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作品名:雨と涙のキャンバス 作者:矢田なれん

第1回   1
 
 今日も噴水を挟んだ反対側のベンチに、あいも変わらず大きな人だかりができていた。名もない絵描きの男が描いた、たかが一つの絵を取り囲んで───。
 黒煙のように湧き上がった雨雲に覆われた鉛色の空、金色の絨毯を敷きつめたような向日葵畑、それを半分に分断するかのように中央に少女が佇んでいる絵──それが人々を魅了していた。
 その何か企んでいるような、見る者を憐れんでいるかのような魅惑的で神秘的な眼差しと微笑は、どことなくモナリザを彷彿とさせた。
 その絵がお披露目されてからというもの、その日のうちに通行人の視線と関心を集め、噂が噂を呼んで、たちまち人の輪ができるようになってしまった。
 それで気を良くしたのか、絵描きはその絵を毎日欠かさず、もっとも人目につきやすい最前列に飾るようになった。今では、その絵目当てにわざわざ公園を訪れる人もあるくらいになった。

 私は、毎日この公園に通ってきているのにも関わらず、彼の作品には、いっさい何の興味も示さず、一歩たりとも近寄らずにいた。今や名物になっているあの絵を見物に行かないのは私くらいのものかもしれなかった。ひょっとしたら、その絵のモデルが自分自身であるかもしれないのに……。

 噴水の幾重にも連なる水のカーブの向こうに、派手なチューリップハットが見え隠れしていた。人の気も知らず、のんきに鼻歌混じりに手を動かしているだろう彼を想像すると、腹立たしく思えてならなかった。もしかして向こうもこちらを時折盗み見ては、小馬鹿にして笑っているのではないかと思えた。
 しかし彼の方からも、こちらに接近してくる様子はいっさい見受けられなかった。だから、私たちはこのまま無関心を装い、噴水越しに互いの動向を探りあうだけの関係に終わるのではないかと思われた……しかし、そうはならなかった。

   二週間後 ────

 朝から真夏日を越す暑さとなった日、公園へと向かう私の頭上で、雷がゴロゴロと低くうなりはじめていた。しばらくすると太陽は逃げ去るように雲に顔を隠してしまい、辺りは瞬く間に暗くなった。
 その後すぐに、一定のリズムを保ちながら雨粒が落ち始めた。濡れたアスファルトの埃っぽい匂いが立ち込め、ムッとする息苦しい、体にまとわりつく夏特有の嫌な雨だった。
 傘もなく濡れ放題になりながら、指定席にしているベンチにたどり着いた私は、あえて前は見ないよう注意しながら腰をかけた。しかし、気づいてはいた。こんな雨の日でも、正面ではやはりあの忌々しい人影がゴソゴソと動いていたことを。そして、彼も私の姿を確認したことを。

《まるで、あの日と同じではないか・・・》
 それは、いつかとまったく同じといっていい光景だった。誰もいない雨の公園で、私と絵描きは噴水を挟んで、まったくの二人きりとなった。

 彼は自分よりもまず作品が濡れないように、その一つ一つに急いでビニールを被せていた。それを済ませてから、ようやく自らビニールの雨合羽を羽織り、ベンチで一息ついていた。
 その姿を雨と噴水の水飛沫が作り出した幻か亡霊かのようにぼうっと眺めていた。向かい合う形になって視線が合ったかと思うと、彼はゆっくり立ち上がり、こちらに向かってきた。


「風邪ひくよ」
 濡れ放題の前髪からとめどなく雫が滴り落ちる白く煙った視界に、その声の主が入り込んできた。
機嫌でも損ねているかのように顔を背けてやると、彼は私の上にビニール傘を広げた。
「いいの、ほっといて」
 差し出された傘の柄を軽く払った。彼は傘を私に向けたまま、隣に腰を下ろした。
「君、毎日ここに来ているね。それでも僕の絵を見に来てはくれないんだ」
 その言葉に、抗議めいた鋭い視線を彼の横顔に浴びせたが、それでも彼は臆面なく続けた。
「……残念だな。ぜひ君に見て欲しい作品があるのに」
 こちらの反応をさらに試すかのように、わざとらしい優しげな笑顔を向けてきた。
「知ってるわ。あなたが一番大事にしている、あの絵のことでしょう?」
 冷たく吐き捨てると、相手が白々しくもしっかり頷いたのがわかった。
「あの絵を、どうして私に見て欲しいなんて思うの?」つい怒気がこもった。
「だって、あれは……あの絵は君を描いた作品だからさ」
 予想通りの不快な答えを、待ってましたとばかりの勢いで言われ、腹が立った。
「違う。あれは、あたしなんかじゃない!」
 今度は、はっきりと声を荒げ、彼の前に立ち上はだかった。それは、ずっとぶつけてやりたかった台詞でもあった。私は、再び雨にさらされた。
「あの日も、こんなふうに雨の中あなたと二人きりだった。でも私は笑ってなんかいなかった、びしょ濡れになって無様に泣いていたじゃない!」
 彼は、なぜかすごく悲しそうな目で私を見上げていた。
「ああ、君はあの日確かにボロボロになって泣いていた。雨で濡れているのをいい事にね」
 駄々をこねる子供を宥めるかのように彼は、私の手首をつかみ座らせ、また傘の下にかくまった。私は、あの日よりも長く降りやまない雨の中で、両手で顔を覆い、また彼の前で泣き出してしまった。 
 一年前のあの悲しい出来事と、この絵描きと初めて会った時の事を思い出しながら……。

