零人は独りでバーのカウンターの隅で飲んでいた。
彼は亡くなった母のことを思い出していた。 子供の頃、母とは親一人子一人の生活だった。決して豊かな生活ではなかった。 母は働いていた。 家に帰っている時もいつも家事で掃除をしたり何かをして立ち働いていた。 母は自分の過去のことを話さなかったし自分の人生について愚痴を言うことはなかった。 父親は死んでいないと聞かされただけだが、それ以上何も言ってはくれなかった。 幼稚園の時に一度運動会があった。 その時に珍しく母が来てくれた。皆が父親と母親が来ているのを見て、零人は、初めてぼくにはどうしてお父さんがいないのと言って駄々をこねて泣いたことがあった。 その時の母は非常に困ったような表情の顔をして、母も泣きそうになった。 母がそのような表情をしたのはその時だけだった。 彼はその時の母を困らせた自分を恥ずかしく思ったのか、その後は二度と父の話を口にすることはなかった。 しかし、毎年誕生日とクリスマスにはどこからともなく、貧乏な生活の彼にしたら破格なプレゼントが贈り届けられて来た。 最初は母はサンタクロースが来たとか言っていたが、彼も知らないところに父親がいることは何となくわかっていた。 でも、知らないところに父が住んでいたとしても、おそらく、そこには子供のいる家庭があるんだろうなあ、と思い巡らすと、それ以上は詮索してもどうしょうもない、母を困らせるわけにもいかないし、現在のこの状況を変えないでいるほうが自分はいいと思っていた。
母は零人が中学三年の秋に急性白血病で入院した。 母は病院で亡くなったが、亡くなる少し前に最後に母に会った。 零人は母親の担当医師に母親の命を助けてほしいと何度も何度も懇願した。 担当医師が日毎に悪くなっていく母親を見て、最近開発された白血病治療薬だけしか彼女の命を救える方法はないと最終判断した。 病院を訪れた零人にデスクに座った白衣の医師が3色の三本の注射アンプルを見せた。 そして、きみのお母さんの命を救えるのは現在この混合カクテル剤の注射しかないと言った。零人は混合カクテルをすぐに母のために使ってくださいと言った。 しかし、そのカクテル剤は非常に高額であった。零人にも母親にも支払える金額ではなかった。3本のアンプルを手に持った医師がどうしますかと再度訊いたが、悔しそうに見つめているだけだったが、3度目に医師が訊いたときには何も言わずに俯くだけだった。
病室に入ると、母がベットで体を起こした。今日は体調がよいと微笑みながら零人に言った。零人は母の笑顔を見てさきほど担当医から言われた言葉に目頭が熱くなった。 しかし、過去や未来を見ないで、ここは今この場という現存在の現在でできるだけ存在する者でいようと努めた。一人しかいない子供であったが、母は決して世間一般の親のように子供に親しく愛情を示すということは一度もなかった。母は寡黙にいつも立ち働いていた。おそらく生きていくだけで精一杯だったのだろう。そのような母だったが、その日は彼をベットの横に呼ぶと、過去の身の上話を始めた。
母がクリーニング店の両親の家で育ったが、高校1年のときに火事で家は消失、母の家族がすべて焼け死んだ。 その後、生き残った母は遠縁の親戚の家に引き取られたが、そこでひどくイジメられた。 最後には家出をしてキャバクラ嬢となった。キャバクラに勤めていた頃、偶々、政財界人が集まって開かれたゴルフコンペのパーテイのためのコンパニオンの仕事で派遣されて行った。 パーテイには元総理も来ていた。母は元総理に酒を注いでいったとき、あの人にもと言われた。その財界人の男は目立たずに独りで壁の近くに立っていたが主催者で金をすべて出していたが話好きではないように見えた。 その男に酒を注ぎに行ったとき財界人と母は知り合い、その夜一夜の過ちが零人を身ごもらせた。 その男は絶対に会わないという条件で母と私生児の彼の生活を支援することを約束した。
ベットの母はその男の一枚の名刺を零人に渡して、自分が亡くなったら、二十歳まではこの人がお金を支援してくれるからそれで生きなさい、どうしても困ることがあったらこの人を頼りなさい。でも期待はしてはだめですよ。会うときは心を決めて自分を恥じたり後で後悔することがないようにしなさいと彼に言った。 母はそう言い終わると、零人の襟元に手を触れて直した。母の手は弱弱しかった。それが母が話した最後であった。
零人が空のグラスを置くと、バーテンダーが「…..いつものカクテルにしますか?」と訊く。 零人「ああ…..」と頷く。 バーテンダーが3色の高級洋酒のボトルを彼の目の前に並べる。順番にカップに注ぎ、シェーカーで振る。 零人は目の前に来たカクテルをしばらく見ていた。
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