「所長……ですよね?」
7時50分にアパートを出る。几帳面な性格には程遠いのだが癖なのか平日の生活のリズムが僕をそうさせているのだろう。 僕の勤務する会社の入居する雑居ビルまでは歩いても10分程で到着する。雨や雪の日以外は自転車に乗り通勤している。ようやく体に感じる風が心地よい季節になってきた。 ビル前の駐輪場に自転車を停めて裏口からビルに入る。入り口横の管理室に朝の挨拶をしながら入り70歳は雄に超えているであろうと思われる守衛さんと二言三言会話をしながら事務所の鍵をキーボックスから取り出し管理室を出る。 僕の勤務する北日本文具K市出張所はこのビルの4階に有る。エレベーターは有るのだが、僕は階段を使って4階まで登る。これも癖なのかもしれない。 鍵を開けて事務所に入りタイムカードを押しブラインドを開け、パソコンを立ち上げ電気ポットに水を入れ電源を入れる。昨日帰宅してから送信されて来たファックス兼用のコピー機のトレイとメールを確認していると電気ポットのランプが“沸かす”から“保温”に変わる。 インスタントコーヒーを入れたカップを持って自分の席に着き、出入り口脇のホワイトボードを確認ししながら今日一日の仕事の段取りを考えるのが日課のようになっている。 9時前だと「おはよん」そして9時を過ぎると「わりぃ わりぃ」と言いながら事務所のドアを開ける音がするのが止んでから、もう2カ月が過ぎようとしている。 9時半にアルバイト事務員の、美ぃちゃんこと渋谷美子が出社して来る。僕は入れ替わる様に事務所を出て非常口に行き煙草を吸い灰皿代わりのキャップ付きのコーヒーの空き缶に吸殻を捨て今日の本格的な仕事モードにはいる。 僕はふっと溜息をついて時計を眺めるのと「おはよん」とドアが開くのは殆んど同時だった。ドアの陰から微笑んでいるとは程遠いニヤニヤと笑った顔が覗いていた。その人は事務所に入ると音も立てずに窓側の机の席に窓を背にしてついた。僕の体は凍りついた様に硬直した。 「どうした?」 「……」声が出ない。金縛りってこんな状態なのかな?しかし起きていて金縛りになるのって少し可笑しいよな……と思った。 「なんか俺の顔に付いているか?体調でも悪いの?顔色良くないよ」その人はニヤニヤと笑いながら席を立ちインスタントコーヒーを作り始める。 「……」ドアを開け外に逃げ出したいのだが体が動かない。 「ミルクが切れてるよん。みぃちゃんに買っておいてって言わなきゃね。ところでさぁどうしたの中野ちゃん、さっきから何も言わないじゃん。昨日。悪い夢でもみたのかなぁ?」 その人は席につくとコーヒーを口にした。状況としては悪夢だが、この威厳の無い軽い口調は間違いなくあの人だ。 「……所長……ですよね?」 「所長ですよん。他に誰に見えますか?」 「所長……」 「何かトラブルかなぁ?ビジネスでもプライベートでも、不詳この所長が相談にのっちゃいますよん」 「死ん……いや亡くなったんですよ」 「えっ、誰が?」一瞬、所長の顔が真顔になった。 「だから……所長が」 「俺!」所長は自分の人差し指を自分に向けてうーんと唸った。 「中野ちゃん。朝から冗談きついなぁ」 「冗談じゃないっす……いや、冗談じゃないです。警察から事務所に電話がきて身元確認しに行ったのは僕ですし……」 「中野ちゃんが身元確認?」 「本社に連絡したり所長の実家に連絡したり大変だったんですよ」 「へぇー」 「へぇーって……他人事みたいに。僕だけじゃなくて、美ぃちゃんだって大変だったんですよ」泣きじゃくる美ぃちゃんの姿を思い出していた。 「美ぃちゃんが?……」 「所長が亡くなって……後片付け?美ぃちゃんと一緒に所長のアパートの引っ越し手伝って、所長の実家のあるK市のお寺まで所長の葬儀に参列するために行ったんですから……香典持って」 所長が亡くなってからの僕と美ぃちゃんは荒海に投げ出された漂流者同様にこの事務所と担当エリアで必死にもがき続けた。 所長が亡くなったからとはいえ事務所を休業する事は出来ないのは分かっていた。業務に依り葬儀に参列するのも一時諦めようと考え組織や世の中の不条理を恨んだ事もあった。涙の止まらない美ぃちゃんを慰める余裕など僕には無く、互いに励まし合ってこの2ヶ月近くを過ごして来た。 今迄、所長に甘え頼り切って業務を行って来たツケが回って来たと言われれば仕方の無い事だが、所長と僕と美ぃちゃんの3人だけで切り盛りしていた出張所の1人が欠けてしまった訳で……と言うのは言い訳だろうか?とにかく今迄何とか出張所としての体裁を繕っていた……と思う。涙を拭うハンカチを手放せなかった美ぃちゃんが笑みを見せる様に成ったのは最近だ。 「えっ、本当に?……ところで香典っていくら包んだの?」 えっ、そっちの方かよと僕は思いながら目の前の人は間違い無く所長本人だと確信した。 