  ── 一年前の春 ──
 第一志望の大学にも合格し、仲間との別れをさびしく思いながら、私は残り少ない高校生活を楽しく送ろうとしていた。卒業式が近づくのを寂しがる反面、すぐにもまた新たなスタートを切ることに胸躍らせてもいた。そんな輝かしい季節が目前に待ち受ける中、まさか近すぎて見えなかった大切な友を失うことになるだなんて、生きてきた中で一番哀しい記憶となる春が訪れようとしているなんて思ってもみなかった。

 私には、家が目と鼻の先にある中学までずっと一緒だったチカという親友がいた。私たちは学力や進路の違いで、高校進学で初めて別々の道を選んでいた。
 それでも頻繁に電話やメールでやりとりもし、お互い会おうと思えばいつでも会える距離にいることに、すっかり安心しきっていた。
 しかし互いに高校生活も忙しくなり、特に受験を控えた三年になってからは思うように顔を合わすことはなくなっていた。それでも一番の親友だと言える仲だと信じて疑わなかった──少なくても私の方は。 チカの方は、もしかしたら違ったのかもしれない。自分の身に起きている一大事を、その胸に一人抱え込んでいたのだから……。いや、大切な存在だと思っていてくれたこそ、心配かけまいと言い出せなかったのかもしれない。
 チカは、歴史と伝統ある有名女子校に通う、どちらかといえば優等生だった。とは言っても、カタブツではなく誰とでも打ち解けられる、話題豊富で明るい性格の気さくな女の子だった。学校ではクラス委員長もこなし、英語弁論クラブにも入っていて、友達も多そうだった。
 けれどもその優等生、人気者ぶりが災いしてか、いつの頃からかタチの悪い連中からイジメの標的にされていたらしい。残念ながら、私を含めた学校以外の人間はその事に誰も気づけなかった。チカは何ら変わったことなどないように笑顔を装い、人知れず涙を流していたのだから。
 チカが小型ナイフをお守りとして持参し登校していたことも、後日知らされたことだった。

 チカのそんな辛い高校生活も終わりを迎えようとしていた。卒業式の三日前、"最後の制裁"などと言っては、イジメグループに人気のない中庭に連れ出されていた。
 その日は、それまで以上にダメージを与えられることになったが、それでも最後だと思ってチカも必死に耐えていたようだった。が、それを悟られ、相手の気に障ったのか、いつもより執拗だった。
 連中の一人が、クタクタになったチカの髪を掴みあげ無理矢理立たせ、不運にもそばに落ちていた錆びた園芸用ハサミで、彼女の腰近くまである美しい黒髪を、左右ジグザグに切り落としたのだった。話をする時、無意識に髪を指でからめる癖のあった彼女にとって、さぞ辛いことだっただろう。
 また不運な出来事が重なった。地面に蹴倒されたチカのブレザーのポケットから、ナイフが転がり落ちたのを一人が目ざとく見つけてしまった。リーダーの子が、それをチカの方に投げてよこし、「悔しかったら、刺してごらん」などと面白がって挑発してみせた。
 土まみれになった制服に、髪まで切られたチカは、怒りや憎しみ、疲労感で言われるままにナイフを手にしてしまった。お守りが役に立つ時が、とうとう来てしまったのだと思ったのかもしれない。
 目の前にいる人間にただ消えてほしいという感情一直線に、目の前で仁王立ちしている挑発した本人めがけて、突進してしまったのだった。
 誰も身動きが取れない間に事は一瞬にして起き、気がつくと少女がひとり、白いブラウスの腹部あたりを紅く染めて倒れていた。他の連中は悲鳴をあげ、助けを呼ぶためか逃げたのかその場から走り去ってしまった。
 残されたチカは血に塗れた自分の両手と握っていたナイフを見下ろし放心状態で、何も考えず、すぐ近くの非常階段を駆け上がっていった。そして屋上に出るドアまでたどり着くと、ドアが開かなかったのを惜しむように、誰も追ってこないことを確認するように下を見下ろすと、力尽きて倒れ込むような格好で柵の向こう側へ転落してしまったのだ。
 
 その日、午前授業でいつもより早く帰宅した私は、玄関で鼻歌交じりに靴を脱いでいると、スリッパのなる音で背後で母の気配を感じながら、間も無くして蚊の鳴くような何事か呟いたのを聞いた。
「チ、チカちゃんがね、亡くなったって……」
 小さな虫が耳穴にでも飛び込んできたような違和感と耳障りの悪さを感じながら、ゆっくり振り向いた。蒼ざめた顔の母親がまるで亡霊のようで、思わず飛び上がりそうになった。母の口から再度発せられたその言葉を、今度はしっかりと聞き取り認識すると、私はその場で気を失った。
 
 リビングのソファの上で目覚めた私に、次にその信じ難い事実を突きつけたのは、テレビのニュースだった。チカの事件は、その日の夕方のニュースで各局取り上げられていた。
ぼんやりと上の空で、キャスターが何を言っているのかよく飲み込めないまま画面を眺めていた。
 ただ最後に付け加えられた、チカの刺した相手の命には別状はなかったとの情報だけが、やけにはっきりと認識できていた。
 それは決して相手の無事に安堵したのではなく、少なくてもチカは人殺しではなかったのだという、せめてもの慰めになるという想いだけだった。
 翌朝のワイドショーでもチカのことは大きく扱われたが、その日の夕方には、また同じようなイジメ関連の事件が連続して起こり、チカの事件は影を潜めてしまった。

 二日後の卒業式。私には、自分の高校生活の想い出の感傷に浸る余裕などなかった。校歌を無意識に口ずさみながら、誰かの祝辞や答辞を聞き流しながら、頭の中はチカとの思い出が駆け巡り私は一人だけ別の意味で号泣していた。周りの友達が勘違いして心配するほどだった。

