に朝食をテーブルに並べていた。そこには、自分では久しく食べていない、ご飯と味噌汁と焼き魚と目玉焼きという定番の朝ごはんが用意されていた。買い置きでこしらえたらしい。僕はその湯気と匂いに感動と安心感で涙が出そうになった。ああ、これが新婚の若夫婦ならどんなに幸せな朝の風景だろうかと・・・。
「年を取ると、布団から起き上がるのも大変なのね。私も背中が痛くて、イヤになっちゃう」
 背中をポンポン叩いて愚痴をこぼす彼女の姿こそ、僕らには年相応でしっくりときていた。
「でも、あたし・・・これでも良かったかもしれない。きれいに消滅したかったけど、これでも羽田舞子が消えたことには変わりがないもの。私、生まれ変われたのよ」
 彼女の言葉に何も返せなかった。仮に彼女はそれで良かったのかもしれない。
しかし、僕は違う。確かに友達も恋人もいない、バイトとつまらない趣味に興じることしかない退屈な日々を送っていた。このまま生きていてもいいことなどひとつもないだろうと信じて疑わないでいた。
 それでも本気で死んでしまいたい、老人になってもかまわないと言えるほど不幸でも悲惨でもなかった。若い間にやりたいこと、やらなければいけないことが、まだまだたくさんあったはずなのだ。どこかにちゃんと就職も決まって、かわいい恋人なんかもできて、人並みに結婚なんかして、子供が生まれて────。
 まだそのチャンスは充分に残されていたはずなのだ。心の奥底ではそれを期待していた。そうなるよう本気を出せば僕にもできるはずだと高をくくっていたのだ。
しかし、今やそんな平凡で当然な人生設計を軽々と飛び越え、僕はいきなり老後という現実に叩きつけられたのだった。

 日常とは残酷なもので早々と何ごともなく一週間が経過した。その間僕がしたことは、バイトを辞めたことだけだった。無念だが二十代の僕は消え去り、この老いた体では雇ってもらえるはずもなかった。強制的に無職になるしかなかった。三日前、家賃を徴収にきた大家のおばさんには、巻村陽一の祖父母だと下手な嘘をついた。あとは両親につく嘘も用意しておかねばならない。
 片桐が僕の部屋に身を寄せた二日後、グラビアアイドル羽田舞子失踪事件は、特に大きなニュースがなかったワイドショーで、一際大きく取り沙汰された。
「闇組織の誘拐か?」「恋人との失踪か?」などと面白おかしく報道された。皮肉なことにこの事でトップアイドル並みにテレビで自分の名前を毎日見ることになって、当の本人は人事のように事の成り行きを楽しんでいた。
とうとうゴールデンタイムの超能力を扱う特別番組で、元FBI捜査官による公開捜査の標的にされてしまった。
 彼女のもぬけの殻となった部屋の調査も生中継されたが、結局は何の手掛かりも掴めず、お決まりの生放送での呼びかけにも応答なしとなると、結局は親の残した借金を払いきれず困った挙句の夜逃げという、ありきたりな結論で幕を閉じてしまった。
片桐は、「なにこれ、全然面白くない! もっと盛り上げてよ!」と画面に一人ブーイングを送っていた。
 そして、こういう事件後にはありがちな現象も起こった。羽田舞子の今まで出した写真集、DVDが全国各地で売り切れ続出し、ネット上で高値で取引されだした。それに関しては無反応だった片桐をひどく困惑させたのが、学生時代の写真公開、中高のクラスメイトにインタビューで好き勝手なことを言われることだった。
 
                          ◆

 片桐は自由に動き回れる生活が楽しくて仕方がないようだった。毎朝チラシをチェックしては、鼻歌交じりでどこかに買い物に出掛けた。老婆にしては生命力にあふれていて、服装も年相応にお洒落になっていった。そのせいか、いくらか若返っているように見えた。
 一方、僕は厄介なことに肉体は老いさらばえても精神も欲望も二十代のままで、好きなテレビゲーム、漫画に没頭するも視力が落ち込んでいるせいで、一時間も続けるとどっと目が疲れるようになった。近く老眼鏡が必要かもしれないほどだった。勿論、プラモやフィギュアのカラーリングもろくに出来ず、そのうち眺めるのさえも嫌になった。 漫画も小説も読めない、うるさい音楽も聴きたくない、映画も眠くて最後まで観られなくなった。なにもかも投げやりになった。
 今まで通りに何一つ出来なくなり苛立ち塞ぎがちの僕に、彼女も業を煮やしたのか買い物や散歩やウォーキングなどに誘うようになった。
何か不安や恐怖を忘れられる趣味か習慣をもたなくては駄目だと諭した。
そのうち、本当に眼鏡や補聴器、入れ歯が必要になるかもしれないのだから、元気に動けるうちに好きなことをしておいた方がいいと。
 毎日、闇雲に楽しそうに見える彼女もそんなふうに先のことを考えていると知り、正直驚いた。
 それから、お金のことはしばらく心配ないと言った。事務所に秘密で貯めこんでいたタンス貯金を持ってきたと自慢げに語った。これで当分は余裕を持ってやっていけると胸を張って見せた。僕だって半年は食うに困らないくらいの貯蓄はあった。しかし僕はそんなことにちっとも安心も出来なかったし、それが一番の心配事でもなかった。