「いや、それは言えません」 「だけどねぇ。俺さぁ死んだ記憶無いんだよね。本当に死んじゃったの……俺?」 凍りついた僕の体は元に戻り始めていた。生きていた頃と変わらない所長の幽霊なのか亡霊なのか呼び方が分からないが次第に恐怖を感じなくなっていた。僕は所長の机を挟んで向き合う様に椅子を移動させて座った。 「所長、今日は何月何日か分かりますか?」 「えーっと、今日は3月の……」 「今は5月です。もうゴールデンウィークも終わっちゃいました」胸元から手帳を出しページを捲る所長に携帯電話の画面に表示されている日時を見せて言った。 「嘘だろう。俺の頭の中じゃ、まだ3月の……えーっと」と言いながら所長はポケットから携帯を取り出した。 「だって所長が亡くなったの……3月だもん」 「俺の携帯も5月だ。しかも圏外……」 「多分、契約解除したんじゃないんすか。所長の家族が……」 「そういう事になるか」 「そうですよ」 「仮に本当に俺が死んだとして、何で死んだの?」 「あの日は……所長、朝から新年度の総合カタログ配る為に得意先回りに行ったんですよ。覚えています?」 「思い出した」所長はポンと手を打った。 「それで……」 「あの日はH市区域をまわる予定だったんだ……以外に時間がかかってさ……H市出たのが夕方でなぁ」 所長の営業能力は会社でも評価されていた。普段、事務所にいる時とは一変して得意先では口調や表情までも“出来るビジネスマン”に変身する。カタログを配りながら話術、交渉術を巧みに使い営業をしていたのは想像できる。営業が苦手で今の出張所に飛ばされた僕は長年の経験による、そつのない営業トークを隣で聞いていて事務所でのギャップに戸惑いながらも感心し尊敬もしていた。取引後のバックアップ、フォローも周到で抜かりが無い。それが末長い取引につながっている事も事実だ。今迄の僕は所長の指示どおりに働いていたにすぎなかった。こんな人が何故、本店や支店ではなく出張所に居るのだろうと不思議に思いながら数年が経っていた。 「途中で喉が渇いて自販でコーヒー買ってさ、“もしもしピット”に車停めたまでは覚えているんだがねぇ……」 「そこで亡くなったんですよ。心不全だったらしいですよ」 「あそこで死んだの?俺が……」 「所長の御両親を案内して次の日、警察署に行ったんです……身元確認した時に立ち会ったお巡りさんが、あまり苦しまないで亡くなったと思うって検死した医者が話していたって教えてくれました」 「そうか……」 「納得して貰えました?」 所長は瞑目して何かを考えている様子だった。目を閉じているせいか表情が引き締まって見える。 「騙されているって言うか……詐欺にあっているって言うか……ひょっとしてこれってドッキリか?……今ひとつ納得できない」 芸能人じゃ無いんだからドッキリって事は無いでしょ!と僕は言いたいのを押さえて大きな溜息を吐き大げさに肩を落として項垂れた。その拍子に僕の胸ポケットに付けていたネームプレートとボールペンが床に落ちた。 慌てて、しゃがみこんでネームカードとボールペンを拾おうとした僕をハァハァハァと笑う所長に僕はイラっとした。その時に僕はある事に気付いてしまった。恐る恐るボールペンを持ち、ゆっくりと机の下の床上10pを前後左右に動かした。何故、所長が事務所に入り足音も立てずに窓側の机の席につけた理由も分かった。 「所長は既に死んでいる」 子供の頃に夢中になって読んだ漫画の主人公の決めセリフそのままに僕は叫んでいた。 「俺、死んでねぇもん」 「だって、足無いじゃん」 「えっ?有るよ……」と言いながら椅子を机から離して自分の足元を見ながら手を伸ばし「あっ、無い、無い、俺の脚が無い」と言いながらズボンの裾を何度も振っている。 「ねっ、無いでしょ。僕の言っている事、信じてもらえますよね?」 僕は上司に接する口調と丁寧な言葉使いで無い事をすっかり忘れていた。所長と僕との間でしばらく沈黙が続いた。 「じゃぁ、逝くわ……」 「行くって……何処に」 「あの世」 「あの世って……」 「天国に逝くわ……いや、地獄かな?」 「いやぁ、そんなに急がなくても。それに逝き方、分かるの?」 「……いや、知らない」 「……じゃあ、ここに居れば良いじゃないすか。お迎えが来るまで」 「お迎えが来るまで……居ても良いの?」 「良いっすよ。誰も困らないし……それに生前、所長には世話になったし」 「……じゃぁ、厄介になろうかな」 「……そうすれば」 「あぁ、御世話になります」半ば投やりな僕の提案に所長が軽く頭を下げて言った。 「今迄、何処に居たの?2カ月近く経っているけど」 「それがなぁ、俺も良く分からんのよ」 「へぇ?」 「今朝も気付いたらビルの前に居てさ……昨日飲みすぎたかなぁ……なんて思いながら此処に来ちまった」 「自分でも。