 思い返せば、あれこれくだらない相談を持ちかけ、甘えていたのはいつも私の方だった。チカの口から学校での不満、人間関係の悩み、愚痴や弱音など聞いたことがなかった。だから彼女の高校生活は順調で、さぞかし充実しているのだろうと思っていた。昔からチカは前向きで楽観的で何でも一人で乗り越えていけるタイプだと勝手に思い込んでいたせいかもしれない。
 そんな彼女を私は頼りにしていた。チカの助言は、何でもうまくいく気にさせてくれる、これでいいと安心させてくれる魔力みたいなものがあった。人を元気にする魅力にあふれていた子だった。
 そんなチカが何故、卑劣な連中から陰湿なイジメを受け、人を刺し自ら死ななくてはいけないのだろう。いくら考えても納得などできなかった。

 気持ちの整理など何一つつかぬまま、チカとの最後のお別れの日を迎えていた。
形式的な流れ、眠りを誘う経が通り抜けていく中、私は窓際をいいことに外の満開の桜を見つめていた。チカとくぐった中学の卒業式帰りの桜並木が思い出された。あの時は、中学を卒業できたのは本当に嬉しかったが、チカと離れることが本気で寂しくて二人していつまでも泣いていた。何枚も一緒に写真を撮ったっけ。
 また春が来て、あの時と同じく桜は咲き乱れている。桜と彼女の笑顔は私の中で今も枯れないままだ。棺で眠るチカの顔を目にするまでは、今ある全てを信じないでおこうと心で決めていた。
 しかし、私はある光景を目撃しまったせいで、故意に朦朧とさせていた意識を、無理矢理覚醒せざるを得ない事態に陥ってしまうのだった。
 私の視界に飛び込んできたもの──それは参列するチカのクラスメートの姿だった。
濃紺のブレザーに緑のネクタイ、膝丈のスカートの少女たちが働きアリのように乱れることなく列を成していた。皆一様にすすり泣く声を轟かせ、鳴咽を押え込むかのように口もとをハンカチで押さえていた。
 テレビで見る、同じような事件での葬儀の映像まるっきりの焼き写しで、不謹慎にも笑いがこぼれそうになった。
 事件後のインタビューで、クラスメートの一人が「イジメを知らない者はいなかった、いつからか苦しむ彼女を見て、クラス全体が楽しんでいる向きもあった」などと証言していた。その時のモザイクの掛けられた生徒の表情が、心なしかほころんでいるように見え、思わず身震いしてしまった。
 その証言が本当なら、今なぜこの子達はこんなふうに、いかにも残念だといったふうに声を張りあげて泣けるのだろう。何がそんなに悲しくて泣いているのだろうか。
チカの若すぎる死? 傍観者だった自分たちの不甲斐なさ? まさか死ぬとは思わなかった? 
 この中にチカの友達であった子は、味方であった子はどれくらいいるのだろうか。 それはどんな子達だろう。そのハンカチで覆い隠された唇は、醜く歪んではいないだろうか。
 
 その時だった────
 列の後方から、もう泣く演技にも疲れたとでもいうような、その場に不似合いな高らかな笑い声が響いてきたのは。
「ああ、アタシ達もさぁ、ギリギリ入れた大学の準備で忙しいんだよね。今日だってホントはさぁ……」
 一応声は潜めてはいたものの、その文句とも取れる会話の内容は私の耳にもしっかり届いてきた。
私のほうが敏感に察知しすぎたのかもしれない。しかし私は確かに聞いてしまったのだ。馬鹿にしたような甲高い笑い声とその無慈悲な冷たく吐かれた言葉を。
 私は、感情のままにその声のした方へずんずんと列を割って近づいていった。列をはみ出して喋っているその子たちを見つけると、私は分かりやすい軽蔑の眼差しを彼女らに向け、ハンカチを握る手に力を込めていた。
「ちょっと、なによ。なんか文句あんの?」
 化粧を施していない眉のないぼんやりとした表情の茶髪の一人が、私の前に立ちはだかった。
手を出されたら、いつでもやり返してやろう、噛み付かれたら溜め込んだ気持ちをそのままぶちまけてやろうと覚悟していた。
 しかし、そこに教師らしき男性がすぐさま駆けつけ、私の腕をつかんで列の外に連れ出した。
後ろから押されるようにして通り過ぎて行く彼女たちは、それでも目前に迫っている輝かしいキャンパスライフについて朗々と語り合っていった。その晴れやかな声と表情に、悔し涙がにじんだ。
 確かに生きている私たちには、そんな明るい未来や夢や希望がこれからいくらでも待っているだろう。いつまでも悲しんでばかりはいられない。私だって、これからのことを何も考えていないわけじゃない。
 でも今は、今日だけは、やめてほしかった──チカの死をしっかり心の底から悼んで欲しかった。
私も含め、彼女の死を、彼女を救えなかったことを爪の先ほどでも悔いて欲しかった。できることなら、いつまでもチカがいたことを忘れないと、一人ずつ誓って欲しかった。
 そんな勝手な熱い思いが渦巻く上に、それ以上の憤りや怒りがこみあげてきたせいだろうか、四月のわりに力強い日差しも手伝って、頭がクラクラしだし胸のむかつきを覚え、吐き気を催してきた。
 お産間近とはこんなふうではないかと思える、自分の中から生まれ出ようとするものを、ただちに体の外に放出したくてたまらない苦しさを覚えた。
 彼女たちの笑い声が耳の奥にこびりついて離れなかった。その声が泣いているチカを取り囲んでいる妄想が脳裏に広がってしまった。彼女たちは、チカの遺影の直前になるまで向き合って嬉々と話し続けていた。それをぼんやり眺めながら、私は必死で押さえ込んでいた感情の導火線に、自らで火を点けた。  

