白みかけた早朝の運河沿いの路の静寂の中ハーレーの爆音が轟く。 対岸のホテルの泊客が驚いて窓のカーテンの隙間から見たのはバイクに乗った黒のライダースーツのアザミの遠ざかっていく後ろ姿、そして遠ざかる爆音が続く。 森の静寂に目覚めを待っていた鳥が数羽飛び立つ影がアザミの瞳に映りながら横切っていく時に、バックミラーには背後に一斉に飛び立つ鳥たちの姿が映し出されていた。
運河の穏やかな水面に揺らめくホテルのパーキングにアザミがバイクを置いて出て来たときに、朝焼けのように朝日が対岸の建物から顔を出して、細身の黒い異星人のような彼女を照らし始めた。被っていたヘルメットを取り外すし、頭をブルっと震わせると、乱れた茶髪が朝の光の中に舞った下に上目遣いのアザミの顔が朝日に冴える。 アザミはショルダーから捜し物のようにバッジホルダーを取り出すと、その紐を肩にかけるとパーキングを後にした。
噴水のある広場がありさらにその先に壮大な殿堂のようにそびえるコンベンションセンターの近代的な巨大な建物へ続く広場の中央の大階段がある。人影のない噴水を横切ったときに白い飛沫の冷たさがアザミの頬を打った。そして、一人で階段を登り、遮るもののない白い細かい石畳を敷きつめたエントランス前広場を真っ直ぐに歩いた。
エントランス回転ドアをくぐった先にホール会場の受付の若い男と女が並んで会議用テーブルに座っていた。アザミの姿を前にした係りの二人は驚いたような顔をしてすぐに言葉が出なかったのか一瞬の沈黙があった。アザミが二人の前から動かないので、女のほうが「どこか会場をお間違えではありませんか」と切り出した。 アザミは肩にかけた事前参加証のバッジホールダーを係りの前に投げ出すように見せた。係りの男が素早くノートパソコンを開くと、アザミの名前と偕人の名前を確認した。係りの女が何でこんな女がここに来ていると言わんばかりにアザミを上から下まで胡散臭そうにジロジロ見ながら、「コンファレンスは今始まったばかりですから周りの方のご迷惑にならないようにお入りください」という形式的が声で言った。
アザミがホール会場に入ると前方にステージがありステージから遠のくにつれて傾斜がかかっている後ろ出入口を背にしていた。会場は30列ぐらいあり、二階もあるように見えたが、前の三分の一ぐらいの座席に聴衆がいて、他はほとんど空席だったが、入って来たアザミに気を留める者は誰もいなかった。
アザミは長い脚でサッと座席の背を飛び越えて一番後ろの真ん中の席に座った。 彼女には席が狭く少し脚がじゃまになったが、前かがみになり前の席の瀬に腕をついて下方のステージのほうを見据えた。ステージでは市の谷偕人の講演が始まったばかりだった。偕人がスクリーンの大画面に向かって集まった聴衆に語りかけていた。若手ベンチャー企業家として彼の成功談をこうして招待講演していた。
偕人が彼の晴れ舞台を見せるためにアザミに送ってくれていた事前参加証のホルダーが彼女の胸で揺れていた。アザミはいつもとは別人のように語っている偕人の口元を遠くに一人で見ていた。
しばらくすると、この会場の雰囲気がアザミを無性に落ち着かなくさせ、タバコを吸いたい気持ちにさせた。 思わず、シガーレットケースを取り出したが、側面や前方の出入口に禁煙のLEDの蛍光表示灯が至る所に見えたので手を止めた。 アザミはシガーレットケースを見た。 それはブランド品で偕人からのプレゼントであった。 アザミのために偕人はたくさんのブランド品のものを買ってくれたし、今は高級マンションを用意してくれていた。 アザミには何の不満もないはずであった。 しかし、彼女は室人と一夜の遊びをして関係を持った。 それさえも、偕人は無かったこととして許してくれ、これまでのように自分を自由にさせてくれている。 アザミには何も不満はないはずであった。 それなのに、彼女の気持ちは揺れていた。
アザミは偕人がたくさんのブランド品を買うのにお金を出してくれたことに感謝していた。 アザミはお金の有難味をよくわかっていた。 それは自由というのもある程度はお金で買えるということを。お金が無ければ、人は自分の自由のために使える時間が制限される。 生活費のための僅かばかりの金を得るためだけにも額に汗して、自分の人生の自由な時間を犠牲にして働かなければならない。 それが、人間社会の人間の間の掟である。だから掟を破る者は裁かれる。
偕人はアザミをブランドで飾り立てて自分の中に置いて満足していた。 小柄な彼が長身の大女のアザミを好んだのも、過去にゲイたちによってレイプされて男の自尊心を徹底的に踏みにじられた彼が男として社会で戦いぬいて行くための必要性から出たことであった。
アザミにもそんな偕人のことはわかっていた。しかし、彼女は揺れていた。アザミはなぜ室人と関係を持ち逃避行の寸前にまで行ってしまったのか?
アザミはシガーレットケースに彫られたイニシャルを指でなぞりながら偕人のことを思った、 あの人はアタシを抱くことはできない、 できなかった、 これからも、、、、、。 あの人はいつかそんな自分に気づくでしょう、 そして、自分にはもっと小っちゃい可愛らしい女の子がいいと思う時が来るでしょう。アザミにはそれが未来の可能性のように思い浮かんだ。 アザミは室人と関係を持った自分の気持ちがわかった。何かが現状を変えてくれることを期待していた自分のことがわかった。
その時まで偕人の講演は終わっていなかったが、アザミは何かにふっ切れたように立ち上がると、先ほどと同じようにヒョいと自分の座席を飛び越えた。 そして、まだ偕人の声が聞こえる会場を背に出口を出た。
アザミはまっすぐにホテルのパーキングを目指した。途中で噴水のある場所を横切った時に朝のように飛沫を頬に受けたが熱い涙もこぼれた。
パーキングのあるホテルのロビーに入っていくと、数人の客が静かにソファーに座っている。ライダースーツのアザミに最初視線が集まったが、すぐに何事もなかったように彼らは新聞やテレビの方へともどった。アザミは表情一つ変えることなくまっすぐに前を向いてカフェルームへと向かった。
窓に面したテラス風のテーブルに座り、モーニングコーヒーを注文して、ホテルの伝言メモを持って来てくれるようにウエイターに頼む。 煎りたてのコーヒーの香りが立ち上る香りが上がる。ミルクをゆっくり注ぎながら渦巻きを巻きながら琥珀色に変わって消えていくのを見ていたアザミは、横に置かれた伝言紙をチラリと見た。
朝露に曇る窓ガラスの向こうにはほのかに霞のかかった運河が広がり、街路に朝刊の売り子の声も聞こえる。
意を決したように伝言紙にペンを立てたアザミの横顔に一瞬の時が静かに流れる。
「偕人へ、 今から一人で行きます、 今日まで本当にありがとう、 いつまでも忘れません、 さようなら、 アザミ」
と、走り書きすると、席を立った。それからロビーのホテルカウンターに偕人に渡すように頼んだ。 本当は、午後に講演の仕事を済ませて戻ってきた偕人とホテルで宿泊してから、観光バケーションすることになっていた。
外に出るとパーキングの愛車のハーレーダービットソンに乗るとエンジンをかけた。 バイクをスタートさせると対岸の建物の上から明るい日差しがアザミを照らした。
この町並みとアザミの不協和音に気づく前に立ち去るかのようにアザミのバイクはどこかへと走り抜けていった。
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