室人は大学を卒業後も就職した会社が自宅から通勤できる範囲にあったので、養子として資産家の叔母の家に住んでいた。叔母は自分と亡くなったご主人のこの家の跡取りがいなくてお家断絶になることをいつも心配しており、室人を養子として迎えたことを大変喜んでおり、室人に早く結婚してほしいようで、最近はよくお見合いの話を知り合いのお仲人さんに頼んでいた。
「室人さんが早く結婚してかわいい孫の顔を見たいわ」と言うのが叔母の口癖だった。 ある日、叔母が釣り書とお写真を持って来て「この人はもしかして、ご近所で同じ中学校の子かしら。だったら、お互いに嫌でしょうね。」と言って室人に見せた。 そこには何と「白鳥可奈子」と書かれてあった。室人は唖然として言葉がすぐに出なかった。 彼女の思い出が脳裏を横切り、一度切った恋心、見ないほうがいいかと思った。しかし、アザミとの悲しい別れ以来、彼は孤独の中にいて、何かを待っている自分を見ていた。それが彼女かもしれないという思いが彼の気持ちを前向きにさせた。そんな自分に顔が赤くなり、それでも平静を装いながら、写真のほうを見た。小さなスナップ写真だったが確かに昔の面影はそのままの彼女だった。
「同級生だったけどあまりよく知らない女子だったよ。卒業後には一度も会ったことはないけど、ぜひ会いたい」と彼は言った。 「でもお仲人さんもあまりこういう話には乗り気ではないし、先方も同じ学校だったということで躊躇されるかもしれませんよ」と叔母が言った。
室人が叔母の言葉に反対するかのようにその縁談を是非進めてほしいと強く言ったところ、叔母さんは「どうしてそんなに興奮するの、、、、、もしかして、この人のこと、、、、」と言って彼の顔を詮索するように覗き込んだ。
「ぼくは昔はよく知らなかったけど何か今この写真を見た瞬間に是非会ってみたいという気持ちになったんですよ、会ってみたいって気持ちが込み上げてきたんですよ」と彼は声を張り上げて言った。
叔母はそれ以上は何も言わず仲人さんに訊いてみるとだけ言った。
それから、ちょうど仲人さんと一緒に行っているドイツリートのカルチャー会に今夜行けなくなったので行ってみたらと言って一枚チケットを彼に渡した。
室人がその夜会場に入って行ったのは始まる5分前だった。すでに70〜80人ぐらいの人が来ていた。彼は受付で手渡されたパンフレットを開いた。 声楽家の先生が参加者にドイツリートの歌い方を指導するという会であった。辺りを見回すと来ているのは男も女も叔母の年代の人ばかりで彼のような20代の若い人は一人も来ていなかった。 すぐに声楽家らしき中年の女と若い女の人が入ってきて挨拶した。
その若い女の人はずっと下をうつむいていて大勢の人前で人見知りをしているかのように故意にショートカットながら髪が顔にかかってよく顔が見えないようにしているようにも見えた。
しかしその若い女の人を見てすぐにその人が白鳥さんであるのがわかったときに彼は驚愕した。声楽家の先生が可奈子を紹介したことで彼女がピアノ演奏をするということで来たということもわかった。 声楽家の先生の話が始まったが、彼は横のグランドピアノに向かって座っている可奈子のほうばかりを見ていた。 柱の陰で彼女の顔も姿はよく見えなかったが確かにそこに彼女がいるということを彼は感じ取っていた。
先生がパンフレットの中からシューベルトのアヴェマリアを選ぶと皆が一緒に歌い始めた。皆がドイツ語で流れるように合唱しているのを聞いていて彼は少し驚いたが、おそらくここに来ている人は歌声喫茶のようなところでよく歌ったいるのかもしれないと思ったりした。 可奈子のピアノも素晴らしく彼には聞こえた。 途中で可奈子が顔を上げて斜め上の虚空を見つめた時の彼女の横顔を見たときには彼の心の奥底にある鬱勃たる坩堝の中から昔の恋心が沸き起こってきては走馬灯の影絵のように見え隠れした、彼女はなぜあの時に突然別れを告げたのか、彼は彼女に問いただしたいと言う気持ちと一度は切った恋心が彼の心に起きた。 そして時間が過ぎて会が終わり、人々が立ち去る。前の演壇のところで声楽家の先生が数人の出席者の質問を受けたりしている。
ピアノの近くで楽譜を片付けたりしてる可奈子のところに行くと「白鳥さん、、、、」と彼は小さな声で呼びかけた。彼の声に驚くように振り向く可奈子は昔の頃のようであった。
彼女は彼を見て戸惑っているようであったが、軽く会釈した。
室人は彼女に言った「聞いていると思うけれど、ぼくとのお見合いのお話を是非受けてください。きっと来てください、」と。
その臆面もない言葉に可奈子は顔を赤らめて黙っていたが軽くうなずいた。
その時、声楽家の先生が質問者との話しを終えて可奈子のほうに向かってきたので可奈子も先生のほうへと目を向けた。
室人は可奈子に「きっと約束したよ、、、、約束したよ」言うと、彼女をそれ以上彼のほうを見ることもなくその場を離れた。
|
|