室人は自らの生きて来た人生の哲学的重みと家庭環境の板挟みの中でもがき苦しんでいた。室人はアザミに白痴美を見ていた。白痴美というのは一般的には無表情の女性の美、頭が悪いがかわいい女性の美のことを言ったりすることがあるが、見た目の印象であり、実際には異なっていることが多々ある。室人の見ていたのは知性とか知識の洗礼を受けていないという意味での白痴美である。白痴美は昔の日本や現在の後進国で学校教育が充分でない状況では自然に見られる人間美である。白痴美人こそ彼の置かれた限界状況における刹那的慰めであったが、スタンデイングセックスによる未来性への開示を試みると言う投企も行っていた。アザミの重い脚を持ち上げる重さの感覚の中にそれが現実という存在の重みであることも認識していた。しかし、存在の重みと言う認識だけでは未来性への開示は充分ではない。人類の先端に立つ新人類としての認識のためには種としての人間の差別化から新たなる契機が見つけられなければならない。室人にとっての新たなる契機とは白痴美人であった。知性無き美とは何か。 確かに知性は無秩序な人間に美を付与するが、中途半端な知性よりは無知性が美という華を咲かせる。花は咲く、散るために咲く花はその短い時間の中で他のどの花より美しいのは、美の儚さではなく、生命力のせいだろう。室人がアザミを受け入れたのは、その時には気が付かなかったが白痴美に魅せられていたからだろう。アザミが5年もすれば山姥のように変貌しているかもしれない。アザミの中にその両親や育ったいかがわしい環境の影響を見ることはまだできない。アザミの若さがすべてを押しとどめて白痴美として美しさを放っている。そのことは容易に予想され、室人はその白痴美の崩壊の糸口を探ろうとしたができなかった。先にのことは今は考えたり予測したりしたくない。そのように彼を思わせていたのが白痴美の生命力だったのかもしれない。しかし、彼は白痴美人を自分の置かれた家庭環境においても何とか正当化すべき思想を求めて懸命に格闘していた。
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