「ちょっと、あんた達、いつまで笑ってんのよ! どうせ学校でも苦しんでるチカを見て、そうやって笑ってたんでしょ、見て見ぬふりしてきたんでしょ。下手な泣き真似なんてしないで最初から、そうやって笑ってればいいじゃない! 」
 深呼吸して吐き出した呼気とともに、私は大声でそう叫んでいた。私の言葉に一早く嫌悪を露わにしたのは、さっき私を睨み返してきた背の高い茶髪の子だった。彼女も今度は本気でやる気だった。
 向かってきた彼女の手が私の襟首を掴むより早く、私は彼女にタックルする形になり、そのまま覆いかぶさった。
お互いの髪の毛をつかみ合いながら、自分でも訳のわからない、思うがままの言葉を彼女に浴びせていた。相手も金切り声を発しながら負けていなかった。他の生徒が誰も止めに入ろうとはしないのをいいことにチカの無念の想い、自分が救えなかった憤りの半分でも晴らしてやろうと必死だった。口にしていたのは、その場に居合わせた生徒全員、教師にぶつけたい抗議の言葉だった。
 
 それから先は、どうなったかよく覚えていない。別室で横になっていた私が目覚めたのは、何もかもが終わったあとだった。髪を引っ張られたためか頭部にツンと痛みが走り、顔にうっすらと引っかき傷が幾筋かのびていたのに、我ながら唖然とした。
 チカにきちんとお別れが言えなかったことが悔やまれたが、気分はどこかすっきりしていた。あの子たちがチカをイジめていた連中かはわからなかった。それでもあの場にいたクラスメートたちにチカの心の叫びの代弁が少しでも出来たのではと、一人勝手な満足感に浸っていた。

 それからは、大学入学までの準備に追われる日々が続いた。正直そうやって無理にでも忙しく動いていたほうが余計なことも考えずに済んで気楽だった。
 日曜日の午後、気分転換の買い物に出た帰りに、家の近くでチカの母親とばったり会った。チカの死後、面と向かってちゃんと話をするのは初めてだった。おばさんは少しやつれていてやっぱり元気がなさそうだった。葬儀の時の私の行動に驚いていたようだったが、最後に振り向きざま、「ありがとね」と微笑んでくれたのが、心なしか嬉しかった。

 新調したスーツで挑んだ入学式も難なく済ませ、私は晴れて大学生となった。
その日から新しいスケジュール、新しい分野の勉強、新しい教室、新しいクラスメートと、今までとは一変した生活に順応しなければならなくなった。それでますます余裕はなくなって、チカのことを考える時間も比例して減っていった。やっとできはじめた気の合う子達と、くだらない話題で笑い合うこともできるようになった。
 ああ、こうして人は自分の生活の忙しさに振り回されて、日々の喜怒哀楽にかまけて、若くして亡くなった親友のことすら、ゆっくり着実に忘れていくのだろうかと申し訳なく思いながら、ならばこのまま慌ただしく淡々と過ぎてゆく時の流れに身を任せていけばいいのだと、チカのことで心を占領されそうになっていた自分を納得させた。

 そんなふうにして、入学してあっという間に1ヵ月など過ぎていったある夜のことだった。
その日はベッドに入っても寝つきが悪く、せっかく眠りについても何度も途切れ途切れに目を覚ました。まるで定期的に誰かに揺り起こされているように──。
 手元の時計で、午前二時を過ぎたことを確認し、ふと移した視線の先──レースのカーテンが揺れているベランダ──そこに人影らしきものを見たような気がした。
隙間があるのか、うっすら風にたなびくレースのカーテンと波長を合わせ、揺れ動く長い黒髪を見た気がしたのだ──女の人がそこに立っている。そう思うと、たまらずベッドから這い出た。
 誰もいるわけがないのに、誰かがいると決まったわけでもないのに、勝手に唇が動いていた。
「チカ、なの・・・?」
 その名前を発した瞬間、レース越しのおぼろげな青白い影がくっきりとした輪郭を持って浮かび上がってきた。まるで、それが正解だとでもいうように……。
 静かにベランダの方に歩み寄っていくと、やはりドアが少し開いていた。外側にいる彼女は、外の方を向いたままだ。私が招き入れるのを待っているのかもしれない。
「まさか、私に会いに来てくれたの?」
 まだ冷たい夜風で頬を撫でられながら、長い髪の少女の背中を見つめていた。早く振り向いてほしいと願いながら……。しかし、彼女はいつの間にか室内の私の背後に移動していた。
「……会いたかった」
 口にしたとたん、そんなお互いの声が重なって、私たちはひしと抱きしめ合った。