老人なりたての僕らには厳しかった夏の暑さも、過ぎ去ろうとしていた。
僕は、夏バテが永遠に続いているかのように、体も心もだるいままだったが、片桐は相変わらず若々しい老婦人として、外で友人も作り、フラワーアレンジメント、カラオケ教室にも通い出していた。「動かないと弱っていくばかりだよ、諦めて老人生活を謳歌しよう」と、僕にも近くの公園でゲートボールをしている老人たちに紹介してくれると言ってくれたが、やっぱり断った。
それで始めたのが、ベランダでのハーブ菜園だった。家に一人でいるとそれでいくらかは気が紛れた。余裕ができたら仔犬でも飼おうかと検討中だ。

 ある週末の午後、一人で留守番していると、思いがけない訪問者があった────母親だった。
ケータイに何度かけても出ないことを心配してか直接訪ねて来てしまったらしい。
息子が住んでいるはずの部屋から老人が出てきて驚いた母の顔を目の当たりにして、僕は一瞬で涙ぐみ、思わず抱きつきたい衝動に駆られたが、そこはぐっとこらえた。
「あ、あの、ここは巻村陽一の部屋のはずなんですけども・・・」
 母は、言いながら無理矢理部屋の内側を覗き込もうと両眼を駆使していた。僕は、どう答えたら良いのかわからずにいた。
「あのぉ、陽一は・・・」
 母も何がなんだか分からずも、もう一度聞く。両手に僕への手土産だろうか重そうに紙袋を持っていた。しかし、母をここに入れることはできない。もうあなたの大事な一人息子には逢わせられないのだ・・・永遠に。それを遠まわしにでも伝えておかなければいけなかった。
「私は、二ヵ月前からここに引っ越してきましてねぇ。前に住んでいた住人のことは知らんですよ」
「えっ、うちの息子、ここを引っ越したんですか!」
 母も気が動転して声を裏返し、見ず知らずの老人にすがるような目で詰め寄った。
「ええ。そういうことだと思いますよ」
 僕は、母に泣きつきたい衝動をもう一度ぐっと押さえ込んで、迷惑そうな顔を作りながら冷酷にもドアを閉めてしまった。
ドアがきっちりと閉まったとたん、僕はその場に座り込んで「母さん、母さん」と声にならぬ嗚咽を漏らし涙を流した。
「あ、あの、もしよかったら、これ食べてください。息子への土産なんですけども。また出直してきますので」
 母は、困惑と落胆の滲んだ声でそう言い、その場を去っていった。これから音信普通の息子を捜す羽目になる申し訳なさとその心痛を思うと居た堪れなくなり、胃のあたりがキリキリと痛んだ。
 ドアを開けてみると、そこには母が持ってきた紙袋のうち一つが置かれていた。中には、僕が好きな地元名産の饅頭の箱が入っていた。喉につまりそうになりながら、僕は饅頭を口に放り込んだ。

 花の鉢植えを買って帰ってきた片桐に、泣き腫らした顔で母が訪ねてきて追い払ったことを話すと、子犬にでもするように優しく頭を撫でて慰めてくれた。
「最後のお別れができたのね。きっと虫の知らせが、お母様をここに呼び寄せたのかもしれないわね」
 冷静にそう言われると、それもそうかもしれないと思えた。これは、僕に最後に与えられた母との対面のチャンスだった。しかし、それならもっと何か伝えておくべき言葉は他になかったろうかと布団に入って眠りに落ちるまで考えてみたが、そんなものは限りなくあって、言い尽くせるはずもないと、結局何も言わない方が正解だと思った。

 その日からだろうか。僕の中に一区切りが付いたというか諦めがついた心持になれたのは。どこか吹っ切れたように、老人として外気に触れることに慣れていくようにした。一日に一度は近くの公園に散歩に出ることにした。
 しかし老いてみて感じるのは、隠居者というのは、世間からみれば誰にも見向きもされない、ただ長く生きすぎた厄介者にすぎないというやるせない思いだった。ただ道を歩いているだけなのに、誰に後ろ指をさされるわけでもないのに、なぜだか強く感じてしまった。そう感じれば感じるほど、何ごとにも動じない片桐がいてくれることがありがたく、心強かった。
 気が付くと彼女の見当違いの明るさが、あらゆる面で悲観的な僕の救いになっていた。あれほど憎んでいたはずの片桐里美を、今ではまるで長年連れ添った良き伴侶として、僕は認め、頼りきり、全幅の信頼をおいていたのだ。   
 
