零人は初めて自分の父親に会った日のことも思い出していた。 彼はその頃大学生4年で21歳になろうとしていた。 今こうしてカクテルグラスを傾けると、初夏お日差しを浴びてコックスの掛け声でボートを漕いでいる自分が脳裏に見えた。 彼はボート部で主将をした。ボート部では一目置かれ信頼されていた。就職も一流大企業に内定していた。 その会社にはボート部の同期も何人かいて、面接の人事担当者もボート部の先輩であった。後日、彼は内定の通知を受けたときに正社員サラリーマンとしてやっと安定した未来が自分に開けたと思えた。というのは、中学3年のときに彼の母親が急死して以来、会ったこともない父親からは毎月養育費が振り込まれていた。
彼は特に貧乏な生活をすることもなく生活には不自由を感ずることもなく高校生活を過ごし、大学へ進学した。 しかし、一度も会ったこともないし話したこともない父親からの毎月の送金などいつ切られても不思議でないといつも思っていた。 養育費の支払い義務は世間では二十歳までである。彼はわずかながら金の蓄えもあるし、奨学金ももらっていたし、バイトもしているので養育費が切られても卒業して就職するまでは何とか自分ひとりならばやっていけると考えていた。 しかし、父親にはやはり一度は会っておく必要があると思った。養育費が必要なくなる今が良い時と思えた。
母が死ぬ前に手渡した一枚の古い名詞の人物に会うためにその会社に電話した。 その人はその会社の会長になっていた。 電話を受けた担当者は「伝える」と言ったが、一週間しても二週間しても返事はなかった彼は電話した担当者が不審者の電話と思って無視したと思えた。 そこで、もう一度、電話した。すると、「会長は多忙の方だが、連絡は行っている」という返答だった。 零人は、今頃、自分が名乗り出ることに父親が迷惑と思って躊躇して会わないのかと思った。 だから、前の電話では言わなかった養育費は必要としていないこと強調して言って金目当ての集りで会いたがっているのではないことを暗に匂わせた。 それから一週間が過ぎ二週間が過ぎたが、やはり連絡は来なかった。 そこで、3度目の電話をするかどうか迷ったが、もしこれでも来なかったらもう電話しないし将来会うこともなさそうだすべては忘れようと決めた。 そして、電話したが担当者は「連絡は確かに行っている」と同じ事を繰り返して返答するだけだった。その後も連絡の電話はなく、しばらく彼も忘れていた。 それから1か月が過ぎたある日会社の社員から会長が会いたいと言っているので来るようにという連絡があった。
彼は連絡を受けたときやっと会える嬉しいとは思えなかった。 父親が会長として多忙であったとしても、仕事のほかに私生活で自分の問題を考慮して対応する時間もあるはずである。 自分は父親にとって考慮される優先順位は極めて低い、どうでもよいことなのだろう、父親は冷たい人間に思えた。 しかし、彼は養育費がいつ切られても不思議ではないと思っていたので、自分が成人して社会人になるまで金が支払われ続けたことを思うとまったくどうでもよかったということではないのかと思ったりすると、父親に会いに行くという方に気持ちの方向が向いた。
その日が来た。
零人は都会のオフィス街に立ち並ぶ超高層ビルの一つに向かった。 そしてその超高層ビルの前まで来て立ち止まった。 このビルはある船舶会社の所有である。 下からビルを見上げたときに受けた威圧感が彼の緊張感を高めた。 一階は警備員が何人もいたが、警備員が彼の見せた学生証で本人確認ができると上に電話した。 やがてエレベータから一人の社員が降りて来ると彼を会長室まで案内した。 75階でエレベーターを降りるとさらに長い廊下を通って会長室への向かった。 その社員がインターホーンでお連れしましたというと前室に若いがきつい目の女秘書が一人デスクにいてインターホーンで取り次ぎ、右のドアからどうぞ中へと言った。 零人は部屋に入った。
大きな部屋だったが照明を落として薄暗かったが特に一目を引く調度品あるというわけでもないオフィスのような殺風景な部屋だった。 その男は窓の近くに立っていたが、部屋が暗く半開きになったブラインドカーテンから差し込む強い日差しのせいで、逆光の影になり暗くなって顔をわからなくしていた。男が机のスイッチを押したようで、ブラインドカーテンが自動で閉まり少し青のLEDの暗い照明がゆっくり点くと、そこには痩せこけた骸骨のような老人が立っていた。
わずかな白髪を残す頭、皺としみの広がる顔、くぼんだ目はすでにあの世から覗き込んでいるようである。 まるで死神にでも取り付かれたようである。
その老人は零人によく来てくれたと言った。零人が手短に養育費のこれまでの振り込み送金を感謝して、大学を卒業して会社員となるので必要ないと述べた。 老人はその言葉を聞くとわかったと言った。
それから自分は病気なので太陽の光を避けてこうして部屋を暗くしていると言った。
そしてその老人は自分の身の上話を一方的に話始めた。 彼が子供のときに貧乏だったこと、あまりの貧乏に耐えかねてある日、神仏を呪う言葉を吐いたこと。 ところが、不思議なことだがその日から自分には金運がついてきたこと。 そして自分は成功してこのような大企業を所有する大富豪になることができたことなどである。
それからその老人は悲しそうな顔をしながら言った、「わしには妻と3人の子供もいて一時は幸せだったが、皆、病気、不慮の事故、そして自殺で死んでしまった。 そして今となっては家族は誰もいない。唯一人血縁がある者はわしが行きずりの女に生ませたお前だけだ。自分は死に至る病気にかかっているから先は長くない」と言った。 そして、「不思議に思えるが、最後は人は本能で支配される動物でしかないのか」とため息を寂しく言った。 それから、初めて零人の方を正面から見据えると自分が死んだら自分の会社も土地も財産もすべてを零人に譲るから社長にならないかと言った。 零人は突然の話で啞然としたが、冗談を言っていると思い、話半分で「自分が社長をできるのだろうか」と問うた。
その男は「お前次第だ」と言った。
そこで零人が「自分はまだ大学を卒業前だし、一流大手企業の会社員になるから、少し社会勉強もしてみたい、それからどうするかでは?」と言った。 その男が「それはできない話だ、いますぐに決めてくれ」と言った。
零人が「でも、僕は今は大学4年だし」と言った。
その男が「今すぐに決めてくれ、そして明日から社長になってくれ」と言う。
零人が「明日から社長になるということは大学を卒業できないし、会社の就職内定も辞退しなければならない。せめて卒業まではしたいと思いますが」と言う。
その男が「それはできない、今すぐに決めてくれ」と言う。
零人「待ってください、帰ってから後で返事をするということでは?」と言う。
その男「それもできない、とにかく今すぐにここで決めてくれ」と言う。
零人が「どうして、いますぐここで決めなければならないのですか?」と振った。
その男が「気が乗らないなら断ってもよい、無理にとは言わないが、その気があるならいますぐにここで決めてくれ」と言った。
零人が「突然の話で今僕の頭は混乱してします、心の整理をさせてくれますか?」
その男「そうか、では7分間だけやろう、外で考えて見ろ」
零人が「わかりました」と言って自分の時計を見て部屋を出た。
前室の秘書に「すぐに戻って来る」と伝えると秘書が「いつ戻りますか」と無表情で聞くので「7分後」と答える。
秘書が「わかりました」ときつい顔ながら少し微笑んだのを見て零人は部屋を出た。
|
|