 その夜から意図的とでもいうように午前二時を過ぎる頃、目を覚ますようになった。
目覚ましもセットしていたが、その必要はなく風に頬を撫でられたような感触を感じると自然に目覚めるようになっていた。
夢遊病のようにベッドからむくっと起き上がると、もうすでにベランダ付近に立っている彼女を招き入れた。それが生きているチカであるはずもないと頭では分かっていたが、放っておけるはずなどなかった。
 彼女に聞きたかったこと、打ち明けて欲しかったこと、彼女に言っておきたかったことを私は懺悔するかのように全てぶつけた。チカは何も云わなかった。わたしの言葉に時折首を振ったり、悲しく微笑んだりするだけだった。だから、私は、チカがもういいよ、と許してくれると言ってくれるまで、この深夜の密会を続けなければいけないと思い込んだ。
 そのことで勿論寝不足だったが、それより私を疲弊させたのは彼女が現れない夜に見る恐ろしい夢の方だった。それは、必ずボロボロになった制服で屋上に立つチカの後ろ姿から始まった。
いくら大声で何度も名前を呼んでも、どんなに手を伸ばしても彼女は、いつも飛び降りてしまうのだ。
 そして、私は必ずうなされて汗びっしょりで目を覚ます。そんな夜が三日も続くのは精神的に耐えられなかった。チカを助けられなかった自分が許せなくて、申し訳なくて、どうしようもなく自身を傷つけたい衝動に駆られてしまうのだった。
 目に留まったドレッサーのひきだしから無意識のまま剃刀を持ち出し、白くまっさらな腕にまっすぐな紅い線を一本引くことは予想以上に気持ちを鎮めてくれる作業だった。自分に罰を与えているかのような行為が、自分に生きている実感を与えてくれた。
 日増しに増えていく刻印のような傷を数えていれば、チカを救えなかった、駄目な自分を少しだけ許せるようになった。これは、チカが私に課している罰なのだとも思い始めていた。
「どうして私の苦しみに気づいてくれなかったのか、どうしてあなたばかりが楽しい大学生活を送れているのか」と、チカが私を責めているのだと思い込むようになっていった。そうして、たびたび訪れるチカの亡影に、手首の傷を勲章のように誇らしげに見せ付けるようになった。彼女も喜んでくれている、褒め称えてくれているという勝手な錯覚に酔った。相変わらず彼女は何も言ってくれはしないのに……。

 大学生になって初めての夏休みが来るまで、私は太陽が出ている間は、何の悩みもない人間のようにあっけらかんとよく笑い、他愛もないことをよく喋り、美味しくも感じないのを勢いよく口に運んだ。
 そして月が顔を出し、独りになったとたん、鏡の前で昼間の自分を呪い、忌み嫌い、蔑み、不用意に体に入れたもの吐き出し、枝のように細りだした腕に傷を増やしていった。  

 本格的な夏の訪れに伴い、半袖を着ることが増えると腕をさらけ出すことにさすがに抵抗を覚えはじめた。ある朝、洗面所で顔を洗っているとき、偶然母に醜い傷跡を目撃され、その戦慄の走ったような表情に、私も戸惑い蒼ざめた。お互いに何も見なかったことにして、その場は無言で離れた。
 しかし母はそれ以来私を看視していたのだ。部屋でほんの冗談のつもりで腕にカミソリをあてがったちょうどその時、母親が何かを察したように部屋に勢いよく飛び込んできた。
そうして私の腕をつかむと、激しくさすりながら泣き出した。私も動揺を隠せず涙を流した。とうとう見つかってしまったかという悔しさと、やっと気づいてくれたかという安堵が入り交じった複雑な気分で、私の膝の上で腕をさする母の頭を見下ろしていた。
どうしてこんなことをするのかと、いつまでも泣きやまない母が今度は忌々しく疎ましく思えて、腕を掴んで離さない母親を突き飛ばし、私は外へ飛び出した。どこへ行くともなく、ただ闇雲に走りだした。  

 人気のいない道を選んで進んでいくと、新緑の生垣に囲まれた自然豊かな公園の前に辿り着いた。胸の高さまである葉の柵の向こうで、涼しげな水の流れる音と踊り跳ねている水しぶきが見え隠れし、それに誘われた魚のように私は園内の中央へと歩いていった。虹色の水のカーブが私を迎えた。
 すぐそばにあったベンチに腰をかけたとたん、突然の俄か雨に見舞われた。私は濡れることなどまったく構わなかった。噴水の水の動きと徐々に激しくなる雨音が調和していくのに合わせるかように、私は泣いた。思い切り声を張りあげて子供のように泣いた。それは、ずっとしたかったことだった。チカの名前を呼んだ。ごめんねと謝った。救えなかった私を許して欲しいと心から願った。 
 その時だった。誰もいないと思い込んでいた噴水の反対側に人影があることに初めて気づいた。いつからそこにいるのか分からず、噴水の中から急に出現した人間にも思えて、ぎょっとした。
まじまじと見ているつもりなどなかったが、正面を向いていると否応にも人影が視界に入り込んできた。目を凝らすと、それは男のようで、彼も何やら作業している手を時折止めては、こちらを注視しているようだった。でも、そんなことはどうでもよかった。  

 やがて頭上を覆っていた雨雲が立ち去ったのか、雨粒の間隔が広まり、そして何も降らなくなり、目の前が急に白けて明るくなったのを、まぶたの上で感じた。ゆっくり瞳を開いた瞬間、その眩しさに驚き思わず手をかざした。雲間から光が、まるでこちらを目掛けて、か細くも力強く差し込んでいた。
 ちょうどその時の姿を、反対側にいた男が何かいいアイデアでも閃いたかのように夢中で筆を持つ手を動かしていたが、それにも私は気に留めなかった。まさか自分の惨めな姿が白いキャンバスに描き出されているとは思いも寄らなかった。そしてやがて多くの人の目に晒されることになるなんて……。
 