 幸い二人とも怪我や病気もなく、秋の盛りを迎えた頃、気が付くと僕の誕生日が一週間後に迫っていた。そう指摘されても、こうなってしまっては誕生日など無意味で虚しいだけだと、不貞腐れる僕を尻目に、片桐のほうは妙にはしゃいでいた。

 その当日、彼女はいつもより大きめの買い物袋とケーキの箱をぶら下げて帰宅し、事前に寿司の出前まで頼んでくれていた。
その夜は、老人二人だけのささやかな誕生会が開かれた。甘さ控えめのケーキにやや太いロウソクが2本、その半分のが4本立てられた。かすれた声と手拍子で彼女はハッピーバースデイを歌ってくれた。大きめの印字の青春小説二冊と、細かい作業に使える虫眼鏡つきサンバイザーをプレゼントしてくれた。本当なら、その日で僕は二十四才になるはずだった。そんな実感もあるはずもなく、自分が本当は今いくつなのか解らぬまま祝っている誕生日に、皮肉な笑みが漏れるだけだった。
 やけになって口にしたビールもコップ一杯ほどで酔いが全身に回ったのか、内側から苛立ちや不安がどっとこみあげ、これまで溜め込んだ感情を一気に吐き出してしまいたくなった。
「元の自分に戻りたい。どうしてこんなことになったんだ!」と大げさに嘆き喚き、拳を床に何度も打ちつけた。「開けるなと言ったのに、箱を開けた君が全部悪いんだ!」と片桐を一方的に責め立てた。
 なのに、彼女は僕のどんな言葉にも反論せず、ただ黙って頷き「そうだね、私が悪かったの、ごめんね」と子供を宥めるかのように謝ってくれた。泣きながら激しく肩を揺さぶって、もたれかかった僕をあやすように抱きしめ、打ち震える肩を優しく叩いてくれた。
 耳元で「浦島太郎は一人きりだったけど、私たちは二人だったから幸運だったのよ。あたし、巻村くんがいてくれて本当によかったと思ってるもの」そう囁いてくれた。同じせりふをそっくりそのまま返したかったが、僕は嗚咽しか漏らせず、彼女の肩先で子供のように何度も頷いていた。
 僕たちは、こうなったら最後の最後まで夫婦として生き、突如として短く削られた人生をまっとうとしようと誓い、新たなる決意表明の日として、その夜を祝い直し乾杯した。片桐も酔っ払ってえらく饒舌になり、子供の頃からの夢や、思い出話を朗々と語ってくれた。
「あたしね、ここ何年もクリスマスやお正月に休みが取れてないの。だから今年は巻村くんと楽しく過ごしたい! 老人でもいいじゃない。お洒落して、どっか高級レストランにでも行こうよ。お正月には着物着て初詣にも行こうよ」僕はすでに布団の上に倒れこんで、ウトウトしながらも「ああ、いいよ、そうしよう」と適当に相槌を打っていた。


 しかし、せっかくの誓いも今後の計画も、間もなくして脆くも崩れて去ってしまうのだった。

 
 絆をより強固にした僕たちに突然の別れが訪れたのは、その一月後だった────。
それは年老いた者には、来るべくして来てしまった逃れられない別離ともいえたが、僕らにはそうも簡単に諦めがつくものではなかった。まだそんな覚悟など本気で決めてなかった。
 
 片桐里美はその日の朝、目覚めなかった。ベッドから起き上がってこなかったのだ。
なにか楽しい夢でも見ているような、美味しいものでも口にしたような満足そうな笑顔を浮かべ、布団の中で冷たくなっていた。何度も名前を呼び、激しく体を揺さぶっても、表情も変えずピクリとも動かなかった。
 僕は彼女の枕元にひれ伏し、冷たくなった横顔にすがりついて泣いては離れなかった。それは彼女の死を嘆いているだけでなく、そうしていれば自分も連れ添って逝けるのではないかと半ば本気で考えていたからだ。そして心の中では見えぬ何かに、何者かに言いようのない、表しがたい怒りを訴え続けていた。
 なぜ彼女を逝かせたのか。なぜ彼女だけを・・・。なぜ僕から彼女を奪ったのか、なぜ死んでも構わないとヤケになっていた僕じゃなかったのか──。老人になったことを苦にしていなかった彼女が逝き、激しく絶望している僕が取り残されるなんて、いったい何の仕打ちだというのだ!!これ以上、僕から何を奪おうというのだ!!
 何者かが僕を、本物の浦島太郎にしたいらしい────そんなふうに思えてならなかった。


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