その時、もし、室人が彼女を家まで送って行っていたらどうなっていただろう。 今になってもよくその時のことを思い出す。しかし、彼女と一体どのような会話をしたのだろうか。想像もつかない。想像もつかないということは起こりえないこと、起こる可能性がゼロということなんだろうか。
確かにその場の雰囲気というか空気がそうさせたのだ。しかし、運命の女神というのは意地悪く嫉妬深く恋愛の邪魔をする。女神の作り上げた状況という空気を果敢に押しのける者だけが勝利の果実にありつけるということも真理である。室人が夏祭りという機会を利用して彼女に話しかけなかったのは気おくれのせいだったかもしれない。気後れということは状況という空気に押し流されて勇敢に振舞うことに失敗したと言う解釈も成り立つ。しかし、今ととなって振り返ってそれを非難する人がいるとすればそれは的外れだと思う。その理由はこうだ。
(1)室人はまだ若く、男と女、もっと広い意味で人間というものをがどんなものかまだ知らなかった。彼は「人間ができること、できないこと」がわからなかった。だからその時の彼が消極的態度、世間一般では男らしくない、態度に見えたとしても、それは、人間は人間のふりをすることから人間入門をするということを知らなかったからだ。
(2)室人が緊張することなく普通の世間一般の話題を持ち出して彼女との接点を構築することも実際不可能な話ではなかった。しかし、室人はそういう話題によって彼女との間に接点が成立することを望まなかった。室人は彼女に抱いている感情が反映する仕方でしか彼女と話はしたくなかった。しかし、それを言ったらあまりにも唐突過ぎることになるぐらいわかっていたので室人は黙っていた。
(3)夏祭りと帰り道という出来事の状況分析の総括して見ると室人は自分のやり方、自分の型にこだわっていたということである。彼が世間一般のやり方に従って行動することは彼が彼自身ではなくなることを意味した。状況という空気を壊してまで果実を手に入れようとすることは実は果実もその時に失われてしまうという事も真理である。彼は果実も得ることなくエデンから追放されていただろう。
(1)、(2)、(3)により室人が取り得る行動の選択肢は限られてくる。 かくして、彼は彼女に手紙を書くということになった。
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