 数日後、母に引っ張り出される形でメンタルクリニックに連れて行かれた。カウンセリングでは、どうせ信じてもらえないと思いつつ、チカとの真夜中の密会を話してみた。チカへ抱いている素直な気持ちも吐露した。医師は親友の自殺と慣れない大学生活への不安とストレスから情緒不安定に陥ったとの安易な診断を下した。それらしいアドバイスと数種の処方箋をもらい、帰宅した。夏休みの間は通院し治療に専念することになった。それで駄目なら大学の休学も考えられた。
 楽しいはずの夏休みは地獄だった。薬のせいで朝までぐっすり眠れるようになったが、起きてからも調子はすぐれず、家にいることが多くなった。そうなると何かと母の見張りの目が光り、居心地が悪く窮屈でならなかった。ちょっと息抜きに外に出ることも簡単には許されなかった。唯一の気晴らしとして、散歩がてらに、私はあの公園に逃げ込むようになっていた。

 すっかり指定席となったベンチの反対側には、いつも絵描きの姿がそこにあった。あの雨の日の男だとわかっても特別興味も示さなかったが、彼の周りに人垣が出来るようになると、さすがに私も気になりはじめた。
 いつまでもなくならない人の輪の中に、一体何があるのか確認したくなって、実は一度だけ彼の聖域へと足を踏み込んだことがあった。そこに群がる人々は、ある一つの絵を目当てにしているようだった。人波をかいくぐり最前列に出ると、そこに────あの絵を見つけた。
 曇天と金色の向日葵畑のちょうど中央に立つ、まっすぐな黒髪を胸元まで垂らし手足がすらりとのびた少女が、自分を目にする者をうっすら嘲笑っているかのようななんとも言えぬ微笑を湛えていた。
 私は感動とは別の衝撃で身震いした。一目で、その少女があの雨の日の自分の姿だと解かってしまったのだ。他人は首を傾げるかもしれない。確かに私と姿かたちがよく似ているわけではない。どこがどうとはうまく説明できる自信もなかったが、それでも私には確信があった。
 無心で絵を隅々まで鑑賞する気にはなれなくなった。キャンパスから目を離した次には、これを描いた主をさがした。絵を賞賛する観衆を満足気に眺めている、誇らしげな作者が憎らしかった。
 一体何の悪ふざけだ、今すぐこの絵を撤去しろと抗議し詰め寄りたかった。しかし彼はその要求には応じることはしないだろう、逆に怒った私を見て面白がるつもりだろうかと思えた。
彼は、いつか私がこの絵と対峙するのを待っていて、大げさにわざと否定したいのかもしれない。君がモデルだって? そんなのは君の勝手な妄想だと白を切るつもりかもしれない。
 だから、私は彼の絵に何の興味も示さず賛辞も述べず、その場を立ち去ってやることにした。彼と彼の作品には近寄らないことで抗議の意を示すことに決めたのだった。


「そう、あれは君じゃない。僕の想像上の天使だ」
 その白々しい言い訳に、納得することはできなかった。
「君は、あの絵がずいぶんと気に入らないようだね。あれは僕の自信作なのに」
 彼は心底残念そうに、深い溜め息を落としてみせた。
「でも、君とこうして話ができてよかったよ。実は来週いっぱいでここを去るんだ。画家として本腰入れてやっていこうと決心してね。だから君は、もう僕にもあの絵にも気に病む必要はなくなる」
 何の含みのない表情で言われたが、その声はなぜか冷たく私の胸に突き刺さった。
「君が、あの絵を嫌う理由がわかる気がする。今の君は、あの絵に負けているから」
 立ち上がると、彼はびしょ濡れの私をまるで捨てられた仔犬でも見下ろすかのような、同情めいた一瞥をくれ、背を向け、公園を後にしていった。

《私があの絵に負けている》
 その言葉を何度も反芻してみたが、どうしても意味は分からなかった。一体どういうつもりでそんなセリフを彼は残していったのだろうか。
 あの風来坊の絵描きが、私の何を知っているというのだ。あの日、私がどんな想いで雨に濡れて泣いていたか知らないくせに。 断りもなしに人のみじめな姿をモデルに絵など描いたりして! どこまで人を不愉快な気分にさせたら気が済む男なのだろう。

 翌日から、私は公園に通うのをやめてしまった。彼が本当にいなくなるまで待つことにした。ただその間も、彼の言葉が頭の中を駆け巡っていた。そのたびにわけが分からなくてイライラした。
 次に公園に足を向けたのは、彼が去ると思われた週末のことだった。もう顔も見られなくなるのなら、最後に思いきり文句でも言ってやろうという気に変わったからだ。しかし彼の姿は見当たらなかった。

「そう言えば、ここでいつも絵を描いていた奴、もう来ないらしいね」
 私のベンチの前を通り過ぎるカップルのそんな会話が聞こえてきた。他にも彼のいた場所を気にしている素振りの通行人を何人も見かけた。
 
 結局、それから絵描きに会うことはできなかった。あの絵を囲む人だかりを見ないで済むことにはホッとしていた。もう一方では、絵描きと一度だけの再会を強く望んでいた。夏休みが終わってしまうその前に、自分ではどうしたって解けそうにない問いの答えが欲しかった。

 絵描きとの再会──最後の言葉の真意を問うこと──を諦めていたある日、クリニックから帰宅した際、母から私宛ての荷物が玄関先に届けられていたと告げられた。
 それは藁半紙に包まれた大きくて平らな代物だった。確かに裏に私宛の文字が書かれてあったが、送り主の名はなく、こちらの住所も書かれておらず、どうやら直接家に届けられたものだった。
 包み紙を開いていくと、薔薇のレリーフの施された真鍮の額縁にはめ込まれた、私が忌み嫌っていた、あの絵が姿を現したのだった。その驚きと絵のまぶしさに、思わず後退ってしまった。
・・・・・ということは、これを置いていったのは、あの絵描きということなのだろうか。わからない、なぜここに? 裏返しになった額の裏に差し込まれたカードを見つけた。

