部屋を出ると来たときは思わなかった長い廊下が零人の前にあった。 あの老人、あの男は本当に自分の父親なのかとふと思った。 自分はあの男のことは何も知らない。その男の言う常軌を逸した話が信用できるのだろうか、何か裏に自分の知らないことがあるのではないか、詐欺かもっと悪い犯罪的なことに巻き込まれるかもしれない。 自分は大学も卒業して一流企業への就職も内定して、手堅く自分が積み上げてきた将来の可能性はあるのにここに来てリスクある方を選ぶべきだろうか?人生は一度だから若い時は冒険を選べと安易に言う人はいるが、社会の負け組となり貧乏している者を見ながら成長した彼は平凡だが貧乏でない人生を蔑んではいなかった。
自分の左右に長い廊下があるように人生の選択の岐路に立っていた。 彼は7分しか時間がないことがわかっていたが、廊下の少し明るい方、おそらく窓がある方を目指した。 歩きながら、あの男がなぜ今すぐにここで決めろと言ったのかを考えた。 あの男は何かに焦っているように思える。 しかし、「なぜいますぐにここで」ということになるのか。 あの男は自分の死期が近いからそう言ったのか。 いや、それだけではなさそうに思える。 零人と会っている時間をまるで両手から零れる水を逃がさないかのようにしているように思える。 あの男は認知症かもしれない、それで零人に会った時だけ短い記憶が保てるのかもしれない。 会長として多忙な中で多くの優先順位の低い事象が喪失して行っているのだろう。 それをあの男はわかっているから今すぐここで決めろと言ったのではないか。
彼は窓のところまで歩いて来た。 近くに自動販売機があった。 彼は缶コーヒーを1本飲もうと思ったがその前に窓から外を見た。 75階から見える外には遮るもの一つない青空と都心の風景が広がっていた。 窓の外の景色を見ていると何か神懸かった気分になって人生の決断を高所からする者になったかと思えるかもしれないが、自分自身で決断の瞬間を受けとめることができない弱い人間がすることと彼は思えた。 だから、彼は窓から離れ自動販売機の方へ行って110円の缶コーヒーを買って頭を冷やすことにした。 零人という現存在が手元に缶コーヒーという存在者と対面していた。 彼は缶コーヒーを開けると一気に飲んで喉から胸を通して身体に広がるその涼しい冷たさを感じた。 それから、彼の行為によって空き缶となってしまった缶コーヒーを見ながらそこに存在者を際立たせる固有のものを見ようと商品識別コードを見た。
その時、ふと内定が決まった会社面接のときを思い出した。 内定した後に内定者が呼び出され、夜に会社の人事担当者らとバーに飲みに連れていかれた。同じ大学のボート部の連中が多くいて、さらに他の大学からの内定者も僅かながらいた。 ホステスも来た。 おそらく、人事担当者は酒と女を入れる事で内定者から酒乱の者や公では見えていない人柄や人格の傾向を知って最終選考の参考にすると思われる。 そうは言いながら、人事担当者が堅苦しくならないように自ら楽しんでいる雰囲気を作って皆の警戒心を簡単に解いて、和気会い合いで盛り上げた。 彼はボート部で主将で一目おかれていたから、人事担当者も零人のリーダーシップに期待はしているような素振りを見せて彼を持ち上げるようにした。一方で、僅かながらの他大学の者は知り合いもいないせいか大人しかった。 しかし、人事担当者らは彼らを最初から丁寧に扱っていた。 やがて、飲み会でかなり酒が入って来ると、人事担当者らは零人より他大学の者やボート部でおとなしい者にもおだて始めたが、彼らの多くが政治家などの縁故者であった。 零人はそのときのことを自分の志向を避けていたが、今再び思い出して真正面から考えると自分のように家柄もない私生児の出ではその会社ではある程度までは利用されて出世するが、上には行けないことを悟った。 給料はよいから生活は楽しめるだろうが、彼には生きがいのある生き方とは思えなかった。
こうして、彼は父親と言われるあの男の言う方へ企投した。
時計を見るとすでに7分が迫っていたので、あわてて部屋のほうへと戻った。 戻ると秘書がインターフォンで取り次いで今は会長は電話中ということで数分待たされた。 その後に中に入った。 その男は零人に少し驚いたように見えたが、彼のために今は時間を共有していることが見えたので、零人は、男が認知症か多忙症か何かで自分のことを覚えていないということではないので安心した。
零人が社長になりたいというと言うとその男がわかったと言った。
その後、横の待合室で待っていると秘書が来て後日にこちらから電話連絡すると言われたので部屋を後にした。
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