何処に居たのか分からないんだ」 「そういう事」 僕が天井を見あげ溜息を吐くとドアノブの回転する音がして「おはようございます!」と声がし事務所に入って来た。 「おはおん」と満面の笑みで答える所長、「美ぃちゃん違うんだ……あのね……これわね……」とまるで浮気をみつかった男の様に取り繕うとする僕に美ぃちゃん事、渋谷美子は一瞬の沈黙の後。キャアっと悲鳴を上げたかったと思うのだが……キまでしか声が出ず放心して床にしゃがみ込んで倒れてしまった。 僕はテレビや映画のシーン以外で人が気絶するのを初めて見た。一時間前の僕も一瞬意識が飛んだもんなと妙に納得した。慌てて所長と僕は美ぃちゃんを抱きかかえて来客用のソファーに運んだ。 「やっぱ、死んじゃったんだな……俺」と呟く所長に、まだ信じてなかったのかよと半ば呆れながら「ようやく、分かって貰えました?」と呟やくように答えた。 今日の業務のスケジュールが大幅に狂っている事を気にしながら美ぃちゃんの様子を伺う。 「何でこんな事になったのかねぇ?救急車呼んだ方が良いかねぇ」 所長が此処に居る原因は分からないが美ぃちゃんが気絶したのは所長のせいでしょうが……と思いながら美ぃちゃんの額に濡れタオルを乗せて救急車を呼ぶ事を考えた。 間も無く「うーん」と美ぃちゃんが呟き眼を開けた。 「なっ……中野さん、所……所長が……五十嵐所長が」美ぃちゃんが僕の腕を強く握りしめてヒステッリクに繰り返し話すのを僕は何度も頷いて「落ち着いて」と言い続けた。 「さっき、所長と中野さんがそこに……」所長の机の方を指差すと、そこにはニヤニヤと笑っている所長本人がいた。 再度、意識を失いかける美ぃちゃんの両肩を揺さぶりながら「しっかりして」と声をかけた。美ぃちゃんは辛うじて耐えたみたいだった。 「所長……生き返ったんですか?」 「いやぁ……違うみたい」美ぃちゃんが小声で尋ねるのに僕も小声で答えた。 「じゃあ、死んでるんですか?」 「どうも、そうらしい……所長……足が無いんだよ」 「足が無いって……幽霊って事ですか?」美ぃちゃんは恐る恐るチッラと所長を見た。 「幽霊、亡霊、お化け……正確には分からないけど……その類らしい」 「どうして此処に居るんですか?それに今はお昼前ですよ、幽霊の出る時間じゃないですか」確かにそうだと僕は頷いた。 「朝、気が付いたらビルの前に居たんだと……それに自分が死んだって自覚も無かったらしい」僕は美ぃちゃんが出社するまでの所長との会話をかい摘んで話した。 「えっー!じゃあ、お迎えが来るまで此処に居るって事ですか?」 「そういう事に成るなぁ。美ぃちゃん宜しく頼むよ」僕は頭を下げた。 「嫌ですよ。中野さんが営業や配達に言ったら……私、所長と二人きりですよ」 「そりゃそうだ。だけど前の所長と変わらないよ、あの軽い口調……美ぃちゃんだって聞いたでしょ……足は無いけど」 「だけど……」 「なんとか頼むよ、このとおり」僕は拝むように手を合わせて頭を下げた。 電話のベルが事務所の中に響いた間髪いれずに所長が受話器を取る。 「北日本文具K市出張所……お世話になっています……はい御注文ですね……」メモを取りながら所長が話している。 「はい」「はい」「納品は明日と言う事で……有り難うございました」受話器を置いた所長は「美ぃちゃん、これ注文伝票にして支店にメールしておいてねぇ」 「はぁ」と美ぃちゃんは戸惑いながら答えヒラヒラと振っているメモを所長から受け取り自分の席についてキーボードを打ち始めた。 僕は管理室側に積まれた段ボール箱の中から事務所宛てに送られて来た段ボール箱を台車に乗せて事務所に運んで注文書と照らし合わせて注文先ごとに紙袋や段ボール箱に詰め変える。その間に電話のベルが鳴ると所長や美ぃちゃんが対応していた。台車に商品を乗せて時計を見て「とりあえず市内だけ配達してきます」と僕が言うと。 「行ってらっしゃい」と二人は答えた。 台車を押しボタンを押しエレベーターを待っていると美ぃちゃんが中野さんと言いながら僕の傍に来て「早く帰って来て下さいね」と懇願するように言った。 「大丈夫、直ぐに帰るから」 「ホントですよ」 僕は頷いてエレベーターに入った。ビル前の駐車場に停めている社名のプリントされた白いワゴンに配達物を移し、台車を管理室に戻して運転席に乗りエンジンを始動させた。 「あっ」と僕は或る事に気付いて胸ポケットから手帳を取り出してカレンダーを確認した。「四十九日だったんだ」今日は所長が亡くなってから49日目だって事に気が付いた。 いつもと変わらない退屈で穏やかな生活が始まろうとしていた。
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