            『 ─ 笑顔を取り戻せるように ─ 』 

 また意味不明な、皮肉めいたメッセージが書かれていた。どういうことなのか考えるのは今はやめておくことにした。これ以上混乱したくなかった。ただでさえ頭の中は疑問で溢れていたのだから。この作品は、あの絵描きが誰にも売ることもできない、いつまでも傍らに置いておきたい大切な特別な作品ではないのか。なぜそんな大事なものを私のもとになど運んで置いていったのだろう、この絵を嫌悪している私のところなんかに……。

 母親は綺麗な絵だと気に入った様子だったが、リビングに飾るなどと言い出されたら困るので、すぐさま自分の部屋に運ぶことにした。見渡せば明るい色調の物は何一つないモノトーンの部屋で、その絵は憎らしいほど、一際輝いて見えた。見たくなくても視線がそちらへ持っていかれる威力を放っていた。
 そばでよく観察してみると、黄色い絵の具で花びらが幾重にも重ねられた立体感ある向日葵と、小宇宙のように何層にもなった紺碧の少女の深い瞳に吸い込まれるように意識が集中してしまっていた。この少女は、見つめられて喜んでいるのか悲しんでいるのか。この絵を目にしている自分が嬉しいのか悲しいのか。眺めるたびに考えせられた。この絵に人々が魅きつけられる理由に改めて気づかされた私だった。
 絵を飾る相応しい場所など結局は見当たらなく、とりあえず窓の下に立て掛けたが、絵のインパクトが強すぎて、裏返しにしておくことにした。
 ベッドに寝転がって、なぜこの絵がここに持って来られたか考えてはみたが答えなど出てくるはずもなかった。私はあの絵描きの事を何も知らない。でも彼は大事な絵を私の家に直々に運んできた。彼も私の事など何も知らないはず……それは間違いなのだろうか?
 

 九月も半ばに差し掛かると、いくらか日差しの強さも弱まり、吹く風にも一様の冷たさを帯び、夏の匂いも徐々に薄まるにつれ、私も心の落ち着きを少しずつ取り戻していった。
でもそれは秋の訪れのせいではなく、あの絵の影響かと思われた。どういうわけか絵を部屋に飾ってから、私は薬なしでも朝までぐっすり熟睡できるようになっていた。嫌な夢も見なくなった。

 それでも胸騒ぎがし、不安になる夜などには、ほどよい喧騒を求めてコンビニまで出かけていった。
 だいたい買うものは決まっているため、ほとんどはファッション雑誌を立ち読みして時間を潰していた。
 大して興味もない一冊を手に取ると、数十ページも進むとすぐに興味はそがれ惰性でパラパラとただ機械的にページをめくっていくだけになった。
 後半にあるエンタメコーナーに、なにか面白い映画でもやってないかと目を落とすと今注目の新進画家の初の個展が開かれるとの記事に目がとまった。画家の名に覚えはない。小さく紹介されている作品に微々たる関心を抱いた程度だった。だから、なんなく次のページをめくろうとした──その瞬間。
 左端にあった本人の顔写真にハッとした。その顔にはどこか見覚えがある気がしたのだ──いや、正確に言うとある人の面影を見た気がした──そう、公園のあの男に似ている気がしたのだ。
 私の知っている彼は、いつもサイケなチューリップハットを目深に被り、お洒落ではなく無精に伸ばしたような長髪ではっきりした人相などわからず、見え隠れする切れ長の目と、尖ったあごのラインしか記憶になかった。それでもなぜか彼に間違いないという気がしてならなかった。
サッパリと短く明るい色のヘアスタイルにまとめられていたが、整えられた細い眉のせいで、切れ長の目元がいっそう強調され、強く印象づけられた。

 季節を彩る草花と魅惑的な少女をマッチさせた絵が、老若男女問わず人気を集めていると記事にはあった。これまで自宅近くの公園でスケッチしていたため身近なファンもすでに多いとも。
 彼が生涯テーマにして描き続けていきたいと話す、“花と少女”シリーズの作品が生まれたきっかけについて、彼はこう語っていた。

「一年ほど前、ある不幸な出来事がきっかけで思うように描けない時期がありました。スランプってやつですかね。そんなある日、いつも行く公園で一人の女の子を見かけたんです。雨の中をびしょ濡れでなんだか様子が変だったので気にかけていると、彼女、いきなり声をあげて泣きだしてしまって……。
『ああ、この子もきっと何か辛い事があったんだな』なんて、失礼ながらその様子を眺めていたんです。そうしていると、いつしか雨がやんで雲間から光が差し込むと彼女の周囲だけパッと明るくなって、まるで彼女だけスポットライトが当たっているかのように見えたんです。彼女もその眩しさに気づいてか泣き止み空を見上げると、嘘のように明るい笑顔になっているのに僕も安心して、思わず見惚れてしまって……。 散々泣き腫らしたあと天を仰いだ彼女の笑顔が、何故か僕にはたった今開花したような向日葵に思えて。その場の閃きで、彼女をモデルに描き出したのが、あの『向日葵と少女』だったんです」 

 ここまでは、特別関心を示すことはなかった。それは私も知っている事実だったから。やはりあの絵のモデルが自分だったのかと確認が取れただけだった。しかし驚くのはこれからだった。記事を追っていくうち、思いもよらぬ彼の正体が明らかにされるのだった。

