昼下がり、人気のない暗い実験室にも明るい陽光が射し込み、光の帯にブラウン運動する無数の粒子を鮮やかに写し出していた。
室人はフラスコの中で攪拌されるどす黒く変色した抽出溶媒を見ていた。 冷却管を伝わって滴下する透明な純粋な雫がそのどす黒い溶媒の渦潮の中に落ちる瞬間をじっと見ていた。昨夜の出来事が一つ一つ思い出しては過去の自分の人生規範へのアンガージュとして滴下されていくのを同時に見ていた。
すでに時は熟したと思われたので、昇温プログラムをオンにして、コックを切り替えると匂い成分を含む気化した溶媒は沸点のの異なる匂い物質を成分としてフラクションして行った。小一時間すると封入されたバイアルが数十本出来上がっていた。
分析のためのサンプルは出来上がったので、匂い分析機器の真空度をスタンバイから超真空レベルに切り替えた。これで、明日の朝には匂い成分分子が元気に検出器の中を走る条件が出来ているだろう。室人は実験室をここで退出した。
日曜日の大学の構内の落ち葉の絨毯をトボトボと一人で歩き帰路につこうとする室人は、自転車で行き交う学生数人と何度かすれ違った。室人は落ち葉の樹木を通して陽射しに顔を60度の方向へと向けると、茶髪のショートカットのアザミの薄い唇の笑顔とスラリとした容姿が陽射しの向こうに写し出され揺らめいた。彼の長いカシミヤのマフラーにいつの間にか小さな枯葉が一つ震えるように取り付いていた。
商店街を抜け、住宅地の中ほどに屋敷風の住居が目立つ中に室人の家はあった。 玄関のドアを開けると初老の婦人が待ち構えるように立っていた。
室人の叔母であった。室人は叔母と二人でこの屋敷に住んでいた。室人が高校を卒業する頃に彼の両親は離婚した、そして彼は父親のほうに親権が移ったが、父親はほどなく若い女と再婚した。父親にはマンションなどをいくつか所有する資産家の姉がいたが、ご主人は著名なマスコミ人であったが、取材中にヘリコプターの脱落事故で亡くなり、未亡人となっていた。叔母は再婚する意思はなく、この大きな屋敷に一人暮らしをしていたが、室人の父親が再婚したことで、室人が叔母の養子となることで父親と叔母の間で話が進んだ。こうして室人は叔母の養子となったが、叔母は道徳規範に厳しい人であり、資産家であったが、室人の金使いにも厳しかったし、室人が自分の使える金のためにアルバイトをすることも許さなかったし、異性との交際はもちろん許されなかった。
室人「叔母さん、ただいま帰りました」。
叔母「室人さん、昨夜はどこに行っていたの?連絡もなかったし、外泊は困りますよ」。
室人「今、卒論の研究が忙しくて、昨日は徹夜して今日の昼までかかったんだ、叔母さん、すみません」。
叔母「養子となって内に入ってもらっているけれど、外泊するように品行の悪い子では内の後を継いでもらうことはできない」
室人「叔母さん、申し訳ありません、二度としません、本当に忙しくて連絡するのも忘れしまうぐらいだったで、でも本当にすみません、叔母さんには大学にも行かせてもらっており、いつもお世話になっておりその恩はれていません。二度と黙って外泊するようなことはしません。どうぞ、許してください。」
叔母「誰か女友達でも出来たんではないの?室人さん、外泊して遊んでいるんじゃない。内としてはそういう事であれば困りますよ。」
室人が叔母の問い詰めるような言葉の前でその後も平謝りを続けたので、叔母はまだ疑いの目で室人を見ていたが、「今度のようなことがあると本当に困ります。室人さんのことでお父さんには話をしておきます」と言うと居間に戻って行った。
叔母は室人が二階への階段を上がっていく音を聞きながら、あの子ももう来年は大学を卒業して社会人になる、女友達が一人や二人出来ても当たり前の年頃になっていたのを忘れていた、困った、あの子を早く何とかしなければ、室人さんは性格がいいのはわかっているが、悪い虫でもついたら取り返しのつかないことになる、当然この家の跡継ぎにはなれない、私は本当にどうしよう、早く何とかしなければ」。叔母の顔に焦りと苦悩がにじんでいた。
室人は二階の自分の部屋に入るとベットに寝転んで窓の外に広がる空を見ていた。流れる雲を見ていた。あの雲に乗って流されてどこか遠くへ行きたいと漠然と思った。
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