室人が化学哲学の建物の2階に上がっていき研究室のドアを開けると、あの教官と知らない二人の男が立ち話をしていた。あの教官は佐野という名前で室人が転部した時に同じく配置転換で化学哲学に来た助教で室人の卒論研究の指導をしていた。
他の二人の男は来訪者のようであった。一人は小柄で室人と同じ年頃に見えたがスーツを着てネクタイを締めて会社員のようであった。もう一人の背の高い方は会社員ではなさそうである。佐野が室人を見ると、二人に紹介した。小柄なほうの男は最近ベンチャーを立ち上げた若手企業家で、背の高いほうは彼が連れてきた調香師で3千種類の匂いを嗅ぎ分けることができる特殊な能力があった。 室人が研究しているのは排泄物や残飯のような汚物から出る鼻のひん曲がる悪臭のもとになる匂い物質を抽出して、そこに含まれる良い匂いと悪い匂いを調べることである。何が良い匂いで何が悪い匂いかという問いは主観論としてではなく、匂いフェチのような特殊な例外までも含めて、嗅覚の認識論として哲学的に理解されなければならない課題であり、化学哲学はそれをテーマにしていた。
佐野が紹介した若手ベンチャー企業家の男は室人がこれまでに分離した匂い物質に新しい香料になる価値があるかどうかを調べるために調香師の男を連れてきていた。 若手ベンチャー企業家の男が学生の室人にまで名刺を渡した。
名刺には市ノ谷偕人とあり、取締役社長だった。
偕人は自分と同じ年頃でまだ大学こうして学生をしている室人に侮蔑の気持ちを持つと同時に社会人として独立している自分の立場を振り返って不思議な気持ちを抱いた。
彼も1年前には大学2年だったが、ある契機が彼を変えて、大学を中退した。そして、ベンチャーを立ち上げて1年になる。小さな会社だが、鶏口牛後を目指す彼としては勝負は早いほうがよい、つまり若い時がよいということで納得の行く人生行路であった。
偕人は会社設立の時には高校の時の子分を何人か引き入れていたが彼らを食わしていくのは大変なことであった。早くベンチャーで成功せねばならないという焦りも感じていた。
調香師の男が室人のサンプルの何種類かの匂いを嗅いで入念にチエックしていた。そこから1本だけを取り出すと偕人に渡した。偕人が今日はこれをもらっていってもいいかと聞くと、佐野がいいですよとうなづいた。 偕人は今日の収穫はあったと満足そうな笑みを浮かべると研究室から立ち去った。
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