 本格的に画家になろうと考えた契機にも、不幸な出来事が大きな影響を与えているようで、彼は最後の方でもそのことに触れていた。

『・・・・・妹を亡くしました。離れて暮らしてはいましたが、頻繁に連絡も取り合っていて何でも話せる、解かり合えていると信じて疑わなかった。そんなこと兄妹ではあり得ないんですけどね。それなのに、相手は重大な悩みを一人苦しんでいたんです。僕は彼女を何も理解していなかった、信頼されていなかったんだなって思うと、悔しくて情けなくて、しばらく何も手につかなくなりました。美しいものを美しいと感じなくなった。美味いものも美味しくなくなった。
でも、そんな僕の心を揺り動かすちょっとした事件が起こりました。葬儀のとき、妹の友人の子が、妹のために勇気あるアクションを起こしてくれたんです。その場は騒然となりましたが、僕も彼女と同じ心境でいました。できれば一緒になって怒りや憤りを吐き出したかった。でも僕は見ているだけに終わりました。それ以来、僕はその子と会って気の済むまで話をしたくて、彼女を捜しました。でも捜すまでもなかった。彼女とは偶然にも再会できたのです。公園で泣いていた女の子──それが彼女だったんです』

 この件を読み終えた瞬間、両手から電流でも流されたような衝撃を受け、雑誌を床に落としてしまった。慌ててそれを拾い上げ棚にねじ込むと、一度呼吸を整えると、何かに弾かれたように店を飛び出していた。見えない疑問と衝撃に追われるように、振り払うかのようにあの公園まで走っていた。誰かが何かがそこで待っているわけでもないのに……。

 あの絵描きが、チカの兄だったというのか──チカに兄が──。
そんな話聞いたことはあったろうか? チカとのこれまでの会話をできるかぎり思い起こしてみる。興奮して、うまく記憶をたどれない。それでも、ようやく思い当たったのが、ある一枚の写真だった。
 あれは……中一の夏だったろうか。塾の夏期講習の帰り、チカの部屋に寄ってアイスを食べていた時、私は何の気なしに彼女の机のひきだしを開けた。そこには、可愛らしいフレームに入れられた写真があった。幼い頃のチカだろうとわかる面影残る少女の笑顔と、坊主頭に学生服の少年が少し距離を置いて並んで映っていた。
 私は、「これ、誰?」とアイスを頬張りながら気軽に尋ねると、チカは写真を取り上げ、大事そうに胸に抱きしめてから、はにかんだように、「私の秘密のお兄ちゃん」と答えた。
 そのときは、さして興味もなくきっと親戚のおにいちゃんか何かだろうと思っていた。だから気にも留めなかった。しかし、母からチカの父親が再婚だったことを聞いたことがあった。
 本当かどうか分からなかったし、後にも先にもその写真を見たのはそれきりだった。それに写っていたのが、あの絵描きだったというのか。私には、まるで二人が繋がらなかった。
 
 噴水前のベンチでは、数人の少年たちが靴のまま上って奇声をあげて騒いでいた。私は黙って踵を返し、帰途をたどり始めた。

 どうして、彼はそんな大事なことを黙っていたのだろう。彼は私が何者かを知っていたというのに。彼の正体を知っていたら、私だってチカについても自分のことも話せていただろう。チカを失った悲しみも、彼女を救えなかった悔しさも誰よりも分かち合えていたのだろう。
 そうすれば、私たちは特別な友人になれたに違いなかった。あの絵だって、本当は怖いくらいに美しいと認めていたことを素直に伝えられたはずだった。
 辛いのは私だけ、人の気も知らないくせにと彼に反感を抱くこともなかっただろう。自分と同じ悲しみを抱えて苦しんでいる仲間がいたのだと安心できたはずだった。私を救ってくれる唯一の存在になり得たかもしれない人間だったのではないか。
 それとも、彼はまだ妹の死から立ち直っていない、病的な私の姿を見て愕然としたのか。迂闊にその話題には触れられないと思ったのか。
 やっぱり、もう一度あの絵描きに会いたい。いや、会わなければならない。会って全てを確かめたい。
彼は私をずっとさがしていた。だから私の名前も住所だって知っていたのだ。今度は私が彼をさがし出して、会いに行く番かもしれない。


 
一ヵ月後 ───

私は、駅前のビル街の一角にあるレンガ造りの雑居ビルの前に立っていた。

『街田 シュウジ 作品展』

 ガラス張りの入口脇に立てられたその立て看板を、私は不思議な気持ちで見つめていた。その名前を目にしても、まだピンとこなかった。それが彼の本名なのかも解らなかった。
 三十分もしないうちに、ビルの前には、ちらほらと人の輪ができはじめていた。若い女性が大半だったが、芸術鑑賞が趣味であるような中年男女の姿もあった。その人たちの中に、公園で彼の絵を熱心に見ていた顔もあるような気がした。きっと、公園であの「向日葵と少女」で、彼のファンになった人たちも多く詰めかけている気もした。
 個展初日となったこの日、本人によるちょっとした挨拶とサイン会なるものが開かれるという話だった。これからの活躍が期待される、洗練された風貌の青年画家。そのためかアイドルの握手会にも似た、どこか浮ついた空気が漂っていた。
 私は、彼女たちと一線を画すかのように、ビルの脇に身を隠した。開場の時間が近づくにつれ、緊張がつのり息苦しくなってきた。あんなにも毛嫌いしていた人物に、自分の方からノコノコと会いにやって来て、こんなにも胸をドキドキさせているなんて、自分でも可笑しかった。
 本当はあの絵を持参しようかとも思った。今度こそ正直な感想と賛辞を述べ、お礼を言って返還しようと家を出る直前まで考えていた。しかし、今日はひとまずやめておくことにした。彼に言いたい、云わなければいけないことがたくさんあった。だから、それは次に会う口実にとっておこう。
                                                                           【終】


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