室人は起き上がると部屋のクローゼットに掛けられた服をかき分けながら奥の隅に置かれたスーツケースを引きずり出した。スーツケースを開けると一冊の古い黒革の表紙のアルバムを取り出した。そのとき道路に置かれたそのアルバムを拾い上げた時の思い出が彼の脳裏に鮮やかに蘇って来た。
それは、母が家を追い出されて出て行った日のことだった。父が激怒して、この家から出ていけと怒鳴りながら、窓から母の大きなスーツケースを外へ投げ出した。落ちた衝撃でスーツケースが空き、母の私物があたりに飛び出した。母が泣きながら道路に散らばった小物をスーツに詰めているところに学校から帰宅した室人は出くわした。彼は突然のことでただ驚いて見ているしかできなかった。父は彼に気がつくと、向こうへ行っていなさい、子供は部屋に行っていなさい、と恐い顔で睨んだ。彼は父の剣幕にビックリしたが、父が室人を正面から見る目はその時が最後だった。そして、室人はベットで横になって呆然と天井を見ていた。
それから2時間は過ぎたのだろう。リビングに降りて行くと父が一人でテーブルで酒を飲んでいた。父は相当に飲んでいるようで酔っぱらっており、彼を見ると、お母さんは帰らない、終わりだ、今日から二人だけだと言った。その目は虚ろで室人を見ていなかった。それ以来今日に至るまで、父は室人と話す時に一度も彼の目を見て話すことは無くなった。
リビングで酔っ払っている父と話すことなく室人は家を飛び出した。そして、街中を彷徨い、駅まで来ていた。 駅の改札口に近い柱に母がスーツケースの横にしゃがみ込んで化粧をしていた。何を話しかけようかと柱の陰から母を見ていたが、母の元へ行こうと一歩踏み出した。 その時に、母は笑顔で、しかし、それは彼が今までに見たこことのない違和感のある退廃的な母の笑顔が一人の若い男に向けられているを見た。母はその若い男のことだけを見て媚びるようにその男の心を離さないように一所懸命に話している。男は母のことはあまり見ていないで時々母の言葉に相鎚を打っていたが、やがてその男が母のスーツケースを押しながら、改札口へと入っていく二人の後ろ姿を室人は見ていた。 それから、室人が帰宅した時に庭の隅に堕ちている母の黒革のアルバムを拾い上げた。
そのアルバムが今ここにある。写真はたくさんは無かったが、若い頃の写真から始まっていた。 女子仲間で旅行に行った時の仲良く写真を撮っていたが、そこには目立たない内気な感じのどこか寂しそうな女子が一人いて、それが母だった。室人はページをめくりながら捜していた。あの駅で最後に見た母の違和感のある退廃的な笑顔が写った写真を捜した。 しかし、それはついに見つからなかった。室人は母が室人の思っているのとは違う別人の顔を持っていたことをこの時に認識した。
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